東雲色のロマンス

海子

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14.偏屈男と小麦と女<後編>

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 私、どうして人を好きになるには、もう年を取りすぎたなんて、思ったのかしら。 
溢れそうになる涙を、ローズは指で拭った。
こうやって、想いを伝えられれば、ちゃんと心に響くのに、どうして、もう恋をすることなどないって、思ったのかしら。
ローズは、読み終えたジェフリーからの厚い手紙を、元通り、綺麗にたたんで封筒にしまうと、胸にぎゅっと抱きしめた。 
ジェフリーの誠実な想いに、どうしようもなく心が震えた。
孤独と後悔を、黙って引き受けて生きるジェフリーの背を、優しく擦ってあげたかった。
「良かった、まだ、開いてて。すっかり暗くなったし、こんなお天気だから、もうお店、閉めてしまったかと思ったわ。夕飯の支度を始めようとしたら、お砂糖がなくなっていることに気づいて。久しぶりに、あなたの顔が見たくなったから、私が来ちゃった。ローズ、どうかしたの?」
雨除けにショールを被って、店に飛び込んできたケイティは、カウンターの中で、眼を赤くしているローズに驚いた。
「お客さんに、何か言われたの?」 
「いいえ、いいえ、違うわ、ケイティ。さっき、マクファーレンさんから、手紙を受け取って・・・」 
「お義兄さまから?」 
赤い眼をしたローズが、手にぎゅっと握った手紙を見て、それが恋文だということに、ケイティは、すぐ気づいた。
そして、先日、ケイティの家のリビングで酔いつぶれたジェフリーが、寝言で、ローズと、呟いたことを、思い出した。
「その様子だと、あなたも、お義兄さまが好きなのね」
「今、気が付いたところなの」 
ローズのその言葉に、ふたりで笑った。 
「でも・・・、少し、不安もあるの」 
「不安?」 
「この歳まで、ずっと、ひとりでやってきて、今更、誰かと、お付き合いするなんて、うまくやっていけるのかしら」
「その不安は、最もね」 
と、しばらく、ケイティは考える風だったが、
「ね、ちょっと聞いてもらいたい話があるの」
と、切り出した。 
「どんな話?」 
「詳しく話したことは、なかったと思うけれど、私、フランクとの結婚を、家族に大反対されて、それが理由で、実家と、音信不通なの」 
「まあ、そうだったの」
「もう、七年前になるのね。彼は医学生で、私は、首都タリスの裕福な家庭の娘だったわ。ある時、貧困地域の医療を取り上げた講演会があって、タリスの大きな慈善団体の婦人部の会長だった母と一緒に、私も講演会に出席したの。フランクは、貧困層の医療に従事する医者の卵として、参加をしていたわ。講演会の後の懇親会で、彼と話す機会があって、貧困にあえぐ人々や、子供たちの命を救いたいという、素晴らしい志を持った彼を、かけがえのない人だと思った。その一度の出会いで、私、この人が、生涯の伴侶だって確信したの。彼の方も、私のことを、想ってくれて、愛を打ち明けてくれたわ」 
「素敵なお話ね」 
「でも、実際、そううまく話は運ばなかったの。私の実家は、タリスでも五本の指に入るといわれている資産家で、私の両親は、私が、自分たちと同等か、それ以上の地位の家でないと、結婚を認めてはくれなかった。何よりも、対面を重んじる両親だったの。兄や姉は、両親の認める相手と結婚をしていたから、末娘の私にも、そういう相手をみつけようとしていたわ。地位の低い相手と結婚して、家名を落とすくらいなら、私は結婚しなくてもいいと思っていたみたい。二十六歳になっても、私が嫁いでなかったのは、きっとそのせいね。マクファーレンは、当時から、ブリストンでは、それなりに名前の通った会社だったわ。でも、タリスに住む両親や兄や姉にとって、ブリストンは、首都に劣る田舎で、マクファーレンの跡継ぎならまだしも、次男で、医者の卵で、ましてや、将来は貧困地域の医療に携わりたいと考える男になんて、絶対、娘を渡すわけにはいかなかった。だから、それが原因で、私と両親は、諍いが絶えなくなったの」 
