東雲色のロマンス

海子

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14.偏屈男と小麦と女<後編>

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 マクファーレン商会が急成長を遂げ、私に、余裕が出来て来たのか、年のせいなのか、時間が経ったせいなのか、近頃、時折、結婚生活を、振り返ることがある。
仕方がなかったのだという思いと、私の態度次第では、もっと違う結果があったのではないか、という悔いの狭間を、私の心は、行き来している。 
ただ、私は、短い結婚生活で、自分が全く結婚には向かない人間なのだと、思い知らされた。
だから、私は、もう二度と結婚しないのだと、固く心に誓った。
幸い、弟の家に、男が四人も生まれて、跡継ぎの心配もなくなった。 
その四男が、思いがけず私に懐いてくれて、私は、初めて、無条件に慈しむということは、こういうことなのだと、知った。
こういった感情を、あの時、妻に抱くことが出来ていたなら、と、思うこともあったが、過ぎたことだ。 
今となっては、何を言っても、もう遅い。 
妻となった女ひとりさえ、幸せにすることができずに、追い込んだ。 
その私に対して、この幼子のような存在を、身近に与えてもらえただけでも、私は幸せなのだと、そう思って、これからを生きて行こうと思った。 
そして、できることなら、成長した彼に、マクファーレンに継いでもらいたい、そのことは、私の大きな励みになった。
彼は、仕事を離れれば、空虚に陥りがちな私の心を、満たしてくれた。 
それで、私は、十分に満足していた・・・、はずだった。 



 そんな私の前に、ふいに、現れた君は、呆れるほど、呑気だった。 
上等な品々を揃えておきながら、店が立ち行かなくなって、店を閉めようとしていた。 
私は、君の歓心を買いたいからといって、この手紙に、嘘偽りを書くつもりはない。
だから、正直に言うが、店を潰しかけたのは、君の怠慢だ。
やりようは、いくらでもあったはずだ。 
君の努力不足だ。 
経営者としての立場から、それは、はっきりと言っておく。



 けれども、一方で、君は、私が決して敵わないものを、持っていた。 
それが何なのかわからずに、当初、苛立った。 
呑気な君より、一体、私の何が劣っているのか。
私の店にはない、君の店の心地よさは、何なのか。
君が持ってきた、フェスティバルの催しの見積もり見た時、それが何なのか、私にもようやくわかった。 
それは、良心だ。 



 私は、思う。 
良心とは、人の魂に等しいもので、どれほど金を積んでも買えるものではない。
良心とは、その人の品性と品格を形成する上で、極めて重要だと思う。
君は、誠実な品を、適正な価格で販売していた。 
商売人にありがちな、儲けに執着することなく、自分の良心に従って、品物を売っていた。
君にとって、それは当たり前のことかもしれないが、私にとっては当たり前ではない。 
なぜなら、私は、ずっと長い間、儲けに執着する商売人で、拝金主義者のジェフリー・マクファーレンと、名がつくほどだったからだ。
君は、私がとうに忘れてしまった良心を、いや、最初から持っていたのかどうかさえわからない良心を、持ち続けていた。
それは、私にとって、衝撃だった。 



 君にわかるだろうか。 
人が、本当に心を揺さぶられるのは、金でも、財でもない。 
自分には決して届かない、崇高な心と行いに触れた時、人は、感動を呼び覚まされるのだ。 
私は、君に、心からの尊敬を抱いている。 
人としての、心の在り様に、尊敬の念を抱いている。
それだけなら、それで、よかった。 
けれども、バイロン・ベルが君に余計なことを吹き込んだせいで、私は、自分でも気づいていなかった自分の気持ちを、知ることになってしまった。 
私が、君に抱いている感情が、尊敬だけではないということに。 
そう思い当たって、私は、これから、自分がどうするべきか、考えてみた。 
何もなかったことにして、生きられたら一番いい。 
何度、そう思ったことだろう。
けれど、この胸のざわめきを、なかったことにすることは、できなかった。
だから、一度だけ、人生で、たった一度だけ、自分の想いを正直に伝えてみようと思った。
もう二度と、後悔しないように。
ただ、そうする前に、私にはしておかなければならないことがあった。
かつての妻に、謝罪することだ。 



