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朝起きると、須久奈様は置き手紙を残して消えていた。
正確には手紙というほどの内容ではなく、”10日間ほど留守にする”というメモだ。何処に何をしに行ったのかは不明だけど、昨日の今日ということで凡その推測はできる。
北のサイカミ様関連なのだろう。
放置していたことを随分と気に病んでいたし、許容できないとも言っていた。
問題は、須久奈様が出かけたことを両親に知らせるか、否かだ。
両親は須久奈様を妄信している。
神様なんだから信じることは悪いことじゃないけど、代々受け継がれたルールを病的にまで守り抜き、本来の須久奈様とは別人格の神様像を勝手に作り上げている節がある。
神様の定位置は押し入れで、人目に触れることを禁忌とし、離れから出ることはない。なんて思っていても不思議じゃない。
もし本当にそうなら、須久奈様がいなくなったと知れれば卒倒するかもしれない。
だからと言って、黙っているというわけにもいかない。
遅かれ早かれ、昼餉の支度でバレるのだ。
「おはよ、イチ姉。気難しい顔してどうしたの?」
声に頭を上げれば、階段の上に誓志がいる。
器用に片方の眉を跳ね上げて、一歩、階段を下りようとした足を引っ込めた。
「おはよ。朝練じゃないの?」
珍しく制服を着た誓志を見上げながら、とぼとぼと階段を上る。
「今日は休み。で、どうしたんだよ?」
「あ~…うん。百花ちゃん、部屋にいるかなって思って」
階段を上り終え、百花の部屋を指さす。
「台所にいなかったらいるんじゃねぇの?」
「いなかった…。だから来たんだけど…」
「煮え切らない顔だな。どうしたんだよ?」
誓志が腰に手をあて、私の顔を怪訝に覗き込む。
「なんというか…須久奈様がいなくなったの」と小声で告げれば、誓志は「へぇー」と淡泊な反応。
「驚かないんだ」
「驚くようなことなの?」
神様教育を受けていなければ、こんなものなのだろう。
私だって神様教育を受けていないから、置き手紙を見つけた時の感想は「へぇー」だった。
「まぁ、留守にするってだけなんだけど。でも、お母さんと百花ちゃんの反応は違うかも…。ワンクッションって意味を込めて、お母さんよりも柔軟そうな百花ちゃんからお知らせしてみようかなって…」
「あ~…妥当かもな」
誓志は嘆息して頭を掻く。
「パニックにならなきゃいいけど。てか、そんなことより」
誓志は言って、眉間に皺を刻む。
「イチ姉は須久奈様がいなくて大丈夫なのかよ?先輩のこととかあるし」
「そこは抜かりなく。須久奈様お手製の御守りがあるから大丈夫」
私は言って、御守りを入れてるスカートのポケットを軽く叩いた。
須久奈様は置き手紙とは別に、私用の御守りも残していてくれたのだ。
御守りは正方形の和紙に、筆ペンで何かの暗号を描いたものだ。
暗号は、和紙の中央に大きく”井”と書かれている。
♯にも見えるし、〇×ゲームの格子にも見えるけど、井戸の井の方が近い気がする。その井を囲うように、上下左右に見慣れない文字が4つ。象形文字のような、漢字の成り立ちの途中経過のような、単なる落書きのような文字が書かれている。
気持ちが悪いのは、この御守りの裏に描かれた目だ。所々に残る指紋から、須久奈様が指に墨をつけて描いたのが分かる。少女漫画に出てくるような可愛い目ならまだしも、呪符として描きました感が半端なくて恐ろしい目なのだ。
監視されている気がして落ち着かなくなる。
「お酒の神様の御守りかぁ…」
心許ないとばかりに眉尻を下げた誓志に、思わず笑みが零れる。
「大丈夫。絶対に効果は抜群だって。それより今は、須久奈様がいなくなった報告の方が重要案件なの」
暗澹としたため息を吐いて、誓志の腕を掴む。
「あんたも来てよ」
「は?嫌だよ…面倒そうだし…」
渋面を作る誓志を強引に引き摺って、百花の部屋の前で足を止める。襖を軽くノックし、「百花ちゃん」と声をかけた。
「一花ちゃん?」と、襖越しにくぐもった声が聞こえた。
部屋にいたらしい。
しばらくして、襖が開いた。
「どうしたの?2人して…」
百花は目を丸めて、「散らかってるけど」と部屋に入れてくれる。
散らかっていると言っても、着物の帯や帯締めが数本、ベッドの上に広げられているだけだ。
百花の部屋はシンプルで、子供の頃から使っている学習机とベッド、箪笥、本棚くらいしかない。昔から女の子っぽさとは無縁の部屋だけど、机の上や本棚に飾られた写真立てに見繕った写真には、もれなく秋一くんが写っている。
綻びそうになる口元をきつく結んで、百花をベッドに座らせる。私は椅子に腰かけ、誓志は後ろ手で襖を閉めて畳の上に胡坐を組んだ。
百花は意味が分からず、私と誓志を交互に見ている。
「何かあったの?」
「大したことじゃないんだけど、百花ちゃんとかには一大事かもしれないから……その、なんていうか……」
どう切り出そうかと頭を悩ませている私に痺れを切らしたのか、誓志が大仰にため息を吐いた。
「神様がいなくなったんだって」
なんとも素っ気ない口調に、百花はぱちくりと瞬きする。
「え?」
「だから、神様。須久奈様がいなくなったんだって」
