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昨日よりは天気が良い。
墨色の雲の隙間から青空がのぞき、光の線が降り注いでいる。
梅雨の晴れ間に心が浮き立ちそうになるけど、不快指数は高い。吹く風は蒸れた熱風で、歩いているだけで、汗が伝い落ちる。
傘を持つかどうか悩んでしまったのは、夕方から天気が崩れると聞いたからだ。
それでも傘を諦めたのは、手ぶらの方が良いと結論に達したから。もちろん、須久奈様は顔を渋らせていたけど、経験則から荷物はない方が良いと説き伏せた。
転倒を考慮して、暑くても丈の長い服をチョイスした。
走るのにストレスがなさそうなワイドパンツに、接触冷感の8分丈Tシャツだ。靴はスニーカー。スマホは壊れるリスクがあるので置いて来た。
荷物はハンカチ一枚。
向かうのは稲荷神社だ。
秋一くんの送迎を嫌がった須久奈様に付き合い、徒歩で向かっている。
私が何度も汗を拭うのに対し、隣を歩く須久奈様は汗一つない。服装は浅葱色の着物に草履だ。色合いは涼やかだけど、私の服の方が生地が薄いと断言できる。
なのに、平然とした顔で、両手に白銀の布に包まれた荷物を抱え、すたすたと歩いている。
「ふぅ」と息を吐いた私に、須久奈様がいつもの心配そうな顔を向ける。
「い…一花。無理してないか?」
気遣わしげに足を止めた須久奈様に倣い、私もゆっくりと足を止めた。
「まぁ、できれば車で行きたかったです。どうせ秋一くんには見えないのに…」
「そ、そうじゃない…」
バツが悪そうな顔で、須久奈様が頭を振る。
「…お、囮のこと。や…止めてもいいんだぞ?」
「止めません」
「だ、だって、無理してるだろ?見てたら分かる…。夜もあまり寝れてなかったみたいだし…」
「確かに…無理してないって言うなら嘘になるけど…」
私は大きく息を吐いた。
深呼吸を繰り返して、須久奈様を見据える。
「相手は神様だから怖いです。めちゃくちゃ無理してます。でも、無理してる気持ちを上回るくらい、須久奈様の御加護を信頼しているので、安心してます」
きっぱりと言い切ると、須久奈様は頬に朱を散らした。
俯き、もじもじ体を揺らし、「へへへっ」と照れ臭そうに笑う。一頻り照れた後、ハッと目を丸めた。
「ち、違う!あ…危うく絆されるとこだった…」と、地団駄を踏む。
「お、俺は、一花が心配なんだ…。む、無理することはない…。俺と…直日が、捕まえればいいだけだから…」
「捕まえられるんですか?」
「……………………じ、時間はかかるけど、問題はない」
神様の時間の概念が分からないから、易々と「分かりました」とは言えない。
しかも、片がつくまで須久奈様と一緒に行動するか、離れに軟禁されるかになる。当然、学校には行けない。
私はゆるく頭を振る。
「もし、私が頑張れば今日で片がつくのなら、須久奈様の言う無理をします」
そう言えば、須久奈様が拗ねたように頬を膨らませる。
「須久奈様が守ってくれるんですよね?」
「あ、当たり前だ!」
須久奈様は叫んで、「や、約束する」と何度も頷く。そしてまた目を丸めると、唇を尖らせた。
「ま、また一花に乗せられた…。ま…守るけど、それとこれは…違うだろ?」
「同じですよ」
須久奈様の腕を掴み、「そんなことより行きましょう」と歩く。
気が乗らなければ動かなければいい。須久奈様が動かないと決めたら、きっと私の力では太刀打ちできない。なのに、須久奈様は引かれるままに歩みを進める。
不貞腐れた顔を見るに、不承不承に納得してくれたのだろう。
「須久奈様。神様の持ち物を興味本位で訊いていいのか分からないんですけど…それが気になって…」
と、須久奈様の手許に視線を向ける。
「あ…こ、これは…榊。か…神楽に使ってもらおうと……く…久久能智の力を宿してる。こ、これで神楽を舞えば、境内くらいは…澱を祓えるはずだ…」
「会えたんですか?」
「あ…会えたわけじゃない。く、久久能智の木から貰ってきた。ちゃんと言伝も頼んだ…」
なんだかんだ言いつつ、須久奈様はちゃんと考えてくれているのだ。
それが嬉しくて、ついつい見つめてしまう。
もっさりヘアの奥で、鳶色の瞳が気恥ずかしそうに泳いだ。
頬を赤らめ、唇を震わせ、そわそわと顔を背ける。
「な…な、何?…あ、あんまり…注視するなよ……は、は、恥ずかしいだろ……」
耳まで真っ赤だ。
「百花ちゃんたちと話してたんですけど、須久奈様って恥ずかしがり屋とは少し違いますよね?顔を見られるのが好きじゃないのは分かるんですけど、相手による感じですか?」
そっと手を伸ばし、須久奈様の髪に触れる。
指先で前髪を横に流せば、潤んだ瞳が非難する。
嫌なら怒ればいいのに、されるがままにさせてくれる。
「じ…自分の顔は好きじゃないから…。なんか…俺の顔見ると…殆どの奴が避けるんだ…。たまに寄って来るのは気が強い女神とか…何考えてる分からない女神とか…。だ、だから…顔を隠すようしてる」
それは顔が良いからだ。
「寄って来るのは女性の神様ばっかりなんですね。男性の神様は神直日神だけですか?」
「あれは…昔、宴席で酒を与えたら懐かれた…」
須久奈様が苦々しく顔を顰めた。
「男は……俺の苦手な奴ばっかりが寄って来る。初対面なのに…か、肩組んで来たり…大声で笑ったり喋ったり……酒宴ばかりしてる。…あいつら嫌い」
頭の中にホストに絡まれ、萎縮している須久奈様が浮かんでしまうのはなぜだろうか。
「た…たぶん、俺を揶揄って笑ってるんだ…。お…お、俺が根暗で……醜男だから…みんな馬鹿にしてる…。だから…俺は自分の顔が嫌い。見られたくない…」
「醜男じゃないですよ。須久奈様の顔、私は好きですよ?」
じっと須久奈様を見つめれば、須久奈様は真っ赤な顔を俯かせた。
まぁ、身長差があるので、俯いた顔は隠せていない。むしろ、より見えるようになった。両手に荷物を抱えているので、袖で顔を隠すこともできない。だったら足を速めて私を振り切ればいいのに、それもしない。
暑さでは汗一つ掻かないのに、今はだらだらと汗を流し、猫背になって「あ…」とか「う…」とかしどろもどろに唸っている。
「須久奈様ってイケメンですよ。だから周りが気後れするんです。で、自分に絶対的な自信がある強気の女性は集まちゃう」
「…イケメン?」
須久奈様が首を傾げた。
難解な言葉だとばかりに眉根を寄せている。
「顔が良いって意味ですよ。イケメン」
須久奈様は驚いたように目を丸め、ずいっと私の顔を覗き込んできた。
近い!
思わず飛び退いてしまう至近距離だ。
「…イケメン?」
「そ、そうですね。顔は良いです。そして、近いです」
須久奈様の顔を両手で押し返す。
私から見られるのはダメな癖に、自分からはOKなのは意味が分からない。須久奈様のパーソナルスペースは斑がありすぎる。
「ほら、行きますよ。歩いて、歩いて」
赤らんだ顔を見られたくなくて、須久奈様から手を放して早歩きになる。
須久奈様が慌てて隣に並んだ。
「い、一花は俺の顔が好きなのか?だ、だ、だから…俺の顔をよく見てる?お、俺の顔が好きだから?」
殆ど駆け足なのに、須久奈様は息切れもなく並走する。
前なんて見ていない。ずっと私の顔を見て、「へへへっ」と不気味に笑っているから怖い。
笑顔が怖いし、しつこい!
