東雲色のロマンス

海子

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13.偏屈男と小麦と女<前編>

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 それから十日後の午後七時前、ギャレット食料品店の扉に、閉店の札をかけて、ローズは、小走りになった。 
夏は、九時を回っても日が沈まず、明るいブリストンだったが、十月に入ると、午後七時にもなれば、あたりは、すっかり暗くなっていた。
ローズは、頬を上気させながら、ミルフェアストリートを抜け、ケイティの家へ向かった。 
通りを行きながら、走るだなんて、何年、いえ何十年ぶりかしら。 
ローズは、そう思った。 
ケイティとレティシアに、早く報告をしたいという気持ちを、抑えることは出来なかった。 
ローズにとって、こんなにも心弾む思いは、久しぶりだった。
「どうしたの、そんなに息を切らせて。何かあったの?大丈夫?」 
ドアを開け、迎え入れたレティシアは、驚いて、そう言った。 
近頃、フォルティスの語学の家庭教師がついて、発音も言葉も、ずいぶんと滑らかになったレティシアだった。 
「売れたの、小麦粉が、飛ぶように売れたの!」 
ローズは、息を弾ませながら、明るい笑顔で、そう言った。



 ローズは、ジェフリーに叱られてから、店にある小麦粉を使って、何かできないか、考えてみた。 
とにかく、一度、口にしてもらわないと、その素晴らしさは、わかってはもらえない、と。
逆に言えば、一度口にしてもらえさえすれば、必ずわかってもらえるという自信が、ローズにはあった。 
ただ、あの小麦粉で作るパンの味をわかってもらえたとしても、少々割高なあの小麦粉を購入できるのは、労働者ではなく、やはり、ある一定の所得がある家でないと無理だと、思い至った。 
そういう人たちが、集まるところ・・・。
そうだわ! 
ローズの店の商品の愛好者のひとりに、オハラ夫人がいた。
五十代半ばのオハラ夫人は、工場を経営する夫と暮らしていて、裕福で、不自由のない暮らしをしていた。 
ふたりの子供も、すでに家庭を持ち、十分な余暇のあるオハラ夫人は、パッチワークキルトに熱心だった。
オハラ夫人は、同じ趣味を持つ婦人たちと度々集まって、お喋りとパッチワークキルトを楽しんでいた。
ローズは、そのことを思いだしたのだった。
思い切って、オハラ夫人の自宅を訪ねたローズは、夫人のパッチワークキルトの集いに、ギャレット食料品店の小麦粉で作ったパンを持っていくから、一度お友達のみなさんに、試してもらえないか、と掛け合ってみた。
オハラ夫人は、すぐに了承した。 
もともと、ギャレット食料品店がお気に入りのオハラ夫人だったので、ローズの申し出を、快く引き受けてくれた。
オハラ夫人の自宅で、パッチワークキルトの集いがある日、早朝から、ローズは、自分の店の小麦粉を使って、パンを焼いた。 
もともと、料理が好きなローズなので、手間には感じなかった。 
むしろ、自分の店の存続に向かって、動き始めてみると、何故、自分はやってみようとしなかったのかしら、と、早くもこれまでの自分のふがいなさを、恥じた。
オハラ夫人の集いには、パンと、自分の店のママレード、ブルーベリージャムを持って行った。
パッチワークキルトの集いに参加していた、オハラ夫人と同世代の夫人たち十名は、思いがけないその催しに、興味津々で、みな喜んで、ローズの持参したパンを口にしてくれた。 
表面を軽くトーストし、ママレードを付けて、口に入れた時・・・、おいしい、とってもおいしいパンね、驚いたわ、夫人たちは、口々に、そう言った。
ローズが持参したパンは、あっいう間に、夫人たちの胃袋に収まった。 
さらには、そのママレードと、ブルーベリージャムのくどくない甘さも、好評で、ぜひ、うちでも一度試してみたいわ、という声が、数多く上がった。 
ローズは、前日のうちに用意しておいた、ギャレット食料品店の場所を記した、手書きの名刺を配り、上質な商品をお手頃価格で提供しております、ぜひ一度、お立ち寄りください、今日は、本当にありがとうございました、と結び、夫人の屋敷を辞した。 
ローズは、その場に、商品を持って行って、売りつけるようなことはしなかった。 
押し売りのようなことは、したくなかった。
ローズは、自分に対しては、いたずらに年を重ねた、何の魅力もない女だと、諦めていたが、自分の店の商品には、自信があった。
とはいえ、今回の思い付きのような、ささやかな催しが、本当に功を奏するのか、何の経験も手法もない、ローズにとってみれば、不安だった。 
けれども、その不安は、すぐに、一蹴された。 
パッチワークキルトの集いの翌日には、それぞれの家の使用人が、小麦粉や、ジャムを求めて、ギャレット食料品店を、訪れたのだった。 
中には、パンとジャムだけで、すっかりギャレット食料品店の虜になった夫人が、自ら友人を伴って来店し、パンやジャム以外の商品も、購入していった。
とりわけ、有り難かったのは、パッチワークキルトの集いに来ていた、ある夫人の夫が、レストランを経営しており、夫人から話を聞いた夫と、料理人が、ギャレット食料品店を訪れて、各種調味料を試食した後、自分の経営するレストランで一度、使ってみたいからと、多量に購入していってくれたのだった。
しかも、今後の継続購入も、検討したいとまで、言ってくれた。
舞い上がってはだめよ、ローズ。
だめだめ、舞い上がってはだめ、ローズ。 
まだ、始まったばかりなのよ。 
と、自分を戒めるものの、浮き立つ心は、抑えられなかった。 
売れた。 
商品を認めてもらえた。
それは、ローズ自身を肯定してもらえたかのような、幸福感だった。 
その喜びを誰かに話さずにはいられず、宵のミルフェアストリートを駆けて、ローズは、ケイティと、レティシアを訪れたのだった。 



