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まれびとの社(二部)
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「何度見ても、この雛飾りは立派ですね。でも、デザインと年代がバラバラだ」
「ええ、残念ながら。保存が上手くなかったようで、紛失したりネズミに齧られていたりと…。本来は飾りが別々なのですが、何しろ寄付されたものなので、こういう飾りつけにしているんです。お内裏様とお雛様は1対の享保雛で、明治23年の代物です。女官や囃子などは昭和初期。仕丁は大正後期ではないかと…」
「寄付されたのは同じ方ですか?」
「ええ。旧石黒邸の石黒貫志郎さんです。武家出身の方なんですよ。今年で97歳でしたか…。矍鑠とした方ですよ」
「97歳!それは凄い」
「昭和40年頃まで住まれていたそうですが、文化財指定されてからは住み辛くなったそうで、市に寄贈…いや、市が購入したんでしたか…。以降は観光客に開放していたのですが、残念ながら6年前の豪雨で被災してしまいまして…。その際に救出された古道具などは一時預かりとしているのですが…多くがダメになっていまして。修復が困難で、担当者が頭を悩ませているそうです」
「旧石黒邸は今は?」
「被災歴史的建造物に当たるので、調査、復旧を急いではいたのですが、やはり税金を投入しての優先事項は河川の整備ですから。管理はしていますが、観光客を迎え入れる体制ではありません」
ため息と共に落ちた沈黙に、かち…かち…と接続部分を引っかからせながら、扇風機が首を回す音が聞こえて来る。
重要伝統的建造物群保存地区内の建物は、道路に面する場所に現代的な物を配してはならない。現代的な物というのは、アンテナやエアコンの室外機などだ。それは実質、エアコンの取り付け不可と等しい。ぎゅうぎゅうと建物が軒を連ねているので、窓も少ない。玄関側と、その反対側の裏口しか風を通す術はないので、日向さんはしきりにハンカチで汗を拭っている。
日向さんに説明をしているのは、資料館の管理者である加藤さんだ。
加藤さんは慣れたもので、湿らせたクールタオルを首に巻き付け、暑さ対策をしている。ぱんぱんに膨らんだジャンパーの下部には小さなファンが付いていて、快適に過ごせる代物らしい。
「被災と聞くと心苦しくなります。ここは大丈夫だったんですか?」
「大丈夫ではないですけどね。床下浸水で済みました。とは言え、ここも古いですから。浸水は痛手で、汚泥を片付けて乾燥して…とひと月はかかりました」
「この建物は、元旅籠屋だったんですよね?」
「ええ。昭和44年まで営業していましたよ。創業は明治7年です」
明治時代に創業しただけあって、実に古い佇まいだ。
天井は低いし、窓も殆どない。窓があったとしても小ぶりで、陽射しを取り込むには頼りない。柱は太く黒々していて、電気を点けても薄暗い。
2人の話を聞き流しながら、ぐるりと資料館の中を見渡す。
資料館の主な展示物は寄付品だ。
今回、新しい資料館が竣工間近とあって、ここの展示物の運搬作業をしている。
資料館としての役目を終えた後は、休憩スペースとして活用されるという。追々、茶屋として軽食を提供できればと考えているらしい。茶屋としてリニューアルするまでは、町のお年寄りが憩いの場として活用するのだろう。
運搬作業を担っているのは、2人の学芸員だ。
1人は20代後半っぽい中肉中背の男性で、もう1人は男性と同じくらい長身のスレンダー美女だ。
続き間になっている隣の部屋で、せっせと骨董品を梱包し、箱詰めしている。見慣れない物を手にする度、気難しい顔で言葉を交わすのは研究者の性なのかもしれない。
「久瀬さん。お待たせしました」
「いえ」
頭を振ると、日向さんは慌ただしく靴を履く。
すらりとした長身の日向さんは、なかなかのイケメンだ。ただ、切れ長の双眸が神経質そうに見えて、薬袋さんに紹介されていなければ近寄り難さを覚える。
とはいえ、身近にスーツを着る人がいないので、茹だる暑さの中でもスーツを着込んだ姿はカッコ良く見える。
荷物は予想外にもナイロン製の黒いトートバッグで、イメージするレザー素材のビジネスバッグでないことが残念ではあるけど…。概ね、私が想像する大人の男性って感じだ。
「すみません。本当は両親が対応できたら良かったんですが、暇なのが私しかいなかったんですよ」
肩を竦め、眩いくらいの炎天下に一歩踏み出す。
靴底がアスファルトの熱に溶けそうなくらいに暑い。今日は酷暑だ。セミも木陰で気配を消している。
「確か、お姉さんが結納されたとか」
「はい。その両家顔合わせを兼ねた昼食会で留守なんです。あ、でも、酒蔵を案内するのは私ではなく、ちゃんと頭がします」
「カシラ?」
「杜氏の補佐を頭と言うんです。杜氏は酒蔵のトップ。要は監督です。姉と婚約したのが、杜氏の息子なので、今日は杜氏もいないんです」
「ああ、そうなんですね」
日向さんは何度も頷く。
流石に炎天下でスーツは耐えられないらしく、空色のネクタイを緩めるとジャケットを脱いだ。例え夏仕様だとしても、夏にジャケットは地獄だろう。これで汗一つ掻いていなければ、人ではない。
頭の中に、高木さん改め高木神の涼やかな顔が出て来て、慌てて頭を振って追い払う。
てくてくと歩いて日向さんを久瀬酒造に案内する。
あまりの暑さに人通りは疎らだ。逃げ水を追いかけるように歩く。