「まあ・・・」
「家族は、何としても、私と彼を引き離そうとした。当然、私の外出には、お目付け役が付くから、友人宅への外出も、ままならなかったけれど、それでも、私たちは講演会の会場や、信頼できる友人宅で、どんなわずかな時間でも、忍んで、会い続けて、愛を育んだの。後で、そのことが両親に知られて、酷く叱られても、フランクのことだけは、絶対に譲れなかった。これは、後で、彼に聞いたことだけれど、父や母から、彼の方にも圧力がかかっていたの。このままでは、医学界での、将来的な君の立場は、望めないって、そう言われたそうよ」 
と、そこへ客がひとりふたり入って来て、ローズが接客する間、しばらく、ケイティはカウンターで、その様子を眺めながら、待っていた。
買い物を済ませて、客が帰ると、ローズは、窓のカーテンを全ておろして、ドアに、閉店の札を掲げた。
「それで?」 
ケイティの傍へ、戻ってくると、ローズはすぐに続きを促した。
「そうして、半年が過ぎて、彼は、医者になって、ブリストンへ戻ることになったの。彼は、ブリストンで、新米医師として研修を積むことになったのだけど、私、どうしても、彼についていきたかった。このまま、離れてしまえば、彼と結ばれることはできないって。 だから、私、強引にフランクを家に招いて、家族の前で、そう言ったの。私は、彼と結婚します、って」 
「私、あなたが、そんな情熱家だったなんて、知らなかったわ。あなたは、本当に、強い人ね」
ローズは、一つ年下のケイティを、感心の眼差しで見つめた。 
「本当に強いのは、私じゃなくて、フランクよ。彼は、決して、信念を曲げないけれど、人の過ちを許せる、大きな心を持っているわ。夫としてはもちろんだけど、人として、尊敬しているの。だから、私、フランクと、家族の前で、はっきり言ったの。私は、何があっても、彼と結婚しますって。そうしたら、両親が、私に言ったわ。ここまで育ててあげた挙句に、この仕打ち、何て、恩知らずな娘、 お前なんか、もう娘でもなんでもない、今すぐ、出てゆきなさい、って」 
その、自分に向けられた、父の、母の、叱りつけるような厳しい言葉は、長くケイティの耳に、くっきりと残っていた。
「私は、そう言われることを覚悟していたわ。でも、やっぱり、実際にそう言われると、辛かった。でも、それ以上に辛かったのは、フランクのことを、酷い言葉で、罵ったこと。それを、彼は、黙ってじっと、聞いていたわ。その時の、彼の気持ちを思うと、私、今でも、辛くて・・・」 
ケイティは、涙声になって、瞳を指で拭った。 
「ケイティ・・・」
「彼は、私と一緒に出ていくとき、それでも、両親に謝っていたわ。私が不甲斐ないばかりに、申し訳ありません、って。でも、必ず、お嬢さんと幸せになります、って、そう言ってくれたの。どれほど酷い言葉を投げつけられても、彼は、冷静で、両親に対して、誠意を示してくれた。それからは、このブリストンまで、駆け落ち同然ね」 
「大変だったわね」 
「実のところ、それからは、そうでもないの。マクファーレンのご両親は、優しい方だから、私のことを随分気遣ってくれて、行くところのない私を、結婚までの期間、親しい友人夫妻に託してくれたの。近い将来、フランクの妻として、迎えるために、そうしてくれたの。きちんと結婚式も整えてくださって、結婚してからは、マクファーレンの嫁として、大事にしてくれて。そうそう、大変って言えば・・・」 
と、ケイティは、くすくすと思い出し笑いをした。
「新婚生活は、ずいぶん大変だったわ。結婚すると同時に、フランクがブリストンの貧困地域で、診療所を始めたの。だから、私たちの新居は、下町の小さなアパートだったけど、隣の部屋から、ひどい喧嘩の声が聞こえるし、道を歩けば、酔っ払いに絡まれるし。私、そういうところで暮らしたことがないから、ずいぶん驚いたわ。それに、実家にいるときはもちろん、マクファーレンの両親の、友人夫妻の屋敷にいる時も、必要なことは、みんな、使用人たちがやってくれていたけれど、結婚してからは、通いの家政婦がひとりいるだけだったから、自分でやらないといけないことが多くて。私、アイロンの使い方ひとつわからなくて、何度も、フランクのシャツを焦がしてしまったわ。今となっては、懐かしい思い出よ」 
