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6.公爵令嬢 アンヌ
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「何だよ、あんた」
リックは、眼を丸くした。
まだ、化け物が立っていた方が、驚かなかったかもしれない。
「話があります」
アンヌは、深い緑色の瞳を、リックに投げかけた。
「話なら、ここで聞く」
「どこかへいくつもりでは、なかったのですか?」
「あんたには関係ない」
リックは、アンヌに負けない程の強い光を放つ黒い瞳で、鋭角にアンヌを見下ろした。
背の高いアンヌだったが、それでもリックの方が、頭一つ分は優に高かった。
せっかく得た自由な時間を、アンヌにぶち壊されるのだけは避けたかった。
「案内なさい」
「は?」
「あなたが、行こうとしているところへ、わたくしを案内なさい」
「冗談も大概にしろよ」
「冗談を言っているつもりはありません。あなたが行くところには、心当たりがあります。わたくしは、あなたに話があると言ったのです。ですからそこで、ゆっくりわたくしの話を聞いてもらいます。あなたも、わたくしに話があることでしょう」
「話なんかない」
リックは、苛立っていた。
「本当に?」
アンヌに話は、なかった。
けれども、言いたいことなら、山ほどあった。
傲慢な態度、高慢な話し方、人を見下したような眼、どれも気に入らなかった。
ブリストンで、刺客に追われた時、馬に乗るのを手伝ってやったのは、一体、誰だと思ってるんだ!
今、どう言っても、アンヌは、帰りそうになかった。
半ば、リックは自棄になった。
そっちがそう言うなら、付いてくるがいい。
その代わり、どうなっても、俺の知ったことじゃないぜ。
リックは、アンヌをじろりと睨むと、すたすた歩き始めた。
アンヌは、そのリックの後ろを、いつもと変わらず、そこがまるで、宮殿の廊下でもあるかのように、堂々と、威厳を持って歩いた。
キャメルは、盛況だった。
仕事を終えた労働者たちが集い、立ったままテーブルを囲んで、酒と料理に舌鼓を打ちながら、それぞれ会話を楽しんでいた。
その難しい顔をした奇妙な二人連れが、キャメルに入って来るのを眼にした時、その場に居合わせた人たちは、俄然興味を引かれた。
ひとりは背が高く、体格のいい、気の強そうな男だった。
帽子にシャツ、着古したジャケットにズボン、革製の脚絆という、労働者風の格好をしていた。
これは、キャメルにいても何ら違和感が、なかった。
今、キャメルにいるのは、大概がこの男のような身なりの労働者だった。
けれどももうひとりは、女だった。
キャメルに、女はひとりもいなかった。
キャメルという酒場にいるのは、労働者の男に限られていたわけである。
だから、女が入って来たというだけで、男たちの眼は、一斉にそちらを向いた。
しかも入って来たのは、若くて、深い緑色の瞳を持つ、身なりのいい貴族と思しき女だった。
女は、すらりと引き締まった身体つきで、臙脂(えんじ)色の上品なドレスを身に着けていた。
それは、着の身着のままブリストンを逃げ出したアンヌに、リックがノックスで取り急ぎ手に入れた着替えだったが、レティシアに、ぴったり身体に合うよう直させて、まるでアンヌのために縫いあげたドレスのようだった。
リボンや、刺繍などの目立った飾りのない、シンプルなドレスだったが、その方が返って、アンヌの品格を際立たせた。
アンヌの身分を考えれば、古着に袖を通すなどありえなかったが、場合が場合のせいか、アンヌが苦情を言うことはなかった。
そして、艶のある黒みがかった茶色い髪は、きれいに後ろでまとめ上げてあり、少しの乱れもなかった。
この入って来た男と女、どうみても、恋人同士には見えなかった。
さりとて、主人と侍従の関係にも見えなかった。
キャメルに居合わせた男たちは、会話を止め、この奇妙な男と女の二人連れ・・・、リックとアンヌに、注目した。
リックは、カウンターに付くと、アルコール度数の高いビールを注文した。
アンヌに何を飲むか尋ねると、
