神様の許嫁

衣更月

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まれびとの社(二部)

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 離れと母屋を繋ぐ渡り廊下を足早に渡り、母屋の木製の引き戸を開く。
 途端に、視界が微かに霞む。鼻孔を擽るのは蚊取り線香の匂いだ。
 田舎の強みなのか、それとも古い日本家屋の特徴なのか、午前中であれば窓を開けておくだけでエアコン要らずの涼が得られる。その代償が、あちこちで焚いている蚊取り線香だ。
 たまに煙りで目が染みる。
 一方の離れはというと、須久奈様の都合で窓が少ないせいか、小虫一匹見たことがない。まぁ、一番の理由は神様の住まう場所だからだろう。
 蚊のストレスもなければ、24時間稼働するエアコンが室温管理をしているので、快適である。
 ただ、酷く体が気怠く感じる。
 冷房疲れだ。
「ふぅ…」と後ろ手で戸を閉めようとしたところで、とん、と戸を押さえられた。振り返れば、須久奈様がいる。
 本日のお召し物は、薄緑の縞柄だ。触れれば夏に相応しい駒絽こまろ。さらりとした涼やかな手触りの生地で、帯は紺地の角帯だ。
 須久奈様は生成色や墨色、藍色の着物を好んで着ていたので、緑系は新鮮ながらに奇妙な感じがする。
「どうしたんですか?」
「ん…べ、別に。い、一花について来た」
 胸の前でもじもじと指を絡め、頬に朱を散らしながらニタァと笑う。
 笑い方が下手糞すぎて、もはや変質者の笑い方だ。
「い…一花は…どうした?」
「冷蔵庫が空だったから、ジュースとか見繕いに来たんですけど、須久奈様用にお酒も持って行きますか?ビールとか?」
「も、持ってく」
 須久奈様は嬉々として頷き、戸を閉める。
 と、座敷の方から「ええ、そうなんです」と男性の声が聞こえて来た。
 客人が来ているらしい。
「急で申し訳ないのですが、何か展示できる記録用の写真などがあればと思って伺った次第なんです」
 聞き覚えのある声だ。
 はて、と考えて、すぐに薬袋さんの声だと思い至る。
 まさか、妖怪の話を訊きに来たのかと勘繰ってしまう。
「できれば、昔の…酒蔵の様子が分かるような写真はありませんでしょうか?写真と一緒に木樽などを展示した方が、より来館者に酒造りのイメージが付きやすいのではないかと思っているわけです」
「アルバムの中に、明治大正の頃の記録写真があったと思います」
 神籟町の歴史と一緒に老舗も紹介するとは聞いたけど、てっきり文章だけのしょぼい感じかと思っていた。まさかの酒樽も展示するとなると、かなり大掛かりだ。
 神籟町の老舗店舗は、どれも創業100年超えだ。記録写真を飾れば自然と神籟町の歴史も分かる。ぽんと酒樽を置かれているより、写真の方が余程客寄せになる。
 私が訊き耳を立てていると、つんつん、と肩をつつかれた。
「い…い、一花…?どうかしたのか?」 
 困惑顔の須久奈様に、思わず「しっ」と人差し指を立てる。
 須久奈様はあたふたと両手で自分の口を押えた。
 何気に可愛い…。
「お客さんです」
 小声で言えば、須久奈様はこくこくと頷き、座敷の方へと視線を投げる。
「そ、それがどうした?」
 猫背をさらに曲げ、私の耳元で囁いて来る。
 低音ボイスの破壊力よ…。
 微かな息が耳朶を掠めるのと相俟って、ぞくぞくと背筋が震える。
「さ…早百合には聞こえるだろうが、客に俺の声は聞こえないだろ?」
「そ…それが分からないから保険です」
 不覚にも赤らんでしまった頬を擦り上げ、すーはーと深呼吸する。
 須久奈様は首を傾げた。
「ど…どういう意味だ?」
「城跡があるでしょ?」
「あるな」
「あそこの近くに、資料館が建設されているんです。開館は来月なんですけど…」
「あ…ああ、あれか」と、須久奈様は頷いた。
 須久奈様は日中は離れに引きこもっているけど、私たちが寝静まる深夜、散歩に繰り出している。その途中で見たのだろう。
「お客さんの声が、その資料館の館長と同じなんです」
「それが?」
