68 / 83
20.初雪
2
しおりを挟む 「ようこそ、アンジュ・オ・スリール、微笑みの天使・・・」
ラングラン公爵は、屋敷の召使いに案内されて、広間に入って来たレティシアを、満面の笑みで見つめた。
グラディウスの王都、セヴェロリンスクの郊外の森の中にある、ミラージュの隠れ家は、古城を改装したものだった。
その古城の広間で、今、レティシアは、ラングラン公爵に対峙していた。
髪の色こそ、白いものが混じっているものの、その面ざしは、アンヌに良く似ていた。
緑色の瞳も、引き締まった体つきも。
ラングラン公爵は、黒のイヴニング・コートに身を包んでいた。
袖には、プラチナに黒真珠が埋め込まれた、洒落たカフスボタンが、光っていた。
それは、まるで、レティシアを迎えるための正装のようだった。
アルカンスィエルのフィリップの屋敷で働いていた時、レティシアはアンジェラと共に、ラングラン家に招待されたことがあった。
ラングラン公爵に会ったのは、その一度きりだった。
その時、レティシアは、歳若く人見知りのアンジェラに優しく話しかける、ラングラン公爵を、素晴らしい紳士だと思った。
思いやりの深いアンヌの父親だけあって、本当に温かな方だと思った。
その、全てがまやかしだったというの・・・。
レティシアはまだ、その現実を受け止めきれないでいた。
「そんなところに立っていないで、火の傍へ。ここの寒さは、ユースティティアの寒さとは、比べ物にならないからね。アンヌは、一緒ではないのかな?まあいい、君さえ戻って来たのなら」
ラングラン公爵は、笑って、レティシアを、ソファへ誘った。
「コニャックを?」
「いえ・・・、結構です」
レティシアの声は、震えていた。
「とても、緊張しているようだ」
ラングラン公爵は、レティシアの傍らに自分も座ると、テーブルのコニャックのグラスを、口にした。
「お尋ねしたいことが・・・、ございます」
「何だね?」
「何故、私を、ミラージュに?一体、どのような理由があって、このようなことを・・・?」
「何故?それは、ミラージュに不要な言葉だ」
「理由なく、私にこのような扱いを強いるのですか?」
「よろしい。知りたいと言うならば、教えてやろう。君には、君の母親の償いをしてもらった」
「私の・・・、お母様?」
レティシアにとって、思いがけない話だった。
「そう。君の母親は、淫売だ。私が、眼をかけてやったのに、裏切った」
「裏切った?」
「そうだ、君の母親は、この私が・・・、あれほど面倒を見てやったというのに、あろうことか男と逃げた。そして君と言う娘まで、産んだ。これを裏切りと言わずに、何と言う?」
「あなたが、お母様を殺したのですか?」
「察しがいい、ブロンディーヌ。父親も一緒にね」
「なんてこと・・・」
レティシアは、声を詰まらせた。
「君は、誤解している。私が、あの女に、どれほどの贅沢をさせてやったかわかるかね?王妃ですら溜息を漏らしそうな、流行りの豪華なドレスの数々、素晴らしい輝きのダイヤモンドに真珠・・・、この世の贅沢という贅沢を、全て与えた。私の愛情全てを、与えた。それを、裏切ったのだ。最も残酷な女だ」
「だから、私に、罰を与えたのですか?幼い私に、あんな・・・、あんなひどいことをさせて・・・」
「その通りだ。母親の罪は、君が贖うのだ。だが・・・、もう、いい」
ラングラン公爵は、レティシアの頬に手をやった。
「母親と同じように、いや、母親以上に、美しくなった。償いは、済んだ、ブロンディーヌ・・・。これからは、君の母親と同じように、私が眼をかけてやろう」
「それでは、私に・・・、これから、あなたの意のままに生きろと?」
「難しく考える必要はない。私は、君に最高の贅沢をさせてやる。私には、それが可能だ。こんなみすぼらしい服は、直ぐに脱ぎ捨てて、素晴らしいドレスを纏うのだ。華やかに着飾り、眩い宝石を身に着け、最高級のワインを日々味わい、美食を口にする。君は、女たちの羨望の的だ・・・」
ラングラン公爵は、堰を切ったように、レティシアを抱きしめ、喉に唇を押しあてた。
「止めて・・・」
レティシアは、悲鳴のような声を上げた。
涙が、頬を伝っていった。
