東雲色のロマンス

海子

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13.偏屈男と小麦と女<前編>

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 「私、最初から、ふたりはお似合いだと思っていたのよ」 
九月末、プロポーズを受けて、リックと結婚を前提にお付き合いをしていると、ギャレット食料品店に、買物を兼ねて報告に訪れたレティシアに、いつものおっとりとした声で、ローズは、言った。 
五時近くではあったが、日没にはまだ時間があって、ミルフェアストリートから逸れた、ギャレット食料品店の前の通りにも、買い物客が、多かった。 
けれども、その人通りが、ギャレット食料品店に流れることはなく、店の中には、レティシア以外客の姿はなかった。 
祖父の代から続く、ローズの店は、古びてはいるものの、掃除と整頓が行き届いていて、棚には、砂糖、塩、各種調味料、コーヒー、紅茶、瓶詰のジャム、お菓子などが、きちんと並んでいた。 
それは、あまり品揃えがいいとは言えなかったし、量も十分ではなかったが、暮らしの必需品とも言うべき品物が、良質かつ適正な価格で、販売されていた。
が、近頃は、ミルフェアストリートに一年程前にオープンした、ジェフリー・マクファーレンの経営する、品揃えのいい、規模の大きな格安店に、少々押され気味で、経営は、次第に苦しくなっていた。 
ローズの店の持つ良い特色が、価格競争にかき消されつつあった。
「それで、結婚式はいつ?」 
「まだ、そんな具体的な話はないの。私、外国人。色んな難しいこと、たくさんある。だから、結婚に向けて、ふたりで準備中」 
「あら、そうなの・・・」
そう言うローズの声には、落胆の色が見て取れた。
「どうかした?」 
「実は、私、年内でこの店を閉めるつもりなの」
「どうして!」 
思わず、レティシアの声が大きくなった。 
「売り上げが、たたないのよ、この半年は特に。これまで、大きな利益はでないけど、私ひとり、食べて行けたらいいと思って、ずっとやって来たわ。でも、一年程前に、ミルフェアストリートに、マクファーレンさんの、大きな食料品店が出来たでしょう?あれから、急に売り上げが落ちて、この半年は、ずっと赤字・・・」 
「そんな・・・」 
「この店は、祖父の代から続く店だけど、私は結婚もしていないし、子どももいないし、後を継いでくれそうな、親戚もいないわ。だから、もう、いいかしらって」
「でも、ローズ、お店辞めてどうするの?」 
「田舎に、叔母がいるの。ブリストンで、ひとりで暮らしている私を心配して、以前から、一緒に暮らさないかって、言われていて。ここを閉めて、お店が売れたら、そこへ行くつもりよ。叔母もひとり暮らしだから、八十近くになって、足腰も弱くなって、心細くなってきたのでしょう」 
「なんだか、とても急な話・・・」 
レティシアの声が、陰った。 
「ごめんなさい。せっかく、素敵なニュースを知らせにきてくれたのに、驚かせちゃったわね。・・・だから、結婚式には出席出来ないと思うの。お店の買い手の目処もついたし、年内には、お店を閉めて、来年早々、叔母の住む田舎へ、行くことになると思うから」 
「寂しくなるわ・・・」
「そんな顔をしないで、レティシア。私なら、大丈夫よ。生まれ育ったブリストンを離れるのは、残念だけど、きっと、緑豊かなのんびりとした田舎暮らしも、悪くないと思うの。今みたいに、お店の売り上げに、一喜一憂することもなくなるし。それなりに、楽しめると思っているのよ」 
ローズは、生来が、楽観的な性格のせいか、ブリストンを追われるといった悲壮感は、どこにもなかった。 
どちらかと言えば、レティシアの方が、表情は暗かった。
ブリストンで出来た初めての友達が、もうすぐいなくなってしまうというのだから、無理もなかった。
ローズは、壁にかかる時計を見上げると、 
「今日は、お客さんも来ないみたいだし、少し早いけど、そろそろお店を閉めるわ。これから少し出かける用事があるの。よかったら、そこまで一緒に行かない?」 
と、言いながら、窓にかかる店のカーテンを、全て閉めた。



