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―――――雨だ。
離れにテレビはないから分からないけど、SNSを見れば”梅雨入り”がトレンド入りしていた。
例年より1週間遅れの梅雨入りらしい。
梅雨といえば、雨と湿度。裏庭でゲコゲコと鳴くカエル。
それに加えて、我が家では恒例の大掃除が梅雨時季を知らせてくれる。
大掃除と言っても、年末のそれとは大きく異なる。ブラシとモップ、雑巾、高温スチームを手にした蔵人たちが、カビと闘うのだ。
酒蔵はカビが生えやすい環境下にありながら、全力でカビの繁殖を阻止しなくてはならない。清掃は毎日、朝と夕の2回行っているけど、梅雨時季の大掃除は更なる重装備で奔走する。カビに打ち勝つかどうかが、年始めの酒造りの基礎となるらしい。
父は酒造りは行わず裏方ばかりだけど、この時季は蔵人たちに交じって清掃作業に精を出す。
酒蔵の扉や天窓を開き、通風孔を掃除し、殺菌剤を使い床や壁、柱を丁寧にブラッシングする。カビの気配がある場所は高温スチームで徹底抗戦して、ブラシをかけ、丁寧に乾かす。この清掃作業を、蔵人たちは我武者羅に行っている。
慶三さん曰く、酒造りはカビと細菌の戦いだという。
それでも木樽を1荷残し、他はホーロータンクを導入したことで、手入れは格段に楽になったとしみじみ呟いていた。杉の木樽を1荷残している理由は、木樽で貯蔵されたお酒は、独特の木香が付加されて美味しくなるので手放し難いということだ。メンテナンスが難しい木樽だけど、林業の町でもあるので、最近は木樽の復活の話も出ているらしい。
酒蔵見学で観光客が喜ぶのが木樽という理由もある。
片やホーロータンクの素材は鉄。その上に釉薬を焼き付けている。
私のイメージでは浴槽掃除だけど、秋一くんに言わせれば、「一番嫌いな作業はタンク清掃」というほど過酷だと嘆いていた。
タンク清掃用の長靴と防水エプロン、頭にはヘッドライトをつけて挑むタンク清掃は、気力と体力の勝負らしい。梯子をかけてタンク内に入ると、熱気が籠って息苦しさを感じるという。酸素濃度計で安全性を確認しつつ、こびり付いた醪を束子で綺麗になるまで只管洗い続ける。醪が少しでも残るとカビの原因になり、酒の味が落ちてしまうという。
まぁ、それはうちで一番大きなタンクの話だ。中型のタンクはヘッドライトも大掛かりな梯子も必要ない。ただ、それでも清掃のプレッシャーは常に付きまとって胃が痛くなるらしい。
ちなみに、酒蔵の年始めは1月1日ではない。
7月1日が新年度になる。
酒造りにはお米が必要なので、お米の収穫時期に沿ってスケジュールが動く。
田植え時期が5月。それから梅雨に入って、酒造りの基礎を整えるために蔵の管理清掃。7月になって、新年度の準備が始まる。9月頃から稲刈りが始まり、本格的な仕込みに蔵人たちが気合いを入れると言った具合だ。
今日も早くから、新人たちが気合いの声を上げて走り回っていた。
父もスタミナをつけるべく、誓志と同じボリュームの朝食をかき込んでいた。
母と百花は職人が熱中症でダウンしないように、酒販店の裏手にある従業員用の休憩室を整えている。塩飴や甘酒、麦茶は必須だ。職人に振舞うべくキュウリやスイカを氷水に浸し、竹籠に何枚ものタオルを用意する。
秋一くんのような新人枠に入る職人は、特にこき使われる。ペース配分を誤って、スタミナ切れになって、休憩室でダウンしている姿をよく見る。
今も新人たちは気合いを入れ、床を這いつくばりながらカビの根を根絶させているのだろう。
そう思いながら酒蔵へと視線を馳せていると、「一花ちゃん」と声を掛けられた。
レインウェアを広げようとしていた手が止まる。
ゆっくりと視線を門前へと向ければ、秋一くんが手招いているのが見えた。
我が家の数寄屋門は屋根付きの仰々しい構えをしているけど、格子戸なので目隠しにはならない。裏門の方が、離れに近いということもあって、1枚板を使っているガードの堅さだ。
「おはよ。一花ちゃん」
てっきり清掃に奔走していると思っていた秋一くんは、落ち着きなく周囲を窺っている。まるで、つい出来心で授業をサボった小心者の優等生が、鬼教師に見つからないかそわそわしているようだ。
「おはようございます」
ぺこり、と頭を下げると、秋一くんは手振り身振りで合図を送ってくる。最後に、手にした鍵を掲げたのを見るに、どうやら車で送って行ってくれるらしい。
そわそわしているのは、慶三さんを警戒してのことだろう。
私はレインウェアを折り畳むと、一度、玄関に入った。上がり框にレインウェアを置き、傘立てからクリーム色の傘を抜き取る。
ひと声かけてから行こうかと迷った挙句、無言のままに家を出た。
駆け足で門を潜れば、秋一くんは頭に巻いたタオルを解いて肩にかけた。
「車で送ってあげるよ」
「仕事はいいんですか?」
「宇佐美さんにはお願いしてきた」
宇佐美さんとは頭のことだ。
年齢としてはうちの最年長だけど、経験値は慶三さんが先輩になる。頭とは、杜氏である慶三さんの補佐役なので、酒造りにおいてはナンバー2だ。
父親であり、杜氏でもある慶三さんではなく宇佐美さんに許可を願い出たのは、職人気質のスパルタな慶三さんとは対照的に、宇佐美さんが好々爺とした人柄だからだろう。
軽蔑の眼差しで秋一くんを見ると、秋一くんはバツが悪そうに頭を掻いた。
「その…ちょっと相談事を…」
「16の女子高生に?」
「いやいやいや。一花ちゃんはしっかりしてるよ!大人びてるというか…達観してるというか…」
ははっ、とぎこちなく笑う秋一くんは、どこか父に似て少し頼りない。
慶三さんのような厳しさは求めてはないけど、せめて百花をリードするような、駆け落ちするような行動力がほしいところだ。
「ダメかな?」と探るように見つめてくる秋一くんに、私はひとつ頷く。
「帰りも迎えに来てくれるんですか?」
「もちろん迎えに行くよ」
「それじゃあ、お願いします」
ぺこり、と頭を下げる。
「車、回して来るから待ってて」
秋一くんは言って、雨の中を猛然と走って行った。
従業員用の駐車場は裏門の手前にある。酒蔵の前を駆け抜け、右手に曲がり、さらに先だ。宇佐美さんに許可を貰ったとは言え、やっぱり父親が怖いのだろう。へっぴり腰で消えて行った秋一くんに、思わず笑い声が漏れてしまった。
3分ほどして、秋一くんの愛車の黒いハッチバックが門の前に停まった。
助手席に乗り込んだ瞬間、酸っぱい臭いが鼻を衝いた。例えるなら、換気をしたことがない男子運動部の部室と言ったところだろうか。それに若干の生臭さと、秋一くんに染み付いるのか、ほんのり甘みを帯びた麹のニオイが混じる。
後ろを覗き込めば、トランクの荷物が後部座席のシートを乗り越えそうな勢いで積まれている。野球の用具の他に、釣り竿の先が天井に引っかかっている。生臭さの正体だ。
後部座席に転がるのは3本のビニール傘と寝袋だ。
思わず、鼻の頭に皺が寄る。
「この車、百花ちゃんを乗せたことあるんですか?」
「な、ないない!」
秋一くんは顔を真っ赤にして頭を振る。
「急に何?」
「この車、百花ちゃんを乗せたら、百花ちゃんは卒倒しますよ。汚いし、臭いです」
ストレートに言えば、秋一くんは驚きと衝撃と悲しみの入り混じった顔をする。
「臭い…かな?」
「うっかり入った野球部の部室です。あと生臭いし、麹というか、お酒っぽい臭いが悪い意味でアクセントとして主張して最悪です」
麹やお酒は、単体なら良い匂いなのに、何かを介した途端に悪臭に加担する。
秋一くんは項垂れながら、アクセルを踏んだ。
臭いと言ったことを気にしてか、雨が降り込まない程度に窓を開ける。
恐らく、近いうちに酒蔵以上に車内清掃に勤しみ、消臭剤を買うのだと思う。
ワイパーがゆっくりと左右に雨を拭い、秋一くんのイメージにはないクラシカルなピアノがスピーカーから流れ始めた。
「誓志くんは雨でも朝練?」
交差点で一時停止しながら、秋一くんがちらりと私を見る。
「渡り廊下を走り込んだり、筋トレしたり。昨日、練習試合の申し込みがあったらしくて、それに向けて気合いが入ってるみたいです。誓志はレギュラー入り目指してるので、意外と真面目に頑張ってますよ」
「そっか」と、秋一くんがからから笑う。
私は膝に置いたカバンの位置を整えて、秋一くんが本題を切り出すのを待った。
赤信号で停車しても、秋一くんは雑談ばかりだ。視線を泳がせたり、口をもごもごさせたりする様子を見るに、羞恥心と戦っているのが伝わる。