じわじわと百花の顔色が悪くなる。
「…ほ…本当に?」
「あ、言っとくけど!10日ほど留守にするってだけで、戻って来ないわけじゃないから!」
慌てて補足するけど、百花の顔色は好転しない。
「モモ姉、大丈夫?」
誓志が心配そうに百花の顔色を見つめている。
百花は額に手を当て、ゆるく頭を振った。
「い…今まで、須久奈様が離れからいなくなるようなことはなかったから…。頭が混乱してて…」
百花は言って、強張った顔のまま俯いた。
そして、ぐずっ、と洟を啜る音が聞こえた。
「わ…私が家出なんてしたから………やっぱり怒られていたのかも………」
目元を拭い、唇を噛み、「私のせいだわ…」と声を震わせる。
「このまま戻られなかったら………」
ぽろぽろと涙が零れて、水色のワンピースに染み込んでいく。
「あのね、百花ちゃん。本当に大丈夫だから」
席を立って、百花の隣に腰かける。
「須久奈様はいなくなった訳じゃなくて、出かけただけだよ?」
再度訂正するも、百花は大きく頭を振って否定する。
「今まで…須久奈様が離れを出ることはなかったの」
予感的中だ。
須久奈様は毎夜、人目を忍んで散歩に出ている。明け方近くに帰って来て、小1時間ほどの睡眠をとるのだ。須久奈様自身、”夜は散歩に行ってる”と言っていた。
コミュニケーションがとれていないから、おかしな仕来りが受け継がれている。
「ねぇ、百花ちゃん。普段の須久奈様ってどんな感じだったの?」
「普段の?」
百花は目元の涙を拭い、考え込むように目を伏せた。
「そうね…。須久奈様は御姿を見られるのが好きではないわ。あと…寡黙…かしら?あまりお話をされるのが好きではないのか、いつも二言三言…。会話とは言えないくらいの、簡素な問答ね…」
そう言って、百花が力なく微笑む。
誓志は丸々と目を瞠って、ゆっくりと私を見た。驚きの表情は、「俺の知ってる神様と違う」と言いたげだ。実際、私が知る須久奈様とも違う。
「ねぇ、百花ちゃん。私はさ、長女じゃなかったから神様に対する礼儀とか…作法?とかいうのは教えられてないんだよね。たぶん、その違いだと思うんだけど……」
私は言って、ゆっくりと百花を見つめる。
「百花ちゃんは、ちゃんと須久奈様と目を合わせて会話してた?」
「まさか!」と、百花は慌てて頭を振った。
「畏れ多いわ」
母も百花も、押し入れを前に平伏しきりだった。
須久奈様も目と目が合ったことはないと言っていた。これは実際に目を見て話せという意味ではなく、面と向き合って対話しろと言いたかったのだろう。
何しろ、須久奈様自身が5秒と目を合わせていられないのだから話にならない。
事務的に二言三言、言葉を繋ぐだけの関係性は、須久奈様に言わせれば”義務”だったのだ。
「百花ちゃん。須久奈様は別に寡黙な神様じゃないわ。人見知りで、恥ずかしがり屋で、押し入れに引きこもってただけ。話しかければ答えてくれるし、分からないことを訊けば教えてくれる。離れだって抜け出して散歩もしてる」
百花は唖然とする。
「それは…本当?」
「初日に本人が言ってた。夜は散歩してるって。実際、私が寝る前くらいに出かけてるよ。いちいち時計は見てないけど、朝方帰って来てる」
「知らなかったわ…」
百花は呟き、「情けない」と自嘲するように笑う。
「私…何も知らないのね…」
「モモ姉は長女だからだろ。ルールに雁字搦めになって、神様に不敬にならないようにって神経すり減らしてたんだから仕方ないよ。イチ姉は次女だから、んなルール無視しした分、色々と見えたんじゃない?」
百花を宥めるように声を和らげ、誓志なりのフォローを口にした。
それから腕を組み、眉間に皺を刻むと私を見る。
「恥ずかしがり屋っていうのには異議を唱えるよ」
「まぁ…そこは私も疑問に思った。おばあちゃんから、恥ずかしがり屋の神様だって聞かされてたから疑わなかったけど、正直、昨日の様子を見て違うなって思った」
「どういうこと?チカくんは…須久奈様を知ってるの?」
理解が追い付かないとばかりに目をぱちくりさせる百花に、誓志は頭を掻いた。
「実は俺、須久奈様に会ってるんだ。会ったと言っても姿が見えないから、声を聞いただけなんだけど」
「…え?」と、百花が絶句する。
「言っておくけど、須久奈様には許可を貰ってたから。須久奈様自身、誓志に興味持ってたし」
これに誓志は怯えたように首を窄め、二の腕を摩り上げた。
「俺の印象は、めちゃくちゃ怖い神様。ただ、寡黙ではなかった。イチ姉の言うように、ちゃんと会話してくれるし、分からないことは教えてくれる」
「ファーストインプレッションがアレだもんね。見てた私も引いた」
けらけらと笑うと、誓志が「笑い事じゃない!」と怒る。
「…どういうこと?」
ぽかんとする百花に、私は苦笑する。
「誓志には神様を見る目はないけど、私たち3人の中で、一番感覚が鋭いんだって。恐怖とか危険とか…そういうのを察知する能力。それのデモンストレーションとして、誓志を実験台にしたの。須久奈様がね」
思い出して、特大のため息が漏れた。
「誓志、泣いちゃったんだよね」
「な、泣いてねぇよ!」