「わたくしにも、同じものを」
と、言った。
リックは、内心、本気かよ、と思ったものの、もう止める気にもならなかった。
客たちの視線は、店に入った時から、感じていた。
無理もない。
男だらけの労働者が集う酒場に、貴族の女が乗り込んできたのだ。
店始まって以来の珍事と言っても、良かっただろう。
「俺に話というのは?」
リックは、運ばれて来たジョッキにまず口をつけてから、アンヌに尋ねた。
二人の会話に、キャメルの客たちが、聞き耳を立てていることは、明らかだった。
「他でもありません。わたくしに対するその無礼な態度について、忠告があります」
「何だと?」
「あなたの態度は、わたくしに対して、礼を欠いていると忠告しているのです」
「それは、こっちの台詞だ」
言わせておけば、とリックの方も、きつい口調になった。
「失礼な態度をとってるのは、一体どっちだ?貴族だからって、何だってんだ?貴族以外は、まるで人間じゃないような態度を取りやがって。確かに、俺はあんたに雇われてる。あんたから、金をもらってるさ。だからって、その人を見下したような態度は、気に入らないね。貴族が、そんなに俺たちよりえらいのか?」
キャメルのあちこちから、拍手が起こった。
事情はなんだかよくわからないが、キャメルにいる労働者たちには、リックの言うことはもっともだと、思う者が多数いた。
いいぞ、もっと言ってやれ、という掛け声まで聞こえた。
けれども、アンヌは冷静だった。
周囲は全員敵とも思える、圧倒的に劣勢なこの状況にも、ひるむ様子は、全くなかった。
だいたい、このような場所に乗り込んで来る貴族の女はいないし、万一このような状況になれば、大抵の女ならば、泣き出すか逃げ出しただろう。
貴族の箱入り娘なら、尚更だ。
けれどアンヌは、泣きだすどころが、強い緑色の瞳に、一層強い色をたぎらせて、リックを見つめた。
それに関しては、大した根性だと、リックも認めざるを得なかった。
「あなたの言いたいことは、よくわかりました。けれども、間違っているのは、やはりあなたの方です。よろしいですか?」
と、ここで、アンヌは言葉を切って、ぐっと、さらにリックを睨みつけた。
「そもそもブリストンで、あなたは、引き受けるつもりもないのに、わたくしたちの前に現れました。どうあっても、断るつもりであったのに、フランク先生のお顔を立てて、わたくしたちの話を聞きにきました。それは、卑怯な態度であったと思いませんか?」
確かに、そう言われると、返す言葉がなかった。
「それに対して、わたくしが礼儀正しい振る舞いで応えなかったからと言って、どうして非難を受ける言われがありましょう。不誠実なのは、そちらです」
正論だった。
「あなたがあの時、引き返して来たのは、あなたが紳士だからではありません。もっと、世俗的な理由からです」
アンヌのその深い緑色の瞳で、はっきりそう言われると、リックは、心のうちを見透かされたような気分になった。
「あなたは、わたくしが、あなたを見下していると言いました。けれども、それは、間違っています。あなたの方こそ、わたくしたち貴族を、見下しているからこそ、わたくしもあなたを見下すのです」
「何だって?」
「貴族だからって、何さまのつもりだ、最初から、わたくしをそのように見下していたでしょう」
「・・・」
「貴族には、誇りがあります。当然です。あなたがたが日々労働し、国の礎となっているように、貴族にも、貴族としての誇りと務めがあります」
アンヌは、きっぱりと、言いきった。
「その貴族としての使命感が、あなた方とは異なっているからと言って、ひがんだり、そのような侮蔑を持つことは、差別です。よろしいですか?」
と、アンヌは、ジョッキに注がれた、まだ手のつけていないビールをしばし眺めた。
そしてアンヌは、おもむろに、ジョッキをしっかり両手で持つと、唖然とする男たちを尻目にビールに口をつけて、一気に喉へ運んだ。
「おい、止めとけよ、おい」
リックが慌てて声をかけたが、アンヌは聞き入れなかった。
リックは蒼くなった。
こんなところで、倒れられでもしたら、どうすりゃいいんだ!