角を曲がり、我が家の白い土壁が見えると、日向さんは「さすが蔵元」と感嘆の息を吐いた。
「この町の蔵造りは見事ですが、酒蔵は一段と映えますね」
「蔵造りの町並みは自慢の1つです」
「1つということは、他にも?」
「1番は信仰心が篤いことです。信仰心があるから、町の歴史が大切にされ続けているんだと思います」
「なるほど。信仰心がなければ、見事な町並みはなかったというわけだ」
「そんな大袈裟なことじゃないですが…」
私が困惑ぎみに言えば、日向さんが笑う。
「薬袋さんが言ってましたね。久瀬さんは妖怪が見えるとか。この町の人たちは見えるから信仰心が篤いんですか?」
「いや、まさか!私は妖怪を見たなんて言ったことないんです。薬袋さんの早とちりです」
眉尻を下げ、困った顔を作る。
「日向さんの妹さんは見えるんですか?」
「どうかな?」
日向さんは首を傾げる。
「妹も”妖怪を見た”とは言ったことがないんですが、何かを見ているような仕草はします。それが何なのかを訊いたことはないので、妹が何を見て驚いたり、怖がったりしていたのかは謎です」
「訊けばいいじゃないですか」
「今思うと、訊けば良かったなと…。訊くタイミングを逸してしまいました」
残念ながら、と日向さんは苦笑して、ゆっくりと足を止めた。日向さんが見上げるのは茶色に変色した杉玉だ。
杉玉は新酒が出来たという広告塔で、うちは毎年12月の新酒に合わせて酒蔵に飾る。緑色の杉玉が新酒の合図で、季節の移ろいで色を変える杉玉が、のん兵衛たちへの酒の熟成度を知らせている。実際、杉玉をチェックしてお酒を買いに来る常連さんは珍しくない。
杉玉は業者で購入することもできるけど、うちの杉玉は若手蔵人たちの手製だ。森林組合の協力を得て、杉の葉を掻き集め、針金で骨組みを作り、四苦八苦しながら立派な杉玉を作るのだ。
がたがた、と板戸を開く。
何気に、酒蔵に踏み込むのは初めてかもしれない。
蔵は木造だけど、床は清掃を考えてコンクリート敷きだ。鼻孔を擽るのは、意外にもアルコール臭じゃなかった。偏見で、酒蔵に入っただけで臭いで酔うと思っていた。
染み付いた麹の香りか、仄かに甘い匂いがする。
広々とした蔵の中には、ずらりとホーロータンクが並ぶ。その傍らに、ホーロータンクを見下ろせる足場が組み上げてあり、その上部には立派な梁が走る。
照明はあるけど、梁から吊り下げているような仕様なので、上に行くほど薄暗い。
微かに涼しく感じるのは、上部に並ぶ窓が開けられ、湿度が籠らないようにしているからだ。
ホーロータンクの奥には麹を作る麹室と、酵母菌の育成を行う酒母室、瓶詰場などがある。
それにしても、伽藍洞だ。
誰もいない。
きょろきょろと視線を巡らせていると、ぎし、と床板の軋む音がした。
音の出所は2階だ。
2階と言っても、その広さは蔵の1/3くらいで、ホーロータンクに被らないように造られている。
「ああ、誰かと思えば」
にこにこと、好々爺然りとした男性が、ひょっこりと2階から顔を覗かせた。
「お待ちしてました。一花お嬢さん」
薄暗く急な傾斜の階段を下りて来るのは、頭の宇佐美さんだ。
職人気質でスパルタ体質の慶三さんを鞭とするなら、宇佐美さんは飴だ。慶三さんより幾つか年上で、おっとりとした笑い皺が宇佐美さんの人となりを物語っている。
「宇佐美さん。こちら日向さん。資料館の展示を請け負っている担当者です」
「初めまして。株式会社豊彩の日向湊と申します」
私の時よりも丁寧に名刺を取り出し、腰を折って頭を下げる様は、ドラマで見たことがあるシーンと同じだ。
スーツに名刺。大人な様子に少しだけテンションが上がる。
宇佐美さんは紺色のパンツに白いポロシャツ。肩には、久瀬酒造とプリントされたタオルをかけている。まさに、私が見慣れた格好だというのに、手慣れた様子で名刺を受け取る姿は宇佐美さんを格好良く見せた。
「話は伺っていますよ。木桶以外にも、資料館に展示できるものがないかということだとか」
「あと写真を撮らせてもらえればと思いまして」
「写真ですか?」
「はい。いくつか酒蔵の様子を展示させてもらえればと思っています」
「まぁ、写真くらいは構いませんよ。どうせ今は閑散期だ」
宇佐美さんに断りを入れ、日向さんは腰を落とした。床にトートバッグを下ろし、一眼レフカメラを取り出す。
それから改めて酒蔵に視線を馳せ、「そういえば職人がいませんね」と不思議そうに眉根を寄せる。
「酒というのはシーズンがあるんです。酒蔵の新年度は7月ですが、酒は米から出来ますからね。まぁ、やるこたぁない。とにかく、余計な菌が繁殖しないように、掃除、掃除、掃除」
宇佐美さんは言って、タオルで額の汗を拭う。
「8月も掃除やメンテナンスなので、9月までは暇を持て余してるんですよ。と言っても、繁忙期に比べて暇と言うだけで、閑散期に蔵人に暇を出し、繁忙期に再び招集をかけるってことじゃない。昔は、そんな風にやっていたらしいですが」
「では、他の職人さんは何をしているんですか?」
「普通に働いてますよ。掃除やメンテナンスは毎日するんです。タンクに酒が空っぽというわけでもない。講習会があるのもこの時季ですし、新人は勉強会で知識を詰め込んでます。中堅どころは、夏の催事なんかに酒を持って売り込み宣伝。営業ですね。他にも新しい酒の開発、ラベルデザインの協議、田んぼの管理…と、色々とあるんです。繁忙期に出来ないことを、閑散期に詰め込んでいるということです」
「田んぼ?久瀬酒造はお米は買い付けではなく、自家栽培ですか?」