「恥ずかしがることはない」
「豪華なドレスも、高価な宝石も、私は望んでいないの・・・」
「君は、わかっていない」
「何も、わかっていないのは、あなたですわ」
叫ぶようにそう言うと、レティシアは、ラングラン公爵を押し戻して、ソファから、さっと立ちあがった。
「ブロンディーヌ・・・」
ラングラン公爵の瞳に、怒りの色が滲んだ。
「わかっていないのは、あなたの方ですわ。私は、贅沢な暮らしなど、何ひとつ望んでいません。お母様が、望んでいなかったように・・・」
「では、君の望みは何だ?」
ラングラン公爵は、吐き捨てるように言った。
そのぎらつくような怒りが、手に取る様に分かった。
けれども、レティシアは、ひるまなかった。
「自由ですわ・・・」
「何?」
「私の望みは、自由です。ただ、自由になりたいの。ミラージュからも、あなたからも」
「嘘だ!」
「私は、ルションヌで捕まった十四歳まで、自分の、本当の人生を歩んではいませんでした。ダニエルのいいなりに生きて、着飾った人形のようでしたわ。拒否することもできず、自分の意思もないままに、生きていました。それが、当たり前だと思っていました。でも、私は、もう十四歳のブロンディーヌではありません。二十歳のレティシアです。自分の人生は自分で決めます。あなたにも・・・、誰にも、邪魔させたりしない」
「言わせておけば・・・」
と、にじり寄るラングラン公爵から、レティシアは身をかわした。
「では、何故、ここへ来た!」
ラングラン公爵は、大声を上げた。
貴族の品格は、ひとかけらもなく、その忌まわしい本性が姿を現した。
「あなたに、伝えるためですわ。あなたに、思い知らせるためです。私は、あなたの所有物じゃない、って」
ラングラン公爵は、笑いだした。
「面白い。ただし、思い知るのは、君の方だ」
ラングラン公爵は、その手から逃れようとするレティシアのスカートを掴むと、乱暴に引き倒した。
そして、その髪を鷲掴みにし、頬に平手打ちをした。
レティシアは、鼻から、生温かい血が上がって来るのを感じた。
ラングラン公爵は、レティシアの服のボタンを引きちぎると、傍らのステッキを取って、床に倒れ込んだレティシアに、にじり寄って来た。
「まだまだ・・・、お楽しみはこれからだっ・・・!」
ラングラン公爵は、ステッキを振り上げた。
その一瞬の隙をついて、レティシアは、渾身の力で、ラングラン公爵の脛に、体当たりした。
不意を突かれて、ラングラン公爵がよろめいた瞬間、レティシアは、隠し持っていたナイフで切り付けた。
「この・・・」
掴みかかろうとするラングラン公爵の手をわずかに逃れ、レティシアは駆け出した。
「誰か、誰かいないか!」
主の声を聞きつけた、屋敷に滞在する護衛の兵士たちが、すぐに集まった。
「女を捕えろ。絶対に殺すな。殺さずに、必ず捕えろ。追え!」
その命令で、護衛たちは、すぐさまレティシアの後を追った。
「一生、私の手の中だ・・・、ブロンディーヌ」
男は、狂犬のような眼をしていた。
レティシアは、駆けた。
追っ手から逃れるために。
「では、何故、ここへ来た!」
ラングラン公爵は、先ほど、レティシアにそう尋ねた。
あなたに、思い知らせるために。
あなたの所有物じゃないって。
レティシアは、そう答えた。
でも、本当は、違う。
ここへ来た本当の理由は・・・、全てを終わらせるため。
身体が、酷く重かった。
「いたぞ、こっちだ!」
追っ手の声が、耳に入った。
レティシアは、古城の石の階段を駆け降り、逃げた。
けれども、レティシアには、どこをどう走っているのかわからなかった。
凍えそうなほど寒いはずなのに、寒さは気にならなかった。
中庭が眼に入った。
さほど、広い庭ではなかったが、身を隠せそうな木々があった。
レティシアは、そこへ身体を滑り込ませた。
レティシアを探す足音と、怒声が聞こえた。
逃げ切れないことは、良く分かっていた。
時間は、必要なかった。
もう後は・・・、このナイフで胸を突くだけ。
レティシアは、ほうっと、息を吐いた。
息が、白い。
夜空から、レティシアの肩に、落ちてくるものがあった。
触れると、すぐに溶けた。
初雪・・・。