キャメルの男客全員の視線を受けて、アンヌは、ジョッキを飲み干した。
丁寧に、両手で、ジョッキをカウンターに置くと、深く息をついた。
「おい、大丈夫か・・・」
そのリックの心配は無視して、アンヌは、ポーチの中から、ハンカチを取り出すと、丁寧に口をぬぐった。
「今日は、有意義なひと時でした。わたくしたちには、身分に関する相互理解が必要であることがよくわかりました。いえ・・・、付き添いは結構です。わたくしは、ひとりで帰れます。では、みなさま、ごきげんよう」
アンヌは、支払うべき額がわからなかったせいもあるだろうが、かなり多めの金額をカウンターに置いた。
そして、踵を返すと、一度、足がふらついたものの、いつもの威厳のある態度で、まっすぐ前を向いて、キャメルを後にする。
客のひとりが、まるでアンヌの下僕であるかのように、恭しくドアを開けた。
アンヌは、威厳を持ってその男に会釈をした。
アンヌが、キャメルを去った後、どこからともなく拍手が起こった。
そして、それは次第に大きくなっていって、やがて、店全体に大きく広がった。
口笛を吹くもの、貴族万歳と叫ぶ者まで現れて、アンヌに対する拍手喝采は、しばらくやまなかった。
リックは、その喝采に背を向けるように、首を振って、カウンターに向かい、ビールを一口飲んだ。
リックが女に奢られたのは、これが最初で最後だった。
タヴァンの前で、リックは、しばらく立ち止まっていた。
あれから、アンヌがどうなって、どうやってタヴァンまで帰りついたのか、帰りつかなかったのか、知るのが怖かった。
大体、今は目立った行動は避けなければならないはずなのに、あれほど目立つ行動はなかった。
もう、すっかり夜だった。
リックは、気を取り直した。
俺は、何も悪いことはしていない。
無理やり付いて来たのは、向こうだ。
俺が誘ったわけじゃない。
そう自分に言い聞かせると、タヴァンの階段を、逃げるようにささっと上がった。
すると、そのリックの足音を聞きつけたかのように、レティシアが部屋から顔を出した。
今日も、レティシアとアンジェラが同室で、それ以外は別室だった。
「リック、一体何があったのですか?」
「何のことだ?」
リックは、とぼけて見せた。
「アンヌ様ですわ。リックに話があるから一緒に出てきますと言って、出て行かれて、赤い顔をして、ひとりで帰っていらしたと思ったら、お酒の匂いがするんですもの。何があったのかお尋ねしても、リックにお聞きなさいと言われて、すぐお休みになってしまわれて。一体何があったのですか?」
「俺は、知らん」
リックは、まともに答える気にならなかった。
リックは、レティシアの脇をすり抜けて、自分の部屋へ入ろうとした。
「待って」
リックを呼び止めるレティシアのその声は、いつになく鋭かった。
「何だ?」
そう答えたものの、引き留められた理由については、おおよそ察しがついた。
レティシアの美しいヘーゼルの瞳は、これまで見たことないほど、真剣だった。
「昨日、左腕の手当てをしてくれたのは、リック、あなたですか?」
「ああ、そうだ」
引き留められた理由は、リックの予想通りだった。
「私の・・・、左肩の傷を見ましたか?」
「ああ」
「私を、どうしますか?警察に・・・、通報しますか?」
「別に、どうもしない」
「本当に?」
「よその国の話だ。俺の知ったことじゃない」
「肩の傷に気付いたのは、どなたでしょう?」
「俺だけだ。俺は、誰にも言うつもりはない」
「本当に?」
「本当だ」
レティシアの瞳から、陰りが引いて行く。
安堵の色が、浮かんでいた。
一瞬、リックは一体何をやらかしたんだと、聞いてみようかと思った。
けれども、止めた。
強盗か、もしくは、殺人か・・・。
いずれにせよ、こんなところで、気軽に聞ける話であるはずがなかった。
「リック」
行き過ぎるリックを、レティシアはもう一度、呼び止めた。
「ありがとう」
そんな風にレティシアに礼を言われるのは、アンジェラを夜の木立から連れて帰る時以来、二度目だった。