日向さんは目を丸め、頬を伝う汗をハンカチで拭う。
その様子を見て、宇佐美さんは苦笑した。
「契約農家さんから買い付けもしてますが、うちは少し事情が違うんですよ。神様に捧げる御神酒を作る米だけは、久瀬酒造が田植えから稲刈りまでしているんです」
そう言って、宇佐美さんはずらりと並んだホーロータンクを指さす。
なんとも無機質で、現代的な光景だ。
個人的には、伝統的な木桶の方が見栄えが良くて好きだ。ただ、木製の管理が難しいことは私だって理解している。
「こっちの手前は販売用の日本酒。梅酒や甘酒も作ってますよ。こっから見え辛いですが、奥に麹室があるんですが、その手前に木桶が1つあるんですよ」
「御神酒は木桶で作るんですか?」
「そういうことだね」
宇佐美さんはタオルで首の後ろから薄くなった白髪頭を拭う。
「私が若い頃は、町外れに桶屋があったんですよ。屋号は杉井桶屋。今は杉井工房と言って、木桶から手を引いたんですよ。杉井桶屋はうちだけじゃなく、田邊醸造所の方も請け負ってた。でも、時代が木桶を必要としなくなってね…」
どこか寂し気な表情で、「木桶だと味が均一にできないんですよ」と苦笑した。
「風味は断然、木桶。でも、効率化や味の均一さを求めるならタンク。残念ながら、お客の舌は均一さを求めていたということです」
「ウイスキーなんかは木樽のイメージが今も強いですが、日本酒の木桶仕込みは昔のイメージですね。飲んだこともないです」
「木桶だと雑味が出ることもあるんですが、それも含めて味わいなんですがね。今の時代は、どうも個性を良しとしない。ただ、最近になって木桶仕込みの復活をって話が出てるんです。要は町おこしの一環ですかね」
「本当ですか!そこも展示に組み込めたら面白そうですね」
日向さんはカメラを首から提げ、手にしていたジャケットを乱暴にトートバックに突っ込んだ。代わりに取り出したのは、メモ帳とペンだ。
「ただ、木桶を作るのは家具を作るようにはいかない。技術がいるんですよ。杉井工房は息子が継いで、木桶作りの経験はない。それで今、引退した亀三郎さんが指導している最中なんです」
「杉井キサブロウ…さんですか?」
「鶴と亀の亀って字に、三郎と書いて亀三郎です」
「ありがとうございます」
日向さんはさらさらとペンを走らせる。
「確か…木桶復活プロジェクトとか言ってたかな。久瀬酒造はOKを出してるので、あとは木桶職人だけです」
「なるほど」
と、日向さんは感心したようにしきりに頷いている。
「田邊醸造所の方は関係ないんですか?」
私が口を挟めば、宇佐美さんは「あっちは味噌醤油ですからね」と笑う。
「おんなじ木桶でも、酒と味噌醤油では寿命が違うんですよ。塩がね、木に染み込んで丈夫になる。100年以上は持つと言われてる。酒は塩が出ないでしょ?せいぜい2、30年。まぁ、あれです。一花お嬢さんたち風に言うなら…えっと…」
宇佐美さんは少し言葉に詰まった後に、「そうそう」と頷いた。
「コスパが悪い。そういう理由もあって、木桶からホーローやステンレスに移行したというのもあるんです」
「味の均一さと木桶の脆さということですか」
日向さんは感慨深げにホーロータンクを見上げた。
「酒蔵が次々に木桶から浮気しちまったら、そりゃあ職人が減っても仕方ない。それでも、田邊醸造所の木桶は現役で頑張ってるはずです。定期的なメンテナンスは、杉井工房に見てもらってますよ。うちもそうです」
「杉井工房は木桶が作れないのでは?」
「一からは無理でしょうが、メンテナンスは頑張ってますよ。箍…木桶を締めてる竹の輪ですね。それが緩んでないか、隙間が出来てないかの点検ですね。さすがに側板の交換は任せられないらしいですが」
宇佐美さんは言って、「これくらいの…」と両手で大きな円を作った。
「練習と言ったら悪いか。商品として売ってるので。これくらいの木樽を作ってますよ。ビール樽みたいなね」
まぁ、木だけはいっぱいある土地だから、材料には事欠かないはずだ。
「それで、御神酒ですが、なぜ御神酒だけ木桶なんでしょうか?」
「神様が嫌うからですよ」
宇佐美さんが笑う。
「こちらへ」と歩き出した宇佐美さんの後ろを、日向さんはホーロータンクの写真を撮りながらついていく。その後ろに、私も続く。
興味津々と周囲を探るのは、日向さんと同じだ。
改めて、天井の高さに圧倒されてしまう。
ホーロータンクの背が高く、蔵人たちは組まれた足場の上で作業する。その為に天井が高いのだ。
あんぐりと口を開けたまま天井を見上げていれば、宇佐美さんが足を止めた。
「タンクに書いてあるのは、タンクの番号と検定日、容量。なので、ここにあるタンクは6500リットルということです。こっちのは4600リットルで、梅酒を作ってます」
こん、と軽くタンクを叩いて、宇佐美さんが説明する。
「この下の穴からお酒が出て来るんですか?」
「一番下の穴が下呑と言って、醪なんかも出したい時に使います。で、その上の穴が上呑で、滓引き……つまり、滓を取り除く作業の穴ですよ。滓引きして、濾過して…という作業を経て、瓶詰め作業に入ります」
「てっきりタンクで酒が出来て、それをそのまま瓶詰めかと思いました」
うんうん、と私も頷く。
「い…い一花は何も知らないな」
耳元で囁かれた声に、心臓が大きく飛び跳ねた。悲鳴が出る前に、両手で口を塞ぎ、勢いよく振り返る。
いつからいたのか、生成色の着物姿の須久奈様が、ニタァと根暗な笑みで私を見下ろしていた。
…怖い!!