初心すぎる。
ため息を嚥下して、なんとなく流れる景色を眺めれば、公民館前に停る小型トラックに視線が止まった。黒い雨合羽を着た町内会の人たちが、荷台に竹を積み込み、括り付けている。
竹は長く、小型トラックのルーフを超えた先まで伸びる。
作業を見守るのは、白い着物に紫色の袴を着た神主だ。腕には紙垂を取り付けた注連縄を抱えている。
神主の後ろで傘を傾けているのは、神妙な面持ちの兼継さんだ。
車が赤信号で停車する。
「秋一くん、あれは何してるの?」
「ん?…ああ」と、秋一くんは眉根を寄せた。
「道切りの準備だよ」
「道切りってなんですか?」
「町の出入り口にね、道を挟んで竹を立てるんだよ。その竹に注連縄を吊るす。車に引っかかると大変だから、結構な高さが必要なんだ。作業は大変だけど、そうすることで悪いものが村に入って来ないって信じられてる魔除けの習俗。ここじゃあ珍しいけど、山村に行くと見かけることはあるよ。親戚が千葉にいるけど、そこでは辻切りって言うんだ。通り魔みたいな刀の試し切りじゃないよ?」
秋一くんは「切るの漢字が違うから」と笑う。
「言い方が違うだけで、辻切りも道切りと同じ。集落に悪疫が入って来ないようにする風習。厄災を遠ざける呪いだね」
思わず身震いしてしまう。
「寒い?」と秋一くんは冷房を切った。
「どうして道切りなんてするんですか?今までしてなかったのに。道祖神じゃダメなのかな?」
「町へ入る道には道祖神が祀られてるんだけど、実は道じゃない場所にもあるんだよ。サイカミ様って言ってね、大きな岩」
そう言って、秋一くんは青信号に合わせてアクセルを踏む。
軽い眩暈を覚えた。
苦笑する秋一くんの横顔をまじまじと見据えながら、手汗を誤魔化すように腕を組む。
「サイカミ様は稲荷神社の社殿の裏手にあってね、秘密にしているわけじゃないんだろうけど、普通に入れない場所だから知られてないんだ。ほら、社殿は板塀で囲ってるだろ?その中に、サイカミ様が祀られてる。サイカミ様を管理するのは稲荷神社と同じ隣町の神主さん。あと、清掃とかは町内会役員の人たちが当番制で請け負ってるんだよ」
「なのに、秋一くんは知ってるって変じゃない?」
「子供の頃、友達の親が役員をしててね。サイカミ様の噂を聞いて、肝試しついで見に行ったことがあったんだよ。ほら、あそこは今も昔も肝試しコースだし、板塀の下は、子供なら入り込める隙間があるしね」
悪ガキだったんだ、と秋一くんは笑う。
「サイカミ様を見たんですか?」
「見たよ。すごい大きな岩に、注連縄が巻かれてた。たったそれだけなのに、すごく気味が悪かったのを覚えてるよ。ツグミの声に誰かが驚いて逃げ出して、そこからみんなパニック。まさに蜘蛛の子を散らすって感じで逃げ帰って、親父にこっぴどく叱られた」
秋一くんが悪ガキだったとは想像できない。
「それで、サイカミ様と道切りはどう関係するんですか?」
秋一くんは肩を竦めた。
「俄かに信じられないけど、何日か前にサイカミ様が割れてるのが分かったらしいんだ。昨日、町内会で話し合いが設けられてね。一花ちゃんの両親も朝から公民館に行ったんだよ」
「慶三さんがお父さんを呼びに来てました」
「たぶん、それかな」
秋一くんは曖昧に頷く。
「サイカミ様って、本当に大きな岩なんだよ。たぶん、地面に埋まっている部分もあるんだと思う。なのに、地上に出てる部分だけでも、子供の記憶だから正確じゃないけど…この車より大きかった。そんな大岩が割れるかな?って疑問はあるよね。それでも神主さんに祝詞をあげてもらって、遂には道切りの準備もしてるんだからガセじゃないんだろうね」
秋一くんは嘆息する。
「うちの蔵はみんな元気だけど、町全体では風邪が流行ってるらしくてね。それが障りだと大騒ぎ。道祖神だけだと心許ないから、魔除けのものは全て使おうって訳で道切りの準備を急いでるんだ。ここは信心深い土地だから、祝詞と道切りで不安が払拭できるんだったら誰も反対はしないよね」
「確かに。信仰心の篤い町だと思う」
「古い町だしね。職人も多いし、特に職人は縁起を担ぐところがあるよ。一花ちゃんの方が、俺よりも縁起担ぎや信仰心は身近なものかな?まぁ…神様がいるとかいないとかは別にして、この町全体に不安が伝播するくらいなら神頼みは正解だよ。神様がいるのなら、すぱん!と解決してくれないかなって拝みたくもなる」
秋一くんが「あはは」と暢気に笑う。
神様はいて、ちゃんと解決に向けて動いてくれているよ、と伝えられたら、どれほどスッキリするだろう。
「秋一くんは、神様がいたら何を願いたい?」
「え?俺?」
秋一くんは首を傾げ、歩行者に水が跳ねないように、水溜まりを前に速度を緩めた。
「そうだな…。酒造りの才能かな?」
「てっきり、縁結びの神様に百花ちゃんとの仲を取り持ってもらうのかと思いました。恋愛は自分の力で成し遂げる派なんですね」
少しの嫌味を込めた言葉に、秋一くんは学校を目前に乱暴に車を停めた。
真っ赤な顔で、金魚みたいに口をぱくぱくしている。
「相談事ってそれでしょ?」
「いや…まぁ……その…分かった?」
「百花ちゃんに何か言われました?」
「あ…いや…」
秋一くんはシートに深く凭れて、深々と息を吐いた。
「家出について尋ねても要領を得なくてね。笑って誤魔化される感じで…。でも、家出するくらいだから、色々思い悩むことだったんだろうって思うんだよ。愚痴くらいなら聞くし、俺でよければ相談にも乗るんだけど、百花さんは何も言わなくて…。踏み込んで聞けるような関係性でもないし……」
後半はもごもごと口籠り、なんとも情けなく眉尻を下げた。
「凄く複雑な事情で説明が難しいからかな?久瀬家の問題なんです。その問題も解決したから、もう家出はないと思いますよ。でも、それでも家出の原因が知りたいって言うのなら、秋一くんが男を見せれば大丈夫ですよ。百花ちゃんと結婚したら、家出の原因が理解できる日が来ます」
私が笑うと、秋一くん真っ赤な顔のまま固まった。
「中高生なら初心な男子もアリだけど、大人になったら頼りがいのある人の方が断然魅力的です」
じっと秋一くんを見据えれば、秋一くんは首を窄める。
「妹のように思ってた百花ちゃんを好きになって戸惑ってるんですか?それとも年の差を気にしてる?蔵元の娘に引き目があるとか?理由なんてどうでもいいですけど、秋一くんのようなのをヘタレって言うんですよ?見てるだけで痒くなります」
私はシートベルトを外し、傘の柄を掴む。
「一花ちゃん…」
なんとも情けない声だ。
「秋一くん。百花ちゃんって女性らしい良い匂いがする?」
訊けば、秋一くんは困惑気味に首を傾げる。
「…香水ってこと?」
私が頷くと、秋一くんは「そういえば…」と記憶を手繰る。
「百花さんからはキツイ匂いがしない…かな?」
なんとも曖昧な記憶だ。
思わず特大のため息が零れる。
「そういうところです」
「……えっと…どういうところ?」
「百花ちゃんが好きなら、もっと百花ちゃんを見たらどうです?ニオイを嗅ぐくらいの近くで。で、うじうじしてないで、さっさと告って白黒つけて下さい。新年度に入ったら忙しくなるんでしょ?その前に男気の一つでも見せたらいいじゃないですか」
早口で言って、ロックを外す。
「ここで大丈夫です。迎えは4時頃でお願いします。一応、メールします」
ドアを開けて、外に出る。
傘を差し、ドアを閉める前に車内に目を向ければ、捨てられた子犬のような顔の秋一くんと目が合った。
秋一くんが何か言いたそうに口を開いたけど、私からは何も言うことはない。
「ありがとうございました」
私は突き放すように、ドアを閉めた。
風邪の流行に比例して、町の空気が澱み始めた。
荒魂が発する澱だからか、空気の霞が目に見える。はっきりとした霞ではないけれど、あれを吸い込んでいるのかと思うと気分が悪くなる。
須久奈様の加護下のお陰で影響は出ていないけれど、ノシーボ効果というのもある。
空気の悪さだけなら誤魔化せても、咳き込む生徒を無視することはできない。日に日に、咳き込む生徒数は増加しているのだ。マスクをしている生徒数も増えているし、具合が悪そうに保健室へ行く生徒も目立つ。うちのクラスでは欠席が2人、午前中の早退も2人も出た。
体調を崩しているのは生徒ばかりじゃない。職員室へ行けば、やはりマスクをした先生が目立った。喉の違和感を解消しようとお茶を飲み、のど飴を舐め、咳止めの薬を服用をして仕事を進めているのだ。