振り切る勢いで駆けても、出来るはずもない。
ぜぇぜぇ、と肩で息をして、頬を伝う汗を拭う。
目の前は川だ。川を渡った先に、稲荷神社へと繋がる林道が見える。なのに、豪雨で被害に遭った橋は撤去されたままなので渡れない。稲荷神社へ行くには迂回しなければならないのに、須久奈様に気を取られて見当違いの場所に来てしまっている。
痛恨のミスに、残りの体力までが萎んでしまう。
膝に手を当て、乱れた呼吸を整え、五月蠅い視線に顔を顰める。
ゆっくりと隣を見上げれば、期待を込めた目と目が合う。
「…………そうですね。須久奈様の顔、好きです…」
「い、一花!」
汗だくで、目が死んでる私がどう見えてるのか、須久奈様は腰をくねらせ照れている。
笑い方も気持ち悪ければ、照れ方も気持ち悪いのに、好きだと自覚してしまえば全てが可愛く見える。一応は気持ち悪いと認識できているのに不思議だ。
頬と項の汗を拭って、心臓を軽く叩きながら背筋を伸ばす。
「迂回しなきゃダメですね」
暗鬱としたため気が漏れる。
川沿いにいるというのに、涼しさは感じられない。生温い風に体力を削がれていく。
体力回復までの間、川の向こうを眺めていれば、白い軽トラックが2台、大掛かりな荷物を積んで林道を上って行った。神楽の準備が着々と行われているようだ。
母と百花は、朝は公民館で稽古をしていた。お昼に一旦帰って来た百花は、巫女装束に着替えて稲荷神社へと向かった。母は帰って来なかった。公民館の調理場で、婦人会の仕事にシフトしたということだ。
「須久奈様はどこで待機しているんですか?学校?」
「……もう少し…神社寄り…」
そう言う顔は、まだ踏ん切りがついていないようだ。
「…いつでも、すぐに助けられるように……で、でも、荒魂に察知されないように……見守ってる」
納得していない。そんな顔だ。
「今回は御守りはないんですよね?」
「わ…悪い…。今回は…祓わなければならないから……符を使うと…退けてしまって……そ、その…好ましくないんだ…」
「大丈夫です。ちゃんと言われた通りに逃げます」
ぐっと拳を握ると、須久奈様が不安げに眉尻を下げる。
逃げ込む場所は、障害物のない学校のグラウンドだ。
そこに荒魂を誘い込み、2柱が挟み込む手筈になっている。
「須久奈様。私が学校に着く前に出て来ちゃダメですよ」
「………………………………が、が、が、が頑張る」
須久奈様は歯噛みして、地団駄を踏み、なんとか言葉を吐きだした。
「それじゃあ、行きましょうか」
「い、一花…待って。これ持って」
ずいっと榊を差し出してくる。
「ん」と強引に突き出す榊を無下にも出来ず、両手で抱えるように持つ。
心なしか、両手から清爽とした気配が全身に巡った気がした。
ひんやりと滑らかな白銀の布が、心地良い錯覚を与えてくれたのかもしれない。
「これってシルクですか?すごく手触りが良い」
「そ…それは特別な絹だから…」
須久奈様は言って、腰を屈めたかと思うと私の膝裏と背中に手を当て、一気に掬い上げた。
突然の浮遊感と、目と鼻の先にある須久奈様の顔に絶句する。
誰もが一度は憧れたことがあるかもしれないお姫様抱っこだ。
ただ、これは望ましくない。
胸キュンでも萌えでもない。
これは第三者の目から見て、私はどう映っているのだろうかと想像して血の気が引く。怪異かイリュージョンか…。得体の知れない心霊現象として写真を撮られ、SNSで拡散されようものなら二度と表を歩けない。
そんな私の心情など些末なことなのだろう。
須久奈様は 着物が肌蹴るのも厭わず、大胆にも転落防止のガードレールに足を掛けた。
そのままガードレールを足掛かりに、思いっきりジャンプする。
空を飛ぶ感覚は、憧れとは程遠い恐怖だ。
「ぎゃぁあああ!」と叫んでしまうのは仕方ない。女の子らしい可愛い悲鳴なんて、そんなのはドラマや映画の女優しか出せない。実際に恐怖を体験すれば、絹を裂くようなとは無縁の声が出る。
「高い!」
榊を落とさないように抱えつつ、須久奈様の衿を握りしめる。
視線を落とせば、流れこそ穏やかなものの水嵩が増し、濁り切った川に恐怖が込み上げる。
須久奈様は対岸のガードレールを軽く蹴ると、軽やかに地面に着地した。
「…一花……高いとこ苦手だった?」
「私も…今、知りました…」
心臓がばくばくと早鐘を打っている。
強張った顔を俯けて、ゆっくりと呼吸を整えていると、須久奈様が「あ」と声を上げた。
「そ、そうだった。…昔、一花が…木に登って、下りられなくなって…泣いてたな」
「泣いてないです!そもそも、なんで須久奈様が知ってるんですか?」
「べ、別に…日中だって外に出てるし…。あんなに大声で泣いてたら…見たくなるだろ?」
須久奈様は「猿みたいだった」と笑った。
失礼にもほどがあるが、まさか、誓志の予想が当たっていたというのは恐ろしい。
「須久奈様はいつから私を見ていたんですか?」
素朴な疑問を投げれば、須久奈様は丸々と目を見開き、真っ赤になった顔を背けた。
「私のこと、ちゃんと認識してたんですね」
ちんちくりんなんて呼ぶから、てっきり次女がいるとしか認識されていないのかと思った。
須久奈様は上気した顔で、何か言いたげに口を動かしていたけど、それが言葉になることはなかった。
「須久奈様。そろそろ下ろしてくれませんか?」
目の前の通りには、普通に車が走っているのだ。
台数は少ないし、不思議そうにこちらに目を向けている人がいないのは、私の姿は見えていないということなのだろう。それでも、色々と落ち着かない。
なのに、須久奈様は「嫌だ」とそっぽを向いた。
「こ…こっちの方が…楽だろ?…この方が速いし…」
須久奈様は言って、すたすたと道路を渡る。
「至近距離から私に見られてもいいんですか?」
嘆息交じりに言えば、「いい!」と叫ぶ。
上気した顔で喘ぎ、「い、一花なら…許す」と緊張の汗を掻いている。
挙動不審に視線を泳がせ、須久奈様は躊躇いなく林の中に足を踏み入れた。
「須久奈様。道は向こうにあるんですよ?」
林道の方向を指さすのに、須久奈様は頭を振る。
「…人が行き来する場所はあまり通りたくない。…こっちの選択肢があるなら…こっちがいい」
「でも、歩き難いですよ?」
「ん……ぞ、草履はダメになる…かな?あと…着物が汚れるか…。さ、早百合が五月蠅いかも」と、須久奈様は眉を八の字にする。
アスファルトだろうが、茫々と生えた草だろうが、須久奈様には関係ないらしい。着物と草履という出で立ちすら、ハンデにならない。てくてくと、難なく歩を進めている。
鬱蒼とした杉林は、数歩入り込んだだけで薄暗くなる。
降り続いた雨を十二分に吸収しているのか、濃い緑や土の匂いが充満している。杉の葉から、ぽたぽたと雫が落ち、腐葉土から蒸れた空気が湧き立つ。
まさに噎せ返すような濃厚な山の匂いだ。
なのに、生き物の気配がない。名前も知らない雑草が、晩秋でも迎えたように色を失っている。
藪蚊が寄ってくることも、緑の奥に隠れた小鳥が囀ることもない。
怯みながら須久奈様を見る。
「ここは…普通なんですよね?」
「普通?」
須久奈様はきょとんと首を傾げた後、思い至ったように「ああ」と頷いた。
「そ、そう。神域じゃない。生き物の気配が希薄なのは、澱の影響だ。に…人間より、動物の方が敏感だから…逃げたんだろ」
それはそれで怖い。
私が縮こまっている間も、須久奈様は下草を踏みつけ、腐葉土に足を取られることもなく、軽快な足取りで斜面を登る。倒木や岩なんかの足場があれば、それを足掛かりに忍者のようにジャンプするのだ。あまり高く飛ばないのは、私に配慮してるのかもしれない。それが理由で、着物や草履をダメにしているのなら恐縮してしまう。
木々の合間から稲荷神社の手前に植えられた躑躅の群生が見えた。その先に白い軽トラックが止まり、人影が行き来しているのが分かる。軽やかな笛や笙の音と、手平鉦のシャラシャラと金属を擦り合わせた音が聞こえる。手平鉦はシンバルのような形の楽器で、小気味いい音を奏でる。
それぞれが音を確認しているのか、ばらばらなリズムに鼓も加わった。
「百花ちゃんの舞、須久奈様も見たかったんじゃない?すごく上手いんだから」
「…見たことはある。か…神楽の奉納の際は…遠くから見てる…」
須久奈様が苦笑した。
「い…一花は舞が苦手って話してたな。春は…仮病を使ったろ?…小さい頃から…苦行って…顔してたよな」
悲しむでも、怒るでもない、事実を言っているだけの口調だ。
「本当に小さい頃から私のことを見てたんですね。須久奈様って、いつから私が好きなんですか?」
さらっと訊けば、須久奈様の足がぴたりと止まった。
真っ赤な顔で私を見下ろし、口元をもぞもぞと動かしている。鬱陶しい前髪の下から覗く目は潤んで、パニック一歩手前の様子を呈している。
「い、言っておくが…俺に幼女趣味はないからなっ」
それは少し疑ったけど、黙っておく。
「い…一花は…目を離すと危ないことばかりしてから…見張ってたんだ」
見守るではなく、見張ると言ってしまうほど、子供の頃の私はダメだったのだろう。
「…木に登るし…稲荷で肝試しをするし……な、何度か攫われそうにもなったんだ…」
「え?」
衝撃の事実に、思わず固まってしまう。
「一花は…誰彼構わず目を合わす。人間なのか、そうじゃないのかの判断がつかないのに、警戒心がなかった。人懐っこいと言えば聞こえは良いが……思慮が足りなかったんだ。あ、姉は、そこを弁えていた。伏し目がちに、不用意に目が合わぬようにしていた…」
つまり、私はバカだったということだ。
ぐぅ、と言葉に詰まる私に、須久奈様は眉尻を下げた。
「い、今もそうだろ?い、一花は…真っすぐに目を見てくる」
と、私の顔を覗き込む。
息がかかるほどの間近で、じっと私を見つめる目に挙動不審さはない。
まるで須久奈様の照れが私にうつったみたいに、緊張に心臓が早鐘を打ち、頬に熱が込み上げる。頭の中がぐるぐると回り、前髪の隙間から覗く鳶色の瞳から目を離せなくなる。
少しでも動いたら、鼻先が触れ合いそうだ。
イケメンは3日で飽きるなんていうのは嘘だ。心臓が口から飛び出すほど大きく跳ねているし、そわそわが止まらなくなる。