リックも、どこかでこの雪を見ているのだろうか。
ウッドフィールドで、リックと別れてから二十日が過ぎていた。
別れの朝、リックは、私のことをとても心配していた。
迎えに行くと・・・、セヴェロリンスクまで、きっと迎えに行くから待っているようにと、約束させられた。
何かあれば、必ず連絡するようにと、ひとりで、勝手をしてはいけないと、約束させられた。
あの人は、私の死を知って、悲しむだろうか。
ああ・・・、でも強いあの人は、立ち直って、きっと幸せに生きてくれる。
レティシアは、満たされて過ごしたわずかな時間を、愛しく思い返して、微笑んだ。
後悔はなかった。
むしろ、リックを巻き込まずに終わることに、安堵をおぼえていた。
そうだった・・・。
レティシアは、小さな息をもらした。
私は、一度も彼に愛していると、告げなかった。
愛していると告げなかったのは・・・、心のどこかで、ふたりの将来を信じなかったから。
リックと、ブリストンで幸せになれる確信が、持てなかったから。
最初の悲しみが去って、少し落ち着いたなら、疑ってほしい。
ミラージュのブロンディーヌに、騙されたのかもしれない、と。
レティシアは、愛するだけの価値が無かったのかもしれない、と。
そうすれば、早く私を忘れることができるから・・・。
ポケットをさぐると、手に触れるものがあった。
指先で、そっとなぞってみた。
あの日、ラッセルで初めて口づけを交わした日に、買ってもらった子猫のバッジ・・・。
下腹部が、ひどく痛んだ。
痛みに、うめき声が漏れる。
太腿を、生温かいものが伝った。
血だった。
「ごめんね・・・」
レティシアは、優しく下腹部をさすった。
瞳から、涙があふれた。
レティシアを探す、兵士たちの声が近くなる。
レティシアは、ナイフを握る手に力を込めて、胸を突いた。
ポケットから、子猫のバッジが滑り落ちた。
小枝を踏みしめる音が、鋭く響く。
アンヌだった。
その手には、鋭いナイフがあった。
そして、倒れているレティシアの姿を、氷のような冷たい眼差しで見つめていた。
ラングラン公爵は、屋敷の召使いに案内されて、広間に入って来たレティシアを、満面の笑みで見つめた。
グラディウスの王都、セヴェロリンスクの郊外の森の中にある、ミラージュの隠れ家は、古城を改装したものだった。
その古城の広間で、今、レティシアは、ラングラン公爵に対峙していた。
髪の色こそ、白いものが混じっているものの、その面ざしは、アンヌに良く似ていた。
緑色の瞳も、引き締まった体つきも。
ラングラン公爵は、黒のイヴニング・コートに身を包んでいた。
袖には、プラチナに黒真珠が埋め込まれた、洒落たカフスボタンが、光っていた。
それは、まるで、レティシアを迎えるための正装のようだった。
アルカンスィエルのフィリップの屋敷で働いていた時、レティシアはアンジェラと共に、ラングラン家に招待されたことがあった。
ラングラン公爵に会ったのは、その一度きりだった。
その時、レティシアは、歳若く人見知りのアンジェラに優しく話しかける、ラングラン公爵を、素晴らしい紳士だと思った。
思いやりの深いアンヌの父親だけあって、本当に温かな方だと思った。
その、全てがまやかしだったというの・・・。
レティシアはまだ、その現実を受け止めきれないでいた。
「そんなところに立っていないで、火の傍へ。ここの寒さは、ユースティティアの寒さとは、比べ物にならないからね。アンヌは、一緒ではないのかな?まあいい、君さえ戻って来たのなら」
ラングラン公爵は、笑って、レティシアを、ソファへ誘った。
「コニャックを?」
「いえ・・・、結構です」
レティシアの声は、震えていた。
「とても、緊張しているようだ」
ラングラン公爵は、レティシアの傍らに自分も座ると、テーブルのコニャックのグラスを、口にした。
「お尋ねしたいことが・・・、ございます」
「何だね?」
「何故、私を、ミラージュに?一体、どのような理由があって、このようなことを・・・?」
「何故?それは、ミラージュに不要な言葉だ」
「理由なく、私にこのような扱いを強いるのですか?」