1年担当の英語の先生1人と用務員のおじさん1人が、遂にダウンしたと聞いた。
私まで体調不良の暗示に掛かってしまいそうになる。
「松本なんだけどさ」
ぽつり、と誓志が呟いた。
場所は誰もいない校舎裏の階段。
2人で並んで座って、水溜まりを作る駐車場を眺めている。駐車場は砂利を敷き詰めていて、雨だからか、いつも以上の車が止められている。
誓志はザァザァと降る雨を見上げ、「英語の先生ね」と補足した。
「松本の親、町内会の役員なんだって」
「へぇー。接点のない先生かと思ったけど、会ったことあるかもね」
「そうじゃない?男手が足りない時は、町内会の仕事に駆り出されるんだって言ってたし。俺のこと知ってたよ。久瀬家は神事に欠かせない家だから有名らしい。蔵元だしなぁ」
「確かにね。先生とは仲良いの?」
「松本は生徒に人気の先生だからね。俺らと年も近いし、ゲームとか漫画とか、そんな話題で盛り上がるんだ」
特に男子に人気だと、誓志は言う。
松本と呼び捨てにしているくらいだから、きっと接しやすい兄ポジションの先生なのだろう。
「いつだったかな…。先週かな?町内会のヘルプで、稲荷神社の清掃をして疲れたって笑ってた」
「神社の清掃?」
「そう」と、誓志は頬杖をついて私を見る。
「もしかして…大岩の話をしてた?」
「いいや。でも、本殿周辺の草むしりをしたって興奮してた。幽霊でも見たの?って冗談交じりに訊いたんだけど、教えてくれなかったんだよね。その時はサイカミ様の話とか知らないから、食い下がんなかった」
食い下がらなかったことを悔やんでいるとばかりに、誓志は顔を顰めた。
「たぶん、サイカミ様を見たんだろうね」
「なんで分かるんだよ」
誓志は頬を膨らませる。
「今日、秋一くんに送ってもらったんだけど、秋一くんが子供の時、サイカミ様を見たらしいの。社殿の裏手に車くらいある大岩が祀られてて、気持ち悪かったって話してくれた」
そう言うと、誓志は丸々と目を見開いた。
ゆっくりと背筋を伸ばして、「マジで?」と訊いて来る。
「社殿って板塀で囲ってるでしょ?その中にあるらしい。子供の頃、神社で肝試した時、板塀の隙間から中に入って見たんだって」
「秋一兄ちゃんもヘタレなのか勇敢なのか分かんねぇよな」
「まぁね」
2人で顔を見合わせて笑う。
笑い声は自然と消えて、改めて重苦しく口を噤む。
「イチ姉に迫ってた例の先輩。サッカー部の河野先輩に聞いたんだけど、入院したらしいよ」
「え?」
これには驚いた。
「まさか…倒れた時に打ち所が悪くて…とか?」
「違うよ!」
誓志は顔を真っ赤にして声を荒立てる。
岩木先輩を殴り飛ばした手前、それは全力で否定したいのだろう。不貞腐れたように唇を尖らせて、「肺炎」と言った。
「なんか噂になってたんだよ。簡易倉庫の前で倒れた生徒がいたって。で、それとなく河野先輩に聞いたら、同じクラスの岩木が倒れてたって。殴られた跡があるから、喧嘩でもしてたんだろって言ってて……めちゃくちゃ居心地悪かった」
そう言って、誓志は両手で頭を掻く。
「その後、熱があるのが分かったらしくて、保健室に連れてって、あっという間に体調が悪くなって入院」
「そんなに悪いんだ…」
「そりゃあ、取り憑かれてたんだし…。ダイレクトに穢れに触れたってことだろ?」
気分が沈む。
恐ろしい目には遭ったけど、あれは岩木先輩の責任ではない。むしろ、巻き込まれたのは岩木先輩の方だ。
重症だったらどうしよう…と不安が膨らむ私の頭を、誓志が乱暴に撫でた。
「河野先輩たちが明日、見舞いに行くんだって」
「お見舞い…」
つまり、お見舞いが許されるていどには回復しているということだ。
ほっと胸を撫で下ろす傍らで、誓志が眉尻を下げた。
「………障りで間違いないのかな?」
「………だね」
「須久奈様は何て言ってたっけ?マ…マガ…なんとか」
「禍津日」
「そうそれ。悪魔みたいな災いの神様」
誓志は眉間に皺を刻み、私を見据える。
「マガツヒで間違いない感じ?」
「須久奈様が言うには、荒魂なんだって」
「アラミタマ?」
誓志が混乱の顔で首を傾げる。
「人の魂が人魂で、神様の魂が荒魂なんだって。それも神様の怖い部分の魂だって言ってた。説明を聞いたけど、禍津日と大差ない感じ」
ごくり、と誓志が唾を飲み込んで、ぶるりと身震いした。
「昔、丑の刻参りが流行ったらしくて、御神木に藁人形を打ち付けた罰当たりがいて、それが原因で荒魂が暴れたらしいよ。サイカミ様はそれを封じた大岩なんだって」
「丑の刻参りとか流行る意味が分かんねぇ…」
「私もそう思う。でも、昔は力のない人がストレス解消にやってたんだって」
「力のない人って?農民とか?」
誓志が首を傾げる。
「そう。女性とかも。身分の高い人とかに怒りをぶつけてたんじゃない?年貢減らせ~とか」
「ああ、ありうる。刀もった侍に、農具じゃ太刀打ちできないもんな。だったら呪いに賭けるか…」
誓志は嘆息する。
そういえば、久久能智は御神木に戻れたのだろうか。
ぼんやりと駐車場の奥の桜並木に視線を馳せる。梅雨入り前は蒸し暑さに辟易していたけど、雨が降り始めると梅雨寒に半袖では心細くなる。
腕を摩って桜並木をぼんやり眺める。
雨に濡れて、黒々と茂った桜の木々の中、男の子が雨宿りしているのに気が付いた。
小学校2年生か、3年生か。ぼさぼさの黒髪に、丈足らずの鴬色の着物。裸足のまま、微動だにせず佇んでいる。それだけでも気味が悪いのに、その子供の肌の浅黒さが稲荷神社の記憶を呼び起こす。
そもそも、50メートル以上も離れた場所に立っているというのに、子供の着物の傷み具合まで鮮明に見えているのはおかしい。
小さい頃、初めて見た須久奈様の後ろ姿を思い出す。
夜闇の中に佇んでいた須久奈様は、まるでスポットライトの下にいるように明瞭に見えた。
もしかして私の目は、昼夜も、距離も関係なく、神様を鮮明に認識するのだろうか。そうだとすると、あの子供の浅黒い肌は間違えようがない。
胃の腑に冷たいものが落ちた感覚が広がり、じわりと全身が総毛立つ。
「ち…誓志。もう昼休みは終わるから、あんたは教室に戻ること」
「え?あ…うん」
「で、知里って分かるよね?」
「なんだよ突然」
誓志が怪訝に目を眇めた。
「知里とは同じクラスだから、知里に言って、私の荷物を回収して帰ってほしい。私は具合悪いから帰ったってことにして」
「え?」
いよいよ誓志が不思議そうに眉根を寄せた。
私は桜並木に佇む子供から目を離さず、そっとスカートのポケットを撫でる。
「ついでに、秋一くんが4時頃に迎えに来てくれるんだけど、迎えはいらないって連絡しといて」
後半は早口だったかもしれない。
「イチ姉?」
誓志が私の視線を追って桜並木に目を向けたけど、誓志には見えないらなしい。距離もあるから、誓志の鋭いという感覚も作動しない。
「例の子供がいる」
「え!?」
誓志が腰を浮かそうとしたのを慌てて抑える。
「あんたは平静を保って教室に戻って。私は捕まらないように逃げ回るから」
「に、逃げ回るって!須久奈様が帰って来るまで逃げるのかよ!」
「他に名案があるなら聞くよ?」
意地悪く訊けば、誓志は押し黙る。
「ごめん。でも、分かって。逃げるのは正解だと思うから」
「…どこに逃げる気?」
「たぶん、離れは安全だと思う。須久奈様が長年住んでるんだから、ある意味、どこよりも清浄な神域だと思う。それに、私には須久奈様の御守りがあるから大丈夫」
ポケットを叩きながらゆっくりと腰を浮かすと、俯いていた子供の顔が上がった。
全身に鳥肌が立って、目が合ったと分かった。
子供がこちらを見たことで、邪悪な何かを感じたのかもしれない。誓志は青褪めた顔で目を丸める。引き攣った顔で私を見て、泣き出しそうな顔が緩く頭を振った。
「いい?ちゃんとしてよ。じゃあね!」
私は立ち上がると、背後のドアを押し開いた。
誓志の叫び声を背中に受け、廊下を全力で走った。何人かが注意の声を飛ばして来たけど、そんなのに耳を傾けている暇はない。転ばないように気を付けながらも、下駄箱に駆け込んで、急いで靴に履き替える。
自分の傘を見つける時間すら惜しくて、適当に古びたビニール傘を引っこ抜き、外に飛び出した。走りながら傘を差している途中、視界の隅に子供が立っているのに気づいた。
別に追いかけている素振りはない。
視界の端に、こちらを見ながら突っ立っているのだ。
