神様の許嫁

衣更月

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閑話

一花

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 ジュウジュウ、ジュウジュウ。
 甘ったるい匂いが、離れいっぱいに広がっている。
 朝から一花が料理に勤しんでいるのだ。
 一花は、ほんの1月半ほど前、加護を授ける久瀬家から差し出された人柱だ。実に不愉快極まりなかったが、相手が一花だと知って少しだけ嬉しかった。
 一花は嫌いじゃない。
 小さい頃から見守っていた。
 くるくると変わる表情に、腕にすっぽり収まるほどの小さな体躯。後ろから見ると達磨みたいな円い頭も、年齢の割りに幼い顔貌も愛おしい。
 うつけ者で、警戒心の欠片もないというのに、意外と頑固なところも気に入っている。
 空け者だというのに、神に対する畏れを忘れていないのも良い。
 なにより、一花は目を見て話してくれる。一花と目が合うと、胸の奥が心地良いような悪いようなムズムズとした不思議な感覚に陥るが、目を逸らされるとムカムカするので、たぶん胸のムズムズは心地良いムズムズなのだろう。
 不満があるとすれば、俺以外の奴にも目を見て話すことくらいだ。
「須久奈様。何を指折り数えてるんですか?」
 怪訝な表情が振り返り、それが愛らしくて「へへへ」と笑う。
 笑顔を作るのは何千年ぶりか。
 一花といると、笑う頻度が多くなる。
「い…一花の…良いとこ…か、数えてた」
 一花と喋ると緊張する。
 良い緊張だ。
 嬉しい、楽しい、愛しい。
 連れ去ってしまおうか…と何度考えたか知れない。
「私の良いとこ?参考までに教えて下さい」
 小動物みたいだ。
 フライ返しというのを手に、とことこ歩いて来る。俺を見上げた目はまん丸で、黒い瞳の中に俺を映している。
 思わずほっぺに唇を落とせば、一花は真っ赤になって仰け反った。
 一花が教えてくれたキスというのが、最近のお気に入りだ。でも、一花は違うらしい。小さな手をほっぺに当て、細い肩を震わせている。
「だ…だ、誰もいないから…してもいいんだろ?」
「急にするのはダメです!」
 真っ赤な顔で怒っても迫力はない。
 可愛い…。
「急…に、しなければ良いのか?」
 じっと見つめれば、一花の目が泳ぐ。
 普段は真っすぐに目を見て話す一花が目を泳がせるのは、困惑している時か、嘘を吐いている時か、何かを誤魔化そうとする時だ。
 可愛い…。
「そ、そ…それじゃあ……キ、キキキキスする…」
 一応、宣言してから、驚いた顔で肩を跳ね上げた一花の唇に口を押し付ける。
 触れるだけ…。
 一花の唇は柔らかい。
 ほっぺも柔らかい。
 首筋に鼻をつければ、一花が気に入っている石鹸の匂いがする。梔子くちなしに似た香りだ。あと…俺の匂い…。
 油断すると、一花は他の男やら女の臭いをつけて帰って来る。人間だったり、神だったり様々だ。
 何度か注意したが、学校とやらで人間を避けて活動するのは無理だと言われた。ならば学校に神がいるのかと問い質せば、帰り道でばったり会うらしい。会えば無視もできない。神を拒むのは難しいと言われた。
 まぁ、神と言っても年神と直日だ。
 直日は馴れ馴れしい。年神は人畜無害な顔をして、一花に近づくなと警告しても笑って流す図太い神経をしているから侮れない。
 だが、今日は家族すら一花に触れていないらしい。
 それが心地良い。
「ちょ…ちょっとストップ!待って下さい!長い!長いです!」
「な…長くない」
 すりすり、と一花の形の良い頭に頬擦りをする。
「長いです!」
 怒った口調だが、怒ってはいない。
 恥じらっている姿に、俺にも恥ずかしさが伝播して息が上がりそうになる。
 もう一度、今度は小さな鼻の頭に唇を落とせば、一花は必死に俺の胸に手をついて引き剥がしにかかる。当たり前だが、一花の力は赤子みたいだ。本当に力をこめて抵抗しているのか分からない。
 それがまた可愛い。
「本当に怒りますよ!」
「で…で、でも…い、一花は…俺の顔が好きなんだろ?」
 イケメンと言っていた。
 遠い昔、似通った言葉で迫って来た女神おんなたちがいたが、あれらは淫らで品がなく、鬱陶しかった。性格が嫌いだったし、香を染み込ませた着物は臭かった。撓垂しなだれ、甘ったるい声を出し、潤んだ瞳で見上げて来るのだ。直日曰く、それが良いらしい。あいつは頭がおかしい。
 一花ならいっぱい甘えられても不快じゃないのに、一花はなかなか甘えてくれない。
「い…一花なら…見ても良い」
 そろそろと前髪かき上げて、「ほら」と笑えば、一花の顔はトマトみたいに熟れた。
 可愛い…。
 ちゅ、ちゅ、ちゅ、とキスをして、下唇を甘噛みすると、一花は瞠目して固まった。
 もっとキスしてやろうと思ったが、不意に焦げた臭いに気が付いた。目を向ければ、一花が焼いているパンというのがすず色の煙を立ち昇らせている。
 一花を見れば、カチコチに固まっている。
 仕方なしに、一花の手からフライ返しというのを引っこ抜き、一花に代わってパンをひっくり返す。
 少し黒ずんでいるけど、炭化している訳じゃない。
 弱火とはいえ、調理中に目を離す一花は、やっぱり空け者で可愛い。
 火を止めて、フライ返しを置く。
 棒立ちの一花を抱え上げて、座布団の上に一緒に座る。一花は俺の膝の上だ。
 ぎこちなく俺を見る一花の顔は、まだまだ赤い。耳も、首筋も、少し心配になるくらい真っ赤だ。
 すりすり、すりすり。
 一花が正気に戻るまで、存分に俺の匂いを擦りつけておこう。それだけで、莫迦は近寄らない。近寄った莫迦は、殺してしまえば良い。


