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海子

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17.イーオン<永遠> 前編

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 サラは右腕にだるさを感じて、窓を拭く手を止めた。 
そして、右腕を、左の手で、揉んだ。 
朝の掃除は、使用人としての日課だった。 
だが、以前に比べて、ずっと仕事の量は増えた。 
理由は、明らかだったし、誰のせいでもないのだから、仕方のないことだった。 
けれども、毎日、シルヴィアから、次々と、屋敷の雑用を、休む間もなく言いつけられると、疲れのせいからか、気分も重くなりがちで、若いサラですら、今のように、身体に痛みを覚えることが、時折あった。 
サラの仕事の仕事が、増えた理由。 
それは、単純に、使用人の数が減ったからだった。



 半年前、屋敷の主、ゴードン伯爵が亡くなった。 
そして、ゴードン伯爵が亡くなった後、莫大な借金があることがわかった。
どういう類いの借金なのか、使用人のサラには、詳しくはわからなかったが、屋敷の使用人たちの間では、旦那様は、信頼していた知人に騙されたのだと、もっぱらの噂だった。 
大変だったのは、残された病弱な妻女エレノーラと、サラと同じ十七歳になる、美しく勝気な娘シルヴィアだった。
ゴードン伯爵亡きあと、屋敷に、難しそうな顔をした貴族、もしくは実業家風の男たちがやってきては、深刻な話し合いが度々なされて、その度に、青ざめた表情になるエレノーラと、シルヴィアを、サラは何度も目にしていた。 
だから、八人いた屋敷の使用人が、三人に減らされて、サラの仕事の量が、格段に増えたのだとしても、サラは不満を述べる気にはなれなかった。 
まだ、雇ってもらえていることだけでも、有り難かった。 
そんな中、昨日、同じくゴードン家に仕える同僚から、妙な話を耳にした。 
お嬢様が、グラディウスのミグノフ総督と婚約されるかもしれない。 
その話を、最初に聞いた時、サラは耳を疑った。 
お嬢様が、ミグノフ総督と婚約ですって? 



 このイーオンという小さな王国は、かつてフォルティスを宗主国としていた。 
イーオンは、フォルティスより自治を認められ、豊かな自然に包まれて、人々は穏やかな生活を送っていた。 
ところが、七年ほど前、グラディウスのアレクセイ国王が、突如軍事介入してきて、圧倒的な軍事力と政治力で、イーオンを侵略してしまった。 
以来、イーオンの国王は、飾り物のように据え置かれ、実際には、グラディウスのアレクセイ国王の命を受け、王都セヴェロリンスクからやって来た、ミグノフ総督が、実権を握っていた。 
それは、イーオンの民に、暗い影を落とした。 
自由は弾圧され、わずかでも、グラディウスに刃向かう不穏な気配があれば、即刻、拷問、処刑となった。
みな、震えあがった。 
かつての穏やかなイーオンは消え去り、今、イーオンという国は、欺瞞と敵意と悪意と殺意に満ちていた。 
その中での、湧いて出た様なシルヴィアとミグノフ総督との婚約。
イーオンの民を、繁栄から取り残された時代遅れの田舎者と嘲笑い、公言する、グラディウスの不躾なミグノフ総督は、再婚で、五十歳を過ぎていた。 
その総督と、シルヴィアとの結婚が、サラには、どう考えても、普通の縁談のようには思えなかった。 
もしかして・・・。 
サラの脳裏に思い浮かぶのは、政略結婚の文字だった。 
ミグノフ総督は、イーオンの貴族を妻に迎えて、名実ともにイーオンという国を、支配しようとしている。 
サラには、そう思えてならなかった。 
でも、もし、そうなったら・・・。 
シルヴィアは、イーオンの貴族たちから、いや、貴族たちだけではなく、イーオンの国民の、憎悪の対象となるだろう。
イーオンをグラディウスに売った、売国奴のように、思われるのではないか。
賢いサラには、そういったことが容易に想像がついた。 
そして、もし、そうなったら・・・、私はどうなるのかしら? 
サラの賢そうな茶色の瞳が、憂いを帯びた。 
ミグノフ総督の屋敷に、自分のような者がやとってもらえるとは、思えなかった。



 サラは、孤児だった。
自分の出自は、わからなかった。
物心ついた時には、イーオンの、とある子だくさんの夫婦の元に引き取られていた。 
悪い養父母ではなかった。 
詳しい経緯を聞いたことはなかったが、七人も子供がいたにも関わらず、身寄りのないサラを迎えいれてくれた訳だから、心の広い人たちに違いなかった。
けれども、決して裕福ではない上に、十歳のサラよりも、年下の子供が五人もいて、その子守りだけでも、サラは目の回る忙しさだった。 
状況が状況だけに、サラは、まだ小さな子供の折から、子守り、洗濯、炊事、そういった家事を任せられていた。
そして、十四の歳、養父の知人の紹介で、この屋敷に奉公に出て、三年が経った。 
サラの賢さを見抜いた、ゴードン家の勝気で利発な娘シルヴィアは、自分と同い年のサラを殊更気に入り、時間を見つけては、サラに、読み書きや計算を教えてくれた。 
そのことを、サラは心から感謝し、シルヴィアに尽くしてきたのだが・・・。 
半年前、ゴードン伯爵が亡くなった頃から、シルヴィアの様子が変わって来た。
サラに対して、次第にきつく当たるようになり、時には、嫌われているのではないかとさえ、思えるようになった。 
それは、ゴードン伯爵の残した莫大な借金の、心労によるものなのかしら。
それとも・・・。 
サラがそこまで考えた時、 
「サラ、まだ窓の拭き掃除をしているの?午後から、お客様がお見えなのよ。やらければならないことは、たくさんあるんですからね」 
シルヴィアの、きつい声がサラの耳に届いた。
「はい、今まいります、お嬢様」 
サラは、慌てて声のする方へと足を向けた。 