それが不気味で、私は歯を食いしばって必死に地面を蹴る。
傘は差しているけど、殆ど頭しか守れてない。靴の中は水浸しだし、地面を蹴る度に雨水が跳ね返る。ザァザァと降る雨は、風に吹かれながら肩を濡らす。
背中に押し寄せる恐怖に涙が滲むけど、泣いている暇はない。
洟を啜り上げて、唇を噛んで涙を引っ込める。
とりあえず、離れまでのルートを組み立てなければならない。なんとなく、真っすぐ帰るルートは賢明じゃない気がする。あんなものが振り切れるかは分からないけど、帰るのは迂回ルートだ。祠やお地蔵さんの前を通るようなルートが良い。帰りつくまでの持久力はないから、運が良ければ祠の隅っこで息を整えられるかもしれない。それには、清浄な祠を見分ける必要がある。
走るのは嫌いだ。
足は鉛のように重いし、地面を蹴る度に、靴の中がぐじゅぐじゅと泡立つ不快感を発している。喉は熱くて息苦しく、引き攣るように脇腹が痛む。
太ももに纏わりつくスカートが、苛立つくらいに邪魔だ。
雨に濡れたせいで、梅雨の肌寒さも相俟って震えが止まらない。
ひと息吐ける場所がないかと視線を巡らせる。
大きく折れ曲がったカーブに差し掛かった時、カーブミラーの中を走る自分を見つけた。カーブミラー越しに辺りを確認すると、遠くに子供が立っているのが見えた。
悲鳴が込み上げる。
「なんで私を追いかけるの!」
思わず叫んでしまった。
叫んでしまったけど、周囲に人はいない。雨の日だからと言っても、ここまで人の気配がないのはおかしい。片田舎とは言っても城下町だ。車が1台も通らないなんてありえない。すっと雑音が遠ざかって行く感覚に胸が騒ぐ。
目の前に迫る山を見上げて、頭がパニックになった。
いくら遠回りをしているとは言え、生まれ育った町で迷子になることはありえない。帰路とは逆方向にあるはずの山が、目の前に迫っているのだ。
強烈な違和感と疲労。そして恐怖から、静かに足が止まった。
ぜぇぜぇ、と肩で息をしながら、周囲を見渡す。
民家はなく、少し先に小さな祠がある。
祠の手前には、秋一くんに教えてもらった道切りが設えてある。道路の上を跨ぐ注連縄に、雨に濡れた紙垂が風に揺れている。
町の境界だ。
祠には道祖神が祀られている。
民間信仰の神様だけど、信仰心があれば何かしら宿る。宿れば神様。そして、道祖神は悪いものを防ぐ神様だ。
背後を見れば、子供が10メートルと間を開けずに立っていた。濡れた黒髪が顔全体を覆い、丈足らずの着物が細い手足に張り付いている。
誓志のように感覚は鋭くないかもしれないけど、岩木先輩に感じた恐怖が蘇る。いや、それ以上の恐怖かもしれない。
一か八か。
ラストスパートとばかりに、私は道祖神に駆けた。
一度道切りを潜り、気休め程度に力を得ると、祠へとUターンする。
祠の前で腰を下ろし、傘の柄を肩に預け、道祖神に手を合わせた。
「神様!お願い!巡回中だって言わないで!今日は手ぶらだけど、日を改めてお供え物を持参します。なので、助けて下さい!」
心の中で神様を連呼する。
傘に打ち付ける雨音が大きくて、子供が近づく足音は聞こえないけど、確実に距離を縮めているのが悪寒で分かる。
ここは怖い。
恐怖で奥歯が震える。
縋るように、スカートのポケットから四つ折りにした御守りを取り出す。少し湿っているけど、文字は滲んでいない。
須久奈様の文字を見て、涙が零れた。
泣くな!と唇を噛んだ時だ。
「あんたさ~」と嘲笑が落ちて来た。
パシャリ、と聞こえた方へ目を向ければ、サンダルを履いた男性の足が視界に入った。
ゆっくりと視線を上げると、黒いハーフパンツに着丈の長い白いTシャツ姿の男性が、ビニール傘を差して立っている。茶髪にピアス。須久奈様を正統派のイケメンというのなら、こっちは雰囲気イケメン。ホストにいそうな顔立ちは、恐らくモテはするのだろう。ただ、軽薄そうな笑い方が生理的に受け付けない。
私が呆然と見上げていると、チャラ男は祠の屋根を何度か叩いた。
「こんなのに何を願うんだ?空なのに。分かる?か、ら」
そう言って笑う。
「それにソレ、別にアレを遠ざけるものじゃないから」と、御守りを指さす。
私は御守りに視線を落とした。
それから改めて男性を見上げ、恐る恐るに子供に振り返る。
雨の中、道路の真ん中に子供が立っている。
距離が………開いてる。
私が見つめる中、子供の姿は蜃気楼のように揺らいで消えた。
「…………消えた」
ぽつりと呟き、御守りに目を戻すと、「だから~」とチャラ男が私の横にしゃがみ込む。
「ソレ」と、御守りを指さす。
「意味分かってないだろ?」
嘲りを孕んだ口調で、チャラ男は私を見据える。
「ソレは危害を加えられそうになって初めて効果を発揮する。つまり、アレを弾き返すんだ。あんたはさぁ、雨ん中を逃げ回んないで、一回捕まってみれば良かったんだよ。そうすりゃあ、アレを弾き返して当面は安心安全。弾き返されたアレは、回復すまで出て来れない。十分な時間稼ぎにはなる。まぁ、呪詛返しってやつだな」
口元はへらへらしているのに、飴色の瞳は笑いの欠片もない。
どこから出て来たのかは分からないけど、得体の知れなさに胃の不快感は加速する。
子供が消えても、やっぱりここは怖いのだ。
もしかすると、ここが怖いんじゃなくて、目の前のチャラ男が怖いのかもしれない。そうだとすると、子供とは別種の畏ろしさだ。
御守りを握りしめ、じりじりと後退りながら立ち上がる。
「その目、良いね~」
チャラ男の言葉に総毛立つ。
向けられるのは好意ではなく敵意だ。
私が怯む中、チャラ男がゆっくりと立ち上がった。
須久奈様ほどではないけど、意外と大きい。威圧感もあって、息が詰まりそうになる。
「ソレのトリセツ教えたんだけど?その態度はあんまりじゃね?ほら、頭くらい下げろよ。頭が高いぞ、人間」
漠然とした不安感が、確信に変わった。
チャラ男が来て、子供が引いたんじゃない。チャラ男を見て、子供が逃げたのだ。そして、チャラ男は私を助けたわけじゃない。
逃げ出そうにも、膝が震えて止まらない。
気を抜けば、涙が決壊しそうだ。
「ソレを書いたのは須久奈だろ?」
「な…んで?」
須久奈様を知っているのかと問おうとした口は、チャラ男の氷のように冷たい目を見て閉じてしまった。
「ソレ、須久奈の字だ」
悍ましさが波のように押し寄せてくる。
眩暈がして、限界だとばかりに、膝からすとんと力が抜けた。泥水の中に尻餅をついて、手から傘が転がり落ちた。
腰を抜かした私を、チャラ男が無慈悲な笑顔で見下ろしてくる。
「す…す…すく…須久奈様を知ってるの?」
「須久奈比古命。人間ごときが軽々しく神の名を呼ぶな」
スッと目を眇めたチャラ男に、心臓が縮む。
息苦しさに胸に手を当て、喘いでしまう。
「あいつさ~、大昔に姿を眩ましたんだよね~。そのせいで色々噂が立ったんだ。死んだとか、常世に隠れてるとか。須久奈が死ぬはずはないから、適当にぶらぶらしてんだろ。そのうち戻って来るだろって思って、こっちも探さなかったんだ。そうしたら戻んないわけよ。まさかこっちに来てたとは思わなかったけど………」
チャラ男が静かに腰を折り、私の顔を覗き込む。
「まさか、人間。あいつを閉じ込めてたわけじゃないよな?」
ゆっくりと首を傾げて私の目を覗き込む顔は能面のようで、恐怖に呼吸が苦しくなる。
あの子供が取り扱い注意の劇薬なら、こっちは微量で死に至る毒薬だ。危険レベルが分からずに躊躇っているうちに、逃げるという選択肢も与えられずに終わるのだ。
「閉じ込めてたってんなら俺はちょっと怒るぜ?どうやって閉じ込めてた?あいつには呪術は効かないだろ?しかも高位の神だ。何かタネがあるんだろ?人間らしく姑息な手を使ってんの?なぁ、須久奈を返してくれよ」
言葉が何ひとつ頭に入って来ない。胃が痙攣して、吐き気が込み上げてくる。
たぶん、私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。雨にも濡れて、泥水に浸かって、惨めな濡れ鼠だ。
神様には二面性がある。
そう言ったのは亡き祖母だ。
神様は優しく人々を助けてくれる側面と、人々を祟る畏ろしい側面がある。
敬意を払いなさい、と祖母は言っていた。
でも、敬意がどういうものか漠然としすぎて分からない。ほんの少し前までは、神棚の掃除や、神社の参拝。そんな日常的なものが私にとっての神様への敬意だった。
それじゃあ、目の前にいるモノへの敬意はどうやって示せばいい?