けれど、今日のレティシアのヘーゼルの瞳には、悲しみと、苦しみと、申し訳なさと、感謝と、そういったものが、入り混じって、何故か哀れなような気がしてならなかった。
リックは、その眼差しが妙に頭にこびりついて、しばらく忘れることができなかった。
リックは、眼を丸くした。
まだ、化け物が立っていた方が、驚かなかったかもしれない。
「話があります」
アンヌは、深い緑色の瞳を、リックに投げかけた。
「話なら、ここで聞く」
「どこかへいくつもりでは、なかったのですか?」
「あんたには関係ない」
リックは、アンヌに負けない程の強い光を放つ黒い瞳で、鋭角にアンヌを見下ろした。
背の高いアンヌだったが、それでもリックの方が、頭一つ分は優に高かった。
せっかく得た自由な時間を、アンヌにぶち壊されるのだけは避けたかった。
「案内なさい」
「は?」
「あなたが、行こうとしているところへ、わたくしを案内なさい」
「冗談も大概にしろよ」
「冗談を言っているつもりはありません。あなたが行くところには、心当たりがあります。わたくしは、あなたに話があると言ったのです。ですからそこで、ゆっくりわたくしの話を聞いてもらいます。あなたも、わたくしに話があることでしょう」
「話なんかない」
リックは、苛立っていた。
「本当に?」
アンヌに話は、なかった。
けれども、言いたいことなら、山ほどあった。
傲慢な態度、高慢な話し方、人を見下したような眼、どれも気に入らなかった。
ブリストンで、刺客に追われた時、馬に乗るのを手伝ってやったのは、一体、誰だと思ってるんだ!
今、どう言っても、アンヌは、帰りそうになかった。
半ば、リックは自棄になった。
そっちがそう言うなら、付いてくるがいい。
その代わり、どうなっても、俺の知ったことじゃないぜ。
リックは、アンヌをじろりと睨むと、すたすた歩き始めた。
アンヌは、そのリックの後ろを、いつもと変わらず、そこがまるで、宮殿の廊下でもあるかのように、堂々と、威厳を持って歩いた。
キャメルは、盛況だった。
仕事を終えた労働者たちが集い、立ったままテーブルを囲んで、酒と料理に舌鼓を打ちながら、それぞれ会話を楽しんでいた。
その難しい顔をした奇妙な二人連れが、キャメルに入って来るのを眼にした時、その場に居合わせた人たちは、俄然興味を引かれた。
ひとりは背が高く、体格のいい、気の強そうな男だった。
帽子にシャツ、着古したジャケットにズボン、革製の脚絆という、労働者風の格好をしていた。
これは、キャメルにいても何ら違和感が、なかった。
今、キャメルにいるのは、大概がこの男のような身なりの労働者だった。
けれどももうひとりは、女だった。
キャメルに、女はひとりもいなかった。
キャメルという酒場にいるのは、労働者の男に限られていたわけである。
だから、女が入って来たというだけで、男たちの眼は、一斉にそちらを向いた。
しかも入って来たのは、若くて、深い緑色の瞳を持つ、身なりのいい貴族と思しき女だった。
女は、すらりと引き締まった身体つきで、臙脂(えんじ)色の上品なドレスを身に着けていた。
それは、着の身着のままブリストンを逃げ出したアンヌに、リックがノックスで取り急ぎ手に入れた着替えだったが、レティシアに、ぴったり身体に合うよう直させて、まるでアンヌのために縫いあげたドレスのようだった。
リボンや、刺繍などの目立った飾りのない、シンプルなドレスだったが、その方が返って、アンヌの品格を際立たせた。
アンヌの身分を考えれば、古着に袖を通すなどありえなかったが、場合が場合のせいか、アンヌが苦情を言うことはなかった。
そして、艶のある黒みがかった茶色い髪は、きれいに後ろでまとめ上げてあり、少しの乱れもなかった。
この入って来た男と女、どうみても、恋人同士には見えなかった。
さりとて、主人と侍従の関係にも見えなかった。
キャメルに居合わせた男たちは、会話を止め、この奇妙な男と女の二人連れ・・・、リックとアンヌに、注目した。
リックは、カウンターに付くと、アルコール度数の高いビールを注文した。
アンヌに何を飲むか尋ねると、
「わたくしにも、同じものを」