「濾さなければ、清酒とは呼べないんですよ。濾過して出荷すれば生酒。加熱殺菌と濾過の手順を踏むのが生貯蔵酒や店頭で良く見かける一般的な酒になります」
宇佐美さんは言って、すたすたと歩を進める。
立ち止まったのは、使い込まれた木桶だ。他のタンクと比べて極小。それでも「1250リットルです」と宇佐美さんは言う。
「メンテナンスは杉井工房に任せてますが、壊れてしまえば木桶仕込みが厳しくなります」
「御神酒が作れなくなるってことですか?」
「そんなことはあってはならない。神様に怒られてしまう」
ぴしゃり、と宇佐美さんが言った。
「職人というのは多かれ少なかれ信心深いものですが、久瀬酒造は少しばかり事情が違う。一花お嬢さんがいる前で講釈を垂れるのは憚れますが、ここのお酒は、久瀬家の初代が神様から直々に酒造りの手ほどきを受けたとされているんです。御神酒は木桶仕込みで変わらぬ味にしなければなりません」
そうなの?
驚いて須久奈様を見上げれば、須久奈様は頬を赤らめながらも、どこか得意げに頷いている。
「この木桶が駄目になれば、全国から職人を捜すまでです」
「並々ならぬ思いが伝わりますね…。お酒の神様といえば、酒解神。久斯之神が有名ですが、久瀬酒造に酒造りを伝えたのもそうなんですか?」
「久瀬酒造が祀っているのは天少彦根命様ですよ。あとで2階の神棚にも案内しましょう。若手が勉強会をしているので、少々むさ苦しいですが」
朗らかに笑う宇佐美さんと、必死にメモを取る日向さん。
その後ろで、私の頭の中はクエスチョンマークが無限に飛び交っている。うちにいる神様は須久奈様だ。フルネームは須久奈比古命様で、アマノ…なんちゃらという呪文みたいな名前の神様ではない。
「い…一花」
とんとん、と肩を叩かれ、須久奈様を見上げる。
「か、神というのは…別名がある。久斯之神も天少彦根命も…お…お俺のことだ」
へへへ、と笑う須久奈様に、私は呆けた顔で緩慢に頷くしかない。
「神様に関しても、説明パネルを展示すると面白いかもしれませんね」
「それはそうかも知れませんが、資料館は神籟町に関する史料を展示すると聞いてますよ?主軸は、三篷城ではないんですか?」
そもそも神籟という地名は、遠い昔に極小の集落で使われていたにすぎない。町ではなく村だ。もしかすると、村と呼ぶのも烏滸がましい字だったかもしれない。
そこから徐々に人が増え、木材の町として発展。城が建ち、周辺は御舟町と言って川沿いを中心に栄えたらしい。
三篷ではなく御舟だ。
きっと何かしら意味があるのだろう。
多くの村が統廃合して御舟町となったけど、神籟村はぽつんと残った。
三篷城が廃城すると、城下町は商家町になる。
まぁ、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている城下町の場所は、実際は城下町の外れの方なので城まで少し歩く。さらにあれらは商家町で、廃城後の建築物になる。ただ、商家町より城下町の方がウリになるので城下町と称している。嘘ではないので、虚偽にはならない。
現在、神籟村は勢力を増し、御舟町は消滅した。代わりに御舟地区として残っている。
と、聞くだけで実際に史料を見たわけではない。お年寄りたちの口伝なので、信憑性はない。
薬袋さんだったら、きっと神籟村を重点的に展示したいに違いない。
日向さんはかちかちとペンを鳴らし、「大丈夫ですよ」と苦笑する。
「神籟町だけではなく、川守村も紹介してるので」
「川守村…」
宇佐美さんの顔色が曇る。
「確か…戦後の台風で無くなった村でしたか…」
「ご存じですか?」
「親父は警官だったんですよ。田舎の駐在。その際、2年ほど川守村近くの駐在所に住んでいたんです。私は生まれてないんですが、親父がよく言ってました。少しばかり気味が悪い村があったと…」
「気味が悪い?」
「クワアウ流しという神事が、とにかく気味が悪かったと」
薬袋さんが言っていた笹舟流しのことだ。
「クワアウというのは災いという意味らしく、神事というよりは…こう…なんていうか、呪術のような雰囲気があったと言ってましてね。私は呪術なんて見たこともないのでよく分かりませんが、とにかく、不気味だったんでしょう」
「クワアウ流しは薬袋さんに聞きましたね。詳細は分からないということでしたが…。でも、川守村は田の神を祀っていたと聞きましたよ?それが呪術ですか?」
「私も父からの又聞きですからね。でも、田の神様を祀っていたとは聞いたことがないですね。村の中ほどに社があって、黒いゑびす様を祀っていたそうです。しかも、ゑびす様が手にするのは釣り竿や鯛じゃない。両手で木片を抱えたゑびす様だというから驚いたものです。父もおかしな村だった…と言ってたのを覚えてます」
須久奈様が険しく目を眇めた。
瞬間、気温がぐんと下がり、宇佐美さんと日向さんが身を震わせる。きょろきょろと周囲を探り、怖気を含んだ冷気に良くない話だったのだと口を噤んだ。
「ええ、残念ながら。保存が上手くなかったようで、紛失したりネズミに齧られていたりと…。本来は飾りが別々なのですが、何しろ寄付されたものなので、こういう飾りつけにしているんです。お内裏様とお雛様は1対の享保雛で、明治23年の代物です。女官や囃子などは昭和初期。仕丁は大正後期ではないかと…」