 先日、私は、かつて私の妻だった女性に、会いに行ってきた。
少し調べれば、彼女のことは、すぐにわかった。 
驚いたことに、彼女は農場主と再婚して、ふたりの子供がいた。 
今は、ブリストンから少し離れた田舎で、暮らしていると言う。 
会いたいと、打診してはみたものの、会ってはもらえないかもしれないと思った。
会いたくないと言われても、当然だと思った。
私が、追い詰めて、自殺未遂まで起こさせたのだから。 
けれども、意外にも、彼女は私に会うと言ってくれた。 
私は、彼女の屋敷で、彼女に会った。 



 八年ぶりに会う彼女は、以前よりふっくらして、四歳の男の子と、二歳の女の子を連れ、そして大きなお腹には、年明けに生まれて来る子がいた。 
私は、その彼女を見た瞬間、ああ、幸せなのだと、確信した。
お久しぶりです、お元気そうですね、と、彼女は私に笑いかけた。
屈託のない笑顔だった。
それから、ふたりで、しばらく互いのことを話した。
私と離婚して、二年が過ぎた頃、彼女が、自宅を訪れた兄の知人に、見染められたこと。
最初の結婚のことがあったので、ためらう彼女に、夫となる人が、熱烈な求婚を繰り返したこと。 
今は、二人の子供にも恵まれて、円満な家庭生活を送っていることを、聞いた。 
彼女は、ずっと穏やかで人当たりもよく、私に対して、丁寧に接してくれた。
私は、そのことにも驚いた。
彼女は決して、陰気ではなかった。
無口でもなかった。 
私の知る彼女とは、全く違っていた。 
やはり、彼女の笑顔を封印し、追いつめたのは、私だったのだと、思い知らされた。
一通りの、互いの近況を述べた後、私は、深く彼女に頭を下げた。
申し訳なかったと、謝罪をする私を、 
「もうとうに過ぎたことです。どうか、頭を上げてください」 
と、彼女は気遣ってくれた。 
彼女は、こんなにも気配りのできる女性だったのだと、そんなことにも気づかなかった自分を、深く恥じた。
「あの日・・・、例の事件があった日の朝、君は、私に話があると言った。今更なのだが、聞きたい。あの日、君は、私に、何を話そうとしていたのか」 
私は、意を決して、彼女にそう尋ねてみた。
彼女は、少し口をつぐんだ後、こう答えた。 
「もう、随分昔の事なので、よく覚えていませんわ。でも、私、家族のために一生懸命働くあなたのことが、嫌いではありませんでした。だから、ほんの少しだけでいいんです、ほんの少し、私に、振り向いてもらえませんか。そう言いたかったのだと思います」 
私は、愚か者だ。
どうしようもない、愚か者だ。 



 別れ際、見送りに出た彼女は、私に言った。
「こんな日が来るなんて、思いもしませんでした。今日は、来てくださって、本当にありがとうございました。私、あなたに会えて、よかった。あなたも、どうか幸せになってくださいね」 
その彼女の言葉で、ひとつの区切りがついた。 
ようやく、前へ踏み出せると思った。 



 ローズ、おっとりと、のんびり笑う君の微笑みに、いつしか、すっかり私は心を奪われてしまったようだ。 
仕事を離れれば、始終、君の事ばかりを考えている。 
君に惹かれている。
しかし、愛という言葉は、まだ、取っておきたい。
一度、苦い経験をした私は、軽々しく、そういった言葉を言ってはいけないのだと思っている。
当然のことだが、君が、私の気持ちを受け取るかどうかについては、全て君の自由な意思だ。
押し付けるつもりはなく、いや、もし、私が、君の父親か兄弟なら、私のような男との付き合いは認めなかっただろう。 
私は、問題の多い男だ。 
偏屈者だと言うことは、自覚している。
私と一緒にいれば、不愉快な想いをすることもあるだろう。 
私は、そのことをよくわかっている。
だから、断りに遠慮はいらない。 
ノー、その一言で構わない。
私は、敬慕する君の決断を、尊重する。



 最後に、頼みがある。 
答えが、ノーならば、この手紙を炉にくべて、灰にしてほしい。
この手紙は、書かずにはいられなかった手紙だが、一方で年甲斐もなく、このような手紙を出すことを、深く恥じ入っている。
この手紙が、君に不要なものであったなら、すぐに、燃やしてしまってほしい。 
それだけは、どうか、よろしく頼みたい。 

 
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