顔を真っ赤にして叫びながら、昨日の恐怖を思い出したのか、ひたすら二の腕を摩っている。
「…そんなことがあったの」
ほんのり哀れみを孕んだ口調だ。
「でも、須久奈様のお陰でチカくんの怖がりの理由が分かったわね」
「お陰でって…。そもそも俺は怖がりじゃねぇし」
頬を膨らませて不貞腐れた誓志に、百花が小さく笑った。
やっと鬱々とした気分を晴らすことができたと、心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、一花ちゃん。須久奈様はどんな御方?チカくんが言うように、やっぱり…怖い神様なの?」
少しだけ不安を乗せた声に、私は嘆息する。
「まぁ…人じゃないから、その違いを感じた時は怖いって思う。でも、誓志みたいに何かを試すように恐怖を煽ってくることはないから大丈夫。お母さんからは身の回りの世話をしてって言われてるけど、意外と一人でなんでもやっちゃうタイプだから、私がやることは殆どないくらい。百花ちゃんが言ってたことで合ってるのは、姿を見られるのが好きじゃないってことかな?日中は引きこもり体質。目を見て話すのが苦手の恥ずかしがり屋……と思ってたんだけど……」
言葉を切って、誓志を見る。
「誓志との態度の差を見て思ったのは、たぶん、女性が不得手なんじゃないかなって思った。誓志が例外ってわけじゃなければ、男嫌いの二重人格」
これには誓志も頷く。
「あと、情緒不安定。笑い方とか照れ方とかが気持ち悪くて……まぁ、トータル根暗気持ち悪い」
そう言うと、百花は呆れたように顔を顰めた。
「神様に言う言葉じゃないわ」
「だって、実際にそうなんだもん」
私は苦笑して、百花の顔を覗き込む。
「10日後、今度は目を見て向き合ってみたら?」
「…お戻りになるかしら?」
「大丈夫だって」
あっけらかんと言う私に、百花は不安を払拭した笑顔を見せた。
「須久奈様が出かけた理由も検討がついてるしね」
「そうなの?」
「あ……サイカミ様」と誓志。
「サイカミ様?」
百花も知らないらしい。
首を傾げて、「なに?」と不安げに眉尻を下げている。
「兼継さんがね、北のサイカミ様が穢れたって騒いでるの。それを須久奈様に話したら、塞の神信仰のことだろうって。黄泉平坂で伊邪那岐と伊邪那美に対話の場を設けた道返之大神という大岩が元で、災いを防ぐという意味から塞の神信仰が広まったという神様で………とくかく、その北のサイカミ様が穢れたせいで、町に風邪が流行ってるってこと。それを調べに行ったんじゃないかなって思う」
「塞の神様は知ってるけど…風邪と繋がってるの?というか、風邪が流行ってるの?」
百花がきょとんとしている。
「そう。兼継さん曰く、サイカミ様が穢れたせいで障りが出てるんだって。その症状が風邪」
「障りが?本当に?」
「学校では風邪が流行りつつあるよ。俺のクラスも風邪ひきがいる」
「知里のとこも従業員とかに咳症状が出てるんだって」
私が言えば、百花は益々不安げに眉尻を下げる。
「うちの蔵では聞かないけど…少し心配ね…」
「須久奈様が動いてくれてるから大丈夫よ」
「逆にさ、須久奈様が動いてるってのが怖いよな。兼じいの妄言じゃないってことだろ?てか、お酒の神様なんだよな?須久奈様」
「なんか言ってたのよね。えっと…なんとか直日…?災いをクリーンにする専門の神様がいるんだって。相談に行ったのかもよ」
2人が安心するように息を吐いた。
とりあえず百花の不安が完全に消え去ったらしい、と安堵する間もなく、がらがらと玄関の戸が開く音が聞こえて来た。
「幸輝さん!早百合さん!」
両親を呼んでいるのは慶三さんの声だ。
慶三さんと言えば、職人気質で冷静沈着。秋一くんに対しては声を荒立てて叱っているのを見たことはあるけど、それ以外は寡黙なイメージしかない。そんな慶三さんが、焦ったように何度も両親を呼んでいる。
誓志が後ろを振り返り、怪訝な表情で襖を開けた。
1階の奥から「どうしました?」と、父が床板を軋ませながら玄関に向かっているのが聞こえる。
「大変なことが起きたかもしれません」
慶三さんの硬い声の後、父が玄関に着いたのか、2人の声は不明瞭なものとなった。
誓志が廊下に身を乗り出しているけど、表情を見るに2人の会話は聞こえないらしい。
「何かあったのかしら?」
百花が不安な顔で立ち上がった。
しばらくして、玄関の戸が閉まった音が聞こえた。
父の足音が聞こえないことを考えると、慶三さんと一緒に外へ出たのだろう。
「須久奈様の留守中に何か大事がなければいいのだけど…」
「大事って酒蔵で?今は大して稼働してないだろ?モモ姉は心配性すぎ」
うちの蔵では、酒造りは秋から冬にかけてが仕込みの最盛期で、春に終盤を迎える。この時期は閑散期でもあるけど、別に暇を持て余している訳じゃない。6月に入って梅酒の仕込みも始まったし、手の空いた蔵人は酒造りに必要な農業に従事している。久瀬家所有の田圃で収穫したお米だけで酒造をしているわけじゃないけど、神社などに奉納するお神酒は久瀬家のお米を使用している。
他にも、空のタンクの清掃や配線の点検も忘れてはいけない。