「ほ…ほら、逸らさない」
呆れ混じれの嘆息で、須久奈様は徐に頭を上げた。
私としては「え?」だ。
キスされるのかとドキドキしたのに、「目、逸らせよ」と唇を尖らせている。
「馬鹿正直に…目、見るなよ。…き、危機感ないのか?だから、攫われそうになるし…こ、今回みたいに目をつけられるんだ…。その目は…貴重なんだ…。自覚しろよ…」
ぶつぶつぶつぶつ…聞き取れるかどうかの微妙な声量で小言を呟き、ため息を吐いている。
一瞬にして、頬に集まった熱が霧散した。
「そうですね。以後、気を付けます。須久奈様を見るのも、視界の隅に留めるくらいの距離感にしておきます」
「なんでだよ!お、俺は良いの!」
「だから目を逸らさなかったんですよ。それを逸らせなんて言っているのは須久奈様です」
「や……う……そ、そうか…。そうだな。矛盾してた……」
須久奈様がしゅんとする。
微かに潤んだ瞳で見つめられると、嫌味な抗議が口の中で消えてしまう。
私はこのチワワ顔に弱い。
「…い…一花……そ…その…怒ってる?」
「怒ってません」
ゆるく頭を振って、ため息を嚥下する。
「ただ、須久奈様は距離感を間違ってます」
「きょ、距離感?」
須久奈様は、意味が分からないと首を傾げた。
「あんなに至近距離で見つめられたら、普通はキスされると思うんです」
「…キス?」
きょとんと目を丸めて、「な…なんだそれ?」と首を捻る。
「須久奈様って、本当に横文字がダメですね。キスっていうのは、こういうことです」
早口に言って、首を伸ばして須久奈様の頬にキスをした。
口ではなく頬なので、ファーストキスじゃない。外国だと、挨拶と同意だと聞くけど……心臓が痛いくらいに五月蠅い。
須久奈様は見る間に真っ赤に染まる。顔や耳だけじゃなく、首も真っ赤だ。汗を掻き、挙動不審に視線が泳いで、そわそわと頭を左右に揺らしたかと思うと、私の頬にキスを落とした。
キスされた頬に手を当てて須久奈様を見れば、「へへへ…」と気恥ずかしそうに笑っている。
キスをされて初めて、キスはするのとされるのとでは全く違うのだと知った。頬に残る唇の感触に、猛烈な恥ずかしさが込み上げる。
「一応…言っておきますが…。外でキスしたら怒ります」
「わ、分かった」
須久奈様はご機嫌に頷き、「ふ、ふたりの時にする」と破顔する。
きらきらとエフェクトがかかった笑顔に、眩暈を覚える。
好きを自覚したら、この顔面偏差値の高さは一種の凶器だ。なんでも許してしまいそうになるけど、線引きを忘れてはいけない。後々苦労するのは目に見えている。
「須久奈様。キスは力づくはダメです。私が寝てる時もダメです。口もダメです」
「…駄目なの多いな」
「じゃあ、全部ダメです」
「お、多くない!分かった。約束する…!」
須久奈様はかくかく頷きながら、「だったら…」と潤んだ瞳で私を見る。
「ぜ、全部終わったら、いっぱいキスしてほしい。あ、あと!頭も撫でて…」
「いっぱいは恥ずかしいけど…分かりました」
「や…約束だからな」
須久奈様は擽ったそうに口元を緩め、もじもじと体を揺らす。
足場は苔生した倒木だ。
足を滑らせれば、急斜面を転落する。さすがに転落することはないとは思うけど、怖いものは怖い。
「須久奈様!早く行きましょう!」
「そ、そうだな。へへへっ…早く終わらせないとな…」
須久奈様は左右に揺らしていた体を止めると、斜面を見上げた。足場を確認するように周囲に視線を走らせると、軽快にジャンプする。倒木や切り株、岩を足場に、簡単に登って行く。
斜面を登り終えると林を抜けた。林道を横断し、再び林の中に飛び込む。下草を蹴散らし、撓る枝を手折り、林の奥へと突き進むと、木々の合間に板塀に囲われた朱塗りの建物が見えた。
神社に近づくと、杉林が途切れる。
万が一にも社殿に倒木しないようにしているのか、伐採された切り株が広がる。
日差しを遮るものがない分、雑草の育ちがいい。蔦草がうねり、ヘビやトカゲが潜んでいそうな暗がりが地面に広がっている。
須久奈様は軽やかにジャンプし、次々と切り株の上を進む。
「もしかして、塞の神様を見に来たんですか?」
「そ…そう」
須久奈様は頷き、足を止めた。
「あそこ…」と、須久奈様の視線が板塀の角に向けられる。
「本殿の裏手にある」
「秋一くんから聞きました。あ、秋一くんって言うのは、百花ちゃんの好きな人で、蔵人です。昔、塞の神様を見たんだって言ってました。車くらいある、大きな岩。そんな岩を、わざわざ塀の内側まで移動させたんですか?」
もしくは、たまたま岩があったのか。
須久奈様を見れば、須久奈様を苦笑しながら頭を振った。
「む…昔は、社殿なんてなかったんだ。一花が言う…神木」
と、社殿の奥に聳える大杉を見つめる。
「ここの稲荷は神木…神籬が始まりだったんだ。…今みたいに…大木じゃなかったけど……し、注連縄を巻いて……稲荷神を祀ってた」
「社とかじゃないんですね」
「…貧しい村だったから……い、今でこそ、林業が盛んだけど……昔は木も疎らだった。昔は、何かと言うと木をいっぱい使う。家を建て、火を熾し、舟を作る。炭を作るのも…陶器を作る窯にも…大量の木がいるから。次々に伐採するんだ…。さらに大木を…町に売ったりしてたから……当時、比較的大きかった杉を…神籬にした」
「昔は、今以上に自然豊かなのかと思ってました」
私が言えば、須久奈様は苦笑しながら頭を振った。
「こ、ここは…陶芸の村が点在してたし…酒蔵や味噌蔵もあった。陶芸は焼きに大量の薪が必要だし、蔵は木樽が必要だから、木樽の職人は、こぞって良質な木を求めたんだ。…ひと山越えた先には蹈鞴場もあったから悲惨だった。燃料となる木は…伐採された…。それで、諍いが起こるのも珍しくなかった…。蹈鞴をする村は…それが生きる糧だけど……そうじゃない村は、山を荒らされ、獣がいなくなると憤る。砂鉄よりも木の方が…価値が高かったくらいだ…」
「だから今みたいな神社はなかったんですね」
「そ…そう。江戸の終わりくらいに、神籬の傍らに小さな社が建ったんだ。ヤサカの処のより小さくて、みすぼらしいの…。禿山に植林した杉や栗、明日桧…今は杉ばかりだけど…昔は杉以外にも…寺社の木材に必要な木を植えてたんだ…。それが育った頃……大正くらい?…塞の神を封じる…二重結界の意味も込めて社殿を造営させた…」
塞の神様を封じ込める意味で、社殿が造られたというのに驚く。
「宇迦之御魂神が祭神だと思ってました」
「宇迦之御魂は祭神だ。社殿を造るのを提案したのは、宇迦之御魂なんだ…。ただ、ここは元々が神籬が始まりだったからな…。神籬が無事なら…別に良いというのも、俺たちの考えだ」
そんな大切な木を人が穢したのだ。
心が重く沈む。
「御神木は今も穢れてるんですか?」
「い、いや…あれから…久久能智が何度か戻って来てる。そ、それでも…以前のような清浄さはない。久久能智が見捨てないのも…俺や…宇迦之御魂に気を使ってるのかもしれないな…」
須久奈様が小さく息を吐いた。
弱々しく眉尻を下げ、どこか悲しそうに御神木を見つめている。
「…行くか」と、須久奈様の視線が社殿へと向かう。
切り株の上をジャンプし、板塀の手前に広がる紅色の絨毯の上に飛び降りた。
夾竹桃だ。
本来なら鮮やかに咲き誇っている季節なのに、全て落花している。落ちた花からは甘い腐敗臭とも、発酵臭ともつかない臭いが立ち込め、目が回りそうになる。
「瘴気が強いんだ…」
須久奈様は言って、「でも」と私の顔を覗き込む。
「い…一花は大丈夫。俺と一緒にいる時間が長いから…瘴気に中てられることはない」
「私以外は?」
「…厳しいかもな…」
それには母や百花も含まれるのだろうか?
怖くて訊けない。
須久奈様はゆっくりと板塀を見上げると、助走もなく、2メートル近い板塀を楽々と飛び越える。
初めて侵入した内側は、須久奈様に寄り添っていてもゾクゾクと怖気を走らせる禍々しさがあった。
陰湿な薄暗さに、生臭い腐敗臭が漂っている。本殿の朱塗りの外壁には、ぽつぽつと黒い染みが沸き、地面には小さな虫の死骸が無数に転がる。
悍ましさに「ひっ」と悲鳴が零れ、須久奈様の衿を握りしめてしまう。
虫一匹でも腰が引けるのに、地面が黒ずむほどの虫が死んでいるのだ。生理的嫌悪だけではなく、本能的な恐怖が肌を粟立てる。
片や、須久奈様には嫌悪感というものがないらしい。躊躇なく、死骸をじゃりじゃりと踏みつけて歩く。
ここの神社は小さいながらに、宇迦之御魂神を祀る本殿。本殿と拝殿を結び、祭儀、幣帛を奉納する幣殿。祭祀、拝礼を行う拝殿が造られている。
参拝者から見れば、拝殿が手前になる。1メートルほどの渡り廊下を区切りに、幣殿、本殿へと続く。
塞の神様は本殿の裏手の隅、南天の木の側に鎮座していた。
秋一くんの言ったとおり、車一台分の大きさがある。
ただ、中央から真っ二つに割れ、千切れた注連縄の残骸が散っている。その見た目だけでも恐ろしいのに、岩の周りには干からびた蚯蚓が大量に死んでいる。
兼継さんが騒いだのも当然だ。
須久奈様は沈痛の面持ちで「ああ…」と声を零した。
「やはり俺が…放置してしまったから…。もっと気に掛けていたら……頻繁に様子を見に来ていたら…術をかけ直していたら……後悔が尽きないな」
自嘲する。
須久奈様は気性が荒いところがあるけど、根っこは優しい神様だ。責任を感じる必要性はないのに、ぱっくりと割れた大岩にショックを受けている。
「須久奈様。ここは怖いです。出ましょう」
「あ…ああ、そうだな。い、一花の気分が悪くなるといけない…」
須久奈様は言って、板塀を飛び越えた。
夾竹桃の甘い腐敗臭が芳香に思えるほど、板塀の向こうは最悪だった。何度も深呼吸を繰り返し、鼻にこびり付く臭いを吐き出す。
須久奈様は板塀に沿って歩き、夾竹桃や山茶花の茂みを、跳ね返る枝葉に注意しながら進む。山茶花なんて毛虫の発生源なのに、毛虫は全て地面に転がり、枝葉には一匹もいない。
虫の死骸を見た時は、反射的に気持ち悪いと思ったけど、徐々に恐怖心が上回る。
胸を摩り、吐き気をやり過ごす。
ぴたり、と須久奈様の足が止まったのは、躑躅や紫陽花の茂みの前だ。
残念ながら、瘴気に中てられた紫陽花は色を無くし、力なく項垂れている。躑躅の葉も晩秋のようだ。
この茂みは、神社の境界線の意味がある。ここから外に飛び出すと、斜面になっているので危ないという目印だ。つまり、私たちの後ろは斜面になっている。
私たちから見て右手に社殿、左手に神楽殿がある。
2棟の間を、竹箒を手にした人たちが行き来する。他にも小石を拾う人もいれば、草を抜く人もいる。
誰もがマスクをし、胸を摩り、言葉を発することなく黙々と作業を行っている。無理をして作業しているのが、遠くからでも分かる。覚束ない足取りで、拝殿に寄り添うように腰を下ろす人もいるくらいだ。
神楽殿に目を向ければ、照明の設置作業を行っているのだろう。延長コードや発電機なんかのごちゃごちゃした機材が見える。
私たちの位置からは、神楽殿は半分しか見えない。
神楽殿には神輿収納庫も設えてあるので、上から見た形は”呂”に近い。位置的に神輿収納庫が邪魔で、神楽殿を細部まで見渡せないのだ。特に雅楽の定位置は、完全な死角だ。
「百花ちゃんは休憩中なのかも」
雅楽の音もしない。
「あ、須久奈様。ここで大丈夫です」
「で、でも…」と、須久奈様は渋い顔だ。
しばらく唸って、ため息を吐いて、観念したように下ろしてくれた。
「い…い、一花……」
「大丈夫です。ほら、あそこ」
ひょっこりと拝殿前に現れたのは、不審者さながらに周囲を探っている誓志だ。動きやすい服をチョイスした結果がジャージなのだから誓志らしい。
「すごく不安だ…」
須久奈様が顔を顰める。
「誓志は心強いですよ」
苦笑が零れる。
それから須久奈様の汚れた足元に視線を落とす。
膝の辺りまで泥が跳ねている。白い足袋は真っ黒で、草履は廃棄を考えた方が良さそうな傷み具合に見える。よく見れば、木の枝で引っ掛けたのか、着物の袖下に解れがある。
「帰ったらお風呂の準備をしますね」
「……ん」と、須久奈様が頷いた。
不安で不安で堪らないと言いたげな双眸は、私をじっと見つめた後、「これ…」と衿元から紙を2枚取り出した。
10cmほどの大きさに切られた紙人形だ。半紙で作られた紙人形は、胴体部分に奇妙な文字が描かれている。
「早百合と…姉に。息を吹きかけて、持っているように言ってくれ…。折ってはいけない…。悪いものを、1度だけ跳ね返す…。み、身代わりになるんだ…」
私は紙人形を受け取り、絹の隙間に滑り込ませる。
「い…一花っ……怖くなったら…俺を呼んで。すぐに駆け付けるからっ」
「分かりました。ダメそうなら、須久奈様の名前を叫びます」
不安顔の須久奈様に頭を下げ、「行って来ます」と、榊を胸に抱え直して茂みに飛び込んだ。
ばりばりと躑躅の中を突き進み、茂みを抜けると、誓志が駆け寄って来ているのが見えた。後ろに振り返っても、そこには須久奈様はいなかった。
不安いっぱいの顔をしていたのに、撤退が早すぎる…。
心細さに心臓が震える。
名前を呼べば引き返してくれるだろうけど、それはしてはダメなことだ。私が叫んだ時点で、須久奈様は計画を白紙にする。そして、問答無用で離れに軟禁だ。
「イチ姉!」
息を上げた誓志が、手を振りながら駆けて来る。
「お待たせ」
「須久奈様は?」
「もう行ったみたい」
そう言えば、誓志が肩を落とした。
須久奈様がいなくて安心したというよりは、がっかりしたと言った感じだ。
「あんた、須久奈様のことを怖いって言ってたのに会いたかったの?」
「そりゃあね…。めちゃくちゃ怖いけどさ、こういう場所だと安心感っていうか…心強さが違うよ」
誓志は胸を摩り、青い顔で周囲を見渡す。
「具合悪そうだけど大丈夫?」
すぐ近くに虫の死骸だらけの、真っ二つになった塞の神様がある。
私以外は瘴気に中てられると言っていたけど、それは言葉の通りに”私以外”なのだ。誓志は「大丈夫」と深呼吸を繰り返し、胸を落ち着けてはいるけど、万全とは言えない顔色だ。
「無理はしないでね」
「分かってるって」
「だったらいいけど…」
心配は尽きない。
私はため息を呑み込み、百花がいないかと神楽殿を覗く。
神楽殿には誰もいない。隅の方に、白い敷き布を広げ、雅楽の道具や火鉢を置いてあるだけだ。
境内は町内会の人達が、入れ替わり立ち替わりで作業を続けているけど、和装の人は誰もいない。
消防団の法被を着た人は、篝火の配置の他に、水の張ったバケツと消火器を運び込んでいる。
神楽殿の手前。参道を避けるように、4つの木製の台が置かれている。台の大きさは畳2畳分。その上に、座布団を敷き、宴席の準備を整えている。
百花の言っていた宴会とは、打ち上げではなく、神様を持て成す酒席の意味だったのだ。神様がいるものとして酌をし、平伏し、夜を明かす。所謂、エア接待だ。その間も、休憩を挟みながら神楽は続くのだから、体力と精神力のいる神事だ。夜には雨が降ることを想定して、町内会の文字がプリントされたテントを運び込んでいる。
簡易的な指示が飛び、黙々と手を動かす。誰も無駄口を叩かない。というより、叩けないほどに疲弊している。咳き込んでは少し休み、作業を再開するの繰り返しだ。
その緊張感と濃厚な澱が漂う空間に目眩がする。
「百花ちゃんって何処にいるか分かる?」
「駐車場でみんな休んでる」
駐車場は拝殿から伸びる参道を辿った先にある。
鳥居を抜け、一段下がった広場を臨時の駐車場に使っている。広場と言っても、それほど広くはない。普通乗用車が5台も止まれば満車だ。なので、駐車場に停まる車はワンボックスが2台とセダンが1台だ。なるべく大きな車で、みんな一緒に乗って来ている。
みんなというのは、神楽の関係者だ。
それ以外の人たちの車は、林道に縦列駐車されている。林道は日常的に使われる道ではない。頻繁に使うのは森林組合くらいだから、そっちにさえ連絡を入れておけば問題はない。問題があるとすれば、神事が終わって帰路につく際、少しばかり梃子摺るくらいだ。
百花たちは、駐車場の空きスペースにキャンプ用の椅子を並べて座っていた。
「百花ちゃん」
声をかけると、百花が喜びと不安を綯い交ぜにした顔で立ち上がった。
今は白衣に緋袴。黒髪はポニーテールに纏めているけど、本番では千早を纏い、髪を結いあげて花簪を飾る。
「一花ちゃん来てたのね」
百花は駆け寄り、周囲を伺う。
「須久奈様ならいないわよ」
学校の方角を指させば、百花は今にも恐怖が爆発しそうな顔で唇を噛んだ。
実際、全身に恐怖を感じているのだろう。メイクで誤魔化してはいるけど、それでも顔色の悪さが分かる。指先も小刻みに震え、穢れてしまった空気を否が応でも感じている。
「叫んだら飛んで来ると思うけど、試してみる?」
冗談めかして言えば、誓志が「笑えねぇ」と呟く。
「お母さんはまだ?」
「そう。町内会の人たちと食事の準備中よ。みんなの分を用意しなくちゃいけないでしょ?」
「いっぱい食べなきゃ朝まで持たないもんね」
私は苦笑し、物静かに椅子に座る面々を盗み見る。
咳こそしていないけど、みんな顔色が悪い。それに比べれば、万全と言えなくても百花も誓志も気力が残っている方だ。
それは私たちが久瀬家で、須久奈様の加護を受けているからだ。
ただ、私と比べれば、明らかに2人のダメージは重い。
「百花ちゃん。須久奈様から預かりものがあるの」
私は絹から、紙人形を取り出した。
「御守り。1度だけ身代わりになってくれるんだって。百花ちゃんとお母さんによ。それに息を吹きかけて持ってること。折っちゃダメだって言ってた」
紙人形を手渡すと、百花は嬉しそうに微笑んだ。
「これだけで随分と気持ちが楽になるわ」
「それだけじゃないの」と、絹に包まった榊を百花に差し出す。
「神楽鈴を使ってたら悪いんだけど…榊に交換して」
「これは?」
百花は紙人形を衿元に仕舞うと、首を傾げて榊を受け取った。
滑らかな絹に指を滑らせた後、丁寧に絹を捲る。
現れた榊は、普段目にする榊とは異なった瑞々しさがある。まるで夜露に濡れたような肉厚な葉は、深碧に輝いている。そして、深碧の中に鈴なりに真珠のような白い花が咲く。
百花だけでなく、誓志までもが息を呑んだ。
かくいう私も、榊の神々しさに魅入ってしまった。
この榊は現世のものじゃないのは一目瞭然だ。
「須久奈様が百花ちゃんにって。久久能智神の榊だって…。この榊で神社の澱は祓えるだろうからって」
榊から目が離せなくて、呆けた声で答える。
「神聖な感じがする…。見てるだけで、なんか気分が良くなる感じ」
誓志が感嘆の息を漏らす。
百花に至っては、感涙に目を潤ませている。青白かった顔にも朱が戻り、「ご期待に添えなきゃ」と嗚咽を噛んだ。
「2人とも。練習だけど、神楽を見てくれる?」
百花は丁寧に榊を絹に包むと、神楽殿へと歩き出す。
私たちも百花の後に続く。
鳥居の前で一礼し、参道の端を歩く。
後ろから見ても、百花の歩き方は楚々として綺麗だ。背筋が真っすぐで、芯がぶれない。一点を見つめているのか、頭を左右に傾げることもない。サッ、サッ、と草履が石畳を擦る音も、どこか耳障りが良い。
「百花ちゃん。まずは御神木に挨拶をしよう。久久能智神の宿る木だもの。榊のお礼をしなくちゃ」
「そうね」
御神木は神輿収納庫に側だ。
鳥居を潜り、赤い前掛けを掛けた狐の像を通り過ぎる。正面に拝殿があり、神楽殿は拝殿の左手前に位置する。私たちから見れば右手だ。神輿収納庫は神楽殿と繋がっているので、狐の像を過ぎれば自然と目に入る。
御神木は幹回り5メートルの大杉だ。樹齢500年ほどと言われる大杉は注連縄を飾り、榊に酒、米、野菜を供えられている。
百花は御神木の前で足を止めると、絹を捲り、恭しく榊を御神木へ掲げた。
「久久能智神様。ご厚情、心より感謝申し上げます」
私と誓志は並んで頭を下げ、「ありがとうございます!」と声を合わせる。
百花が頭を上げ、ほっと息を吐いた。その顔もすぐに緊張し、神楽殿へと向かう。
「この榊を手にしていると、それだけで穢れが祓われているのが分かるわ」
それは榊を百花に手渡した時、私も感じた。
まるで自分から清浄な空気が百花に移ったような感覚だ。