「寄付されたのは同じ方ですか?」
「ええ。旧石黒邸の石黒貫志郎さんです。武家出身の方なんですよ。今年で97歳でしたか…。矍鑠とした方ですよ」
「97歳!それは凄い」
「昭和40年頃まで住まれていたそうですが、文化財指定されてからは住み辛くなったそうで、市に寄贈…いや、市が購入したんでしたか…。以降は観光客に開放していたのですが、残念ながら6年前の豪雨で被災してしまいまして…。その際に救出された古道具などは一時預かりとしているのですが…多くがダメになっていまして。修復が困難で、担当者が頭を悩ませているそうです」
「旧石黒邸は今は?」
「被災歴史的建造物に当たるので、調査、復旧を急いではいたのですが、やはり税金を投入しての優先事項は河川の整備ですから。管理はしていますが、観光客を迎え入れる体制ではありません」
ため息と共に落ちた沈黙に、かち…かち…と接続部分を引っかからせながら、扇風機が首を回す音が聞こえて来る。
重要伝統的建造物群保存地区内の建物は、道路に面する場所に現代的な物を配してはならない。現代的な物というのは、アンテナやエアコンの室外機などだ。それは実質、エアコンの取り付け不可と等しい。ぎゅうぎゅうと建物が軒を連ねているので、窓も少ない。玄関側と、その反対側の裏口しか風を通す術はないので、日向さんはしきりにハンカチで汗を拭っている。
日向さんに説明をしているのは、資料館の管理者である加藤さんだ。
加藤さんは慣れたもので、湿らせたクールタオルを首に巻き付け、暑さ対策をしている。ぱんぱんに膨らんだジャンパーの下部には小さなファンが付いていて、快適に過ごせる代物らしい。
「被災と聞くと心苦しくなります。ここは大丈夫だったんですか?」
「大丈夫ではないですけどね。床下浸水で済みました。とは言え、ここも古いですから。浸水は痛手で、汚泥を片付けて乾燥して…とひと月はかかりました」
「この建物は、元旅籠屋だったんですよね?」
「ええ。昭和44年まで営業していましたよ。創業は明治7年です」
明治時代に創業しただけあって、実に古い佇まいだ。
天井は低いし、窓も殆どない。窓があったとしても小ぶりで、陽射しを取り込むには頼りない。柱は太く黒々していて、電気を点けても薄暗い。
2人の話を聞き流しながら、ぐるりと資料館の中を見渡す。
資料館の主な展示物は寄付品だ。
今回、新しい資料館が竣工間近とあって、ここの展示物の運搬作業をしている。
資料館としての役目を終えた後は、休憩スペースとして活用されるという。追々、茶屋として軽食を提供できればと考えているらしい。茶屋としてリニューアルするまでは、町のお年寄りが憩いの場として活用するのだろう。
運搬作業を担っているのは、2人の学芸員だ。
1人は20代後半っぽい中肉中背の男性で、もう1人は男性と同じくらい長身のスレンダー美女だ。
続き間になっている隣の部屋で、せっせと骨董品を梱包し、箱詰めしている。見慣れない物を手にする度、気難しい顔で言葉を交わすのは研究者の性なのかもしれない。
「久瀬さん。お待たせしました」
「いえ」
頭を振ると、日向さんは慌ただしく靴を履く。
すらりとした長身の日向さんは、なかなかのイケメンだ。ただ、切れ長の双眸が神経質そうに見えて、薬袋さんに紹介されていなければ近寄り難さを覚える。
とはいえ、身近にスーツを着る人がいないので、茹だる暑さの中でもスーツを着込んだ姿はカッコ良く見える。
荷物は予想外にもナイロン製の黒いトートバッグで、イメージするレザー素材のビジネスバッグでないことが残念ではあるけど…。概ね、私が想像する大人の男性って感じだ。
「すみません。本当は両親が対応できたら良かったんですが、暇なのが私しかいなかったんですよ」
肩を竦め、眩いくらいの炎天下に一歩踏み出す。
靴底がアスファルトの熱に溶けそうなくらいに暑い。今日は酷暑だ。セミも木陰で気配を消している。
「確か、お姉さんが結納されたとか」
「はい。その両家顔合わせを兼ねた昼食会で留守なんです。あ、でも、酒蔵を案内するのは私ではなく、ちゃんと頭がします」
「カシラ?」
「杜氏の補佐を頭と言うんです。杜氏は酒蔵のトップ。要は監督です。姉と婚約したのが、杜氏の息子なので、今日は杜氏もいないんです」
「ああ、そうなんですね」
日向さんは何度も頷く。
流石に炎天下でスーツは耐えられないらしく、空色のネクタイを緩めるとジャケットを脱いだ。例え夏仕様だとしても、夏にジャケットは地獄だろう。これで汗一つ掻いていなければ、人ではない。
頭の中に、高木さん改め高木神の涼やかな顔が出て来て、慌てて頭を振って追い払う。
てくてくと歩いて日向さんを久瀬酒造に案内する。
あまりの暑さに人通りは疎らだ。逃げ水を追いかけるように歩く。
角を曲がり、我が家の白い土壁が見えると、日向さんは「さすが蔵元」と感嘆の息を吐いた。
「この町の蔵造りは見事ですが、酒蔵は一段と映えますね」
「蔵造りの町並みは自慢の1つです」
「1つということは、他にも?」
「1番は信仰心が篤いことです。信仰心があるから、町の歴史が大切にされ続けているんだと思います」
「なるほど。信仰心がなければ、見事な町並みはなかったというわけだ」
「そんな大袈裟なことじゃないですが…」
私が困惑ぎみに言えば、日向さんが笑う。
「薬袋さんが言ってましたね。久瀬さんは妖怪が見えるとか。この町の人たちは見えるから信仰心が篤いんですか?」
「いや、まさか!私は妖怪を見たなんて言ったことないんです。薬袋さんの早とちりです」
眉尻を下げ、困った顔を作る。
「日向さんの妹さんは見えるんですか?」
「どうかな?」
日向さんは首を傾げる。
「妹も”妖怪を見た”とは言ったことがないんですが、何かを見ているような仕草はします。それが何なのかを訊いたことはないので、妹が何を見て驚いたり、怖がったりしていたのかは謎です」
「訊けばいいじゃないですか」
「今思うと、訊けば良かったなと…。訊くタイミングを逸してしまいました」
残念ながら、と日向さんは苦笑して、ゆっくりと足を止めた。日向さんが見上げるのは茶色に変色した杉玉だ。
杉玉は新酒が出来たという広告塔で、うちは毎年12月の新酒に合わせて酒蔵に飾る。緑色の杉玉が新酒の合図で、季節の移ろいで色を変える杉玉が、のん兵衛たちへの酒の熟成度を知らせている。実際、杉玉をチェックしてお酒を買いに来る常連さんは珍しくない。
杉玉は業者で購入することもできるけど、うちの杉玉は若手蔵人たちの手製だ。森林組合の協力を得て、杉の葉を掻き集め、針金で骨組みを作り、四苦八苦しながら立派な杉玉を作るのだ。
がたがた、と板戸を開く。
何気に、酒蔵に踏み込むのは初めてかもしれない。
蔵は木造だけど、床は清掃を考えてコンクリート敷きだ。鼻孔を擽るのは、意外にもアルコール臭じゃなかった。偏見で、酒蔵に入っただけで臭いで酔うと思っていた。
染み付いた麹の香りか、仄かに甘い匂いがする。
広々とした蔵の中には、ずらりとホーロータンクが並ぶ。その傍らに、ホーロータンクを見下ろせる足場が組み上げてあり、その上部には立派な梁が走る。
照明はあるけど、梁から吊り下げているような仕様なので、上に行くほど薄暗い。
微かに涼しく感じるのは、上部に並ぶ窓が開けられ、湿度が籠らないようにしているからだ。
ホーロータンクの奥には麹を作る麹室と、酵母菌の育成を行う酒母室、瓶詰場などがある。
それにしても、伽藍洞だ。
誰もいない。
きょろきょろと視線を巡らせていると、ぎし、と床板の軋む音がした。
音の出所は2階だ。
2階と言っても、その広さは蔵の1/3くらいで、ホーロータンクに被らないように造られている。
「ああ、誰かと思えば」
にこにこと、好々爺然りとした男性が、ひょっこりと2階から顔を覗かせた。
「お待ちしてました。一花お嬢さん」
薄暗く急な傾斜の階段を下りて来るのは、頭の宇佐美さんだ。
職人気質でスパルタ体質の慶三さんを鞭とするなら、宇佐美さんは飴だ。慶三さんより幾つか年上で、おっとりとした笑い皺が宇佐美さんの人となりを物語っている。
「宇佐美さん。こちら日向さん。資料館の展示を請け負っている担当者です」
「初めまして。株式会社豊彩の日向湊と申します」
私の時よりも丁寧に名刺を取り出し、腰を折って頭を下げる様は、ドラマで見たことがあるシーンと同じだ。
スーツに名刺。大人な様子に少しだけテンションが上がる。
宇佐美さんは紺色のパンツに白いポロシャツ。肩には、久瀬酒造とプリントされたタオルをかけている。まさに、私が見慣れた格好だというのに、手慣れた様子で名刺を受け取る姿は宇佐美さんを格好良く見せた。
「話は伺っていますよ。木桶以外にも、資料館に展示できるものがないかということだとか」
「あと写真を撮らせてもらえればと思いまして」
「写真ですか?」
「はい。いくつか酒蔵の様子を展示させてもらえればと思っています」
「まぁ、写真くらいは構いませんよ。どうせ今は閑散期だ」
宇佐美さんに断りを入れ、日向さんは腰を落とした。床にトートバッグを下ろし、一眼レフカメラを取り出す。
それから改めて酒蔵に視線を馳せ、「そういえば職人がいませんね」と不思議そうに眉根を寄せる。
「酒というのはシーズンがあるんです。酒蔵の新年度は7月ですが、酒は米から出来ますからね。まぁ、やるこたぁない。とにかく、余計な菌が繁殖しないように、掃除、掃除、掃除」
宇佐美さんは言って、タオルで額の汗を拭う。
「8月も掃除やメンテナンスなので、9月までは暇を持て余してるんですよ。と言っても、繁忙期に比べて暇と言うだけで、閑散期に蔵人に暇を出し、繁忙期に再び招集をかけるってことじゃない。昔は、そんな風にやっていたらしいですが」
「では、他の職人さんは何をしているんですか?」
「普通に働いてますよ。掃除やメンテナンスは毎日するんです。タンクに酒が空っぽというわけでもない。講習会があるのもこの時季ですし、新人は勉強会で知識を詰め込んでます。中堅どころは、夏の催事なんかに酒を持って売り込み宣伝。営業ですね。他にも新しい酒の開発、ラベルデザインの協議、田んぼの管理…と、色々とあるんです。繁忙期に出来ないことを、閑散期に詰め込んでいるということです」
「田んぼ?久瀬酒造はお米は買い付けではなく、自家栽培ですか?」
日向さんは目を丸め、頬を伝う汗をハンカチで拭う。
その様子を見て、宇佐美さんは苦笑した。
「契約農家さんから買い付けもしてますが、うちは少し事情が違うんですよ。神様に捧げる御神酒を作る米だけは、久瀬酒造が田植えから稲刈りまでしているんです」
そう言って、宇佐美さんはずらりと並んだホーロータンクを指さす。
なんとも無機質で、現代的な光景だ。
個人的には、伝統的な木桶の方が見栄えが良くて好きだ。ただ、木製の管理が難しいことは私だって理解している。
「こっちの手前は販売用の日本酒。梅酒や甘酒も作ってますよ。こっから見え辛いですが、奥に麹室があるんですが、その手前に木桶が1つあるんですよ」
「御神酒は木桶で作るんですか?」
「そういうことだね」
宇佐美さんはタオルで首の後ろから薄くなった白髪頭を拭う。
「私が若い頃は、町外れに桶屋があったんですよ。屋号は杉井桶屋。今は杉井工房と言って、木桶から手を引いたんですよ。杉井桶屋はうちだけじゃなく、田邊醸造所の方も請け負ってた。でも、時代が木桶を必要としなくなってね…」
どこか寂し気な表情で、「木桶だと味が均一にできないんですよ」と苦笑した。
「風味は断然、木桶。でも、効率化や味の均一さを求めるならタンク。残念ながら、お客の舌は均一さを求めていたということです」
「ウイスキーなんかは木樽のイメージが今も強いですが、日本酒の木桶仕込みは昔のイメージですね。飲んだこともないです」
「木桶だと雑味が出ることもあるんですが、それも含めて味わいなんですがね。今の時代は、どうも個性を良しとしない。ただ、最近になって木桶仕込みの復活をって話が出てるんです。要は町おこしの一環ですかね」
「本当ですか!そこも展示に組み込めたら面白そうですね」
日向さんはカメラを首から提げ、手にしていたジャケットを乱暴にトートバックに突っ込んだ。代わりに取り出したのは、メモ帳とペンだ。
「ただ、木桶を作るのは家具を作るようにはいかない。技術がいるんですよ。杉井工房は息子が継いで、木桶作りの経験はない。それで今、引退した亀三郎さんが指導している最中なんです」
「杉井キサブロウ…さんですか?」
「鶴と亀の亀って字に、三郎と書いて亀三郎です」
「ありがとうございます」
日向さんはさらさらとペンを走らせる。
「確か…木桶復活プロジェクトとか言ってたかな。久瀬酒造はOKを出してるので、あとは木桶職人だけです」
「なるほど」
と、日向さんは感心したようにしきりに頷いている。
「田邊醸造所の方は関係ないんですか?」
私が口を挟めば、宇佐美さんは「あっちは味噌醤油ですからね」と笑う。
「おんなじ木桶でも、酒と味噌醤油では寿命が違うんですよ。塩がね、木に染み込んで丈夫になる。100年以上は持つと言われてる。酒は塩が出ないでしょ?せいぜい2、30年。まぁ、あれです。一花お嬢さんたち風に言うなら…えっと…」
宇佐美さんは少し言葉に詰まった後に、「そうそう」と頷いた。
「コスパが悪い。そういう理由もあって、木桶からホーローやステンレスに移行したというのもあるんです」
「味の均一さと木桶の脆さということですか」
日向さんは感慨深げにホーロータンクを見上げた。
「酒蔵が次々に木桶から浮気しちまったら、そりゃあ職人が減っても仕方ない。それでも、田邊醸造所の木桶は現役で頑張ってるはずです。定期的なメンテナンスは、杉井工房に見てもらってますよ。うちもそうです」
「杉井工房は木桶が作れないのでは?」
「一からは無理でしょうが、メンテナンスは頑張ってますよ。箍…木桶を締めてる竹の輪ですね。それが緩んでないか、隙間が出来てないかの点検ですね。さすがに側板の交換は任せられないらしいですが」
宇佐美さんは言って、「これくらいの…」と両手で大きな円を作った。
「練習と言ったら悪いか。商品として売ってるので。これくらいの木樽を作ってますよ。ビール樽みたいなね」
まぁ、木だけはいっぱいある土地だから、材料には事欠かないはずだ。
「それで、御神酒ですが、なぜ御神酒だけ木桶なんでしょうか?」
「神様が嫌うからですよ」
宇佐美さんが笑う。
「こちらへ」と歩き出した宇佐美さんの後ろを、日向さんはホーロータンクの写真を撮りながらついていく。その後ろに、私も続く。
興味津々と周囲を探るのは、日向さんと同じだ。
改めて、天井の高さに圧倒されてしまう。
ホーロータンクの背が高く、蔵人たちは組まれた足場の上で作業する。その為に天井が高いのだ。
あんぐりと口を開けたまま天井を見上げていれば、宇佐美さんが足を止めた。
「タンクに書いてあるのは、タンクの番号と検定日、容量。なので、ここにあるタンクは6500リットルということです。こっちのは4600リットルで、梅酒を作ってます」
こん、と軽くタンクを叩いて、宇佐美さんが説明する。
「この下の穴からお酒が出て来るんですか?」
「一番下の穴が下呑と言って、醪なんかも出したい時に使います。で、その上の穴が上呑で、滓引き……つまり、滓を取り除く作業の穴ですよ。滓引きして、濾過して…という作業を経て、瓶詰め作業に入ります」
「てっきりタンクで酒が出来て、それをそのまま瓶詰めかと思いました」
うんうん、と私も頷く。
「い…い一花は何も知らないな」
耳元で囁かれた声に、心臓が大きく飛び跳ねた。悲鳴が出る前に、両手で口を塞ぎ、勢いよく振り返る。
いつからいたのか、生成色の着物姿の須久奈様が、ニタァと根暗な笑みで私を見下ろしていた。
…怖い!!