「薬袋さんって言うんですけど、この前、たまたま会って話をしたんですが……」
「ですが?」
 そわそわと私を覗き込んで来る須久奈様の目を見据えれば、須久奈様は頬を赤らめ、胸の前でもじもじと指を絡める。
「あ…あ、ああ…あまり見つめるなよ…。は、恥ずかしいだろ…」
 見つめてはいない。
 ため息を嚥下して、先を続ける。
「荒唐無稽なんですけど、笑わないですか?」
「わ、笑わない!」
 叫んで、慌てて両手で口を塞ぐ。
 確実に母の耳には届いただろう。
 私は嘆息して、須久奈様の着物を引っ張る。
 内緒話をするには、須久奈様の背は高すぎるのだ。須久奈様も察してくれたのか、改めて身を屈めてくれる。
「館長さん、妖怪が見えるんですよ」
「…………ん?」
「だから、妖怪が見える人なんです。神様も見えるかも?」
「そ、それはない。神を見る目を持つ人間は稀有だから…たぶん、見えない」
 ふるふると頭を振る須久奈様に、「妖怪を見る人も稀有だと思うんですけど」と小さく反論する。
「妖怪を見る目と…神を見る目は、似て非なるものだ。た、例えば、弟を訓練すれば、死者を見る目は備わる。が、頑張れば、妖怪を見る目くらいにはなるかもしれないが…神を見る目は別物だ」
「どう違うんですか?」
「神のちょ…寵愛を受けているか否か…」
「ちょーあい?」
「フ、フヘヘヘ…い、一花は知らない尽くしだな……か…可愛いから許す…」
 つんつん、と頬をつついてくるのが鬱陶しい。
「ちょ、寵愛っていうのは…一花みたいなことだ。あ、愛され…可愛がられる…。つ…つまり、神が気に入って…加護を授けた人間は…神を見る目を持つ可能性・・・はある。先祖に遡って…か、加護を受けた者がいれば…見る目を受け継ぐこともあるだろうが…それも稀有だ。か、神の寵愛自体が珍しいんだ。多くの神は、人間とは距離をとる…。早々に加護は…授けない」
「うちは須久奈様の加護を受けてるのに、誓志はダメなんですね」
「お、お俺が…そう制約したからな…」
 須久奈様とご先祖様のやり取りが気になるところだ。
「そ、そんなことより…い…一花は、初対面の人間と、そ、そんなことを喋るのか?」
「そんなこと?」
「妖怪の話…」
「話しかけられたんですよ。今、妖怪見てたでしょって」
 ため息混じりに言えば、須久奈様の顔が強張る。
 もっさり前髪の奥の目をすっと細め、ゆるりと背筋を伸ばした。
「そ…それは…本当なのか?」
「妖怪のこと?」
「そう」
 真偽を問われても困る。
 私も胸を張って「見た」と言えるほどの確信は持てない。そもそも、単なるドブネズミだったかもしれない。時間が経つにつれ、信憑性は薄れていく。
 理由は簡単。
 今まで妖怪を見たことがないからだ。
「妖怪だったかって問われると…ちょっと分かんないです。私の想像する妖怪とは違ったし」
「それじゃあ、どんな姿だったんだ?」
「ネズミですよ。二足歩行だったような…。でも、動物って不意に立ったりするじゃないですか」
 テレビの動物おもしろ動画特集でも、二本足で芸や散歩をする犬猫は出て来る。たまにハムスターも前足でヒマワリの種を持ち、後ろ足で立っている姿を紹介されている。ひと昔前は、レッサーパンダが有名だったという。
「ささ~っと道を横切って、水路に飛び込んだからよく分からないんです」
 そう言うのに、須久奈様の表情は晴れない。
 その顔つきは、今から2、3人始末しに行く殺し屋みたいだ。震えあがるような殺気は抑え込まれているのか、顔さえ覗き込まなければ怖くはない。
「も…もし、一花が見たモノが妖怪だったら……それは由々しき事態だ」
「そうなんですか?」
 薬袋さんと話して感じたのは、妖怪を見ない神籟町こそが異質だということだ。
 それの何がダメだというのか。
「昔はいたんですよね?」
 訊けば、「いた」と頷く。
「で…でも、一花が生まれて……い、一花は…色んなモノを…躊躇なく見るから……」
 何度か攫われかけた、と須久奈様が言っていたのを思い出す。
「お…俺が終始くっついているわけにもいかないから……め、面倒だろ?だから…手当たり次第に…近辺の妖怪を狩った」
「は?」
 かった?