と、言った。
リックは、内心、本気かよ、と思ったものの、もう止める気にもならなかった。
客たちの視線は、店に入った時から、感じていた。
無理もない。
男だらけの労働者が集う酒場に、貴族の女が乗り込んできたのだ。
店始まって以来の珍事と言っても、良かっただろう。
「俺に話というのは?」
リックは、運ばれて来たジョッキにまず口をつけてから、アンヌに尋ねた。
二人の会話に、キャメルの客たちが、聞き耳を立てていることは、明らかだった。
「他でもありません。わたくしに対するその無礼な態度について、忠告があります」
「何だと?」
「あなたの態度は、わたくしに対して、礼を欠いていると忠告しているのです」
「それは、こっちの台詞だ」
言わせておけば、とリックの方も、きつい口調になった。
「失礼な態度をとってるのは、一体どっちだ?貴族だからって、何だってんだ?貴族以外は、まるで人間じゃないような態度を取りやがって。確かに、俺はあんたに雇われてる。あんたから、金をもらってるさ。だからって、その人を見下したような態度は、気に入らないね。貴族が、そんなに俺たちよりえらいのか?」
キャメルのあちこちから、拍手が起こった。
事情はなんだかよくわからないが、キャメルにいる労働者たちには、リックの言うことはもっともだと、思う者が多数いた。
いいぞ、もっと言ってやれ、という掛け声まで聞こえた。
けれども、アンヌは冷静だった。
周囲は全員敵とも思える、圧倒的に劣勢なこの状況にも、ひるむ様子は、全くなかった。
だいたい、このような場所に乗り込んで来る貴族の女はいないし、万一このような状況になれば、大抵の女ならば、泣き出すか逃げ出しただろう。
貴族の箱入り娘なら、尚更だ。
けれどアンヌは、泣きだすどころが、強い緑色の瞳に、一層強い色をたぎらせて、リックを見つめた。
それに関しては、大した根性だと、リックも認めざるを得なかった。
「あなたの言いたいことは、よくわかりました。けれども、間違っているのは、やはりあなたの方です。よろしいですか?」
と、ここで、アンヌは言葉を切って、ぐっと、さらにリックを睨みつけた。
「そもそもブリストンで、あなたは、引き受けるつもりもないのに、わたくしたちの前に現れました。どうあっても、断るつもりであったのに、フランク先生のお顔を立てて、わたくしたちの話を聞きにきました。それは、卑怯な態度であったと思いませんか?」
確かに、そう言われると、返す言葉がなかった。
「それに対して、わたくしが礼儀正しい振る舞いで応えなかったからと言って、どうして非難を受ける言われがありましょう。不誠実なのは、そちらです」
正論だった。
「あなたがあの時、引き返して来たのは、あなたが紳士だからではありません。もっと、世俗的な理由からです」
アンヌのその深い緑色の瞳で、はっきりそう言われると、リックは、心のうちを見透かされたような気分になった。
「あなたは、わたくしが、あなたを見下していると言いました。けれども、それは、間違っています。あなたの方こそ、わたくしたち貴族を、見下しているからこそ、わたくしもあなたを見下すのです」
「何だって?」
「貴族だからって、何さまのつもりだ、最初から、わたくしをそのように見下していたでしょう」
「・・・」
「貴族には、誇りがあります。当然です。あなたがたが日々労働し、国の礎となっているように、貴族にも、貴族としての誇りと務めがあります」
アンヌは、きっぱりと、言いきった。
「その貴族としての使命感が、あなた方とは異なっているからと言って、ひがんだり、そのような侮蔑を持つことは、差別です。よろしいですか?」
と、アンヌは、ジョッキに注がれた、まだ手のつけていないビールをしばし眺めた。
そしてアンヌは、おもむろに、ジョッキをしっかり両手で持つと、唖然とする男たちを尻目にビールに口をつけて、一気に喉へ運んだ。
「おい、止めとけよ、おい」
リックが慌てて声をかけたが、アンヌは聞き入れなかった。
リックは蒼くなった。
こんなところで、倒れられでもしたら、どうすりゃいいんだ!