 「倒れたなんて聞いて、驚いたのよ。あなたにまで何かあったら、シルヴィアは、一体どうなってしまうの」 
午後から、ゴードン家を訪れたのは、ジェームズ・ナイトレイ伯爵と、その母オーガスタだった。
応接間に案内されたオーガスタは、エレノーラの顔を見るなりそう言って、三十年来の親友でもあるエレノーラの手を握った。 
「みんな大げさなのよ。少し疲れが出て、ふらついただけで、大騒ぎして」 
そうは言うものの、ソファに座ったエレノーラの顔色は、決して良くはなかった。 
元々、病弱で、痩身のエレノーラだったが、半年前、夫であるゴードン伯爵が亡くなってからは、見ていられない程のやつれようで、少しばかり白い物が混じっていただけだった髪は、一切の黒髪が無くなってしまっていた。
「小母様、お困りのことがあったら、ご相談下さい。ゴードン伯爵が亡くなってからの御心配事は、聞き及んでいます。何もご相談いただけないことの方が、他人行儀に思えて、返ってつらいのです」 
ジェームズが、落ち着いた、穏やかな声で言った。
「御心配には及びません。確かに、お父さまが亡くなって、少し不手際があったことは事実よ。でも、問題は、もうすぐ解決するの」 
窓辺に立つ、一人娘のシルヴィアが、ジェームズに強い光を持つ瞳を向けた。
シルヴィアは、目鼻立ちの整った美しい娘だった。 
くっきりとした二重の瞳は、気性の強さを表すような鋭さが合った。
身にまとう暗緑色のドレスのせいか、十七歳とは思えない程、大人びているように見えた。 
ふたりは、イーオンという小国の貴族であり、母親同士の交流が深かったことから、幼い頃から行き来があった。 
それだけに、ゴードン家が抱える問題について、心配をかけまいとしているのか、何一つ相談のないことが、ジェームズには、もどかしかった。
「解決?」
「ええ、全て解決するわ」 
訝しげな表情のジェームズに、シルヴィアは、笑みを浮かべた。 
「最近、妙な、噂を耳にしたのだが・・・」 
ジェームズのいう噂に、心当たりがあったせいか、シルヴィアは、視線を逸らせた。
「シルヴィア、君に、ミグノフ総督との婚約の話が・・・」 
「仮に、そうだとしても、あなたには、何の関係もないわ」 
シルヴィアは、最後まで、ジェームズに話をさせなかった。
そして、ようやくシルヴィアは、理解した。 
何故、オーガスタがジェームズを連れて、突然わざわざやって来たのか。
エレノーラの見舞いを兼ねて、シルヴィアとミグノフ総督との結婚話の真偽を、探りに来たのだと、そう理解した。
「これは、イーオンの尊厳にかかわる事態だ。見過ごすわけにはいかないね」
「あなたがどう思うかは、あなたの自由ですけれど、私の将来は、あなたの決めることではないわ」 
「シルヴィア・・・」 
「このお話は、もうこれでお仕舞」 
シルヴィアが、有無を言わせぬ声音で、ぴしりとそう言いきった時、サラがお茶の支度をして応接間に入って来た。
サラは、応接間に入った時から、緊張した空気を感じ取っていた。 
何か、重大で深刻な話し合いがあったのだということは、想像がついた。 
そして、それが、シルヴィアの結婚話だということも、賢いサラには予想できた。 
だから、テーブルの上に、できるだけ静かに手早くお茶の支度を整えると、その場を立ち去ったほうがいいのだと思った。 
「サラ、久しぶりだね」 
サラが、伏し目がちに、速やかにティーカップをならべていると、ジェームズが優しい眼差しを、サラに向けた。 
「お久しぶりでございます」 
「少し見ない間に、見違えたよ」 
サラの頬が、照れたように赤くなった。
サラは、小さく頭を下げると、そのまま黙って、応接間を出た。 
応接間を足早に離れてから、サラはほうっと、息をついた。 
ジェームズがサラに声をかけた時、サラは、窓辺に立つシルヴィアの方を見ることはしなかった。 
けれどもサラは、シルヴィアの突き刺さるような視線を、感じていた。 



 オーガスタは、そう長居はしなかった。
しなかったというよりも、させてもらえなかったという方が正しかった。 
エレノーラも、シルヴィアも、取りつく島がなかった。 
大丈夫、問題ない、そういったことを繰り返すばかりで、オーガスタと、ジェームズに心を開くことはなかった。 
それでも、帰り際、馬車にオーガスタとジェームズが乗り込むまで、シルヴィアは、見送りに出た。
「また、来るよ」 
別れ際、ジェームズは、穏やかな眼差しをシルヴィアに向けた。 
「いいえ、あなたも、小母さまも、もうここへは来ない方がいいわ。ここへ来ても・・、何も、お話するようなことはありませんから」 
「シルヴィア・・・」
「早く出して」
馬車に乗り込んだジェームズの代わりに、シルヴィアは、御者に告げた。
それはまるで、追い返されるかの体だった。 
御者、つまり、ハリーは、主でもない、若い娘にそう言われて幾分驚いたが、シルヴィアの言う通り、馬車を出した。 
やれやれ、ずいぶんと気の強そうなお嬢さんだ。
ハリーは馬車を出しながら、そう思った。 

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