土下座すればいいのか、媚び諂えばいいのかも分からない。
金縛りの状態では、土下座すらままならないけど………。
そもそも須久奈様を閉じ込めているなんて言いがかりだ。離れには鍵はないし、須久奈様は自由に出入りできる。須久奈様自身、夜には散歩に出ていると言っていた。今だって留守にしている。押し入れにこもっているのは、須久奈様の都合に他ならない。
「あんたさ~。あいつのこと、どんだけ知ってるの?」
徐に、チャラ男の手が伸びて来る。
恐怖に奥歯が震える。涙で歪む視界の中、チャラ男は嘲笑を浮かべ、私の手にある御守りに触れた。御守りを抓むと、するりと私の手から御守りを抜き取る。
しげしげと御守りを眺め、ふっと息を吹きかけた瞬間、御守りが青白い炎に包まれた。
灰すら残らず、御守りは炎の中に消えた。
「あ、俺にコレは効かない」と、チャラ男が晴れやかに破顔する。
「ぶっちゃけ、あんたが死のうが生き延びようが興味ない。むしろ、あんたの血筋が絶えた方が、須久奈のためって気もするしな」
そう言って、チャラ男の手が私の顔を掴んだ。
恐怖というのには、限界があるんだと思う。
二次関数のグラフのようなもので、恐怖メーターは放物線を描く。恐怖が頂点に達した後は、一気に恐怖が下降する。恐怖心が下降するとどうなるのかと言えば、全てがどうでもよくなる。むしろ、痛みがなくて、親が悲しまないていどに安らかな顔を維持させてほしい…なんて願ってしまう。
ただ、楽な方へ、楽な方へと流される。
恐怖を受け続けるのは限界だ。
こういう時は「神様」と祈るんだろうけど、神様がトドメを刺そうとしているんだから何に祈ればいいのか分からない。
祈るはずの手を垂らしたまま、私の意識は暗闇の中に沈んで行った。
離れにテレビはないから分からないけど、SNSを見れば”梅雨入り”がトレンド入りしていた。
例年より1週間遅れの梅雨入りらしい。
梅雨といえば、雨と湿度。裏庭でゲコゲコと鳴くカエル。
それに加えて、我が家では恒例の大掃除が梅雨時季を知らせてくれる。
大掃除と言っても、年末のそれとは大きく異なる。ブラシとモップ、雑巾、高温スチームを手にした蔵人たちが、カビと闘うのだ。
酒蔵はカビが生えやすい環境下にありながら、全力でカビの繁殖を阻止しなくてはならない。清掃は毎日、朝と夕の2回行っているけど、梅雨時季の大掃除は更なる重装備で奔走する。カビに打ち勝つかどうかが、年始めの酒造りの基礎となるらしい。
父は酒造りは行わず裏方ばかりだけど、この時季は蔵人たちに交じって清掃作業に精を出す。
酒蔵の扉や天窓を開き、通風孔を掃除し、殺菌剤を使い床や壁、柱を丁寧にブラッシングする。カビの気配がある場所は高温スチームで徹底抗戦して、ブラシをかけ、丁寧に乾かす。この清掃作業を、蔵人たちは我武者羅に行っている。
慶三さん曰く、酒造りはカビと細菌の戦いだという。
それでも木樽を1荷残し、他はホーロータンクを導入したことで、手入れは格段に楽になったとしみじみ呟いていた。杉の木樽を1荷残している理由は、木樽で貯蔵されたお酒は、独特の木香が付加されて美味しくなるので手放し難いということだ。メンテナンスが難しい木樽だけど、林業の町でもあるので、最近は木樽の復活の話も出ているらしい。
酒蔵見学で観光客が喜ぶのが木樽という理由もある。
片やホーロータンクの素材は鉄。その上に釉薬を焼き付けている。
私のイメージでは浴槽掃除だけど、秋一くんに言わせれば、「一番嫌いな作業はタンク清掃」というほど過酷だと嘆いていた。
タンク清掃用の長靴と防水エプロン、頭にはヘッドライトをつけて挑むタンク清掃は、気力と体力の勝負らしい。梯子をかけてタンク内に入ると、熱気が籠って息苦しさを感じるという。酸素濃度計で安全性を確認しつつ、こびり付いた醪を束子で綺麗になるまで只管洗い続ける。醪が少しでも残るとカビの原因になり、酒の味が落ちてしまうという。
まぁ、それはうちで一番大きなタンクの話だ。中型のタンクはヘッドライトも大掛かりな梯子も必要ない。ただ、それでも清掃のプレッシャーは常に付きまとって胃が痛くなるらしい。
ちなみに、酒蔵の年始めは1月1日ではない。
7月1日が新年度になる。
酒造りにはお米が必要なので、お米の収穫時期に沿ってスケジュールが動く。
田植え時期が5月。それから梅雨に入って、酒造りの基礎を整えるために蔵の管理清掃。7月になって、新年度の準備が始まる。9月頃から稲刈りが始まり、本格的な仕込みに蔵人たちが気合いを入れると言った具合だ。
今日も早くから、新人たちが気合いの声を上げて走り回っていた。
父もスタミナをつけるべく、誓志と同じボリュームの朝食をかき込んでいた。
母と百花は職人が熱中症でダウンしないように、酒販店の裏手にある従業員用の休憩室を整えている。塩飴や甘酒、麦茶は必須だ。職人に振舞うべくキュウリやスイカを氷水に浸し、竹籠に何枚ものタオルを用意する。
秋一くんのような新人枠に入る職人は、特にこき使われる。ペース配分を誤って、スタミナ切れになって、休憩室でダウンしている姿をよく見る。
今も新人たちは気合いを入れ、床を這いつくばりながらカビの根を根絶させているのだろう。
そう思いながら酒蔵へと視線を馳せていると、「一花ちゃん」と声を掛けられた。
レインウェアを広げようとしていた手が止まる。
ゆっくりと視線を門前へと向ければ、秋一くんが手招いているのが見えた。
我が家の数寄屋門は屋根付きの仰々しい構えをしているけど、格子戸なので目隠しにはならない。裏門の方が、離れに近いということもあって、1枚板を使っているガードの堅さだ。
「おはよ。一花ちゃん」
てっきり清掃に奔走していると思っていた秋一くんは、落ち着きなく周囲を窺っている。まるで、つい出来心で授業をサボった小心者の優等生が、鬼教師に見つからないかそわそわしているようだ。
「おはようございます」
ぺこり、と頭を下げると、秋一くんは手振り身振りで合図を送ってくる。最後に、手にした鍵を掲げたのを見るに、どうやら車で送って行ってくれるらしい。
そわそわしているのは、慶三さんを警戒してのことだろう。
私はレインウェアを折り畳むと、一度、玄関に入った。上がり框にレインウェアを置き、傘立てからクリーム色の傘を抜き取る。
ひと声かけてから行こうかと迷った挙句、無言のままに家を出た。
駆け足で門を潜れば、秋一くんは頭に巻いたタオルを解いて肩にかけた。
「車で送ってあげるよ」
「仕事はいいんですか?」
「宇佐美さんにはお願いしてきた」
宇佐美さんとは頭のことだ。
年齢としてはうちの最年長だけど、経験値は慶三さんが先輩になる。頭とは、杜氏である慶三さんの補佐役なので、酒造りにおいてはナンバー2だ。
父親であり、杜氏でもある慶三さんではなく宇佐美さんに許可を願い出たのは、職人気質のスパルタな慶三さんとは対照的に、宇佐美さんが好々爺とした人柄だからだろう。
軽蔑の眼差しで秋一くんを見ると、秋一くんはバツが悪そうに頭を掻いた。
「その…ちょっと相談事を…」
「16の女子高生に?」
「いやいやいや。一花ちゃんはしっかりしてるよ!大人びてるというか…達観してるというか…」
ははっ、とぎこちなく笑う秋一くんは、どこか父に似て少し頼りない。
慶三さんのような厳しさは求めてはないけど、せめて百花をリードするような、駆け落ちするような行動力がほしいところだ。
「ダメかな?」と探るように見つめてくる秋一くんに、私はひとつ頷く。
「帰りも迎えに来てくれるんですか?」
「もちろん迎えに行くよ」
「それじゃあ、お願いします」
ぺこり、と頭を下げる。
「車、回して来るから待ってて」
秋一くんは言って、雨の中を猛然と走って行った。
従業員用の駐車場は裏門の手前にある。酒蔵の前を駆け抜け、右手に曲がり、さらに先だ。宇佐美さんに許可を貰ったとは言え、やっぱり父親が怖いのだろう。へっぴり腰で消えて行った秋一くんに、思わず笑い声が漏れてしまった。
3分ほどして、秋一くんの愛車の黒いハッチバックが門の前に停まった。
助手席に乗り込んだ瞬間、酸っぱい臭いが鼻を衝いた。例えるなら、換気をしたことがない男子運動部の部室と言ったところだろうか。それに若干の生臭さと、秋一くんに染み付いるのか、ほんのり甘みを帯びた麹のニオイが混じる。
後ろを覗き込めば、トランクの荷物が後部座席のシートを乗り越えそうな勢いで積まれている。野球の用具の他に、釣り竿の先が天井に引っかかっている。生臭さの正体だ。
後部座席に転がるのは3本のビニール傘と寝袋だ。
思わず、鼻の頭に皺が寄る。
「この車、百花ちゃんを乗せたことあるんですか?」
「な、ないない!」
秋一くんは顔を真っ赤にして頭を振る。
「急に何?」
「この車、百花ちゃんを乗せたら、百花ちゃんは卒倒しますよ。汚いし、臭いです」
ストレートに言えば、秋一くんは驚きと衝撃と悲しみの入り混じった顔をする。
「臭い…かな?」
「うっかり入った野球部の部室です。あと生臭いし、麹というか、お酒っぽい臭いが悪い意味でアクセントとして主張して最悪です」
麹やお酒は、単体なら良い匂いなのに、何かを介した途端に悪臭に加担する。
秋一くんは項垂れながら、アクセルを踏んだ。
臭いと言ったことを気にしてか、雨が降り込まない程度に窓を開ける。