 かったとは、買った…「この町には来るなよ」と買収したということだろうか?
 いや、違うな。
 嫌な汗が米神を伝い落ち、思わず目が泳ぐ。
「えっと…つまり?」
「し、始末した」
 へへへ、と照れ臭そうに笑っているけど、全然笑えない。
 やっぱり、この神様は危険だ。
 じっとりと須久奈様を見据えれば、須久奈様は「ああ、そうだ」と手を打った。
「その男が…どれほどの目を持ってるか…か、確認して来よう」
 言うが早いか、私が止める間もなく、須久奈様は廊下を進んで行く。
 人見知りは何処へ行ったのだろうか。
 慌てて須久奈様を追いかければ、開けっ放しの襖の向こうで、須久奈様が不躾に薬袋さんの顔を覗き込んでいた。その向かいで、母が青褪めている。
「あ、君は!」
 どうやら須久奈様が見えないらしい。
 薬袋さんはズレたメガネを正し、「こちらのお嬢さんでしたか」と破顔する。
「いやいや、世間は狭いですな」
 見つかったからには挨拶するしかない。
 そろりと母の斜め後ろに正座する。
「こんにちは。薬袋さん。自己紹介が遅れました。私は久瀬一花と言います」
「一花。薬袋さんとはお知り合い?」
 母が私に振り返る。
「この前、ちょっと立ち話を…」
 もにょもにょと歯切れ悪く口籠る私に、「そうなんです!」と薬袋さんが食いついた。
「なんと!ご息女は妖怪が見えるんですよ!」
 隠さない人なんだ!
 驚愕に目を丸める私と同じ…いや、それ以上に、母が驚いている。薬袋さんを見、須久奈様を見、私を見る。
「何を隠そう、私も妖怪を見るんです!」
 胸を張っているけど、普通は胸に秘める類のことだと思う。じゃないと、頭の具合を疑われてしまう。
 母は反応に困っている。「私は神様が見えるんです」とは、部外者には晒したくないらしい。というか、私だって秘密にしたい。
 須久奈様は薬袋さんの横に立ち、じろじろと観察している。メガネが邪魔なのか、時折、メガネをずらしては、薬袋さんが「ネジが緩んでるようですな」とメガネの位置を整える。その繰り返しだ。
「薬袋さん。思ったんですけど、あれって単なるドブネズミじゃないですか?」
「いやいや。私はずっと観察していましたが、あれは妖怪です。二足歩行に赤目。実に小狡い顔つきでした」
 薬袋さんは言って、お茶をひと口啜る。
鳥山石燕とりやませきえん氏の妖怪画集にも、鼠の妖怪は度々登場しますので、決して珍しいタイプではないのでしょうな」
 にこにこと嬉しそうだ。
「久瀬…一花ちゃんと呼ばせてもらいますが…。一花ちゃんのような妖怪を見ることが出来る方と巡り会えて興奮してます。お仲間が見つかったと。しかし、久瀬家の出だと知って、さらに興奮しますな!」
「……ん?」
 意味が分からない。
 思わず母に目配せすれば、母も意味が分からないと首を傾げている。それを察したのか、薬袋さんが咳払いした。
「神籟町は、久瀬家から興った町だということをご存じですかな?」
「…いえ」
 母は須久奈様を見ながら、曖昧に首を振る。
「文献には、慶長…今から400年以上昔。江戸時代前の安土桃山時代ですな。その頃に、三舟城が築城されたのですが、それよりさらに昔。ここには名もない集落がぽつぽつとあったそうです。その集落の1つが、後に神籟町となるのです」
 母と一緒に、適当に相槌を打つ。
 神籟町は落人おちうどが切り拓いた寒村が始まりだとは聞いている。