百花が踏み台を使って神楽殿に上がると、作業をしていた人たちが手を止めた。百花は腰を落とし、膝の上に絹の包みを置くと榊を取る。片手に榊を持ち、もう片方の手で絹を器用に四つ折りにすると、その上に紙人形を置いた。最後にもうひと折りして、衿元に仕舞う。
そして、両手で榊を持つと静かに立ち上がり、社殿へ向けて頭を下げた。
「百花ちゃんが練習するよ」との掛け声で、みんなが休憩とばかりに神楽殿に集まって来る。
「誓志。私たちは少し離れた所で見よう」
「分かった…」
誓志は緊張に顔を強張らせ、周囲に視線を巡らせる。
「もしかして、もういたりする?」
「まだ。いつ出て来てもいいように距離を取っておこうかなって。たぶん、参道は無理だからその茂みを突き抜けて、道路に出る」
須久奈様のように林の中を突き進むことはできないから、どうしても道路に出て、下り坂を駆け下りなければならない。一度でも転倒したらアウトだ。
坂を駆け下りたら、学校までは1キロほどだろうか。
長距離走は苦手だけど、ペースを守れば走り抜けられる距離だ。当然のように信号を待つ暇はないから、場合によっては迂回ルートになる。
「火事場の馬鹿力って言うし、それに賭けよう」
「そんな不確かなものを計算に入れるなよな。イチ姉に何かあれば、正真正銘の天罰が下されるんだぞ。俺はちゃんと自転車で来てるから、2人乗りで飛ばす」
「警察に追いかけられたりして」
私が笑うと、誓志が顔を顰めた。
「もっとヤバイもんに追われてるのに、警察なんか可愛いもんだよ」
誓志は言って、桜の木の根元に腰を下ろした。
頬杖をついて、百花の舞を見ている。
私は隣に立ったまま、百花を見守る。
相変わらず姿勢が崩れない。手の角度から、指先に至るまでがしなやかな流れだ。榊の枝葉までが百花の四肢になったように、自然に流れる。
百花が両手で榊を支え、神様への献上を込めて掲げると、微かに空気が震えた気がした。まるで神楽を見ている人たちの穢れを祓うように、清浄な風が戦ぐ。特に榊の可憐な花に目を奪われる。
榊が揺れる度に、しゃん、しゃん、と花が鈴の音を奏でている。その鈴の音が聞こえている人はいないけど、清浄な空気を感じた人は多い。
顔色が悪く、気怠げに咳き込んでいた人たちの頬に、確かな生気の色が蘇り始めている。
これに雅楽が彩を添えれば、どれほどの効果を齎すのだろう。
「百花ちゃんは凄いね」
「イチ姉も練習頑張れば?」
舞は好きじゃない。
理由はたくさんある。不器用で、思うように舞えないのが嫌だ。細かな指導も嫌だし、怒られるのも嫌だ。何より、一番嫌なのは、やらされている感があったからだ。
でも今は、神様の像が実を結んでいる。
偶像じゃなくて、しっかりと個として存在しているのだ。それを理解している今は、以前のほど嫌いじゃなくなった。
須久奈様が喜んでくれるなら、頑張ってみても良いのかもしれない。
「そうだね。秋の神楽は頑張ってみようかな」
ぼそりと呟いた私に、誓志は「いいんじゃないの?」と肩を竦めた。
墨色の雲の隙間から青空がのぞき、光の線が降り注いでいる。
梅雨の晴れ間に心が浮き立ちそうになるけど、不快指数は高い。吹く風は蒸れた熱風で、歩いているだけで、汗が伝い落ちる。
傘を持つかどうか悩んでしまったのは、夕方から天気が崩れると聞いたからだ。
それでも傘を諦めたのは、手ぶらの方が良いと結論に達したから。もちろん、須久奈様は顔を渋らせていたけど、経験則から荷物はない方が良いと説き伏せた。
転倒を考慮して、暑くても丈の長い服をチョイスした。
走るのにストレスがなさそうなワイドパンツに、接触冷感の8分丈Tシャツだ。靴はスニーカー。スマホは壊れるリスクがあるので置いて来た。
荷物はハンカチ一枚。
向かうのは稲荷神社だ。
秋一くんの送迎を嫌がった須久奈様に付き合い、徒歩で向かっている。
私が何度も汗を拭うのに対し、隣を歩く須久奈様は汗一つない。服装は浅葱色の着物に草履だ。色合いは涼やかだけど、私の服の方が生地が薄いと断言できる。
なのに、平然とした顔で、両手に白銀の布に包まれた荷物を抱え、すたすたと歩いている。
「ふぅ」と息を吐いた私に、須久奈様がいつもの心配そうな顔を向ける。
「い…一花。無理してないか?」
気遣わしげに足を止めた須久奈様に倣い、私もゆっくりと足を止めた。
「まぁ、できれば車で行きたかったです。どうせ秋一くんには見えないのに…」
「そ、そうじゃない…」
バツが悪そうな顔で、須久奈様が頭を振る。
「…お、囮のこと。や…止めてもいいんだぞ?」
「止めません」
「だ、だって、無理してるだろ?見てたら分かる…。夜もあまり寝れてなかったみたいだし…」
「確かに…無理してないって言うなら嘘になるけど…」
私は大きく息を吐いた。
深呼吸を繰り返して、須久奈様を見据える。
「相手は神様だから怖いです。めちゃくちゃ無理してます。でも、無理してる気持ちを上回るくらい、須久奈様の御加護を信頼しているので、安心してます」
きっぱりと言い切ると、須久奈様は頬に朱を散らした。
俯き、もじもじ体を揺らし、「へへへっ」と照れ臭そうに笑う。一頻り照れた後、ハッと目を丸めた。
「ち、違う!あ…危うく絆されるとこだった…」と、地団駄を踏む。
「お、俺は、一花が心配なんだ…。む、無理することはない…。俺と…直日が、捕まえればいいだけだから…」
「捕まえられるんですか?」
「……………………じ、時間はかかるけど、問題はない」
神様の時間の概念が分からないから、易々と「分かりました」とは言えない。
しかも、片がつくまで須久奈様と一緒に行動するか、離れに軟禁されるかになる。当然、学校には行けない。
私はゆるく頭を振る。
「もし、私が頑張れば今日で片がつくのなら、須久奈様の言う無理をします」
そう言えば、須久奈様が拗ねたように頬を膨らませる。
「須久奈様が守ってくれるんですよね?」
「あ、当たり前だ!」
須久奈様は叫んで、「や、約束する」と何度も頷く。そしてまた目を丸めると、唇を尖らせた。
「ま、また一花に乗せられた…。ま…守るけど、それとこれは…違うだろ?」
「同じですよ」
須久奈様の腕を掴み、「そんなことより行きましょう」と歩く。
気が乗らなければ動かなければいい。須久奈様が動かないと決めたら、きっと私の力では太刀打ちできない。なのに、須久奈様は引かれるままに歩みを進める。
不貞腐れた顔を見るに、不承不承に納得してくれたのだろう。
「須久奈様。神様の持ち物を興味本位で訊いていいのか分からないんですけど…それが気になって…」
と、須久奈様の手許に視線を向ける。
「あ…こ、これは…榊。か…神楽に使ってもらおうと……く…久久能智の力を宿してる。こ、これで神楽を舞えば、境内くらいは…澱を祓えるはずだ…」
「会えたんですか?」
「あ…会えたわけじゃない。く、久久能智の木から貰ってきた。ちゃんと言伝も頼んだ…」
なんだかんだ言いつつ、須久奈様はちゃんと考えてくれているのだ。
それが嬉しくて、ついつい見つめてしまう。
もっさりヘアの奥で、鳶色の瞳が気恥ずかしそうに泳いだ。
頬を赤らめ、唇を震わせ、そわそわと顔を背ける。
「な…な、何?…あ、あんまり…注視するなよ……は、は、恥ずかしいだろ……」
耳まで真っ赤だ。
「百花ちゃんたちと話してたんですけど、須久奈様って恥ずかしがり屋とは少し違いますよね?顔を見られるのが好きじゃないのは分かるんですけど、相手による感じですか?」
そっと手を伸ばし、須久奈様の髪に触れる。
指先で前髪を横に流せば、潤んだ瞳が非難する。
嫌なら怒ればいいのに、されるがままにさせてくれる。
「じ…自分の顔は好きじゃないから…。なんか…俺の顔見ると…殆どの奴が避けるんだ…。たまに寄って来るのは気が強い女神とか…何考えてる分からない女神とか…。だ、だから…顔を隠すようしてる」
それは顔が良いからだ。
「寄って来るのは女性の神様ばっかりなんですね。男性の神様は神直日神だけですか?」
「あれは…昔、宴席で酒を与えたら懐かれた…」
須久奈様が苦々しく顔を顰めた。
「男は……俺の苦手な奴ばっかりが寄って来る。初対面なのに…か、肩組んで来たり…大声で笑ったり喋ったり……酒宴ばかりしてる。…あいつら嫌い」
頭の中にホストに絡まれ、萎縮している須久奈様が浮かんでしまうのはなぜだろうか。
「た…たぶん、俺を揶揄って笑ってるんだ…。お…お、俺が根暗で……醜男だから…みんな馬鹿にしてる…。だから…俺は自分の顔が嫌い。見られたくない…」
「醜男じゃないですよ。須久奈様の顔、私は好きですよ?」
じっと須久奈様を見つめれば、須久奈様は真っ赤な顔を俯かせた。
まぁ、身長差があるので、俯いた顔は隠せていない。むしろ、より見えるようになった。両手に荷物を抱えているので、袖で顔を隠すこともできない。だったら足を速めて私を振り切ればいいのに、それもしない。
暑さでは汗一つ掻かないのに、今はだらだらと汗を流し、猫背になって「あ…」とか「う…」とかしどろもどろに唸っている。
「須久奈様ってイケメンですよ。だから周りが気後れするんです。で、自分に絶対的な自信がある強気の女性は集まちゃう」
「…イケメン?」
須久奈様が首を傾げた。
難解な言葉だとばかりに眉根を寄せている。
「顔が良いって意味ですよ。イケメン」
須久奈様は驚いたように目を丸め、ずいっと私の顔を覗き込んできた。
近い!
思わず飛び退いてしまう至近距離だ。
「…イケメン?」
「そ、そうですね。顔は良いです。そして、近いです」
須久奈様の顔を両手で押し返す。
私から見られるのはダメな癖に、自分からはOKなのは意味が分からない。須久奈様のパーソナルスペースは斑がありすぎる。
「ほら、行きますよ。歩いて、歩いて」
赤らんだ顔を見られたくなくて、須久奈様から手を放して早歩きになる。
須久奈様が慌てて隣に並んだ。
「い、一花は俺の顔が好きなのか?だ、だ、だから…俺の顔をよく見てる?お、俺の顔が好きだから?」
殆ど駆け足なのに、須久奈様は息切れもなく並走する。
前なんて見ていない。ずっと私の顔を見て、「へへへっ」と不気味に笑っているから怖い。
笑顔が怖いし、しつこい!