キャメルの男客全員の視線を受けて、アンヌは、ジョッキを飲み干した。
丁寧に、両手で、ジョッキをカウンターに置くと、深く息をついた。
「おい、大丈夫か・・・」
そのリックの心配は無視して、アンヌは、ポーチの中から、ハンカチを取り出すと、丁寧に口をぬぐった。
「今日は、有意義なひと時でした。わたくしたちには、身分に関する相互理解が必要であることがよくわかりました。いえ・・・、付き添いは結構です。わたくしは、ひとりで帰れます。では、みなさま、ごきげんよう」
アンヌは、支払うべき額がわからなかったせいもあるだろうが、かなり多めの金額をカウンターに置いた。
そして、踵を返すと、一度、足がふらついたものの、いつもの威厳のある態度で、まっすぐ前を向いて、キャメルを後にする。
客のひとりが、まるでアンヌの下僕であるかのように、恭しくドアを開けた。
アンヌは、威厳を持ってその男に会釈をした。
アンヌが、キャメルを去った後、どこからともなく拍手が起こった。
そして、それは次第に大きくなっていって、やがて、店全体に大きく広がった。
口笛を吹くもの、貴族万歳と叫ぶ者まで現れて、アンヌに対する拍手喝采は、しばらくやまなかった。
リックは、その喝采に背を向けるように、首を振って、カウンターに向かい、ビールを一口飲んだ。
リックが女に奢られたのは、これが最初で最後だった。
タヴァンの前で、リックは、しばらく立ち止まっていた。
あれから、アンヌがどうなって、どうやってタヴァンまで帰りついたのか、帰りつかなかったのか、知るのが怖かった。
大体、今は目立った行動は避けなければならないはずなのに、あれほど目立つ行動はなかった。
もう、すっかり夜だった。
リックは、気を取り直した。
俺は、何も悪いことはしていない。
無理やり付いて来たのは、向こうだ。
俺が誘ったわけじゃない。
そう自分に言い聞かせると、タヴァンの階段を、逃げるようにささっと上がった。
すると、そのリックの足音を聞きつけたかのように、レティシアが部屋から顔を出した。
今日も、レティシアとアンジェラが同室で、それ以外は別室だった。
「リック、一体何があったのですか?」
「何のことだ?」
リックは、とぼけて見せた。
「アンヌ様ですわ。リックに話があるから一緒に出てきますと言って、出て行かれて、赤い顔をして、ひとりで帰っていらしたと思ったら、お酒の匂いがするんですもの。何があったのかお尋ねしても、リックにお聞きなさいと言われて、すぐお休みになってしまわれて。一体何があったのですか?」
「俺は、知らん」
リックは、まともに答える気にならなかった。
リックは、レティシアの脇をすり抜けて、自分の部屋へ入ろうとした。
「待って」
リックを呼び止めるレティシアのその声は、いつになく鋭かった。
「何だ?」
そう答えたものの、引き留められた理由については、おおよそ察しがついた。
レティシアの美しいヘーゼルの瞳は、これまで見たことないほど、真剣だった。
「昨日、左腕の手当てをしてくれたのは、リック、あなたですか?」
「ああ、そうだ」
引き留められた理由は、リックの予想通りだった。
「私の・・・、左肩の傷を見ましたか?」
「ああ」
「私を、どうしますか?警察に・・・、通報しますか?」
「別に、どうもしない」
「本当に?」
「よその国の話だ。俺の知ったことじゃない」
「肩の傷に気付いたのは、どなたでしょう?」
「俺だけだ。俺は、誰にも言うつもりはない」
「本当に?」
「本当だ」
レティシアの瞳から、陰りが引いて行く。
安堵の色が、浮かんでいた。
一瞬、リックは一体何をやらかしたんだと、聞いてみようかと思った。
けれども、止めた。
強盗か、もしくは、殺人か・・・。
いずれにせよ、こんなところで、気軽に聞ける話であるはずがなかった。
「リック」
行き過ぎるリックを、レティシアはもう一度、呼び止めた。
「ありがとう」
そんな風にレティシアに礼を言われるのは、アンジェラを夜の木立から連れて帰る時以来、二度目だった。
けれど、今日のレティシアのヘーゼルの瞳には、悲しみと、苦しみと、申し訳なさと、感謝と、そういったものが、入り混じって、何故か哀れなような気がしてならなかった。
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