酒造りはローテクで、木製の酒樽を使ってると思われがちだけど、実情は異なる。職人に必要なものは体力や根気以外にも、電気系統のスキルも重宝される。繁忙期に向けて体力づくりに勤しむ職人もいれば、電気配線の勉強や酒造技能士資格取得を目指している職人。新しいお酒の構想を練るミーティングや若手の指導など多岐にわたる。
そんな中で父の仕事は経理を含む事務仕事と、久瀬酒造のホームページ管理。ネット通販の対応と、裏方業務を一手に担っている。
慶三さんが父を呼びに来たということは、裏方に関わることなのだと思う。
誓志も同じことを思ったのか、「システムがダウンしたんじゃない?」と暢気に笑う。
「慶三さんって、そういうの疎そうだから、大袈裟に騒いでんだよ。意外とコンセントが抜けてたりして」
あり得る、と私も同意すると頷く。
百花は眉根を寄せて誓志を見ていたが、苦言を呈すことなくため息をついた。
「様子を見て来るわ」
「あ…百花ちゃん。須久奈様のこと…お母さんに伝えてほしいんだけど…」
眉尻を下げて百花を見れば、百花は苦笑する。
「そうね。私から伝えておくわ。2人は遅れないように学校へ行きなさい」
「はぁい」と声を揃えた私たちに呆れ、百花は部屋を出て行った。
たぶん、兼継さんは特大ホームランを打ったんだと思う。
ただ、そこからダイヤモンド一周の仕方が分からないのだ。
災いを察知することはできても、対処方法が分からなければ意味がない。現に、「…げほっ、げほっ」と、空咳が教室のあちこちで聞こえる。明らかに、昨日よりも咳き込んでいる生徒数が増えた。
淡々と黒板にチョークを走らせる先生も、時折胸を撫で、喉の違和感に空咳を出している。そのせいか、今日の授業は遅々として進まない。
苦手な数学だからラッキーといえばラッキーだけど、ぐるりと教室を見渡すと不安になる。
昨日は見かけなかったマスク姿の子が、ちらほらと目立つのだ。集中力の欠けた無気力な目に、息苦しそうに胸を撫でる子もいる。
熱がないから仕方なく学校に来た、といった感じだ。
もはや気のせいでは済まなくなってきた。
「今日はここまで」
抑揚のない声が、チャイムと重なった。
40代半ばの数学教師は、10才は老け込んだ顔つきで喉を撫で、教卓の上を片付ける。
生徒同様に倦怠感があるのか、無気力な目のまま、宿題を出すこともなく教室から出て行った。
先生が教室を後にすると、みんながほっと息をつく。それからダラダラと教科書とノートを仕舞い、日直が黒板を消す中、半分の子が気怠げに机に突っ伏した。
前の席の知里が、くるり、と私に向き直る。
「何か進展はあった?」
進展というのは、北のサイカミ様に関する巫女業務のことだ。
私は頭を振った。
「なんにも聞いてない。お姉ちゃんも知らないっぽい」
「従業員とかは大丈夫なの?」
「うちの蔵では誰も風邪っぴきはいないらしいよ。そっちは多いの?」
思わず声を潜めると、知里は深刻な表情で頷いた。
「うちの蔵は、急な発熱で1人。咳をしている人が2人、大事をとって休みにしてるっぽい。タイミング的に、この風邪の流行も悪霊のせいにしてるっぽいけど、熱を出して休んでる従業員は病院に行って診断書ももらってるんだよね。原因不明じゃなくて、扁桃炎」
「そうなんだ…」
知里と顔を見合わせて、思わず苦笑する。
「サイカミ様が何か訊いた?」
「ああ、サイカミ様ね。訊いた、訊いた」
面倒くさそうに手を振っているのを見るに、兼継さんの昔話を延々と聞かされたのだろう。うんざり気味の顔でため息を吐いた。
「なんか大昔に暴れ回った悪霊を封じ込めた大岩なんだって。兼じいは”悪しきもの”って言ってたけど、それって悪霊とかでしょ?飢饉になりそうなところを、サイカミ様が救ってくれたとかなんとか…。その大岩が穢れたから、災いが起こるんだって騒いでるわけよ」
「有名な話なの?」
訊けば、知里は軽く肩を竦めた。
「神社の記録に残ってるんだって。そういうのが。記録って言っても、昔の人の妄想込みでしょ?昔のって信憑性ないよね。実際は台風とか大雨とかの天候が原因で不作になって、飢饉が起きても、なんか悪霊とか妖怪のせいにしそうじゃない?」
「ありそう」と、思わず笑ってしまう。
実際は、丑の刻参りから始まった厄災なんだけど、それを知らなければ昔の人の妄言と一蹴しても仕方ない。私だって須久奈様と出会ってなければ、兼継さんの病気が始まったと聞き流していた。
「兼継さんは朝から走り回ってるんじゃない?」
「正解」と、知里が嘆息する。
「昨日の夜は隣町に向かって、稲荷神社の管理をしてる神主に相談してたんだよね。今朝は町内会の人たちに集合かけて、サイカミ様が、サイカミ様がって大騒ぎ」
「あ…」と、思わず声が零れた。
知里が目を眇めた。
「何か心当たりあるの?」
「あ~…実は今朝、慶三さん…うちの職人さんがね、慌てて両親を呼びに来てたんだよね。大変なことが起きたかもって。私は家を出たから何があったのかは知らないけど、声を聞いた限りだと切羽詰まった感じだった」
もしかするとシステムの問題じゃなくて、サイカミ様の要件だったのかもしれない。
「大事になってるっぽいね」
たぶん、想像以上にヤバい事態になっている。
誓志じゃないけど、今になって須久奈様が動いているという事実が恐ろしくなった。