ケイティは、懐かしむように、笑いながら、そう言った。
「驚くようなことが、本当にたくさんあったけれど、辛いと思ったことは、一度もなかった。帰りたいと思ったことも。結婚して、すぐに双子が生まれて、また、双子が生まれて・・・。目まぐるしくブリストンで生活を送るうち、次第に慣れて来て、子供たちも順調に育ってくれて、フランクは、いつも私の味方でいてくれて、幸せを実感しながら、毎日を送っていたけれど、でも、やっぱり、タリスの両親のことは、いつも心に引っかかっていたわ。許せない、許したくない、私に、あんなひどいことを言った両親を、フランクにひどい言葉を投げつけた両親を、絶対に許せないって。許してはいけないって」 
その強い口調に、ケイティの苦い想いが現れていた。
「フランクは、何度も、私に、一度、私の方から両親に、連絡を取ってみてはどうだろうかって、言ったわ。私は、そんな必要はないって、聞き入れなかった。もう、あんな人たちは、私の、私たちの人生に必要ないって。でも、気づいたの。私の方が、間違っていたって。・・・先日、タリスの両親から、初めて、手紙が届いたの」 
ケイティは、そこで、しばらく言葉を切った。 
自分の想いを言葉に変えるために、頭の中を、整理しているようだった。 
「両親が、私に、謝罪してきたの。私とフランクに、申し訳なかったって。どうか、許してほしいって。私が、タリスを去ってから、寂しかったって。ずっと寂しいままだって。二十六年間、ずっと手元に置いて愛情を注いで育てた私が、自分たちのもとを去って行こうとしているのを知って、取り乱して、あんなひどい言葉を投げつけてしまったって。本当に申し訳なかったって、フランクと私に謝罪してきたの。でも、その手紙を読んで、気づいたの。間違っていたのは、私。かたくなだった、私。両親から、こんな手紙を受け取る前に、私から、歩み寄らなければならなかったのよ。私は、もう、誰かに頼って生きるしかない、若い独身の娘じゃない。フランクという素晴らしい伴侶がいて、四人の男の子がいる母親なのよ。何も、恐れることはないと思わない?そんな、昔のことに拘って、祖父母と孫のつながりを、家族で過ごす時間を絶っていたのは、私。もっと早くに、こういえばよかったのよ。あの時は、勝手をして申し訳ありませんでした。でも、私は、フランクと、四人の男の子に恵まれて、夫の両親にも大切にされて、何不自由ない生活を送っておりますので、ご安心ください。狭いところですが、よろしければ、いつでも我が家へお立ち寄りください、って。ねえ、そう思わない?」 
「ご両親を許すことで、あなた自身が、憎しみから解放されたのね」 
「その通りよ。許すことで、私自身が解放されたの。今思えば、私は、許す勇気がなかったのね。私から歩み寄って、また、あんな風に、酷く言われたら、どうしようって。ずっとそう思っていたわ。意気地がなかったの。でも、本当は、両親が、私を認めるかどうかなんて、そんなことはどうでいいこと。必要だったのは、私が、大きな心で、許す勇気だったのよ。そのことに、気づいたの。フランクは、最初から、両親のことを許していたわ。・・・いえ、彼は、最初から、両親の嘆きに心を痛めていたのね。彼は、そういう人だもの」
「あなたたちは、本当に素敵な夫婦だと思うわ。私もあやかりたい」 
そのローズの言葉に、ケイティは微笑みで応えて、
「私、近々、子供たちと、タリスの実家に里帰りするわ。今から、もうそのことで、わくわくしているの」 
と、その瞳は、楽しそうに踊っていた。
「だから、あなたも」 
ケイティは、ローズの手を取って、続ける。
「だから、あなたも、勇気を持ってほしいの。さっき、お義兄さまと一緒にやっていくことに、不安があるって言っていたけれど、あなたも、勇気を持って、新しい環境に、挑戦してほしいの」