「昔はあちこちで戦や疫病、天災による飢饉。口減らしの間引きなどで簡単に人が死ぬような時代で、死が身近だったのですな。身近と言っても、それに慣れているわけではないのです。特に年端も行かない子が死ぬのは悲しい。そこで、神様に助けを求めたのですな」
 思わず、須久奈様を見る。
 須久奈様は薬袋さんの話に興味はないらしい。邪魔なメガネに、イライラしている。
「当時、この地に神社はなく、1本の木を神木として祀ったのが始まりだそうです。その神木を守った巫女が、集落で酒造りを始めたというではないですか。私は、その巫女こそが久瀬家の始祖だと思っております。現在、久瀬家は巫女役を担っていると聞きますし。残念なのが、巫女の名の記載がないのです。なので、推測の域を出ません。いずれ、それを証明したいと思っているのですが…」
 確かに、真偽不明ながら我が家では菖蒲あやめという巫女がご先祖様だと伝えられているけど、久瀬家から興った町・・・・・・・・・はない。誇張しすぎて、真実の部分まで嘘くさく聞こえる。
 答えを知っているだろう須久奈様は、1ミリも興味を示していない。口をへの字に曲げて、薬袋さんの能力を見極めようと悪戦苦闘している。
 どうやらメガネがあると、能力判定できないらしい。
 母を見れば、必死に須久奈様を無視して「そうなんですね」と頷いている。
 そろそろ中座しようと思ったところで、不意に須久奈様が頭を上げた。首を傾げ、目を眇め、門の方向へと顔を向ける。
「おお?」
 薬袋さんが居心地悪そうに身動ぎし、ぎょろぎょろと目玉を動かし始めた。
 須久奈様の機嫌の急降下に当てられたのは明白だ。
 母も顔色が悪い。それでも姿勢を崩さず、「その資料はどちらで?」と話を振っているのは流石だ。
「隣町の…駕予かよ稲荷神社…です」
 落ち着きなく、声も緊張している。
 3人揃って顔を強張らせ、背中にびっしりと汗を張り付かせているというのに、須久奈様の機嫌は下降の一途だ。
 我慢大会か、罰ゲームか。
「も…も、もしかすると……不安に思われるかもしれませんが、この恐ろしげな気配。久瀬家には…よう―――」
「ああ!」
 薬袋さんの言葉を遮り、大袈裟に正座を崩す。
「足が痺れちゃった」
 いたた、と足を摩って姿勢を崩す。
 マナー云々より、”この家に悪い妖怪がいる”なんて宣言されるよりマシだ。そんなことを言われたら最後、須久奈様が怒髪天を衝くほどの畏れを発動する可能性がある。そうなったら恐怖でショック死する自信がある。
 母も察したのだろう。
「もう、困った子ね」と、普段なら口にしない優しい叱責をする。
「薬袋さん。ごめんなさい。私はここで退席させてもらいます」
 本当は薬袋さんのお話を聞きたかったんですよ、という表情も作っておく。
 よたよたと立ち上がろうとした腰は、「邪魔するぞ~」という暢気な声で固まってしまった。
「須久奈。遊びに来た」
 場の空気も読まずに勝手に上がり込んだのは神直日神だ。
 十中八九、須久奈様の機嫌が急降下した原因だ。
 神直日神は相変わらずのチャラ男っぷりで、「手土産さけ持って来た」と高級そうなボトルを掲げてる。
 須久奈様は舌打ちし、ぷいっと外方を向いた。ほんの少し機嫌が上向いたのは、お酒につられたのかもしれない。
「何してんだ?」
 神直日神は私を見、母を見、見慣れない奴だなという表情を隠すことなく薬袋さんをガン見する。