 四人の子供たちは、女三人の足元にまとわりついて、何かと話に割り込んでくるため、何度かローズは、話を中断せざるをえなかったが、女三人で、四人の子供を宥めて、何とか、この度の一件を、ローズは最後まで話し終えた。 
「素敵、なんて素敵。ね、ケイティ」 
と、リビングのソファで、ケイティと共に、ローズから話を聞いたレティシアは、自分の事のように、顔を輝かせて、ケイティを振り返った。
「ええ、本当に。じゃあ、お店はこのまま続けて行くのね?」 
「今回の一件で、よくわかったの。私、何も、やり切ってないって。いいえ、やり切るどころか、何も始めてさえいなかった。マクファーレンさんに叱られて・・・、勇気を出して、一歩を踏み出して、ようやくそのことに気づいたの。少し気づくのが、遅かったけれど、遅すぎることはなかったみたい。まだ、お店も手放していなかったし」 
「これからも、ブリストンにいられる、ってことね?」 
「ええ、レティシア。私、諦めるのは、まだまだ早いって、そう思ったの」
「よかった・・・」
ほうっと、レティシアは、安堵の息をついた。
「まだ、具体的には、何も、考えていないのだけど、来月、十一月の第二日曜日、ブリストンで、秋のフェスティバルがあるでしょう。私、そこで、何かやってみようと思うの。せっかく街に人出が増えるのだから、お客さんを増やすために、何かやってみたいの」 
「これまでのあなたとは、まるで別人みたいよ。私、控えめなあなたも、もちろん大好きだけれど、今日のあなたは、一段と輝いているわ」 
「励みになるわ、ケイティ。レティシアも、いつも、私の味方でいてくれて、本当にありがとう」 
「ローズ、私にできることなら、何でも協力するわ」
「心強いわ、レティシア。私は、本当に幸せ者ね。あなたたちのような、素晴らしいお友達がいるんですもの。私、ここで、頑張るから、これからも、どうぞよろしくね」 
そう言って、微笑むローズを、ケイティと、レティシアのふたりで、抱きしめた。 
 
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