正確には手紙というほどの内容ではなく、”10日間ほど留守にする”というメモだ。何処に何をしに行ったのかは不明だけど、昨日の今日ということで凡その推測はできる。
北のサイカミ様関連なのだろう。
放置していたことを随分と気に病んでいたし、許容できないとも言っていた。
問題は、須久奈様が出かけたことを両親に知らせるか、否かだ。
両親は須久奈様を妄信している。
神様なんだから信じることは悪いことじゃないけど、代々受け継がれたルールを病的にまで守り抜き、本来の須久奈様とは別人格の神様像を勝手に作り上げている節がある。
神様の定位置は押し入れで、人目に触れることを禁忌とし、離れから出ることはない。なんて思っていても不思議じゃない。
もし本当にそうなら、須久奈様がいなくなったと知れれば卒倒するかもしれない。
だからと言って、黙っているというわけにもいかない。
遅かれ早かれ、昼餉の支度でバレるのだ。
「おはよ、イチ姉。気難しい顔してどうしたの?」
声に頭を上げれば、階段の上に誓志がいる。
器用に片方の眉を跳ね上げて、一歩、階段を下りようとした足を引っ込めた。
「おはよ。朝練じゃないの?」
珍しく制服を着た誓志を見上げながら、とぼとぼと階段を上る。
「今日は休み。で、どうしたんだよ?」
「あ~…うん。百花ちゃん、部屋にいるかなって思って」
階段を上り終え、百花の部屋を指さす。
「台所にいなかったらいるんじゃねぇの?」
「いなかった…。だから来たんだけど…」
「煮え切らない顔だな。どうしたんだよ?」
誓志が腰に手をあて、私の顔を怪訝に覗き込む。
「なんというか…須久奈様がいなくなったの」と小声で告げれば、誓志は「へぇー」と淡泊な反応。
「驚かないんだ」
「驚くようなことなの?」
神様教育を受けていなければ、こんなものなのだろう。
私だって神様教育を受けていないから、置き手紙を見つけた時の感想は「へぇー」だった。
「まぁ、留守にするってだけなんだけど。でも、お母さんと百花ちゃんの反応は違うかも…。ワンクッションって意味を込めて、お母さんよりも柔軟そうな百花ちゃんからお知らせしてみようかなって…」
「あ~…妥当かもな」
誓志は嘆息して頭を掻く。
「パニックにならなきゃいいけど。てか、そんなことより」
誓志は言って、眉間に皺を刻む。
「イチ姉は須久奈様がいなくて大丈夫なのかよ?先輩のこととかあるし」
「そこは抜かりなく。須久奈様お手製の御守りがあるから大丈夫」
私は言って、御守りを入れてるスカートのポケットを軽く叩いた。
須久奈様は置き手紙とは別に、私用の御守りも残していてくれたのだ。
御守りは正方形の和紙に、筆ペンで何かの暗号を描いたものだ。
暗号は、和紙の中央に大きく”井”と書かれている。
♯にも見えるし、〇×ゲームの格子にも見えるけど、井戸の井の方が近い気がする。その井を囲うように、上下左右に見慣れない文字が4つ。象形文字のような、漢字の成り立ちの途中経過のような、単なる落書きのような文字が書かれている。
気持ちが悪いのは、この御守りの裏に描かれた目だ。所々に残る指紋から、須久奈様が指に墨をつけて描いたのが分かる。少女漫画に出てくるような可愛い目ならまだしも、呪符として描きました感が半端なくて恐ろしい目なのだ。
監視されている気がして落ち着かなくなる。
「お酒の神様の御守りかぁ…」
心許ないとばかりに眉尻を下げた誓志に、思わず笑みが零れる。
「大丈夫。絶対に効果は抜群だって。それより今は、須久奈様がいなくなった報告の方が重要案件なの」
暗澹としたため息を吐いて、誓志の腕を掴む。
「あんたも来てよ」
「は?嫌だよ…面倒そうだし…」
渋面を作る誓志を強引に引き摺って、百花の部屋の前で足を止める。襖を軽くノックし、「百花ちゃん」と声をかけた。
「一花ちゃん?」と、襖越しにくぐもった声が聞こえた。
部屋にいたらしい。
しばらくして、襖が開いた。
「どうしたの?2人して…」
百花は目を丸めて、「散らかってるけど」と部屋に入れてくれる。
散らかっていると言っても、着物の帯や帯締めが数本、ベッドの上に広げられているだけだ。
百花の部屋はシンプルで、子供の頃から使っている学習机とベッド、箪笥、本棚くらいしかない。昔から女の子っぽさとは無縁の部屋だけど、机の上や本棚に飾られた写真立てに見繕った写真には、もれなく秋一くんが写っている。
綻びそうになる口元をきつく結んで、百花をベッドに座らせる。私は椅子に腰かけ、誓志は後ろ手で襖を閉めて畳の上に胡坐を組んだ。
百花は意味が分からず、私と誓志を交互に見ている。
「何かあったの?」
「大したことじゃないんだけど、百花ちゃんとかには一大事かもしれないから……その、なんていうか……」
どう切り出そうかと頭を悩ませている私に痺れを切らしたのか、誓志が大仰にため息を吐いた。
「神様がいなくなったんだって」
なんとも素っ気ない口調に、百花はぱちくりと瞬きする。
「え?」
「だから、神様。須久奈様がいなくなったんだって」
じわじわと百花の顔色が悪くなる。
「…ほ…本当に?」
「あ、言っとくけど!10日ほど留守にするってだけで、戻って来ないわけじゃないから!」