振り切る勢いで駆けても、出来るはずもない。
ぜぇぜぇ、と肩で息をして、頬を伝う汗を拭う。
目の前は川だ。川を渡った先に、稲荷神社へと繋がる林道が見える。なのに、豪雨で被害に遭った橋は撤去されたままなので渡れない。稲荷神社へ行くには迂回しなければならないのに、須久奈様に気を取られて見当違いの場所に来てしまっている。
痛恨のミスに、残りの体力までが萎んでしまう。
膝に手を当て、乱れた呼吸を整え、五月蠅い視線に顔を顰める。
ゆっくりと隣を見上げれば、期待を込めた目と目が合う。
「…………そうですね。須久奈様の顔、好きです…」
「い、一花!」
汗だくで、目が死んでる私がどう見えてるのか、須久奈様は腰をくねらせ照れている。
笑い方も気持ち悪ければ、照れ方も気持ち悪いのに、好きだと自覚してしまえば全てが可愛く見える。一応は気持ち悪いと認識できているのに不思議だ。
頬と項の汗を拭って、心臓を軽く叩きながら背筋を伸ばす。
「迂回しなきゃダメですね」
暗鬱としたため気が漏れる。
川沿いにいるというのに、涼しさは感じられない。生温い風に体力を削がれていく。
体力回復までの間、川の向こうを眺めていれば、白い軽トラックが2台、大掛かりな荷物を積んで林道を上って行った。神楽の準備が着々と行われているようだ。
母と百花は、朝は公民館で稽古をしていた。お昼に一旦帰って来た百花は、巫女装束に着替えて稲荷神社へと向かった。母は帰って来なかった。公民館の調理場で、婦人会の仕事にシフトしたということだ。
「須久奈様はどこで待機しているんですか?学校?」
「……もう少し…神社寄り…」
そう言う顔は、まだ踏ん切りがついていないようだ。
「…いつでも、すぐに助けられるように……で、でも、荒魂に察知されないように……見守ってる」
納得していない。そんな顔だ。
「今回は御守りはないんですよね?」
「わ…悪い…。今回は…祓わなければならないから……符を使うと…退けてしまって……そ、その…好ましくないんだ…」
「大丈夫です。ちゃんと言われた通りに逃げます」
ぐっと拳を握ると、須久奈様が不安げに眉尻を下げる。
逃げ込む場所は、障害物のない学校のグラウンドだ。
そこに荒魂を誘い込み、2柱が挟み込む手筈になっている。
「須久奈様。私が学校に着く前に出て来ちゃダメですよ」
「………………………………が、が、が、が頑張る」
須久奈様は歯噛みして、地団駄を踏み、なんとか言葉を吐きだした。
「それじゃあ、行きましょうか」
「い、一花…待って。これ持って」
ずいっと榊を差し出してくる。
「ん」と強引に突き出す榊を無下にも出来ず、両手で抱えるように持つ。
心なしか、両手から清爽とした気配が全身に巡った気がした。
ひんやりと滑らかな白銀の布が、心地良い錯覚を与えてくれたのかもしれない。
「これってシルクですか?すごく手触りが良い」
「そ…それは特別な絹だから…」
須久奈様は言って、腰を屈めたかと思うと私の膝裏と背中に手を当て、一気に掬い上げた。
突然の浮遊感と、目と鼻の先にある須久奈様の顔に絶句する。
誰もが一度は憧れたことがあるかもしれないお姫様抱っこだ。
ただ、これは望ましくない。
胸キュンでも萌えでもない。
これは第三者の目から見て、私はどう映っているのだろうかと想像して血の気が引く。怪異かイリュージョンか…。得体の知れない心霊現象として写真を撮られ、SNSで拡散されようものなら二度と表を歩けない。
そんな私の心情など些末なことなのだろう。
須久奈様は 着物が肌蹴るのも厭わず、大胆にも転落防止のガードレールに足を掛けた。
そのままガードレールを足掛かりに、思いっきりジャンプする。
空を飛ぶ感覚は、憧れとは程遠い恐怖だ。
「ぎゃぁあああ!」と叫んでしまうのは仕方ない。女の子らしい可愛い悲鳴なんて、そんなのはドラマや映画の女優しか出せない。実際に恐怖を体験すれば、絹を裂くようなとは無縁の声が出る。
「高い!」
榊を落とさないように抱えつつ、須久奈様の衿を握りしめる。
視線を落とせば、流れこそ穏やかなものの水嵩が増し、濁り切った川に恐怖が込み上げる。
須久奈様は対岸のガードレールを軽く蹴ると、軽やかに地面に着地した。
「…一花……高いとこ苦手だった?」
「私も…今、知りました…」
心臓がばくばくと早鐘を打っている。
強張った顔を俯けて、ゆっくりと呼吸を整えていると、須久奈様が「あ」と声を上げた。
「そ、そうだった。…昔、一花が…木に登って、下りられなくなって…泣いてたな」
「泣いてないです!そもそも、なんで須久奈様が知ってるんですか?」
「べ、別に…日中だって外に出てるし…。あんなに大声で泣いてたら…見たくなるだろ?」
須久奈様は「猿みたいだった」と笑った。
失礼にもほどがあるが、まさか、誓志の予想が当たっていたというのは恐ろしい。
「須久奈様はいつから私を見ていたんですか?」
素朴な疑問を投げれば、須久奈様は丸々と目を見開き、真っ赤になった顔を背けた。
「私のこと、ちゃんと認識してたんですね」
ちんちくりんなんて呼ぶから、てっきり次女がいるとしか認識されていないのかと思った。
須久奈様は上気した顔で、何か言いたげに口を動かしていたけど、それが言葉になることはなかった。
「須久奈様。そろそろ下ろしてくれませんか?」
目の前の通りには、普通に車が走っているのだ。
台数は少ないし、不思議そうにこちらに目を向けている人がいないのは、私の姿は見えていないということなのだろう。それでも、色々と落ち着かない。
なのに、須久奈様は「嫌だ」とそっぽを向いた。
「こ…こっちの方が…楽だろ?…この方が速いし…」
須久奈様は言って、すたすたと道路を渡る。
「至近距離から私に見られてもいいんですか?」
嘆息交じりに言えば、「いい!」と叫ぶ。
上気した顔で喘ぎ、「い、一花なら…許す」と緊張の汗を掻いている。
挙動不審に視線を泳がせ、須久奈様は躊躇いなく林の中に足を踏み入れた。
「須久奈様。道は向こうにあるんですよ?」
林道の方向を指さすのに、須久奈様は頭を振る。
「…人が行き来する場所はあまり通りたくない。…こっちの選択肢があるなら…こっちがいい」
「でも、歩き難いですよ?」
「ん……ぞ、草履はダメになる…かな?あと…着物が汚れるか…。さ、早百合が五月蠅いかも」と、須久奈様は眉を八の字にする。
アスファルトだろうが、茫々と生えた草だろうが、須久奈様には関係ないらしい。着物と草履という出で立ちすら、ハンデにならない。てくてくと、難なく歩を進めている。
鬱蒼とした杉林は、数歩入り込んだだけで薄暗くなる。
降り続いた雨を十二分に吸収しているのか、濃い緑や土の匂いが充満している。杉の葉から、ぽたぽたと雫が落ち、腐葉土から蒸れた空気が湧き立つ。
まさに噎せ返すような濃厚な山の匂いだ。
なのに、生き物の気配がない。名前も知らない雑草が、晩秋でも迎えたように色を失っている。
藪蚊が寄ってくることも、緑の奥に隠れた小鳥が囀ることもない。
怯みながら須久奈様を見る。
「ここは…普通なんですよね?」
「普通?」
須久奈様はきょとんと首を傾げた後、思い至ったように「ああ」と頷いた。
「そ、そう。神域じゃない。生き物の気配が希薄なのは、澱の影響だ。に…人間より、動物の方が敏感だから…逃げたんだろ」
それはそれで怖い。
私が縮こまっている間も、須久奈様は下草を踏みつけ、腐葉土に足を取られることもなく、軽快な足取りで斜面を登る。倒木や岩なんかの足場があれば、それを足掛かりに忍者のようにジャンプするのだ。あまり高く飛ばないのは、私に配慮してるのかもしれない。それが理由で、着物や草履をダメにしているのなら恐縮してしまう。
木々の合間から稲荷神社の手前に植えられた躑躅の群生が見えた。その先に白い軽トラックが止まり、人影が行き来しているのが分かる。軽やかな笛や笙の音と、手平鉦のシャラシャラと金属を擦り合わせた音が聞こえる。手平鉦はシンバルのような形の楽器で、小気味いい音を奏でる。
それぞれが音を確認しているのか、ばらばらなリズムに鼓も加わった。
「百花ちゃんの舞、須久奈様も見たかったんじゃない?すごく上手いんだから」
「…見たことはある。か…神楽の奉納の際は…遠くから見てる…」
須久奈様が苦笑した。
「い…一花は舞が苦手って話してたな。春は…仮病を使ったろ?…小さい頃から…苦行って…顔してたよな」
悲しむでも、怒るでもない、事実を言っているだけの口調だ。
「本当に小さい頃から私のことを見てたんですね。須久奈様って、いつから私が好きなんですか?」
さらっと訊けば、須久奈様の足がぴたりと止まった。
真っ赤な顔で私を見下ろし、口元をもぞもぞと動かしている。鬱陶しい前髪の下から覗く目は潤んで、パニック一歩手前の様子を呈している。
「い、言っておくが…俺に幼女趣味はないからなっ」
それは少し疑ったけど、黙っておく。
「い…一花は…目を離すと危ないことばかりしてから…見張ってたんだ」
見守るではなく、見張ると言ってしまうほど、子供の頃の私はダメだったのだろう。
「…木に登るし…稲荷で肝試しをするし……な、何度か攫われそうにもなったんだ…」
「え?」
衝撃の事実に、思わず固まってしまう。
「一花は…誰彼構わず目を合わす。人間なのか、そうじゃないのかの判断がつかないのに、警戒心がなかった。人懐っこいと言えば聞こえは良いが……思慮が足りなかったんだ。あ、姉は、そこを弁えていた。伏し目がちに、不用意に目が合わぬようにしていた…」
つまり、私はバカだったということだ。
ぐぅ、と言葉に詰まる私に、須久奈様は眉尻を下げた。
「い、今もそうだろ?い、一花は…真っすぐに目を見てくる」
と、私の顔を覗き込む。
息がかかるほどの間近で、じっと私を見つめる目に挙動不審さはない。
まるで須久奈様の照れが私にうつったみたいに、緊張に心臓が早鐘を打ち、頬に熱が込み上げる。頭の中がぐるぐると回り、前髪の隙間から覗く鳶色の瞳から目を離せなくなる。
少しでも動いたら、鼻先が触れ合いそうだ。
イケメンは3日で飽きるなんていうのは嘘だ。心臓が口から飛び出すほど大きく跳ねているし、そわそわが止まらなくなる。
「ほ…ほら、逸らさない」
呆れ混じれの嘆息で、須久奈様は徐に頭を上げた。
私としては「え?」だ。
キスされるのかとドキドキしたのに、「目、逸らせよ」と唇を尖らせている。
「馬鹿正直に…目、見るなよ。…き、危機感ないのか?だから、攫われそうになるし…こ、今回みたいに目をつけられるんだ…。その目は…貴重なんだ…。自覚しろよ…」
ぶつぶつぶつぶつ…聞き取れるかどうかの微妙な声量で小言を呟き、ため息を吐いている。
一瞬にして、頬に集まった熱が霧散した。
「そうですね。以後、気を付けます。須久奈様を見るのも、視界の隅に留めるくらいの距離感にしておきます」
「なんでだよ!お、俺は良いの!」
「だから目を逸らさなかったんですよ。それを逸らせなんて言っているのは須久奈様です」
「や……う……そ、そうか…。そうだな。矛盾してた……」
須久奈様がしゅんとする。
微かに潤んだ瞳で見つめられると、嫌味な抗議が口の中で消えてしまう。
私はこのチワワ顔に弱い。