「濾さなければ、清酒とは呼べないんですよ。濾過して出荷すれば生酒。加熱殺菌と濾過の手順を踏むのが生貯蔵酒や店頭で良く見かける一般的な酒になります」
宇佐美さんは言って、すたすたと歩を進める。
立ち止まったのは、使い込まれた木桶だ。他のタンクと比べて極小。それでも「1250リットルです」と宇佐美さんは言う。
「メンテナンスは杉井工房に任せてますが、壊れてしまえば木桶仕込みが厳しくなります」
「御神酒が作れなくなるってことですか?」
「そんなことはあってはならない。神様に怒られてしまう」
ぴしゃり、と宇佐美さんが言った。
「職人というのは多かれ少なかれ信心深いものですが、久瀬酒造は少しばかり事情が違う。一花お嬢さんがいる前で講釈を垂れるのは憚れますが、ここのお酒は、久瀬家の初代が神様から直々に酒造りの手ほどきを受けたとされているんです。御神酒は木桶仕込みで変わらぬ味にしなければなりません」
そうなの?
驚いて須久奈様を見上げれば、須久奈様は頬を赤らめながらも、どこか得意げに頷いている。
「この木桶が駄目になれば、全国から職人を捜すまでです」
「並々ならぬ思いが伝わりますね…。お酒の神様といえば、酒解神。久斯之神が有名ですが、久瀬酒造に酒造りを伝えたのもそうなんですか?」
「久瀬酒造が祀っているのは天少彦根命様ですよ。あとで2階の神棚にも案内しましょう。若手が勉強会をしているので、少々むさ苦しいですが」
朗らかに笑う宇佐美さんと、必死にメモを取る日向さん。
その後ろで、私の頭の中はクエスチョンマークが無限に飛び交っている。うちにいる神様は須久奈様だ。フルネームは須久奈比古命様で、アマノ…なんちゃらという呪文みたいな名前の神様ではない。
「い…一花」
とんとん、と肩を叩かれ、須久奈様を見上げる。
「か、神というのは…別名がある。久斯之神も天少彦根命も…お…お俺のことだ」
へへへ、と笑う須久奈様に、私は呆けた顔で緩慢に頷くしかない。
「神様に関しても、説明パネルを展示すると面白いかもしれませんね」
「それはそうかも知れませんが、資料館は神籟町に関する史料を展示すると聞いてますよ?主軸は、三篷城ではないんですか?」
そもそも神籟という地名は、遠い昔に極小の集落で使われていたにすぎない。町ではなく村だ。もしかすると、村と呼ぶのも烏滸がましい字だったかもしれない。
そこから徐々に人が増え、木材の町として発展。城が建ち、周辺は御舟町と言って川沿いを中心に栄えたらしい。
三篷ではなく御舟だ。
きっと何かしら意味があるのだろう。
多くの村が統廃合して御舟町となったけど、神籟村はぽつんと残った。
三篷城が廃城すると、城下町は商家町になる。
まぁ、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている城下町の場所は、実際は城下町の外れの方なので城まで少し歩く。さらにあれらは商家町で、廃城後の建築物になる。ただ、商家町より城下町の方がウリになるので城下町と称している。嘘ではないので、虚偽にはならない。
現在、神籟村は勢力を増し、御舟町は消滅した。代わりに御舟地区として残っている。
と、聞くだけで実際に史料を見たわけではない。お年寄りたちの口伝なので、信憑性はない。
薬袋さんだったら、きっと神籟村を重点的に展示したいに違いない。
日向さんはかちかちとペンを鳴らし、「大丈夫ですよ」と苦笑する。
「神籟町だけではなく、川守村も紹介してるので」
「川守村…」
宇佐美さんの顔色が曇る。
「確か…戦後の台風で無くなった村でしたか…」
「ご存じですか?」
「親父は警官だったんですよ。田舎の駐在。その際、2年ほど川守村近くの駐在所に住んでいたんです。私は生まれてないんですが、親父がよく言ってました。少しばかり気味が悪い村があったと…」
「気味が悪い?」
「クワアウ流しという神事が、とにかく気味が悪かったと」
薬袋さんが言っていた笹舟流しのことだ。
「クワアウというのは災いという意味らしく、神事というよりは…こう…なんていうか、呪術のような雰囲気があったと言ってましてね。私は呪術なんて見たこともないのでよく分かりませんが、とにかく、不気味だったんでしょう」
「クワアウ流しは薬袋さんに聞きましたね。詳細は分からないということでしたが…。でも、川守村は田の神を祀っていたと聞きましたよ?それが呪術ですか?」
「私も父からの又聞きですからね。でも、田の神様を祀っていたとは聞いたことがないですね。村の中ほどに社があって、黒いゑびす様を祀っていたそうです。しかも、ゑびす様が手にするのは釣り竿や鯛じゃない。両手で木片を抱えたゑびす様だというから驚いたものです。父もおかしな村だった…と言ってたのを覚えてます」
須久奈様が険しく目を眇めた。
瞬間、気温がぐんと下がり、宇佐美さんと日向さんが身を震わせる。きょろきょろと周囲を探り、怖気を含んだ冷気に良くない話だったのだと口を噤んだ。
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