恐らく、近いうちに酒蔵以上に車内清掃に勤しみ、消臭剤を買うのだと思う。
ワイパーがゆっくりと左右に雨を拭い、秋一くんのイメージにはないクラシカルなピアノがスピーカーから流れ始めた。
「誓志くんは雨でも朝練?」
交差点で一時停止しながら、秋一くんがちらりと私を見る。
「渡り廊下を走り込んだり、筋トレしたり。昨日、練習試合の申し込みがあったらしくて、それに向けて気合いが入ってるみたいです。誓志はレギュラー入り目指してるので、意外と真面目に頑張ってますよ」
「そっか」と、秋一くんがからから笑う。
私は膝に置いたカバンの位置を整えて、秋一くんが本題を切り出すのを待った。
赤信号で停車しても、秋一くんは雑談ばかりだ。視線を泳がせたり、口をもごもごさせたりする様子を見るに、羞恥心と戦っているのが伝わる。
初心すぎる。
ため息を嚥下して、なんとなく流れる景色を眺めれば、公民館前に停る小型トラックに視線が止まった。黒い雨合羽を着た町内会の人たちが、荷台に竹を積み込み、括り付けている。
竹は長く、小型トラックのルーフを超えた先まで伸びる。
作業を見守るのは、白い着物に紫色の袴を着た神主だ。腕には紙垂を取り付けた注連縄を抱えている。
神主の後ろで傘を傾けているのは、神妙な面持ちの兼継さんだ。
車が赤信号で停車する。
「秋一くん、あれは何してるの?」
「ん?…ああ」と、秋一くんは眉根を寄せた。
「道切りの準備だよ」
「道切りってなんですか?」
「町の出入り口にね、道を挟んで竹を立てるんだよ。その竹に注連縄を吊るす。車に引っかかると大変だから、結構な高さが必要なんだ。作業は大変だけど、そうすることで悪いものが村に入って来ないって信じられてる魔除けの習俗。ここじゃあ珍しいけど、山村に行くと見かけることはあるよ。親戚が千葉にいるけど、そこでは辻切りって言うんだ。通り魔みたいな刀の試し切りじゃないよ?」
秋一くんは「切るの漢字が違うから」と笑う。
「言い方が違うだけで、辻切りも道切りと同じ。集落に悪疫が入って来ないようにする風習。厄災を遠ざける呪いだね」
思わず身震いしてしまう。
「寒い?」と秋一くんは冷房を切った。
「どうして道切りなんてするんですか?今までしてなかったのに。道祖神じゃダメなのかな?」
「町へ入る道には道祖神が祀られてるんだけど、実は道じゃない場所にもあるんだよ。サイカミ様って言ってね、大きな岩」
そう言って、秋一くんは青信号に合わせてアクセルを踏む。
軽い眩暈を覚えた。
苦笑する秋一くんの横顔をまじまじと見据えながら、手汗を誤魔化すように腕を組む。
「サイカミ様は稲荷神社の社殿の裏手にあってね、秘密にしているわけじゃないんだろうけど、普通に入れない場所だから知られてないんだ。ほら、社殿は板塀で囲ってるだろ?その中に、サイカミ様が祀られてる。サイカミ様を管理するのは稲荷神社と同じ隣町の神主さん。あと、清掃とかは町内会役員の人たちが当番制で請け負ってるんだよ」
「なのに、秋一くんは知ってるって変じゃない?」
「子供の頃、友達の親が役員をしててね。サイカミ様の噂を聞いて、肝試しついで見に行ったことがあったんだよ。ほら、あそこは今も昔も肝試しコースだし、板塀の下は、子供なら入り込める隙間があるしね」
悪ガキだったんだ、と秋一くんは笑う。
「サイカミ様を見たんですか?」
「見たよ。すごい大きな岩に、注連縄が巻かれてた。たったそれだけなのに、すごく気味が悪かったのを覚えてるよ。ツグミの声に誰かが驚いて逃げ出して、そこからみんなパニック。まさに蜘蛛の子を散らすって感じで逃げ帰って、親父にこっぴどく叱られた」
秋一くんが悪ガキだったとは想像できない。
「それで、サイカミ様と道切りはどう関係するんですか?」
秋一くんは肩を竦めた。
「俄かに信じられないけど、何日か前にサイカミ様が割れてるのが分かったらしいんだ。昨日、町内会で話し合いが設けられてね。一花ちゃんの両親も朝から公民館に行ったんだよ」
「慶三さんがお父さんを呼びに来てました」
「たぶん、それかな」
秋一くんは曖昧に頷く。
「サイカミ様って、本当に大きな岩なんだよ。たぶん、地面に埋まっている部分もあるんだと思う。なのに、地上に出てる部分だけでも、子供の記憶だから正確じゃないけど…この車より大きかった。そんな大岩が割れるかな?って疑問はあるよね。それでも神主さんに祝詞をあげてもらって、遂には道切りの準備もしてるんだからガセじゃないんだろうね」
秋一くんは嘆息する。
「うちの蔵はみんな元気だけど、町全体では風邪が流行ってるらしくてね。それが障りだと大騒ぎ。道祖神だけだと心許ないから、魔除けのものは全て使おうって訳で道切りの準備を急いでるんだ。ここは信心深い土地だから、祝詞と道切りで不安が払拭できるんだったら誰も反対はしないよね」
「確かに。信仰心の篤い町だと思う」
「古い町だしね。職人も多いし、特に職人は縁起を担ぐところがあるよ。一花ちゃんの方が、俺よりも縁起担ぎや信仰心は身近なものかな?まぁ…神様がいるとかいないとかは別にして、この町全体に不安が伝播するくらいなら神頼みは正解だよ。神様がいるのなら、すぱん!と解決してくれないかなって拝みたくもなる」
秋一くんが「あはは」と暢気に笑う。
神様はいて、ちゃんと解決に向けて動いてくれているよ、と伝えられたら、どれほどスッキリするだろう。
「秋一くんは、神様がいたら何を願いたい?」
「え?俺?」
秋一くんは首を傾げ、歩行者に水が跳ねないように、水溜まりを前に速度を緩めた。
「そうだな…。酒造りの才能かな?」
「てっきり、縁結びの神様に百花ちゃんとの仲を取り持ってもらうのかと思いました。恋愛は自分の力で成し遂げる派なんですね」
少しの嫌味を込めた言葉に、秋一くんは学校を目前に乱暴に車を停めた。
真っ赤な顔で、金魚みたいに口をぱくぱくしている。
「相談事ってそれでしょ?」
「いや…まぁ……その…分かった?」
「百花ちゃんに何か言われました?」
「あ…いや…」
秋一くんはシートに深く凭れて、深々と息を吐いた。
「家出について尋ねても要領を得なくてね。笑って誤魔化される感じで…。でも、家出するくらいだから、色々思い悩むことだったんだろうって思うんだよ。愚痴くらいなら聞くし、俺でよければ相談にも乗るんだけど、百花さんは何も言わなくて…。踏み込んで聞けるような関係性でもないし……」
後半はもごもごと口籠り、なんとも情けなく眉尻を下げた。
「凄く複雑な事情で説明が難しいからかな?久瀬家の問題なんです。その問題も解決したから、もう家出はないと思いますよ。でも、それでも家出の原因が知りたいって言うのなら、秋一くんが男を見せれば大丈夫ですよ。百花ちゃんと結婚したら、家出の原因が理解できる日が来ます」
私が笑うと、秋一くん真っ赤な顔のまま固まった。
「中高生なら初心な男子もアリだけど、大人になったら頼りがいのある人の方が断然魅力的です」
じっと秋一くんを見据えれば、秋一くんは首を窄める。
「妹のように思ってた百花ちゃんを好きになって戸惑ってるんですか?それとも年の差を気にしてる?蔵元の娘に引き目があるとか?理由なんてどうでもいいですけど、秋一くんのようなのをヘタレって言うんですよ?見てるだけで痒くなります」
私はシートベルトを外し、傘の柄を掴む。
「一花ちゃん…」
なんとも情けない声だ。
「秋一くん。百花ちゃんって女性らしい良い匂いがする?」
訊けば、秋一くんは困惑気味に首を傾げる。
「…香水ってこと?」
私が頷くと、秋一くんは「そういえば…」と記憶を手繰る。
「百花さんからはキツイ匂いがしない…かな?」
なんとも曖昧な記憶だ。
思わず特大のため息が零れる。
「そういうところです」
「……えっと…どういうところ?」
「百花ちゃんが好きなら、もっと百花ちゃんを見たらどうです?ニオイを嗅ぐくらいの近くで。で、うじうじしてないで、さっさと告って白黒つけて下さい。新年度に入ったら忙しくなるんでしょ?その前に男気の一つでも見せたらいいじゃないですか」
早口で言って、ロックを外す。
「ここで大丈夫です。迎えは4時頃でお願いします。一応、メールします」
ドアを開けて、外に出る。
傘を差し、ドアを閉める前に車内に目を向ければ、捨てられた子犬のような顔の秋一くんと目が合った。
秋一くんが何か言いたそうに口を開いたけど、私からは何も言うことはない。
「ありがとうございました」
私は突き放すように、ドアを閉めた。
風邪の流行に比例して、町の空気が澱み始めた。
荒魂が発する澱だからか、空気の霞が目に見える。はっきりとした霞ではないけれど、あれを吸い込んでいるのかと思うと気分が悪くなる。
須久奈様の加護下のお陰で影響は出ていないけれど、ノシーボ効果というのもある。
空気の悪さだけなら誤魔化せても、咳き込む生徒を無視することはできない。日に日に、咳き込む生徒数は増加しているのだ。マスクをしている生徒数も増えているし、具合が悪そうに保健室へ行く生徒も目立つ。うちのクラスでは欠席が2人、午前中の早退も2人も出た。
体調を崩しているのは生徒ばかりじゃない。職員室へ行けば、やはりマスクをした先生が目立った。喉の違和感を解消しようとお茶を飲み、のど飴を舐め、咳止めの薬を服用をして仕事を進めているのだ。
1年担当の英語の先生1人と用務員のおじさん1人が、遂にダウンしたと聞いた。