「ケイティ・・・」
「確かに、お義兄さまは、頑固ね。とても几帳面だし、かたくななところもあるから、大変なこともあるでしょう。でも、お義兄さまは、ひとりでマクファーレン商会を背負って、一生懸命働いて、マクファーレン商会を大きくして、私たち家族に、豊かな生活を与えてくれているわ。一緒に暮らしていなくても、フランクも私も、リックも、その恩恵を受けているもの。お義兄さまは、本当に立派な方だと思うわ。だから、あなた自身の心に、何か、響くものがあったのなら、それを信じてみて。その方が、きっと後悔がないと思うの。それに、あなたは、ひとりじゃない。私も、フランクも、リックも、レティシアも、マクファーレンのお義父様もお義母様だっているのよ。あなたは、ひとりじゃないわ」
「ケイティ、ありがとう。とても心強いわ」
「ね、考えてみて」 
と、ケイティは、ふふっと、笑って、
「のんびりのあなたと、しっかりものの私、それに、真面目なレティシア。素敵な三姉妹になると思わない?」 
そう言った。
「レティシアとあなたはともかく、私は少し、気が早いんじゃないかしら」
「そう?私たちが三姉妹になる日は、そう遠くないような気がしているのだけれど」
「そうだとしたら、やっぱり私より、あなたの方が、しっかりしていて、お姉さんみたいだわ。私も、もう少し見習わないと」
と、ローズは、少しばかり、気落ちしたようだった。
「あら、そんなことないわ。たいていの場合、姉というものは、のんびりで、妹の方がしっかり者なの。そんなに、気落ちなさらないで、お姉さま」 
そのケイティの、最後の言葉で、ふたりとも、声を上げて、笑った。 



 ジェフリーは、朝から、蒸気機関車の売買契約書に眼を通していた。 
契約書には、蒸気機関車の専門的な用語が並ぶので、午後から、ホイットマン製造会社の者を交えて、会議を予定していた。
ノックの音が、ジェフリーの耳に入った。 
ヘインズだと思っていたが、入って来たのは、ローズだった。 
「あの・・・、ヘインズさんに、マクファーレンさんにお会いしたいと尋ねたら、もう、断りはいらないから、これからは、直接、ここへ来たらいい、って」 
それを聞いても、もうジェフリーは、驚かなかった。
ヘインズなら・・・、あの、全てを察する男なら、そう言うだろう。 
そう思ったからだった。
「マクファーレンさん、昨日のお手紙、拝見しました」 
ジェフリーは、椅子から立ち上がった。
「私、とても、嬉しく、拝見しました。あなたの誠実な気持ちが伝わって、とても嬉しく思いました。ぜひ、あなたの気持ちを、お受けしたいと思っています。でも・・・、ひとつ、お願いがあります」 
「聞こう」 
「私、これからも、お店を続けたいんです。これからも、ずっと、ギャレット食料品店を続けて行きたいと思うんです」
「あの店は」 
ジェフリーは、静かに、ローズに歩み寄りながら、話し始めた。
「あの店は、君の店だ。ギャレット食料品店は、君にしかできない店だ。私も、ぜひ、続けてもらいたいと思っている」 
「マクファーレンさん・・・」 
ローズは、ほっとしたような微笑みを浮かべた。 
ジェフリーは、ひとつ咳払いをすると、
「その・・・、そろそろ、その呼び方は、止めてほしいと思うのだが」 
いささか照れるのか、ローズから、視線を外した。 
「はい、あの・・・、では、ジェフリー・・・」 
促されて、そう言いはしたものの、ローズの方も顔が赤くなって、下を向いた。
「触れても?」 
ジェフリーは、ローズの手を取ろうとして、そう尋ねて来た。 
ローズが小さく頷くと、ジェフリーは、ローズの指に触れ、親指で撫でた。
ローズは、ジェフリーの胸に、額を持たせかけた。
「ローズ・・・」 
名前を呼ばれても、ローズは返事をしなかった。 
ジェフリーの胸に額を当てて、心にこみ上げる想いを、眼を閉じたまま、じっとかみしめていた。 

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