慌てて補足するけど、百花の顔色は好転しない。
「モモ姉、大丈夫?」
誓志が心配そうに百花の顔色を見つめている。
百花は額に手を当て、ゆるく頭を振った。
「い…今まで、須久奈様が離れからいなくなるようなことはなかったから…。頭が混乱してて…」
百花は言って、強張った顔のまま俯いた。
そして、ぐずっ、と洟を啜る音が聞こえた。
「わ…私が家出なんてしたから………やっぱり怒られていたのかも………」
目元を拭い、唇を噛み、「私のせいだわ…」と声を震わせる。
「このまま戻られなかったら………」
ぽろぽろと涙が零れて、水色のワンピースに染み込んでいく。
「あのね、百花ちゃん。本当に大丈夫だから」
席を立って、百花の隣に腰かける。
「須久奈様はいなくなった訳じゃなくて、出かけただけだよ?」
再度訂正するも、百花は大きく頭を振って否定する。
「今まで…須久奈様が離れを出ることはなかったの」
予感的中だ。
須久奈様は毎夜、人目を忍んで散歩に出ている。明け方近くに帰って来て、小1時間ほどの睡眠をとるのだ。須久奈様自身、”夜は散歩に行ってる”と言っていた。
コミュニケーションがとれていないから、おかしな仕来りが受け継がれている。
「ねぇ、百花ちゃん。普段の須久奈様ってどんな感じだったの?」
「普段の?」
百花は目元の涙を拭い、考え込むように目を伏せた。
「そうね…。須久奈様は御姿を見られるのが好きではないわ。あと…寡黙…かしら?あまりお話をされるのが好きではないのか、いつも二言三言…。会話とは言えないくらいの、簡素な問答ね…」
そう言って、百花が力なく微笑む。
誓志は丸々と目を瞠って、ゆっくりと私を見た。驚きの表情は、「俺の知ってる神様と違う」と言いたげだ。実際、私が知る須久奈様とも違う。
「ねぇ、百花ちゃん。私はさ、長女じゃなかったから神様に対する礼儀とか…作法?とかいうのは教えられてないんだよね。たぶん、その違いだと思うんだけど……」
私は言って、ゆっくりと百花を見つめる。
「百花ちゃんは、ちゃんと須久奈様と目を合わせて会話してた?」
「まさか!」と、百花は慌てて頭を振った。
「畏れ多いわ」
母も百花も、押し入れを前に平伏しきりだった。
須久奈様も目と目が合ったことはないと言っていた。これは実際に目を見て話せという意味ではなく、面と向き合って対話しろと言いたかったのだろう。
何しろ、須久奈様自身が5秒と目を合わせていられないのだから話にならない。
事務的に二言三言、言葉を繋ぐだけの関係性は、須久奈様に言わせれば”義務”だったのだ。
「百花ちゃん。須久奈様は別に寡黙な神様じゃないわ。人見知りで、恥ずかしがり屋で、押し入れに引きこもってただけ。話しかければ答えてくれるし、分からないことを訊けば教えてくれる。離れだって抜け出して散歩もしてる」
百花は唖然とする。
「それは…本当?」
「初日に本人が言ってた。夜は散歩してるって。実際、私が寝る前くらいに出かけてるよ。いちいち時計は見てないけど、朝方帰って来てる」
「知らなかったわ…」
百花は呟き、「情けない」と自嘲するように笑う。
「私…何も知らないのね…」
「モモ姉は長女だからだろ。ルールに雁字搦めになって、神様に不敬にならないようにって神経すり減らしてたんだから仕方ないよ。イチ姉は次女だから、んなルール無視しした分、色々と見えたんじゃない?」
百花を宥めるように声を和らげ、誓志なりのフォローを口にした。
それから腕を組み、眉間に皺を刻むと私を見る。
「恥ずかしがり屋っていうのには異議を唱えるよ」
「まぁ…そこは私も疑問に思った。おばあちゃんから、恥ずかしがり屋の神様だって聞かされてたから疑わなかったけど、正直、昨日の様子を見て違うなって思った」
「どういうこと?チカくんは…須久奈様を知ってるの?」
理解が追い付かないとばかりに目をぱちくりさせる百花に、誓志は頭を掻いた。
「実は俺、須久奈様に会ってるんだ。会ったと言っても姿が見えないから、声を聞いただけなんだけど」
「…え?」と、百花が絶句する。
「言っておくけど、須久奈様には許可を貰ってたから。須久奈様自身、誓志に興味持ってたし」
これに誓志は怯えたように首を窄め、二の腕を摩り上げた。
「俺の印象は、めちゃくちゃ怖い神様。ただ、寡黙ではなかった。イチ姉の言うように、ちゃんと会話してくれるし、分からないことは教えてくれる」
「ファーストインプレッションがアレだもんね。見てた私も引いた」
けらけらと笑うと、誓志が「笑い事じゃない!」と怒る。
「…どういうこと?」
ぽかんとする百花に、私は苦笑する。
「誓志には神様を見る目はないけど、私たち3人の中で、一番感覚が鋭いんだって。恐怖とか危険とか…そういうのを察知する能力。それのデモンストレーションとして、誓志を実験台にしたの。須久奈様がね」
思い出して、特大のため息が漏れた。
「誓志、泣いちゃったんだよね」
「な、泣いてねぇよ!」
顔を真っ赤にして叫びながら、昨日の恐怖を思い出したのか、ひたすら二の腕を摩っている。
「…そんなことがあったの」
ほんのり哀れみを孕んだ口調だ。