私まで体調不良の暗示に掛かってしまいそうになる。
「松本なんだけどさ」
ぽつり、と誓志が呟いた。
場所は誰もいない校舎裏の階段。
2人で並んで座って、水溜まりを作る駐車場を眺めている。駐車場は砂利を敷き詰めていて、雨だからか、いつも以上の車が止められている。
誓志はザァザァと降る雨を見上げ、「英語の先生ね」と補足した。
「松本の親、町内会の役員なんだって」
「へぇー。接点のない先生かと思ったけど、会ったことあるかもね」
「そうじゃない?男手が足りない時は、町内会の仕事に駆り出されるんだって言ってたし。俺のこと知ってたよ。久瀬家は神事に欠かせない家だから有名らしい。蔵元だしなぁ」
「確かにね。先生とは仲良いの?」
「松本は生徒に人気の先生だからね。俺らと年も近いし、ゲームとか漫画とか、そんな話題で盛り上がるんだ」
特に男子に人気だと、誓志は言う。
松本と呼び捨てにしているくらいだから、きっと接しやすい兄ポジションの先生なのだろう。
「いつだったかな…。先週かな?町内会のヘルプで、稲荷神社の清掃をして疲れたって笑ってた」
「神社の清掃?」
「そう」と、誓志は頬杖をついて私を見る。
「もしかして…大岩の話をしてた?」
「いいや。でも、本殿周辺の草むしりをしたって興奮してた。幽霊でも見たの?って冗談交じりに訊いたんだけど、教えてくれなかったんだよね。その時はサイカミ様の話とか知らないから、食い下がんなかった」
食い下がらなかったことを悔やんでいるとばかりに、誓志は顔を顰めた。
「たぶん、サイカミ様を見たんだろうね」
「なんで分かるんだよ」
誓志は頬を膨らませる。
「今日、秋一くんに送ってもらったんだけど、秋一くんが子供の時、サイカミ様を見たらしいの。社殿の裏手に車くらいある大岩が祀られてて、気持ち悪かったって話してくれた」
そう言うと、誓志は丸々と目を見開いた。
ゆっくりと背筋を伸ばして、「マジで?」と訊いて来る。
「社殿って板塀で囲ってるでしょ?その中にあるらしい。子供の頃、神社で肝試した時、板塀の隙間から中に入って見たんだって」
「秋一兄ちゃんもヘタレなのか勇敢なのか分かんねぇよな」
「まぁね」
2人で顔を見合わせて笑う。
笑い声は自然と消えて、改めて重苦しく口を噤む。
「イチ姉に迫ってた例の先輩。サッカー部の河野先輩に聞いたんだけど、入院したらしいよ」
「え?」
これには驚いた。
「まさか…倒れた時に打ち所が悪くて…とか?」
「違うよ!」
誓志は顔を真っ赤にして声を荒立てる。
岩木先輩を殴り飛ばした手前、それは全力で否定したいのだろう。不貞腐れたように唇を尖らせて、「肺炎」と言った。
「なんか噂になってたんだよ。簡易倉庫の前で倒れた生徒がいたって。で、それとなく河野先輩に聞いたら、同じクラスの岩木が倒れてたって。殴られた跡があるから、喧嘩でもしてたんだろって言ってて……めちゃくちゃ居心地悪かった」
そう言って、誓志は両手で頭を掻く。
「その後、熱があるのが分かったらしくて、保健室に連れてって、あっという間に体調が悪くなって入院」
「そんなに悪いんだ…」
「そりゃあ、取り憑かれてたんだし…。ダイレクトに穢れに触れたってことだろ?」
気分が沈む。
恐ろしい目には遭ったけど、あれは岩木先輩の責任ではない。むしろ、巻き込まれたのは岩木先輩の方だ。
重症だったらどうしよう…と不安が膨らむ私の頭を、誓志が乱暴に撫でた。
「河野先輩たちが明日、見舞いに行くんだって」
「お見舞い…」
つまり、お見舞いが許されるていどには回復しているということだ。
ほっと胸を撫で下ろす傍らで、誓志が眉尻を下げた。
「………障りで間違いないのかな?」
「………だね」
「須久奈様は何て言ってたっけ?マ…マガ…なんとか」
「禍津日」
「そうそれ。悪魔みたいな災いの神様」
誓志は眉間に皺を刻み、私を見据える。
「マガツヒで間違いない感じ?」
「須久奈様が言うには、荒魂なんだって」
「アラミタマ?」
誓志が混乱の顔で首を傾げる。
「人の魂が人魂で、神様の魂が荒魂なんだって。それも神様の怖い部分の魂だって言ってた。説明を聞いたけど、禍津日と大差ない感じ」
ごくり、と誓志が唾を飲み込んで、ぶるりと身震いした。
「昔、丑の刻参りが流行ったらしくて、御神木に藁人形を打ち付けた罰当たりがいて、それが原因で荒魂が暴れたらしいよ。サイカミ様はそれを封じた大岩なんだって」
「丑の刻参りとか流行る意味が分かんねぇ…」
「私もそう思う。でも、昔は力のない人がストレス解消にやってたんだって」
「力のない人って?農民とか?」
誓志が首を傾げる。
「そう。女性とかも。身分の高い人とかに怒りをぶつけてたんじゃない?年貢減らせ~とか」
「ああ、ありうる。刀もった侍に、農具じゃ太刀打ちできないもんな。だったら呪いに賭けるか…」
誓志は嘆息する。
そういえば、久久能智は御神木に戻れたのだろうか。
ぼんやりと駐車場の奥の桜並木に視線を馳せる。梅雨入り前は蒸し暑さに辟易していたけど、雨が降り始めると梅雨寒に半袖では心細くなる。
腕を摩って桜並木をぼんやり眺める。
雨に濡れて、黒々と茂った桜の木々の中、男の子が雨宿りしているのに気が付いた。
小学校2年生か、3年生か。ぼさぼさの黒髪に、丈足らずの鴬色の着物。裸足のまま、微動だにせず佇んでいる。それだけでも気味が悪いのに、その子供の肌の浅黒さが稲荷神社の記憶を呼び起こす。
そもそも、50メートル以上も離れた場所に立っているというのに、子供の着物の傷み具合まで鮮明に見えているのはおかしい。
小さい頃、初めて見た須久奈様の後ろ姿を思い出す。
夜闇の中に佇んでいた須久奈様は、まるでスポットライトの下にいるように明瞭に見えた。
もしかして私の目は、昼夜も、距離も関係なく、神様を鮮明に認識するのだろうか。そうだとすると、あの子供の浅黒い肌は間違えようがない。
胃の腑に冷たいものが落ちた感覚が広がり、じわりと全身が総毛立つ。
「ち…誓志。もう昼休みは終わるから、あんたは教室に戻ること」
「え?あ…うん」
「で、知里って分かるよね?」
「なんだよ突然」
誓志が怪訝に目を眇めた。
「知里とは同じクラスだから、知里に言って、私の荷物を回収して帰ってほしい。私は具合悪いから帰ったってことにして」
「え?」
いよいよ誓志が不思議そうに眉根を寄せた。
私は桜並木に佇む子供から目を離さず、そっとスカートのポケットを撫でる。
「ついでに、秋一くんが4時頃に迎えに来てくれるんだけど、迎えはいらないって連絡しといて」
後半は早口だったかもしれない。
「イチ姉?」
誓志が私の視線を追って桜並木に目を向けたけど、誓志には見えないらなしい。距離もあるから、誓志の鋭いという感覚も作動しない。
「例の子供がいる」
「え!?」
誓志が腰を浮かそうとしたのを慌てて抑える。
「あんたは平静を保って教室に戻って。私は捕まらないように逃げ回るから」
「に、逃げ回るって!須久奈様が帰って来るまで逃げるのかよ!」
「他に名案があるなら聞くよ?」
意地悪く訊けば、誓志は押し黙る。
「ごめん。でも、分かって。逃げるのは正解だと思うから」
「…どこに逃げる気?」
「たぶん、離れは安全だと思う。須久奈様が長年住んでるんだから、ある意味、どこよりも清浄な神域だと思う。それに、私には須久奈様の御守りがあるから大丈夫」
ポケットを叩きながらゆっくりと腰を浮かすと、俯いていた子供の顔が上がった。
全身に鳥肌が立って、目が合ったと分かった。
子供がこちらを見たことで、邪悪な何かを感じたのかもしれない。誓志は青褪めた顔で目を丸める。引き攣った顔で私を見て、泣き出しそうな顔が緩く頭を振った。
「いい?ちゃんとしてよ。じゃあね!」
私は立ち上がると、背後のドアを押し開いた。
誓志の叫び声を背中に受け、廊下を全力で走った。何人かが注意の声を飛ばして来たけど、そんなのに耳を傾けている暇はない。転ばないように気を付けながらも、下駄箱に駆け込んで、急いで靴に履き替える。
自分の傘を見つける時間すら惜しくて、適当に古びたビニール傘を引っこ抜き、外に飛び出した。走りながら傘を差している途中、視界の隅に子供が立っているのに気づいた。
別に追いかけている素振りはない。
視界の端に、こちらを見ながら突っ立っているのだ。
それが不気味で、私は歯を食いしばって必死に地面を蹴る。
傘は差しているけど、殆ど頭しか守れてない。靴の中は水浸しだし、地面を蹴る度に雨水が跳ね返る。ザァザァと降る雨は、風に吹かれながら肩を濡らす。
背中に押し寄せる恐怖に涙が滲むけど、泣いている暇はない。
洟を啜り上げて、唇を噛んで涙を引っ込める。
とりあえず、離れまでのルートを組み立てなければならない。なんとなく、真っすぐ帰るルートは賢明じゃない気がする。あんなものが振り切れるかは分からないけど、帰るのは迂回ルートだ。祠やお地蔵さんの前を通るようなルートが良い。帰りつくまでの持久力はないから、運が良ければ祠の隅っこで息を整えられるかもしれない。それには、清浄な祠を見分ける必要がある。
走るのは嫌いだ。
足は鉛のように重いし、地面を蹴る度に、靴の中がぐじゅぐじゅと泡立つ不快感を発している。喉は熱くて息苦しく、引き攣るように脇腹が痛む。
太ももに纏わりつくスカートが、苛立つくらいに邪魔だ。