「よろしい。知りたいと言うならば、教えてやろう。君には、君の母親の償いをしてもらった」
「私の・・・、お母様?」
レティシアにとって、思いがけない話だった。
「そう。君の母親は、淫売だ。私が、眼をかけてやったのに、裏切った」
「裏切った?」
「そうだ、君の母親は、この私が・・・、あれほど面倒を見てやったというのに、あろうことか男と逃げた。そして君と言う娘まで、産んだ。これを裏切りと言わずに、何と言う?」
「あなたが、お母様を殺したのですか?」
「察しがいい、ブロンディーヌ。父親も一緒にね」
「なんてこと・・・」
レティシアは、声を詰まらせた。
「君は、誤解している。私が、あの女に、どれほどの贅沢をさせてやったかわかるかね?王妃ですら溜息を漏らしそうな、流行りの豪華なドレスの数々、素晴らしい輝きのダイヤモンドに真珠・・・、この世の贅沢という贅沢を、全て与えた。私の愛情全てを、与えた。それを、裏切ったのだ。最も残酷な女だ」
「だから、私に、罰を与えたのですか?幼い私に、あんな・・・、あんなひどいことをさせて・・・」
「その通りだ。母親の罪は、君が贖うのだ。だが・・・、もう、いい」
ラングラン公爵は、レティシアの頬に手をやった。
「母親と同じように、いや、母親以上に、美しくなった。償いは、済んだ、ブロンディーヌ・・・。これからは、君の母親と同じように、私が眼をかけてやろう」
「それでは、私に・・・、これから、あなたの意のままに生きろと?」
「難しく考える必要はない。私は、君に最高の贅沢をさせてやる。私には、それが可能だ。こんなみすぼらしい服は、直ぐに脱ぎ捨てて、素晴らしいドレスを纏うのだ。華やかに着飾り、眩い宝石を身に着け、最高級のワインを日々味わい、美食を口にする。君は、女たちの羨望の的だ・・・」
ラングラン公爵は、堰を切ったように、レティシアを抱きしめ、喉に唇を押しあてた。
「止めて・・・」
レティシアは、悲鳴のような声を上げた。
涙が、頬を伝っていった。
「恥ずかしがることはない」
「豪華なドレスも、高価な宝石も、私は望んでいないの・・・」
「君は、わかっていない」
「何も、わかっていないのは、あなたですわ」
叫ぶようにそう言うと、レティシアは、ラングラン公爵を押し戻して、ソファから、さっと立ちあがった。
「ブロンディーヌ・・・」
ラングラン公爵の瞳に、怒りの色が滲んだ。
「わかっていないのは、あなたの方ですわ。私は、贅沢な暮らしなど、何ひとつ望んでいません。お母様が、望んでいなかったように・・・」
「では、君の望みは何だ?」
ラングラン公爵は、吐き捨てるように言った。
そのぎらつくような怒りが、手に取る様に分かった。
けれども、レティシアは、ひるまなかった。
「自由ですわ・・・」
「何?」
「私の望みは、自由です。ただ、自由になりたいの。ミラージュからも、あなたからも」
「嘘だ!」
「私は、ルションヌで捕まった十四歳まで、自分の、本当の人生を歩んではいませんでした。ダニエルのいいなりに生きて、着飾った人形のようでしたわ。拒否することもできず、自分の意思もないままに、生きていました。それが、当たり前だと思っていました。でも、私は、もう十四歳のブロンディーヌではありません。二十歳のレティシアです。自分の人生は自分で決めます。あなたにも・・・、誰にも、邪魔させたりしない」
「言わせておけば・・・」
と、にじり寄るラングラン公爵から、レティシアは身をかわした。
「では、何故、ここへ来た!」
ラングラン公爵は、大声を上げた。
貴族の品格は、ひとかけらもなく、その忌まわしい本性が姿を現した。
「あなたに、伝えるためですわ。あなたに、思い知らせるためです。私は、あなたの所有物じゃない、って」
ラングラン公爵は、笑いだした。
「面白い。ただし、思い知るのは、君の方だ」
ラングラン公爵は、その手から逃れようとするレティシアのスカートを掴むと、乱暴に引き倒した。
そして、その髪を鷲掴みにし、頬に平手打ちをした。
レティシアは、鼻から、生温かい血が上がって来るのを感じた。
ラングラン公爵は、レティシアの服のボタンを引きちぎると、傍らのステッキを取って、床に倒れ込んだレティシアに、にじり寄って来た。
