Joker

海子

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6.公爵令嬢 アンヌ

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 出立の少し前に、レティシアは、眼を覚ました。 
撃たれた左腕が、しびれるように痛かった。 
レティシアは、自分がとても無残な格好をしていることに気付いた。 
肩に掛けられた毛布の下は、袖が切り取られ、胸のボタンが引きちぎられていた。 
手伝うという、アンジェラの申し出を断って、ひとりで小川へ行き、腕にこびりついた血を洗い流して、手当てし、衣服を着替えた。
出血のせいで、足元がふらついたが、何とか耐えた。
戻って来たレティシアは、顔色は悪かったが、いつもと変わらず、優しく穏やかだった。 
御心配をおかけして申し訳ございませんと、繰り返すばかりだった。 
そしてフィリップの、どこかで一度医者に診てもらった方がいいのでは、という提案は、かたくなに拒否した。
お医者様にみせるほどの傷ではございません、私に、お医者様はもったいのうございます、と言って。 
手と足をしばられたふたりの襲撃犯は、山小屋の中に、置いて来た。 
そして、リックたちは峠を越え、ふもとの村の農民に、昨晩の事情を説明した。
警察に届けるように頼み、必要であれば、ブリストンのバッカスまで連絡してくれればいいと伝え、そのまま、旅を続けた。 
リックは、昨夜の襲撃犯は、金目当ての盗賊だろうと思った。 
フィリップより、荷物を置いた山小屋の中へ入り込もうとしていたことからも、フィリップを狙う刺客とは思えなかった。 



 夕刻、リックたちは、スタンリーに到着した。 
スタンリーは、ノックスと同じく、フォルティスでは中堅の街だった。 
ノックスから続く、山道からは、少し逸れていた。 
あのまま山道を進んでいけば、今夜も、納屋を借りるか、山小屋に泊るか、野宿をするか、いずれかになるに違いなかった。
昨夜の襲撃の件もあって、みな疲労困憊だった。 
今夜は、ベッドでゆっくり休んだ方がいいだろう。 
リックは、そう判断して、今夜はスタンリーで泊ることに決めた。
明日からは、また狭い山道に戻り、進んでいくつもりだった。
昨日と今日、思った以上に、距離を稼げたこともあって、うまく行けば、明日の夕刻には、首都タリスに入れるはずだった。 
ノックスで、ケヴィンと別れて、今日で三日。 
明日うまくタリスに着いたとして、五日目の朝には、タリスを出立することになる。 
ケヴィンからの知らせが、タリスに届くまでには、どんなに早くても五日。
レティシアの左肩に刻まれた百合の烙印を眼にした今、できることなら、ケヴィンから情報を手に入れたかったが、もしかしたら、間に合わないかもしれないと、思った。 
この旅には、何かがある。 
リックの嗅覚は、敏感にそれを感じ取っていた。
そして昨夜の一件以来、リックは、この旅には、レティシアの策謀があるのではないかと、疑うようになっていた。
その策謀に、知らぬ間に加担させられて、一杯食わされるようなことだけは、避けたかった。



  「リック、久しぶりだな」 
スタンリーの出来るだけ目立たない、小さなタヴァンに部屋を取って、荷を下ろして、馬を預けてきたところで、リックは声をかけられた。
友人のハリーだった。
「こんなところで会うとは」 
リックも、笑顔がこぼれた。
「仕事か?」
「仕事と言えば、仕事だが・・・」 
「何だ、馬車じゃないのか」 
「まあね。あんたは?」 
「今日はタリスからだ。もう、仕事は終わりだろ、リック。一杯行こうぜ。うまいチキンを食わせる店があるんだ」 
「それが、できないんだ」 
「なんだ、何かあるのか?」 
ハリーは、断られるとは思っていなかったようだった。 
「まあ・・・、ちょっと色々あるんだ」
「何だ、残念だな」 
ハリーは、本当に残念そうにしていた。 