「…い…一花……そ…その…怒ってる?」
「怒ってません」
ゆるく頭を振って、ため息を嚥下する。
「ただ、須久奈様は距離感を間違ってます」
「きょ、距離感?」
須久奈様は、意味が分からないと首を傾げた。
「あんなに至近距離で見つめられたら、普通はキスされると思うんです」
「…キス?」
きょとんと目を丸めて、「な…なんだそれ?」と首を捻る。
「須久奈様って、本当に横文字がダメですね。キスっていうのは、こういうことです」
早口に言って、首を伸ばして須久奈様の頬にキスをした。
口ではなく頬なので、ファーストキスじゃない。外国だと、挨拶と同意だと聞くけど……心臓が痛いくらいに五月蠅い。
須久奈様は見る間に真っ赤に染まる。顔や耳だけじゃなく、首も真っ赤だ。汗を掻き、挙動不審に視線が泳いで、そわそわと頭を左右に揺らしたかと思うと、私の頬にキスを落とした。
キスされた頬に手を当てて須久奈様を見れば、「へへへ…」と気恥ずかしそうに笑っている。
キスをされて初めて、キスはするのとされるのとでは全く違うのだと知った。頬に残る唇の感触に、猛烈な恥ずかしさが込み上げる。
「一応…言っておきますが…。外でキスしたら怒ります」
「わ、分かった」
須久奈様はご機嫌に頷き、「ふ、ふたりの時にする」と破顔する。
きらきらとエフェクトがかかった笑顔に、眩暈を覚える。
好きを自覚したら、この顔面偏差値の高さは一種の凶器だ。なんでも許してしまいそうになるけど、線引きを忘れてはいけない。後々苦労するのは目に見えている。
「須久奈様。キスは力づくはダメです。私が寝てる時もダメです。口もダメです」
「…駄目なの多いな」
「じゃあ、全部ダメです」
「お、多くない!分かった。約束する…!」
須久奈様はかくかく頷きながら、「だったら…」と潤んだ瞳で私を見る。
「ぜ、全部終わったら、いっぱいキスしてほしい。あ、あと!頭も撫でて…」
「いっぱいは恥ずかしいけど…分かりました」
「や…約束だからな」
須久奈様は擽ったそうに口元を緩め、もじもじと体を揺らす。
足場は苔生した倒木だ。
足を滑らせれば、急斜面を転落する。さすがに転落することはないとは思うけど、怖いものは怖い。
「須久奈様!早く行きましょう!」
「そ、そうだな。へへへっ…早く終わらせないとな…」
須久奈様は左右に揺らしていた体を止めると、斜面を見上げた。足場を確認するように周囲に視線を走らせると、軽快にジャンプする。倒木や切り株、岩を足場に、簡単に登って行く。
斜面を登り終えると林を抜けた。林道を横断し、再び林の中に飛び込む。下草を蹴散らし、撓る枝を手折り、林の奥へと突き進むと、木々の合間に板塀に囲われた朱塗りの建物が見えた。
神社に近づくと、杉林が途切れる。
万が一にも社殿に倒木しないようにしているのか、伐採された切り株が広がる。
日差しを遮るものがない分、雑草の育ちがいい。蔦草がうねり、ヘビやトカゲが潜んでいそうな暗がりが地面に広がっている。
須久奈様は軽やかにジャンプし、次々と切り株の上を進む。
「もしかして、塞の神様を見に来たんですか?」
「そ…そう」
須久奈様は頷き、足を止めた。
「あそこ…」と、須久奈様の視線が板塀の角に向けられる。
「本殿の裏手にある」
「秋一くんから聞きました。あ、秋一くんって言うのは、百花ちゃんの好きな人で、蔵人です。昔、塞の神様を見たんだって言ってました。車くらいある、大きな岩。そんな岩を、わざわざ塀の内側まで移動させたんですか?」
もしくは、たまたま岩があったのか。
須久奈様を見れば、須久奈様を苦笑しながら頭を振った。
「む…昔は、社殿なんてなかったんだ。一花が言う…神木」
と、社殿の奥に聳える大杉を見つめる。
「ここの稲荷は神木…神籬が始まりだったんだ。…今みたいに…大木じゃなかったけど……し、注連縄を巻いて……稲荷神を祀ってた」
「社とかじゃないんですね」
「…貧しい村だったから……い、今でこそ、林業が盛んだけど……昔は木も疎らだった。昔は、何かと言うと木をいっぱい使う。家を建て、火を熾し、舟を作る。炭を作るのも…陶器を作る窯にも…大量の木がいるから。次々に伐採するんだ…。さらに大木を…町に売ったりしてたから……当時、比較的大きかった杉を…神籬にした」
「昔は、今以上に自然豊かなのかと思ってました」
私が言えば、須久奈様は苦笑しながら頭を振った。
「こ、ここは…陶芸の村が点在してたし…酒蔵や味噌蔵もあった。陶芸は焼きに大量の薪が必要だし、蔵は木樽が必要だから、木樽の職人は、こぞって良質な木を求めたんだ。…ひと山越えた先には蹈鞴場もあったから悲惨だった。燃料となる木は…伐採された…。それで、諍いが起こるのも珍しくなかった…。蹈鞴をする村は…それが生きる糧だけど……そうじゃない村は、山を荒らされ、獣がいなくなると憤る。砂鉄よりも木の方が…価値が高かったくらいだ…」
「だから今みたいな神社はなかったんですね」
「そ…そう。江戸の終わりくらいに、神籬の傍らに小さな社が建ったんだ。ヤサカの処のより小さくて、みすぼらしいの…。禿山に植林した杉や栗、明日桧…今は杉ばかりだけど…昔は杉以外にも…寺社の木材に必要な木を植えてたんだ…。それが育った頃……大正くらい?…塞の神を封じる…二重結界の意味も込めて社殿を造営させた…」
塞の神様を封じ込める意味で、社殿が造られたというのに驚く。
「宇迦之御魂神が祭神だと思ってました」
「宇迦之御魂は祭神だ。社殿を造るのを提案したのは、宇迦之御魂なんだ…。ただ、ここは元々が神籬が始まりだったからな…。神籬が無事なら…別に良いというのも、俺たちの考えだ」
そんな大切な木を人が穢したのだ。
心が重く沈む。
「御神木は今も穢れてるんですか?」
「い、いや…あれから…久久能智が何度か戻って来てる。そ、それでも…以前のような清浄さはない。久久能智が見捨てないのも…俺や…宇迦之御魂に気を使ってるのかもしれないな…」
須久奈様が小さく息を吐いた。
弱々しく眉尻を下げ、どこか悲しそうに御神木を見つめている。
「…行くか」と、須久奈様の視線が社殿へと向かう。
切り株の上をジャンプし、板塀の手前に広がる紅色の絨毯の上に飛び降りた。
夾竹桃だ。
本来なら鮮やかに咲き誇っている季節なのに、全て落花している。落ちた花からは甘い腐敗臭とも、発酵臭ともつかない臭いが立ち込め、目が回りそうになる。
「瘴気が強いんだ…」
須久奈様は言って、「でも」と私の顔を覗き込む。
「い…一花は大丈夫。俺と一緒にいる時間が長いから…瘴気に中てられることはない」
「私以外は?」
「…厳しいかもな…」
それには母や百花も含まれるのだろうか?
怖くて訊けない。
須久奈様はゆっくりと板塀を見上げると、助走もなく、2メートル近い板塀を楽々と飛び越える。
初めて侵入した内側は、須久奈様に寄り添っていてもゾクゾクと怖気を走らせる禍々しさがあった。
陰湿な薄暗さに、生臭い腐敗臭が漂っている。本殿の朱塗りの外壁には、ぽつぽつと黒い染みが沸き、地面には小さな虫の死骸が無数に転がる。
悍ましさに「ひっ」と悲鳴が零れ、須久奈様の衿を握りしめてしまう。
虫一匹でも腰が引けるのに、地面が黒ずむほどの虫が死んでいるのだ。生理的嫌悪だけではなく、本能的な恐怖が肌を粟立てる。
片や、須久奈様には嫌悪感というものがないらしい。躊躇なく、死骸をじゃりじゃりと踏みつけて歩く。
ここの神社は小さいながらに、宇迦之御魂神を祀る本殿。本殿と拝殿を結び、祭儀、幣帛を奉納する幣殿。祭祀、拝礼を行う拝殿が造られている。
参拝者から見れば、拝殿が手前になる。1メートルほどの渡り廊下を区切りに、幣殿、本殿へと続く。
塞の神様は本殿の裏手の隅、南天の木の側に鎮座していた。
秋一くんの言ったとおり、車一台分の大きさがある。
ただ、中央から真っ二つに割れ、千切れた注連縄の残骸が散っている。その見た目だけでも恐ろしいのに、岩の周りには干からびた蚯蚓が大量に死んでいる。
兼継さんが騒いだのも当然だ。
須久奈様は沈痛の面持ちで「ああ…」と声を零した。
「やはり俺が…放置してしまったから…。もっと気に掛けていたら……頻繁に様子を見に来ていたら…術をかけ直していたら……後悔が尽きないな」
自嘲する。
須久奈様は気性が荒いところがあるけど、根っこは優しい神様だ。責任を感じる必要性はないのに、ぱっくりと割れた大岩にショックを受けている。
「須久奈様。ここは怖いです。出ましょう」
「あ…ああ、そうだな。い、一花の気分が悪くなるといけない…」
須久奈様は言って、板塀を飛び越えた。
夾竹桃の甘い腐敗臭が芳香に思えるほど、板塀の向こうは最悪だった。何度も深呼吸を繰り返し、鼻にこびり付く臭いを吐き出す。
須久奈様は板塀に沿って歩き、夾竹桃や山茶花の茂みを、跳ね返る枝葉に注意しながら進む。山茶花なんて毛虫の発生源なのに、毛虫は全て地面に転がり、枝葉には一匹もいない。
虫の死骸を見た時は、反射的に気持ち悪いと思ったけど、徐々に恐怖心が上回る。
胸を摩り、吐き気をやり過ごす。
ぴたり、と須久奈様の足が止まったのは、躑躅や紫陽花の茂みの前だ。
残念ながら、瘴気に中てられた紫陽花は色を無くし、力なく項垂れている。躑躅の葉も晩秋のようだ。
この茂みは、神社の境界線の意味がある。ここから外に飛び出すと、斜面になっているので危ないという目印だ。つまり、私たちの後ろは斜面になっている。
私たちから見て右手に社殿、左手に神楽殿がある。
2棟の間を、竹箒を手にした人たちが行き来する。他にも小石を拾う人もいれば、草を抜く人もいる。
誰もがマスクをし、胸を摩り、言葉を発することなく黙々と作業を行っている。無理をして作業しているのが、遠くからでも分かる。覚束ない足取りで、拝殿に寄り添うように腰を下ろす人もいるくらいだ。
神楽殿に目を向ければ、照明の設置作業を行っているのだろう。延長コードや発電機なんかのごちゃごちゃした機材が見える。
私たちの位置からは、神楽殿は半分しか見えない。
神楽殿には神輿収納庫も設えてあるので、上から見た形は”呂”に近い。位置的に神輿収納庫が邪魔で、神楽殿を細部まで見渡せないのだ。特に雅楽の定位置は、完全な死角だ。
「百花ちゃんは休憩中なのかも」
雅楽の音もしない。
「あ、須久奈様。ここで大丈夫です」
「で、でも…」と、須久奈様は渋い顔だ。
しばらく唸って、ため息を吐いて、観念したように下ろしてくれた。
「い…い、一花……」
「大丈夫です。ほら、あそこ」
ひょっこりと拝殿前に現れたのは、不審者さながらに周囲を探っている誓志だ。動きやすい服をチョイスした結果がジャージなのだから誓志らしい。
「すごく不安だ…」
須久奈様が顔を顰める。
「誓志は心強いですよ」
苦笑が零れる。
それから須久奈様の汚れた足元に視線を落とす。
膝の辺りまで泥が跳ねている。白い足袋は真っ黒で、草履は廃棄を考えた方が良さそうな傷み具合に見える。よく見れば、木の枝で引っ掛けたのか、着物の袖下に解れがある。
「帰ったらお風呂の準備をしますね」
「……ん」と、須久奈様が頷いた。
不安で不安で堪らないと言いたげな双眸は、私をじっと見つめた後、「これ…」と衿元から紙を2枚取り出した。