「一花ちゃん。足の具合は大丈夫ですかな?」
「あ…はい。その……もう少し…我慢します」
 あの2柱を連れて行くのは厳しい。下手に刺激して、須久奈様の蹴りが神直日神を害する可能性があると思うと、胃がキリキリしてくる。
「そういえば、兼継さんに会えましたか?」
「会えました、会えました」
 薬袋さんは怖気に身を震わせながらも、気丈に微笑んだ。
「貴重なお話をたくさん聞けましたよ」
 少しばかり興奮する薬袋さんの横で、須久奈様と神直日神が薬袋さんを見下ろしている。「目を確認したい」「目?」「妖怪が見えるらしい」「それは珍しいな~」「眼鏡が邪魔だ」「じゃ、俺が見てやるよ」と言った具合だ。
 母の顔色は青を通り越して真っ白だ。
 かくいう私も、薬袋さんに相槌を打ちつつ、何度も胸を摩る。
 吐きそう…。
「こんなもの取っ払えばいいだろ?」
 神直日神は言って、躊躇することなく薬袋さんのメガネを抓むと放り投げた。
「はへ!?」
 薬袋さんが素っ頓狂な声で仰け反り、母は凍り付いた。
「お、こいつは妖怪が見えてるっぽいな~。ま、妖怪止まりだけど」
 けたけたと笑う神直日神に、須久奈様は適当に頷いている。
「珍しいっちゃあ珍しいけど、それがどうしたんだ?」
「妖怪を見たらしい…一花と」
 須久奈様の機嫌も持ち直り、どうにか畏れが引き始めたというのに、2柱に視線を向けられて居心地が悪い。
 中座するなら今なのだろう。
 投げ捨てられたメガネを拾い上げ、「豪快に指で弾いちゃったんですか?」とぎこちない笑みで薬袋さんにメガネを差し出す。
 薬袋さんは呆然自失だ。
「も…申し訳ないです…」
 口籠り、受け取ったメガネをかけることなく、じっとメガネを見据えている。
 母は縋るような目で私を見ている。
「それでは、私はここで失礼します」
 ぺこり、と頭を下げる。
 足が痺れているという演技付きで立ち上がれば、「い、一花!大丈夫か?」と須久奈様が飛んで来た。須久奈様が来たら、呼ばなくても神直日神が付いて来る。
 ひょこひょこと、無言のままに退室する。
 薬袋さんから見えない角度まで来ると、急いで台所へと駆け込んだ。
「い、一花…怒ってないか?」
「いえ。怒ってないです」
 ポルターガイストを起こしてしまったのだ。
 怒る以前に、どう説明するのか。母の心境を思うと胃が痛い。
「台所で済みません。座って下さい。お茶で良いですか?」
 そう訊けば、神直日神がドンとボトルを卓上に置く。
「シングルモルトの最高峰と言われるマッカランだ」
 ドヤ顔だけど、須久奈様の頭にクエスチョンマークが飛び交っているが分かる。私も同じだ。シングルモルトが何か分らないし、マッカランというのも分からない。
 ただ、色合いからウイスキーなんだろうとは思う。
 なのに、神直日神は説明を省いて、「グラスをくれ」と椅子に座った。
「須久奈様も座って下さいね」
 デカい図体でうろうろされたら圧迫感が凄いし鬱陶しい、という本音は呑み込む。
 2柱が座ったのを確認してグラスを用意する。洋酒に詳しくはないけど、イメージではウイスキーには氷だろう。
 食器棚の下の抽斗からステンレス製の氷入れアイスペールと、ミニトングを取り出す。冷凍庫から製氷皿を引っ張り出して、氷入れアイスペールに氷を割り入れた。
 ミニトングを突っ込み、「氷もどうぞ」と2柱の前に氷入れを置く。
 あとは肴だろうか…。
 でも、悲しいことに料理スキルはない。冷蔵庫を開いて、つまみになりそうなものを物色する。
 見つけたのは、6Pチーズだ。モッツァレラ、カマンベール、クリームチーズの3種類。
 神様のつまみになるのだから、誰も文句は言わないだろう。
 盛り付けセンスもないので、パッケージごと「チーズもどうぞ」と卓上に置く。
「気が利くな」と言ったのは神直日神だ。須久奈様は早々にウイスキーを口に運び、目を細めて喜んでいる。
「人間は酒造りに長けているよな~」
 嬉々として神直日神が言えば、須久奈様も無言で頷く。
 だから神様は、人に酒造りを教えたのかもしれない。そんなことを考えながら、他に肴になりそうな物がないかと冷蔵庫を物色していると、「そういやぁ」と神直日神が私を見た。
「お前、須久奈に報告したのか?」
 モッツァレラを口に運ぶ神直日神に、須久奈様は眉宇を顰める。
「なんの話だ?」
 須久奈様は不機嫌に神直日神を睨んだ後、困惑顔を私に向けた。
「…一花……何かやらかしたのか?」
「やらかしてません。町内会のゴミ拾いの話です。神直日神様と会ったんですよ」
「そ、それが?」
「舟を見たんですよ。葦舟。ちょうど橋のところで父と立ち話してて。そうしたら、遠くに……えっと…3つ向こうの橋の辺りに舟が見えたんです。ゆっくり流れてて」
「あ…葦舟…」
「それが父には見えなくて…」
 なんだったのだろうと首を傾げると、2柱が苦々しく顔を歪めた。
「い…い、一花…。俺は…に、人間の能力については…そ、それほど詳しくはないが…。普通、3本先の橋の下の舟は見えるものなのか?」
「見えますよ。カヤックくらいの大きさですよ?」
「カ…カヤック?」
「1人ないしは2人乗りの小型の舟だ」
 神直日神がちびちびとウイスキーを口に含みながら説明する。
「い、一花は…葦舟と言った」
「あ、はい。言いました」
「に、人間は、遠目の小さな舟の…材質まで見分けることができるのか?あ…葦なら…色合いから…木材にも見えるだろ?」
「あ」
 言われて初めて、私の視力では、3つ先の橋の下を流れる舟の材質を見分けることが出来ないと気が付いた。下手をすると、舟だと認識するのも難しいかもしれないサイズだ。
 実際、最初は箪笥かと思った。
 どんなに距離があっても、暗闇でも、明瞭と見えるモノは神様だけだ。
「で…でも、舟には誰も乗ってなかったですよ?舟自体が神様ってことですか?」
 狼狽えつつ訊けば、須久奈様は頭を振る。
「い、一花は誤解している。明瞭に見えるのは…お、お俺たち…だけと思ってるが、それは違う」
「神以外もだろ。常世のものは、全て鮮明に把握できるってことだ」と、神直日神が肩を竦める。
「と…常世とこよかすかと書いて幽世かくりよ…もしくは隠れると書いて隠世かくりよ…言い方は様々だけど…要は…し、神域だ。時間の概念はない…。お、俺たち神もいるし…妖怪もいる。…よ、黄泉……つまり、人間の魂が来る…死者の国もある……」
 その説明は聞いたような気がする。
「お…俺も気づかなかったが…一花の目は、常世から流れて来る全てのものが見えているのかもな…」
 私が呆然と立ち尽くすのを見ながら、須久奈様は少し困った顔でウイスキーを飲んだ。
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