 ハリーは、リックより二十歳年上の、首都タリスの御者だった。 
そして、優秀な御者だった。
ハリーのように優秀で信頼できる御者の場合、会社を通して、貴族や資産家から、指名で仕事が舞い込んできた。 
それは、会社として利益になった。
そうなると、会社から重宝されるようになり、収入も待遇もすいぶんと良くなる。
ハリーは、白いものが混じった、豊かな髪とあごひげを蓄え、赤ら顔をしていた。
そんな風貌で、恰幅もよかったから、初めは怖い印象を与えたが、話してみれば、知識も経験も豊富な、穏やかで人柄のいい中年の男だった。
二年ほど前、お互い馬車の仕事で、同じタヴァンに泊っていた時、偶然一緒に飲んだのが、知り合ったきっかけだった。 
ハリーとリックは随分歳が離れていたけれど、何故か二人は、とても気があった。 
リックとフランクのように、性格が違いすぎるのが、良かったのかもしれない。 
リックは、年長で、経験豊富なハリーの言うことなら、素直に聞く気になれたし、一方ハリーも、無愛想で気が強いけれども、芯のあるリックに好感を抱いた。
以来、時折、仕事先で出会う、良き友人だった。 
ただ、リックは密かに、ハリーは、フォルティスの人間ではないのかもしれない、と思っていた。 
流暢に、フォルティスの言葉を話しはするものの、時折、ごく簡単な言葉が出てこずに、リックの知らない言葉を、呟くことがあったからだ。 
今、ハリーに会って、ふと、リックは思った。 
この気の重い旅に、ハリーを、雇うことは出来ないか、と。 
ブリストンでの刺客にしろ、昨夜の襲撃にしろ、気の休まる暇がなかった。 
そして、実際、ブリストンでは、ピエールが亡くなっている。 
ここから先、ウッドフィールドまでは、まだ半分以上の距離がある。
何かあった時、男がフィリップだけというのは、心もとなかった。 
フィリップでは、まだ若すぎた。 
ハリーが一緒に来てくれるならば、よき相談相手として、何かあった時の協力者として、これ以上、心強いことはなかった。
とはいえ、ハリーにも都合があるし、フィリップや、あのアンヌが、承諾しなければ、リックの一存で決められることではなかった。 
リックは、ハリーに話を持ちかける前に、少し待ってもらって、フィリップとアンヌに、話をつけに行った。
話はすぐに決まった。
フィリップも、アンヌも、昨夜の一件が、ひどく堪えたようだった。
ピエールが無くなり、レティシアも襲われて腕を負傷し、これ以上、誰かに何かあってはいけないという思いは、ふたりとも同じだった。
アンヌがすんなり認めたので、リックとしては内心ほっとしていた。 
結局のところ、支払いはアンヌの金だった。 
だから、フィリップが、承諾したところで、アンヌが反対すれば、ハリーを雇うのは難しかったのだが、昨夜の襲撃がよほど堪えたとみえて、あっさり、あの冷やかな声で、そのようになさい、と言った。 
あとは、ハリーが、引き受けてくれるかどうかだった。 
ハリーは、タリスの駅馬車会社に所属する御者だった。 
リックの申し出を引き受けるということは、つまり、会社を辞めるということになる。 
その場合は、この仕事が終わったら、どんなことをしても、ハリーをマクファーレン商会で雇うよう、ジェフリーに持ちかけるつもりではあったけれども。 
ともかくリックは、これまでの経緯を全て、ハリーに話した。 
ハリーがこの仕事を断るとしても、他言はしないと、リックはハリーを信用していた。 
これまで付きあって来て、ハリーが十分信頼できる人間だということを、知っていた。 
また、そうでなければ、こんな依頼をするはずもなかった。 
ハリーに詳細を説明しながらも、引き受けてもらえる確率は、低いと思っていた。 
何せ、話が急すぎた。
今日出会って、今日からの話である。 
ハリーにも、都合があるに違いなかった。 
ところが、リックにとっては有り難いことだったが、予想に反してハリーは快諾した。 
ギヨーム王の庶子フィリップのこと、王妃の妹アンヌのこと・・・ 
リックがこれまでの経緯を話すにつれ、その顔が、これまでリックが見たことないような真剣なものに、変わって行った。
リックには、それが不思議だった。
リックが話し終わると、すぐに、
「わかった、引き受ける。こっちのことは気にするな」 
と言って、どこかへ消えた。 
リックは、拍子抜けした。 
こんなにあっさり話が決まるとは、全く予想していなかった。 
そして、一時間ほどして戻って来た時には、既に会社を辞めて、どこからかちゃんと馬を一頭借りてきていた。
「いいのか、本当に」 
リックは自分が誘ったとはいえ、友人の人生を狂わせてしまったようにも思えた。 
「リック、勘違いしないでくれ。俺は、自分のために行くんだ」
ハリーの声には、強い決意が籠もっていた。



 リックは、ハリーを皆に紹介した。 
皆一様に、その風貌には面喰った様子だったが、少し話をしただけで、ハリーの人柄が伝わったのだろう、すぐに打ち解けた。
あのアンヌですら、リックに示す傲慢な態度とは、違って見えた。 
それはハリーが年長者だったからかもしれないし、その親しみやすい人柄のせいだったのかもしれない。
「リック、少し、息抜きして来いよ。ここは俺が、見ておいてやる」 
ハリーは、そっとリックに耳打ちをした。
有り難かった。 
ブリストンを発って以来、気の休まる暇がなかった。 
わずかでも、休息が欲しかった。
リックは、タヴァンを出た。 
夕闇せまる街の涼しい空気を吸って、ほっと一息ついた。
宿泊しているタヴァンの一階にも、小さな酒場はあった。 
けれども、そこで飲んだのでは、いまひとつ落ち着かなかった。
それは階上に、フィリップたちがいるせいだろう。 
ほんの少しでも、ひとりになれる時間が恋しかった。 
スタンリーには、馬車の仕事で何度か来たことがあった。
だから、酒を飲ませるところは知っていた。
そこへ、足を向けるつもりだった。 
リックの足取りは、軽かった。
けれど、何か妙な気配を感じた。 
何気なく後ろを振り返ると、アンヌが、立っていた。 

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