10cmほどの大きさに切られた紙人形だ。半紙で作られた紙人形は、胴体部分に奇妙な文字が描かれている。
「早百合と…姉に。息を吹きかけて、持っているように言ってくれ…。折ってはいけない…。悪いものを、1度だけ跳ね返す…。み、身代わりになるんだ…」
私は紙人形を受け取り、絹の隙間に滑り込ませる。
「い…一花っ……怖くなったら…俺を呼んで。すぐに駆け付けるからっ」
「分かりました。ダメそうなら、須久奈様の名前を叫びます」
不安顔の須久奈様に頭を下げ、「行って来ます」と、榊を胸に抱え直して茂みに飛び込んだ。
ばりばりと躑躅の中を突き進み、茂みを抜けると、誓志が駆け寄って来ているのが見えた。後ろに振り返っても、そこには須久奈様はいなかった。
不安いっぱいの顔をしていたのに、撤退が早すぎる…。
心細さに心臓が震える。
名前を呼べば引き返してくれるだろうけど、それはしてはダメなことだ。私が叫んだ時点で、須久奈様は計画を白紙にする。そして、問答無用で離れに軟禁だ。
「イチ姉!」
息を上げた誓志が、手を振りながら駆けて来る。
「お待たせ」
「須久奈様は?」
「もう行ったみたい」
そう言えば、誓志が肩を落とした。
須久奈様がいなくて安心したというよりは、がっかりしたと言った感じだ。
「あんた、須久奈様のことを怖いって言ってたのに会いたかったの?」
「そりゃあね…。めちゃくちゃ怖いけどさ、こういう場所だと安心感っていうか…心強さが違うよ」
誓志は胸を摩り、青い顔で周囲を見渡す。
「具合悪そうだけど大丈夫?」
すぐ近くに虫の死骸だらけの、真っ二つになった塞の神様がある。
私以外は瘴気に中てられると言っていたけど、それは言葉の通りに”私以外”なのだ。誓志は「大丈夫」と深呼吸を繰り返し、胸を落ち着けてはいるけど、万全とは言えない顔色だ。
「無理はしないでね」
「分かってるって」
「だったらいいけど…」
心配は尽きない。
私はため息を呑み込み、百花がいないかと神楽殿を覗く。
神楽殿には誰もいない。隅の方に、白い敷き布を広げ、雅楽の道具や火鉢を置いてあるだけだ。
境内は町内会の人達が、入れ替わり立ち替わりで作業を続けているけど、和装の人は誰もいない。
消防団の法被を着た人は、篝火の配置の他に、水の張ったバケツと消火器を運び込んでいる。
神楽殿の手前。参道を避けるように、4つの木製の台が置かれている。台の大きさは畳2畳分。その上に、座布団を敷き、宴席の準備を整えている。
百花の言っていた宴会とは、打ち上げではなく、神様を持て成す酒席の意味だったのだ。神様がいるものとして酌をし、平伏し、夜を明かす。所謂、エア接待だ。その間も、休憩を挟みながら神楽は続くのだから、体力と精神力のいる神事だ。夜には雨が降ることを想定して、町内会の文字がプリントされたテントを運び込んでいる。
簡易的な指示が飛び、黙々と手を動かす。誰も無駄口を叩かない。というより、叩けないほどに疲弊している。咳き込んでは少し休み、作業を再開するの繰り返しだ。
その緊張感と濃厚な澱が漂う空間に目眩がする。
「百花ちゃんって何処にいるか分かる?」
「駐車場でみんな休んでる」
駐車場は拝殿から伸びる参道を辿った先にある。
鳥居を抜け、一段下がった広場を臨時の駐車場に使っている。広場と言っても、それほど広くはない。普通乗用車が5台も止まれば満車だ。なので、駐車場に停まる車はワンボックスが2台とセダンが1台だ。なるべく大きな車で、みんな一緒に乗って来ている。
みんなというのは、神楽の関係者だ。
それ以外の人たちの車は、林道に縦列駐車されている。林道は日常的に使われる道ではない。頻繁に使うのは森林組合くらいだから、そっちにさえ連絡を入れておけば問題はない。問題があるとすれば、神事が終わって帰路につく際、少しばかり梃子摺るくらいだ。
百花たちは、駐車場の空きスペースにキャンプ用の椅子を並べて座っていた。
「百花ちゃん」
声をかけると、百花が喜びと不安を綯い交ぜにした顔で立ち上がった。
今は白衣に緋袴。黒髪はポニーテールに纏めているけど、本番では千早を纏い、髪を結いあげて花簪を飾る。
「一花ちゃん来てたのね」
百花は駆け寄り、周囲を伺う。
「須久奈様ならいないわよ」
学校の方角を指させば、百花は今にも恐怖が爆発しそうな顔で唇を噛んだ。
実際、全身に恐怖を感じているのだろう。メイクで誤魔化してはいるけど、それでも顔色の悪さが分かる。指先も小刻みに震え、穢れてしまった空気を否が応でも感じている。
「叫んだら飛んで来ると思うけど、試してみる?」
冗談めかして言えば、誓志が「笑えねぇ」と呟く。
「お母さんはまだ?」
「そう。町内会の人たちと食事の準備中よ。みんなの分を用意しなくちゃいけないでしょ?」
「いっぱい食べなきゃ朝まで持たないもんね」
私は苦笑し、物静かに椅子に座る面々を盗み見る。
咳こそしていないけど、みんな顔色が悪い。それに比べれば、万全と言えなくても百花も誓志も気力が残っている方だ。
それは私たちが久瀬家で、須久奈様の加護を受けているからだ。
ただ、私と比べれば、明らかに2人のダメージは重い。
「百花ちゃん。須久奈様から預かりものがあるの」
私は絹から、紙人形を取り出した。
「御守り。1度だけ身代わりになってくれるんだって。百花ちゃんとお母さんによ。それに息を吹きかけて持ってること。折っちゃダメだって言ってた」
紙人形を手渡すと、百花は嬉しそうに微笑んだ。
「これだけで随分と気持ちが楽になるわ」
「それだけじゃないの」と、絹に包まった榊を百花に差し出す。
「神楽鈴を使ってたら悪いんだけど…榊に交換して」
「これは?」
百花は紙人形を衿元に仕舞うと、首を傾げて榊を受け取った。
滑らかな絹に指を滑らせた後、丁寧に絹を捲る。
現れた榊は、普段目にする榊とは異なった瑞々しさがある。まるで夜露に濡れたような肉厚な葉は、深碧に輝いている。そして、深碧の中に鈴なりに真珠のような白い花が咲く。
百花だけでなく、誓志までもが息を呑んだ。
かくいう私も、榊の神々しさに魅入ってしまった。
この榊は現世のものじゃないのは一目瞭然だ。
「須久奈様が百花ちゃんにって。久久能智神の榊だって…。この榊で神社の澱は祓えるだろうからって」
榊から目が離せなくて、呆けた声で答える。
「神聖な感じがする…。見てるだけで、なんか気分が良くなる感じ」
誓志が感嘆の息を漏らす。
百花に至っては、感涙に目を潤ませている。青白かった顔にも朱が戻り、「ご期待に添えなきゃ」と嗚咽を噛んだ。
「2人とも。練習だけど、神楽を見てくれる?」
百花は丁寧に榊を絹に包むと、神楽殿へと歩き出す。
私たちも百花の後に続く。
鳥居の前で一礼し、参道の端を歩く。
後ろから見ても、百花の歩き方は楚々として綺麗だ。背筋が真っすぐで、芯がぶれない。一点を見つめているのか、頭を左右に傾げることもない。サッ、サッ、と草履が石畳を擦る音も、どこか耳障りが良い。
「百花ちゃん。まずは御神木に挨拶をしよう。久久能智神の宿る木だもの。榊のお礼をしなくちゃ」
「そうね」
御神木は神輿収納庫に側だ。
鳥居を潜り、赤い前掛けを掛けた狐の像を通り過ぎる。正面に拝殿があり、神楽殿は拝殿の左手前に位置する。私たちから見れば右手だ。神輿収納庫は神楽殿と繋がっているので、狐の像を過ぎれば自然と目に入る。
御神木は幹回り5メートルの大杉だ。樹齢500年ほどと言われる大杉は注連縄を飾り、榊に酒、米、野菜を供えられている。
百花は御神木の前で足を止めると、絹を捲り、恭しく榊を御神木へ掲げた。
「久久能智神様。ご厚情、心より感謝申し上げます」
私と誓志は並んで頭を下げ、「ありがとうございます!」と声を合わせる。
百花が頭を上げ、ほっと息を吐いた。その顔もすぐに緊張し、神楽殿へと向かう。
「この榊を手にしていると、それだけで穢れが祓われているのが分かるわ」
それは榊を百花に手渡した時、私も感じた。
まるで自分から清浄な空気が百花に移ったような感覚だ。
百花が踏み台を使って神楽殿に上がると、作業をしていた人たちが手を止めた。百花は腰を落とし、膝の上に絹の包みを置くと榊を取る。片手に榊を持ち、もう片方の手で絹を器用に四つ折りにすると、その上に紙人形を置いた。最後にもうひと折りして、衿元に仕舞う。
そして、両手で榊を持つと静かに立ち上がり、社殿へ向けて頭を下げた。
「百花ちゃんが練習するよ」との掛け声で、みんなが休憩とばかりに神楽殿に集まって来る。
「誓志。私たちは少し離れた所で見よう」
「分かった…」
誓志は緊張に顔を強張らせ、周囲に視線を巡らせる。
「もしかして、もういたりする?」
「まだ。いつ出て来てもいいように距離を取っておこうかなって。たぶん、参道は無理だからその茂みを突き抜けて、道路に出る」
須久奈様のように林の中を突き進むことはできないから、どうしても道路に出て、下り坂を駆け下りなければならない。一度でも転倒したらアウトだ。
坂を駆け下りたら、学校までは1キロほどだろうか。
長距離走は苦手だけど、ペースを守れば走り抜けられる距離だ。当然のように信号を待つ暇はないから、場合によっては迂回ルートになる。
「火事場の馬鹿力って言うし、それに賭けよう」
「そんな不確かなものを計算に入れるなよな。イチ姉に何かあれば、正真正銘の天罰が下されるんだぞ。俺はちゃんと自転車で来てるから、2人乗りで飛ばす」
「警察に追いかけられたりして」
私が笑うと、誓志が顔を顰めた。
「もっとヤバイもんに追われてるのに、警察なんか可愛いもんだよ」
誓志は言って、桜の木の根元に腰を下ろした。
頬杖をついて、百花の舞を見ている。
私は隣に立ったまま、百花を見守る。
相変わらず姿勢が崩れない。手の角度から、指先に至るまでがしなやかな流れだ。榊の枝葉までが百花の四肢になったように、自然に流れる。
百花が両手で榊を支え、神様への献上を込めて掲げると、微かに空気が震えた気がした。まるで神楽を見ている人たちの穢れを祓うように、清浄な風が戦ぐ。特に榊の可憐な花に目を奪われる。
榊が揺れる度に、しゃん、しゃん、と花が鈴の音を奏でている。その鈴の音が聞こえている人はいないけど、清浄な空気を感じた人は多い。
顔色が悪く、気怠げに咳き込んでいた人たちの頬に、確かな生気の色が蘇り始めている。
これに雅楽が彩を添えれば、どれほどの効果を齎すのだろう。
「百花ちゃんは凄いね」
「イチ姉も練習頑張れば?」
舞は好きじゃない。
理由はたくさんある。不器用で、思うように舞えないのが嫌だ。細かな指導も嫌だし、怒られるのも嫌だ。何より、一番嫌なのは、やらされている感があったからだ。
でも今は、神様の像が実を結んでいる。
偶像じゃなくて、しっかりと個として存在しているのだ。それを理解している今は、以前のほど嫌いじゃなくなった。
須久奈様が喜んでくれるなら、頑張ってみても良いのかもしれない。
「そうだね。秋の神楽は頑張ってみようかな」
ぼそりと呟いた私に、誓志は「いいんじゃないの?」と肩を竦めた。
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