「でも、須久奈様のお陰でチカくんの怖がりの理由が分かったわね」
「お陰でって…。そもそも俺は怖がりじゃねぇし」
頬を膨らませて不貞腐れた誓志に、百花が小さく笑った。
やっと鬱々とした気分を晴らすことができたと、心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、一花ちゃん。須久奈様はどんな御方?チカくんが言うように、やっぱり…怖い神様なの?」
少しだけ不安を乗せた声に、私は嘆息する。
「まぁ…人じゃないから、その違いを感じた時は怖いって思う。でも、誓志みたいに何かを試すように恐怖を煽ってくることはないから大丈夫。お母さんからは身の回りの世話をしてって言われてるけど、意外と一人でなんでもやっちゃうタイプだから、私がやることは殆どないくらい。百花ちゃんが言ってたことで合ってるのは、姿を見られるのが好きじゃないってことかな?日中は引きこもり体質。目を見て話すのが苦手の恥ずかしがり屋……と思ってたんだけど……」
言葉を切って、誓志を見る。
「誓志との態度の差を見て思ったのは、たぶん、女性が不得手なんじゃないかなって思った。誓志が例外ってわけじゃなければ、男嫌いの二重人格」
これには誓志も頷く。
「あと、情緒不安定。笑い方とか照れ方とかが気持ち悪くて……まぁ、トータル根暗気持ち悪い」
そう言うと、百花は呆れたように顔を顰めた。
「神様に言う言葉じゃないわ」
「だって、実際にそうなんだもん」
私は苦笑して、百花の顔を覗き込む。
「10日後、今度は目を見て向き合ってみたら?」
「…お戻りになるかしら?」
「大丈夫だって」
あっけらかんと言う私に、百花は不安を払拭した笑顔を見せた。
「須久奈様が出かけた理由も検討がついてるしね」
「そうなの?」
「あ……サイカミ様」と誓志。
「サイカミ様?」
百花も知らないらしい。
首を傾げて、「なに?」と不安げに眉尻を下げている。
「兼継さんがね、北のサイカミ様が穢れたって騒いでるの。それを須久奈様に話したら、塞の神信仰のことだろうって。黄泉平坂で伊邪那岐と伊邪那美に対話の場を設けた道返之大神という大岩が元で、災いを防ぐという意味から塞の神信仰が広まったという神様で………とくかく、その北のサイカミ様が穢れたせいで、町に風邪が流行ってるってこと。それを調べに行ったんじゃないかなって思う」
「塞の神様は知ってるけど…風邪と繋がってるの?というか、風邪が流行ってるの?」
百花がきょとんとしている。
「そう。兼継さん曰く、サイカミ様が穢れたせいで障りが出てるんだって。その症状が風邪」
「障りが?本当に?」
「学校では風邪が流行りつつあるよ。俺のクラスも風邪ひきがいる」
「知里のとこも従業員とかに咳症状が出てるんだって」
私が言えば、百花は益々不安げに眉尻を下げる。
「うちの蔵では聞かないけど…少し心配ね…」
「須久奈様が動いてくれてるから大丈夫よ」
「逆にさ、須久奈様が動いてるってのが怖いよな。兼じいの妄言じゃないってことだろ?てか、お酒の神様なんだよな?須久奈様」
「なんか言ってたのよね。えっと…なんとか直日…?災いをクリーンにする専門の神様がいるんだって。相談に行ったのかもよ」
2人が安心するように息を吐いた。
とりあえず百花の不安が完全に消え去ったらしい、と安堵する間もなく、がらがらと玄関の戸が開く音が聞こえて来た。
「幸輝さん!早百合さん!」
両親を呼んでいるのは慶三さんの声だ。
慶三さんと言えば、職人気質で冷静沈着。秋一くんに対しては声を荒立てて叱っているのを見たことはあるけど、それ以外は寡黙なイメージしかない。そんな慶三さんが、焦ったように何度も両親を呼んでいる。
誓志が後ろを振り返り、怪訝な表情で襖を開けた。
1階の奥から「どうしました?」と、父が床板を軋ませながら玄関に向かっているのが聞こえる。
「大変なことが起きたかもしれません」
慶三さんの硬い声の後、父が玄関に着いたのか、2人の声は不明瞭なものとなった。
誓志が廊下に身を乗り出しているけど、表情を見るに2人の会話は聞こえないらしい。
「何かあったのかしら?」
百花が不安な顔で立ち上がった。
しばらくして、玄関の戸が閉まった音が聞こえた。
父の足音が聞こえないことを考えると、慶三さんと一緒に外へ出たのだろう。
「須久奈様の留守中に何か大事がなければいいのだけど…」
「大事って酒蔵で?今は大して稼働してないだろ?モモ姉は心配性すぎ」
うちの蔵では、酒造りは秋から冬にかけてが仕込みの最盛期で、春に終盤を迎える。この時期は閑散期でもあるけど、別に暇を持て余している訳じゃない。6月に入って梅酒の仕込みも始まったし、手の空いた蔵人は酒造りに必要な農業に従事している。久瀬家所有の田圃で収穫したお米だけで酒造をしているわけじゃないけど、神社などに奉納するお神酒は久瀬家のお米を使用している。
他にも、空のタンクの清掃や配線の点検も忘れてはいけない。
酒造りはローテクで、木製の酒樽を使ってると思われがちだけど、実情は異なる。職人に必要なものは体力や根気以外にも、電気系統のスキルも重宝される。繁忙期に向けて体力づくりに勤しむ職人もいれば、電気配線の勉強や酒造技能士資格取得を目指している職人。新しいお酒の構想を練るミーティングや若手の指導など多岐にわたる。