 余すところなくキスを降らせたところで、漸う、一花が正気に戻った。逆上せた顔を栗鼠りすみたいに膨らませて、俺の顔を必死に押し返して拒絶する。
 本気じゃないから許す。
「い…一花…あ、あれ…ちょっと…焦げてたぞ…?」
 はむ、っと小さな指を噛めば、一花は悲鳴を上げて立ち上がった。
「ホットケーキ!」
 ぱたぱたと駆けて行く姿も可愛い。
 一花が離れに越して来てから、殺風景だった部屋が様変わりした。
 書斎の本棚には一花の本が並び、流し台にはコップや湯呑みが二こうずつ揃う。押し入れの長押なげしには、学校の制服をかけている。座卓の上にも一花の私物が置かれ、夜には布団を敷くようになった。俺は人間のように長々と寝ないから、布団はなくても困らない。そう言うのに、律儀に布団を並べて敷く一花が愛しくて仕方ない。
 押し入れを奪われたのは頂けないが……。
「い…一花」
「なんですか?」
 用意した皿の上に、焦げたパンを乗せている。
 こちらには振り向かないが、そわそわと気に掛けているのが分かる。見え隠れする耳と項が赤くて、微笑ましくなる。
 ああ、攫って行けたら、どれだけ幸せだろうか。
 そんなことをしたら、一花は許してくれないだろうけれど…。
「もぉ!さっきから中途半端に黙らないで下さい」
 膨れっ面が俺を睨んでいる。
 へへへ、と笑えば、一花は嘆息て背を向ける。
 攫ったら怒られるからしない。でも、いつか頷いてくれたら連れて行こう。
 それまでは、ありったけの加護を一花に――――。
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