「まだまだ・・・、お楽しみはこれからだっ・・・!」
ラングラン公爵は、ステッキを振り上げた。
その一瞬の隙をついて、レティシアは、渾身の力で、ラングラン公爵の脛に、体当たりした。
不意を突かれて、ラングラン公爵がよろめいた瞬間、レティシアは、隠し持っていたナイフで切り付けた。
「この・・・」
掴みかかろうとするラングラン公爵の手をわずかに逃れ、レティシアは駆け出した。
「誰か、誰かいないか!」
主の声を聞きつけた、屋敷に滞在する護衛の兵士たちが、すぐに集まった。
「女を捕えろ。絶対に殺すな。殺さずに、必ず捕えろ。追え!」
その命令で、護衛たちは、すぐさまレティシアの後を追った。
「一生、私の手の中だ・・・、ブロンディーヌ」
男は、狂犬のような眼をしていた。
レティシアは、駆けた。
追っ手から逃れるために。
「では、何故、ここへ来た!」
ラングラン公爵は、先ほど、レティシアにそう尋ねた。
あなたに、思い知らせるために。
あなたの所有物じゃないって。
レティシアは、そう答えた。
でも、本当は、違う。
ここへ来た本当の理由は・・・、全てを終わらせるため。
身体が、酷く重かった。
「いたぞ、こっちだ!」
追っ手の声が、耳に入った。
レティシアは、古城の石の階段を駆け降り、逃げた。
けれども、レティシアには、どこをどう走っているのかわからなかった。
凍えそうなほど寒いはずなのに、寒さは気にならなかった。
中庭が眼に入った。
さほど、広い庭ではなかったが、身を隠せそうな木々があった。
レティシアは、そこへ身体を滑り込ませた。
レティシアを探す足音と、怒声が聞こえた。
逃げ切れないことは、良く分かっていた。
時間は、必要なかった。
もう後は・・・、このナイフで胸を突くだけ。
レティシアは、ほうっと、息を吐いた。
息が、白い。
夜空から、レティシアの肩に、落ちてくるものがあった。
触れると、すぐに溶けた。
初雪・・・。
リックも、どこかでこの雪を見ているのだろうか。
ウッドフィールドで、リックと別れてから二十日が過ぎていた。
別れの朝、リックは、私のことをとても心配していた。
迎えに行くと・・・、セヴェロリンスクまで、きっと迎えに行くから待っているようにと、約束させられた。
何かあれば、必ず連絡するようにと、ひとりで、勝手をしてはいけないと、約束させられた。
あの人は、私の死を知って、悲しむだろうか。
ああ・・・、でも強いあの人は、立ち直って、きっと幸せに生きてくれる。
レティシアは、満たされて過ごしたわずかな時間を、愛しく思い返して、微笑んだ。
後悔はなかった。
むしろ、リックを巻き込まずに終わることに、安堵をおぼえていた。
そうだった・・・。
レティシアは、小さな息をもらした。
私は、一度も彼に愛していると、告げなかった。
愛していると告げなかったのは・・・、心のどこかで、ふたりの将来を信じなかったから。
リックと、ブリストンで幸せになれる確信が、持てなかったから。
最初の悲しみが去って、少し落ち着いたなら、疑ってほしい。
ミラージュのブロンディーヌに、騙されたのかもしれない、と。
レティシアは、愛するだけの価値が無かったのかもしれない、と。
そうすれば、早く私を忘れることができるから・・・。
ポケットをさぐると、手に触れるものがあった。
指先で、そっとなぞってみた。
あの日、ラッセルで初めて口づけを交わした日に、買ってもらった子猫のバッジ・・・。
下腹部が、ひどく痛んだ。
痛みに、うめき声が漏れる。
太腿を、生温かいものが伝った。
血だった。
「ごめんね・・・」
レティシアは、優しく下腹部をさすった。
瞳から、涙があふれた。
レティシアを探す、兵士たちの声が近くなる。
レティシアは、ナイフを握る手に力を込めて、胸を突いた。
ポケットから、子猫のバッジが滑り落ちた。
小枝を踏みしめる音が、鋭く響く。
アンヌだった。
その手には、鋭いナイフがあった。
そして、倒れているレティシアの姿を、氷のような冷たい眼差しで見つめていた。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる