神様の許嫁

衣更月

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まれびとの社(二部)

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「は?」
 顔を引き攣らせて冷ややかな視線を向けるのは、こんがり日に焼けた誓志だ。赤黒い腕には、白くめくれ上がった皮が罅割れのように目立つ。それを、爪の先で器用に剥いているのだから汚い。
 いくら外に落としているとはいえ、そういうのはお風呂でやって欲しい。
 場所は母屋の廊下。
 連なる座敷を背に、姉弟仲良く座っている。
 蚊取り線香の匂いを吸い込み、風鈴の音色にリラックス気分の私とは対照的に、誓志の表情は苦い。片足を廊下に、もう片方を沓脱石に投げだす格好で、これ見よがしにため息を吐いて見せた。
「イチ姉、死にかけたのはついこの間だよ?分かってる?また変なのに巻き込まれてるって…」
「巻き込まれてないし。変なのを見ただけ。誓志は見てない?」
「見てない。妖怪と舟だろ?んなの見たことないし。イチ姉、もう下だけを見て過ごしなよ」
 誓志は嘆息して、ぺろりと剥けた皮に「いっ…て」と眉尻を下げた。皮を地面に落とし、「当分はシャワーでいいや」と歯噛みする。
 アフターケアをしないからだ。
「ちゃんと日焼け止め使ってるの?」
「汗ですぐ流れるから使ってない」
「ローションは?百花ちゃんが買ってやってたじゃない?あんたもスースーして気持ちいいって言ってなかった?」
「あ~…忘れてた」
 本当に忘れてたらしい。「そうだった…」と気まずそうに頭を掻いて、「ゴールデンウィーク前に買ってもらったんだ」と嘆息した。
 どうやら梅雨に入り、陽射しを浴びる機会が減ったのを機に、ローションを使わなくなったらしい。そして、それっきり忘れたというわけだ。
「明日から使う!」
「だったら皮を剥くの止めたら?絶対に沁みるし」
「分かってるよ」
 誓志は唇を尖らせ、斑に白く粉を吹く腕を軽く払った。
「で、河童を見たんだっけ?」
「見てない。ネズミ」
 嘆息して、グラスに注いだオレンジジュースを飲む。
 溶けた氷で薄いオレンジ風味の水になっている。
「二足歩行のネズミを見ただけ」
「兼じい系の妖怪じじいもいたんだろ?」
「郷土史家の薬袋さんね。じじいって年でもないし。来月開館する資料館の館長さんだって」
「城跡んとこの、ず~っと工事してるとこ?」
「そう」と頷く。
 誓志は「へ~」と言って、ペットボトルのコーラをごくごくと飲む。
「そこで神様がいたわ…」
「ぐふっ」
 誓志が噎せた。
「…ぶねぇ!吹き出すとこだろ!」
 げほげほ咳き込み、手の甲で口元を拭う。
「たぶんね、たぶん。他の人たちには見えなかったから、そうじゃないかなって…。でも、確実じゃないから。人っぽい妖怪とか、幽霊とか…そんな感じかもしれないでしょ?」
「まぁ…私は神だって自己紹介されなきゃ分かんないかもなぁ」
 須久奈様たちの姿を思い出したのだろう。
 人と変わらない容姿は、初見では神様だとは分からない。
 まぁ、薬袋さんが見えなかった時点で神様率が高い。
「で、どんな感じだったの?」
「あまり怖い感じはしなかったかな。どちらかと言えば、品の良い俳優みたいな感じ。びしっとスーツを着て、セレブって見た目」
「須久奈様は何か言ってたのか?」
「さっきの話だし。まだ言ってない」
 報告以前に、須久奈様に会う前に玄関先で誓志と会ったのだ。そのまま縁側でまったりしている。
 ちらり、と誓志を見れば、青い顔をして身構えた。
「ふざけるなよ!俺を巻き込むなよ!まずは須久奈様だろ!?」
「まぁ…そうなんだけど。私が妖怪らしきモノを見てから、どうもピリピリして怖いんだよね」
 正直、近寄りたくない。
 今まで人を遠ざけ、引きこもっていた為に、須久奈様は気付いていないのだろう。自分の機嫌一つで空気が変わり、周囲にどんな影響を与えるかを…。
 母や百花は悪寒に震えが止まらず、離れには近寄れないと言っていた。裏庭からは虫が消えた。セミも鳴かないし、藪蚊も見ない。
 誰よりも距離が近く、長時間一緒にいる私には死活問題だ。悪寒は治まらないし、胸焼けもする。この状態が長引けば、頭痛に胃痛と新たな症状が出るに違いない。最終的には熱でも出るのだろうか…。いや、きっとショック死だ。
「その恐怖って慣れないの?」
「だったら、今日から毎日恐怖を与えられたら?慣れるかもよ?」
「ごめん…。俺が悪かった」
 誓志は神様を見る目を持っていないけど、須久奈様曰く、私たちの中で一番”勘が良い”という。
 弟というのも誓志の立場を悪くしているのか、須久奈様は頻繁に誓志を玩具にする。いきなり蹴り飛ばしたり、足を引っ掛けたり、恐怖を与えたり。その度に誓志は泣く。
 その昔、ご先祖様が須久奈様に「弟は姉の玩具」と言ったらしい。その”玩具”の部分だけが印象に残ったのか、須久奈様は誓志を見ると手を出す。玩具ではないと諭しても、「もうしない」と言っては、舌の根も乾かぬうちに誓志にちょっかいを出す。
 ループは続き、誓志はそれに慣れることはない。
 それどころか、最近、須久奈様の気配に敏感だ。須久奈様が母屋に踏み入れば、危険を察するのか、そわそわしながら自室へと逃げて行く。
 誓志の妖怪アンテナならぬ神様アンテナは、なかなかの精度だと思う。
「あのさ…ワンチャン、神様じゃないってことは?」
「神様じゃなくても、私以外に見えない存在だしね。そんな存在と接触したんだから、まぁ…須久奈様は良い顔しないと思う…」
 思う…じゃなくて、確実に良い顔はしない。
「一応の確認。その…危ない感じじゃなかったんだよな?」
「ん~…」
 腕を組んで、自称高木さんを思い出してみる。
 あの後、薬袋さんの説明に満足したのか、ひらひらと手を振りながら去って行った。
 終始穏やかな雰囲気で、威圧感はゼロ。それでも人ならざるモノという緊張感が、私の肌を粟立たせていた。
「敵意はなかったかな。ただ、得体が知れない感じ」
「それって危ないんじゃないの?」
「だから、敵意はないんだって。でも目的が分かんないから油断できないって感じかな」
 肩を竦める。
 正直、なんのために私に話しかけたのかが分からない。単にパネルの補足説明が欲しかったのかもしれないけど、あれは違うと思う。なんとなく、私に聞かせたいがためにパネルへと誘導したような気がする。
「あとイケメンだった。イケおじ」
「イケおじって…」
「事実だしね。それに、神様ってイケメンばっかりじゃない?」
「イケメンばかりって、俺は神様に詳しくないよ。須久奈様の顔は前髪で見てないし。てか、目が合うの怖くてよく見てない。ただ、背がデカくて足が長いのはズルいよな…」
 誓志は僻みに歯軋りして、ぴんと足を伸ばした。
 サッカーを頑張る足は筋肉質だけど、残念ながら長くはない。身長も中の中。本人は180cmは欲しいというけど、家系的に見て無理だろう。久瀬家にも、父方の実家にも、長身の遺伝子はないからだ。
「神様にお願いしたらプラス9cmくれるかな?」
「それは止めた方がいいね」
 急に割り込んで来た第三者の声に、びくりと肩が跳ねた。
 ぎょっとして視線を投げた先には、門を潜って歩いて来る2柱がいる。1柱は須久奈様だ。袖口で口元を隠しているのに、不機嫌な顔つきが手に取るように分かる。
 そして、私たちの会話に割り込んで来たのは、須久奈様に「嫌いじゃない」と言わしめた年神様だ。
 白いワイシャツを腕まくりにした、穏やかな笑みの似合うイケおじ風神様である。私が知る神様の中で、唯一、目を見て話しても畏れが1ミリも湧かない。優しさと気遣いで出来た神様だと思う。
 癖毛か寝癖か、暗褐色の髪がぴょんぴょんと後頭部で跳ねているのが可愛い。
「年神様」
 私の呟きに反応したのか、それとも須久奈様の気配を察したのか、誓志は青い顔して飛び上がった。
 沓脱石の上に並べたサンダルを引っ掛け、姉弟揃って立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
 ぺこり、と頭を下げる私の隣で、誓志も慌てて頭を下げた。
 見えなくとも、近づいて来た2柱の気配に気圧されているのが分かる。緊張に強張った顔が、「いらっしゃい」と震えた声を絞り出した。
「そんなに力まないで大丈夫だよ」
 優しい神様が困ったように笑う。
「い…一花…た、た、ただいま…」
 不機嫌な顔が一転。
 頬に朱を散らし、すっと伸びていた背中が丸まった。へへへ、と照れ臭そうに笑う須久奈様に、私も苦笑する。
「須久奈様。お帰りなさい」
「な…な何してるんだ?」
「大したことじゃないですよ。妖怪っぽいのを見たっていうのを話してたんです。誓志は勘が良いでしょ?誓志に害があると怖いじゃないですか」
「…そうか」
 興味のなさそうな声で、須久奈様は誓志の正面で足を止めた。
 背中を曲げて誓志を見下ろす絵面がヤバイ。怖い。
 誓志は顔面蒼白で、小刻みに震えている。
 と、徐に須久奈様が誓志の顎を鷲掴みにした。
「ひっ」と小さな悲鳴と、涙ぐんだ目が丸々と見開かれる。ぐるぐると周囲を探っても、誓志には須久奈様は見えない。目と鼻の先に須久奈様の顔があるのに、誓志の焦点は見当違いの場所ばかりに合っている。
「須久奈様?」
「……見えるようになってる…」
「どれどれ」と、須久奈様の隣に年神様も並ぶ。
 2柱に覗き込まれ、誓志は奥歯を噛みしめて神様の圧に耐えている。
「前はどんな感じだったんだい?」
「…見る目はないが…勘が鋭い。い、一花は見る目はあるが…勘は鈍い…」
 鈍い…。
「なるほど」
 年神様が苦笑する。
「で、元々はどの程度の目だったんだい?」
「…どの程度も何も…勘が良いだけだった」
「何も見えないってことかい?でも、この目は妖怪くらいは見えてそうだよ?」
 年神様の指摘に、須久奈様は口角を歪めた。
「もしかすると、私たちに接する機会が増えたせいかもね。いくら須久奈が制約をかけても、久瀬の血筋というのも大きいだろうね。私たちを見る目は持ち得なくても、それ以外を見るようになっても不思議ではないかな」
「面倒な」
 須久奈様の手が、ぽいっと誓志を離した。
 すかさず誓志は私の背中に隠れた。小柄な私の背に隠れようなんて、2柱の目には滑稽でしかないのだろう。年神様が「怖がらせてしまったね」と苦笑し、須久奈様は憤然と腕を組む。
「あの。やっぱり誓志は妖怪を見ちゃうんですか?」
「……ああ」
「視界の端に過る程度の認識だろうけど、気を付けた方が良いね」
 その言葉に、誓志の顔色がますます悪くなる。
「昔は、死者や妖怪を見る目を持つ人間は少なくなかったんだよ。最も多いのは、死者…幽霊を見る目だね。それは今も変わらないけど、それでも昔に比べれば少なくなった。次いで妖怪を見る目だけど、かなり減ったよね。昔は大きな町では、2、3割の人間は見えていたけど、今は1割もいない」
 年神様は言って、無精髭の残る顎に手を添え、「いや…1割はいるかな?」と空へ視線を投げた。
「大袈裟かな?」
「俺に訊くな」
 ぴしゃりと言われても、年神様は怯まない。
「実際に統計を取ったわけじゃないしね」
 琥珀色の双眸を優しげに細め、「一花ちゃんは弟くんが心配なんだね」と私の頭を撫でた。
 その手を叩き落とされても、年神様はにこにこ笑顔を崩さない。
「一花に触れるな。殺すぞ」
「昔に比べて、須久奈は気が短くなったよね。しかも狭量だ」
 須久奈様の機嫌の急降下に、私と誓志は恐怖に慄く。庭で鳴いていたセミがぴたりと静まった。
 ただ、年神様には影響がないらしい。朗らかな表情は崩れない。
「い…一花も…触らせるな。手…手を伸ばして来たら…叩き落とせ」
 そんな無礼を働けるはずない。
 私が黙りこくっていると、須久奈様が徐に私の頭頂部に鼻を寄せた。すんすん、とニオイを嗅いで来る。
 汗だくの季節にニオイを嗅がれるのは生理的にキツイ。
 思わず顔を顰めると、私以上に顔を顰めた須久奈様と目が合った。
「…な、何に触れられた?…年神とは違う…臭いがする」
 心当たりに、首を窄めてしまう。
 どうせ言うなら、年神様がいる今がいいのだろう。
 何かあれば、年神様が守ってくれるはずだ。
「あの。須久奈様」
 袖下を掴んで、渾身の甘えた上目遣いだ。
 色々とマンガで学んだ、守りたくなる女の子っぽい仕草を意識する。
 出来ているかは不明だけど、とりあえず、須久奈様には効果があるらしい。頬に朱を散らし、胸の前でもじもじと指を絡め始める。
 怖い感じも霧散した。
「ど、どどどうした?」
「私、神様と会いました」
 てへへ、と効果音がつきそうな笑顔でストレートに告げれば、デレデレしていた須久奈様の顔が凍り付いた。
 その隣で穏やかに笑みを浮かべていた年神様の顔も、すんと真顔になっている。
 真顔怖い!
「い、い…一花。直日のことか?」
「…神直日神様なら、ちゃんと神直日神様と会ったって言います」
「ど…どこか…社に行ったのか?ヤサカか?」
 ヤサカ様とは翁面を被った神様だ。
 遠い昔に須久奈様の助言で社に住み着き、神格を得た八百万の神様だ。盆地という土地ながら、ヤサカ様が住んでいる社は、航海の神様であるシオツチオジノカミを祀っている。
 須久奈様に紹介されて以降、近くを通る際にはお参りし、ヤサカ様が好物だという酒まんじゅうを差し入れ……供えているのを須久奈様は知っているらしい。
「知っている神様なら、ちゃんと名前を言います。初めて見た神様ですよ」
「どんな神だったか覚えているかい?」
 年神様の質問に、私はこくりと頷く。
「あの…たぶん神様と思うだけなので、違ったらすみません…」
 断りを入れると、2柱は頷いてくれた。
「えっと…」
 視線を須久奈様から年神様へと移動させる。
「身長と年齢は年神様と同じくらいかも。びしっとスーツを着たイケおじでした」
「イ…イケオジ?」
 須久奈様が頭にクエスチョンマークを散らしながら首を傾げる。 
 年神様も「イケオジ…?」と考え込んでいる。
「すみません。カッコイイ顔でした」
 丁寧に言い換えれば、2柱は小さく頷いた。
「ちゃんと名前も訊きましたよ。といっても、最初はデザイン会社の人かと思ったので…。率先して神様に近寄ったわけじゃないってのは理解してほしいです」
 これは須久奈様に釘を刺す。
 言っておかなければ、また説教されてしまうからだ。現に、今も疑いの眼差しで私を見ている。もはや私のぶりっこでは誤魔化されないらしい。
「デザイン会社の人?一花ちゃんは会社に行ったのかい?」
「いえ。城跡のところに資料館が建っているんです。開館は来月なんですけど、そこの館長さんと知り合って、見学させてくれたんです」
「あ…あいつか…」
 須久奈様が舌打ちし、年神様が「資料館かぁ」と興味深げに頷く。
「そこにデザイン会社の人が来てたんです。資料館のディスプレイを担当するらしくて…。スーツを着ているのが、その人だけだったんですよ。でも、私が1人になったら他にもスーツの人がいて…話しかけて来たんです」
「デザイン会社の人と思った?」
「はい。まさか神様がいるとは思わなかったし…」
 私は嘆息して、年神様から須久奈様に視線を移す。
「高木さんって。普通に苗字みたいじゃないですか。だから、途中まで気づかなかったんです」
 てっきり脇が甘いと説教が飛んで来るかと思ったのに、2柱は真顔のまま凍り付いていた。
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