そんな中で父の仕事は経理を含む事務仕事と、久瀬酒造のホームページ管理。ネット通販の対応と、裏方業務を一手に担っている。
慶三さんが父を呼びに来たということは、裏方に関わることなのだと思う。
誓志も同じことを思ったのか、「システムがダウンしたんじゃない?」と暢気に笑う。
「慶三さんって、そういうの疎そうだから、大袈裟に騒いでんだよ。意外とコンセントが抜けてたりして」
あり得る、と私も同意すると頷く。
百花は眉根を寄せて誓志を見ていたが、苦言を呈すことなくため息をついた。
「様子を見て来るわ」
「あ…百花ちゃん。須久奈様のこと…お母さんに伝えてほしいんだけど…」
眉尻を下げて百花を見れば、百花は苦笑する。
「そうね。私から伝えておくわ。2人は遅れないように学校へ行きなさい」
「はぁい」と声を揃えた私たちに呆れ、百花は部屋を出て行った。
たぶん、兼継さんは特大ホームランを打ったんだと思う。
ただ、そこからダイヤモンド一周の仕方が分からないのだ。
災いを察知することはできても、対処方法が分からなければ意味がない。現に、「…げほっ、げほっ」と、空咳が教室のあちこちで聞こえる。明らかに、昨日よりも咳き込んでいる生徒数が増えた。
淡々と黒板にチョークを走らせる先生も、時折胸を撫で、喉の違和感に空咳を出している。そのせいか、今日の授業は遅々として進まない。
苦手な数学だからラッキーといえばラッキーだけど、ぐるりと教室を見渡すと不安になる。
昨日は見かけなかったマスク姿の子が、ちらほらと目立つのだ。集中力の欠けた無気力な目に、息苦しそうに胸を撫でる子もいる。
熱がないから仕方なく学校に来た、といった感じだ。
もはや気のせいでは済まなくなってきた。
「今日はここまで」
抑揚のない声が、チャイムと重なった。
40代半ばの数学教師は、10才は老け込んだ顔つきで喉を撫で、教卓の上を片付ける。
生徒同様に倦怠感があるのか、無気力な目のまま、宿題を出すこともなく教室から出て行った。
先生が教室を後にすると、みんながほっと息をつく。それからダラダラと教科書とノートを仕舞い、日直が黒板を消す中、半分の子が気怠げに机に突っ伏した。
前の席の知里が、くるり、と私に向き直る。
「何か進展はあった?」
進展というのは、北のサイカミ様に関する巫女業務のことだ。
私は頭を振った。
「なんにも聞いてない。お姉ちゃんも知らないっぽい」
「従業員とかは大丈夫なの?」
「うちの蔵では誰も風邪っぴきはいないらしいよ。そっちは多いの?」
思わず声を潜めると、知里は深刻な表情で頷いた。
「うちの蔵は、急な発熱で1人。咳をしている人が2人、大事をとって休みにしてるっぽい。タイミング的に、この風邪の流行も悪霊のせいにしてるっぽいけど、熱を出して休んでる従業員は病院に行って診断書ももらってるんだよね。原因不明じゃなくて、扁桃炎」
「そうなんだ…」
知里と顔を見合わせて、思わず苦笑する。
「サイカミ様が何か訊いた?」
「ああ、サイカミ様ね。訊いた、訊いた」
面倒くさそうに手を振っているのを見るに、兼継さんの昔話を延々と聞かされたのだろう。うんざり気味の顔でため息を吐いた。
「なんか大昔に暴れ回った悪霊を封じ込めた大岩なんだって。兼じいは”悪しきもの”って言ってたけど、それって悪霊とかでしょ?飢饉になりそうなところを、サイカミ様が救ってくれたとかなんとか…。その大岩が穢れたから、災いが起こるんだって騒いでるわけよ」
「有名な話なの?」
訊けば、知里は軽く肩を竦めた。
「神社の記録に残ってるんだって。そういうのが。記録って言っても、昔の人の妄想込みでしょ?昔のって信憑性ないよね。実際は台風とか大雨とかの天候が原因で不作になって、飢饉が起きても、なんか悪霊とか妖怪のせいにしそうじゃない?」
「ありそう」と、思わず笑ってしまう。
実際は、丑の刻参りから始まった厄災なんだけど、それを知らなければ昔の人の妄言と一蹴しても仕方ない。私だって須久奈様と出会ってなければ、兼継さんの病気が始まったと聞き流していた。
「兼継さんは朝から走り回ってるんじゃない?」
「正解」と、知里が嘆息する。
「昨日の夜は隣町に向かって、稲荷神社の管理をしてる神主に相談してたんだよね。今朝は町内会の人たちに集合かけて、サイカミ様が、サイカミ様がって大騒ぎ」
「あ…」と、思わず声が零れた。
知里が目を眇めた。
「何か心当たりあるの?」
「あ~…実は今朝、慶三さん…うちの職人さんがね、慌てて両親を呼びに来てたんだよね。大変なことが起きたかもって。私は家を出たから何があったのかは知らないけど、声を聞いた限りだと切羽詰まった感じだった」
もしかするとシステムの問題じゃなくて、サイカミ様の要件だったのかもしれない。
「大事になってるっぽいね」
たぶん、想像以上にヤバい事態になっている。
誓志じゃないけど、今になって須久奈様が動いているという事実が恐ろしくなった。
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