雨に濡れたせいで、梅雨の肌寒さも相俟って震えが止まらない。
ひと息吐ける場所がないかと視線を巡らせる。
大きく折れ曲がったカーブに差し掛かった時、カーブミラーの中を走る自分を見つけた。カーブミラー越しに辺りを確認すると、遠くに子供が立っているのが見えた。
悲鳴が込み上げる。
「なんで私を追いかけるの!」
思わず叫んでしまった。
叫んでしまったけど、周囲に人はいない。雨の日だからと言っても、ここまで人の気配がないのはおかしい。片田舎とは言っても城下町だ。車が1台も通らないなんてありえない。すっと雑音が遠ざかって行く感覚に胸が騒ぐ。
目の前に迫る山を見上げて、頭がパニックになった。
いくら遠回りをしているとは言え、生まれ育った町で迷子になることはありえない。帰路とは逆方向にあるはずの山が、目の前に迫っているのだ。
強烈な違和感と疲労。そして恐怖から、静かに足が止まった。
ぜぇぜぇ、と肩で息をしながら、周囲を見渡す。
民家はなく、少し先に小さな祠がある。
祠の手前には、秋一くんに教えてもらった道切りが設えてある。道路の上を跨ぐ注連縄に、雨に濡れた紙垂が風に揺れている。
町の境界だ。
祠には道祖神が祀られている。
民間信仰の神様だけど、信仰心があれば何かしら宿る。宿れば神様。そして、道祖神は悪いものを防ぐ神様だ。
背後を見れば、子供が10メートルと間を開けずに立っていた。濡れた黒髪が顔全体を覆い、丈足らずの着物が細い手足に張り付いている。
誓志のように感覚は鋭くないかもしれないけど、岩木先輩に感じた恐怖が蘇る。いや、それ以上の恐怖かもしれない。
一か八か。
ラストスパートとばかりに、私は道祖神に駆けた。
一度道切りを潜り、気休め程度に力を得ると、祠へとUターンする。
祠の前で腰を下ろし、傘の柄を肩に預け、道祖神に手を合わせた。
「神様!お願い!巡回中だって言わないで!今日は手ぶらだけど、日を改めてお供え物を持参します。なので、助けて下さい!」
心の中で神様を連呼する。
傘に打ち付ける雨音が大きくて、子供が近づく足音は聞こえないけど、確実に距離を縮めているのが悪寒で分かる。
ここは怖い。
恐怖で奥歯が震える。
縋るように、スカートのポケットから四つ折りにした御守りを取り出す。少し湿っているけど、文字は滲んでいない。
須久奈様の文字を見て、涙が零れた。
泣くな!と唇を噛んだ時だ。
「あんたさ~」と嘲笑が落ちて来た。
パシャリ、と聞こえた方へ目を向ければ、サンダルを履いた男性の足が視界に入った。
ゆっくりと視線を上げると、黒いハーフパンツに着丈の長い白いTシャツ姿の男性が、ビニール傘を差して立っている。茶髪にピアス。須久奈様を正統派のイケメンというのなら、こっちは雰囲気イケメン。ホストにいそうな顔立ちは、恐らくモテはするのだろう。ただ、軽薄そうな笑い方が生理的に受け付けない。
私が呆然と見上げていると、チャラ男は祠の屋根を何度か叩いた。
「こんなのに何を願うんだ?空なのに。分かる?か、ら」
そう言って笑う。
「それにソレ、別にアレを遠ざけるものじゃないから」と、御守りを指さす。
私は御守りに視線を落とした。
それから改めて男性を見上げ、恐る恐るに子供に振り返る。
雨の中、道路の真ん中に子供が立っている。
距離が………開いてる。
私が見つめる中、子供の姿は蜃気楼のように揺らいで消えた。
「…………消えた」
ぽつりと呟き、御守りに目を戻すと、「だから~」とチャラ男が私の横にしゃがみ込む。
「ソレ」と、御守りを指さす。
「意味分かってないだろ?」
嘲りを孕んだ口調で、チャラ男は私を見据える。
「ソレは危害を加えられそうになって初めて効果を発揮する。つまり、アレを弾き返すんだ。あんたはさぁ、雨ん中を逃げ回んないで、一回捕まってみれば良かったんだよ。そうすりゃあ、アレを弾き返して当面は安心安全。弾き返されたアレは、回復すまで出て来れない。十分な時間稼ぎにはなる。まぁ、呪詛返しってやつだな」
口元はへらへらしているのに、飴色の瞳は笑いの欠片もない。
どこから出て来たのかは分からないけど、得体の知れなさに胃の不快感は加速する。
子供が消えても、やっぱりここは怖いのだ。
もしかすると、ここが怖いんじゃなくて、目の前のチャラ男が怖いのかもしれない。そうだとすると、子供とは別種の畏ろしさだ。
御守りを握りしめ、じりじりと後退りながら立ち上がる。
「その目、良いね~」
チャラ男の言葉に総毛立つ。
向けられるのは好意ではなく敵意だ。
私が怯む中、チャラ男がゆっくりと立ち上がった。
須久奈様ほどではないけど、意外と大きい。威圧感もあって、息が詰まりそうになる。
「ソレのトリセツ教えたんだけど?その態度はあんまりじゃね?ほら、頭くらい下げろよ。頭が高いぞ、人間」
漠然とした不安感が、確信に変わった。
チャラ男が来て、子供が引いたんじゃない。チャラ男を見て、子供が逃げたのだ。そして、チャラ男は私を助けたわけじゃない。
逃げ出そうにも、膝が震えて止まらない。
気を抜けば、涙が決壊しそうだ。
「ソレを書いたのは須久奈だろ?」
「な…んで?」
須久奈様を知っているのかと問おうとした口は、チャラ男の氷のように冷たい目を見て閉じてしまった。
「ソレ、須久奈の字だ」
悍ましさが波のように押し寄せてくる。
眩暈がして、限界だとばかりに、膝からすとんと力が抜けた。泥水の中に尻餅をついて、手から傘が転がり落ちた。
腰を抜かした私を、チャラ男が無慈悲な笑顔で見下ろしてくる。
「す…す…すく…須久奈様を知ってるの?」
「須久奈比古命。人間ごときが軽々しく神の名を呼ぶな」
スッと目を眇めたチャラ男に、心臓が縮む。
息苦しさに胸に手を当て、喘いでしまう。
「あいつさ~、大昔に姿を眩ましたんだよね~。そのせいで色々噂が立ったんだ。死んだとか、常世に隠れてるとか。須久奈が死ぬはずはないから、適当にぶらぶらしてんだろ。そのうち戻って来るだろって思って、こっちも探さなかったんだ。そうしたら戻んないわけよ。まさかこっちに来てたとは思わなかったけど………」
チャラ男が静かに腰を折り、私の顔を覗き込む。
「まさか、人間。あいつを閉じ込めてたわけじゃないよな?」
ゆっくりと首を傾げて私の目を覗き込む顔は能面のようで、恐怖に呼吸が苦しくなる。
あの子供が取り扱い注意の劇薬なら、こっちは微量で死に至る毒薬だ。危険レベルが分からずに躊躇っているうちに、逃げるという選択肢も与えられずに終わるのだ。
「閉じ込めてたってんなら俺はちょっと怒るぜ?どうやって閉じ込めてた?あいつには呪術は効かないだろ?しかも高位の神だ。何かタネがあるんだろ?人間らしく姑息な手を使ってんの?なぁ、須久奈を返してくれよ」
言葉が何ひとつ頭に入って来ない。胃が痙攣して、吐き気が込み上げてくる。
たぶん、私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。雨にも濡れて、泥水に浸かって、惨めな濡れ鼠だ。
神様には二面性がある。
そう言ったのは亡き祖母だ。
神様は優しく人々を助けてくれる側面と、人々を祟る畏ろしい側面がある。
敬意を払いなさい、と祖母は言っていた。
でも、敬意がどういうものか漠然としすぎて分からない。ほんの少し前までは、神棚の掃除や、神社の参拝。そんな日常的なものが私にとっての神様への敬意だった。
それじゃあ、目の前にいるモノへの敬意はどうやって示せばいい?
土下座すればいいのか、媚び諂えばいいのかも分からない。
金縛りの状態では、土下座すらままならないけど………。
そもそも須久奈様を閉じ込めているなんて言いがかりだ。離れには鍵はないし、須久奈様は自由に出入りできる。須久奈様自身、夜には散歩に出ていると言っていた。今だって留守にしている。押し入れにこもっているのは、須久奈様の都合に他ならない。
「あんたさ~。あいつのこと、どんだけ知ってるの?」
徐に、チャラ男の手が伸びて来る。
恐怖に奥歯が震える。涙で歪む視界の中、チャラ男は嘲笑を浮かべ、私の手にある御守りに触れた。御守りを抓むと、するりと私の手から御守りを抜き取る。
しげしげと御守りを眺め、ふっと息を吹きかけた瞬間、御守りが青白い炎に包まれた。
灰すら残らず、御守りは炎の中に消えた。
「あ、俺にコレは効かない」と、チャラ男が晴れやかに破顔する。
「ぶっちゃけ、あんたが死のうが生き延びようが興味ない。むしろ、あんたの血筋が絶えた方が、須久奈のためって気もするしな」
そう言って、チャラ男の手が私の顔を掴んだ。
恐怖というのには、限界があるんだと思う。
二次関数のグラフのようなもので、恐怖メーターは放物線を描く。恐怖が頂点に達した後は、一気に恐怖が下降する。恐怖心が下降するとどうなるのかと言えば、全てがどうでもよくなる。むしろ、痛みがなくて、親が悲しまないていどに安らかな顔を維持させてほしい…なんて願ってしまう。
ただ、楽な方へ、楽な方へと流される。
恐怖を受け続けるのは限界だ。
こういう時は「神様」と祈るんだろうけど、神様がトドメを刺そうとしているんだから何に祈ればいいのか分からない。
祈るはずの手を垂らしたまま、私の意識は暗闇の中に沈んで行った。
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