 ローズは、ボンネットを被り、鞄を手に、レティシアと一緒に表に出ると、店に施錠をし、ブリストンの目抜き通りである、ミルフェアストリートに向かって、並んで歩きだした。
「これから、何か大切な用事?」 
「お店を買ってくれる、不動産会社に、少し尋ねたいことがあるの。いい値段をつけてくれそうだから、今週中にでも、契約を済まそうと思って」 
「そう・・・」
それ以上、レティシアは、言葉が続かなかった。 
そんな具体的な話を聞くと、本当に、ローズとはもうすぐいなくなるのだと思って、胸の奥に、じわっと、寂しさが広がった。 
そのせいか、めずらしくふたりの会話も途切れがちで、黙ったまま、バッカスの前を通り過ぎようとしたその時、恰幅のいい、口髭を蓄えた、厳めしい顔つきのひとりの紳士が、バッカスから出て来て、レティシアとローズの目の前を横切り、バッカスの前に横づけしてあった馬車に、乗りこもうとした。 
紳士が、馬車の車室の前に立ったと同時に、下男と思しき男が、まるで髪の毛一本の粗相も許されぬといった体で、間髪を入れず、車室のドアを開けた。 
御者は、御者台にいて、主人の一声で、いつでも馬車を出す準備が整っていた。 
紳士が、馬車に乗りこもうとした時、通りを行く、二人連れの婦人、ローズとレティシアの顔が目に入った。 
そのまま、馬車に乗りこもうとして、いや、待てよ、と思い直し、紳士は、レティシアの顔を、まじまじと、眺めた。
レティシアの方は、バッカスから出て来た、気難しそうな、その紳士が眼に入った瞬間、それが、ジェフリー・マクファーレンだと、気が付いていた。 
「君は、確か・・・」 
「こんばんは、マクファーレンさん、ご無沙汰をしています」 
「ああ、やはり、そうか」 
新年、マクファーレンの実家で、顔を合わせて以来、約九カ月ぶりの再会ではあったが、ジェフリーは、その姿を見て、新年に、リックに伴われて屋敷へやって来た、レティシア・ダンビエだということを、すぐに思い出した。 
そして、わずかに、気まずい気分になった。 
なぜなら、リックとレティシアが、特別な関係であると知ったうえで、先ごろ、リックに、タリスの紡績会社の令嬢との結婚を、熱心に進めたからだった。 
けれども結局、リックには、その縁談話をあっさり断られ、その後、結婚を前提にレティシアと付き合っていると、聞かされた。 
故に、ジェフリーとしては、レティシアに対して、若干の後ろめたさを覚えた。 
最も、宿泊、運輸を基盤に事業を展開し、成功を収め、マクファーレン商会の業績を、飛躍的に成長させ続ける、三十五歳の自信家は、他人に嫌われることなど日常茶飯事で、例え、レティシアに嫌われたところで、痛くも痒くもなかったのだが。 
レティシアの方が、あれこれと気を回して、落ち着かない気分になった。
ジェフリーとしては、挨拶だけで、そのまま行き過ぎても構わなかったのだが、リックと結婚し、いずれマクファーレンの屋敷に出入りする女になるのだと思えば、一応、感情のしこりを取り除く努力は、しておくべきだろうと、乗りこもうとした馬車を離れて、ふたりに近づいてきた。
「こんばんは、ミス・ダンビエ。結婚の話は、先日、リックから聞いた。誤解のないように言っておくが、私に異存はない」 
挨拶もそこそこに、ジェフリーは、用件を単刀直入に述べた。
伝えるべきことは、正確に、誤解のないよう、直球で伝えるのが、ジェフリーの基本的な信条だった。
「あの・・・」
「先ごろ、私の勧めた縁談話が、君の耳に入って、気分を害したと聞いた。今ここで、誤解をといておく」 
「あの、でも・・・」 
「何だね?」
「マクファーレンさんは、大きな会社のお嬢さん、リックの結婚相手にって。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」 
「レティシア・・・」
傍らのローズが、レティシアを心配して、肩を抱いた。 
ジェフリーは、軽く咳払いをすると、 
「では、君は、リックとの結婚を、取りやめるのか?」 
そう、尋ねた。 
レティシアは、答えられなかった。
「私は、諦めの悪い男ではない。逃げ去った獲物に執着していると、目の前の獲物を取り逃がす。縁談の話は、もう済んだ。家庭にくだらない感情的なしこりを持ち込んで、互いに屋敷での居心地の悪くなる方が、不利益だと思わないか?」 
感情すら、損得勘定で清算してしまう、ジェフリーは、レティシアにとって、異世界の住人のようだった。
けれども、結局、済んだことは、もう気にするなと言われているのだと、納得してみれば、心は軽くなった。 
「ありがとうございます」
レティシアは、ようやく小さな微笑みを浮かべた。 
「わかったのなら、よろしい。買い物かね?」 
何気なく、ジェフリーは外出の理由を、尋ねた。 
「はい、そうです、ギャレット食料品店まで」 
「ギャレット食料品店?」 
ギャレット食料品店と聞いて、ジェフリーの顔が、険しくなった。
「君は、マクファーレンの人間になるんだろう?なぜ、ミルフェアストリートの、私の食料品店で、買い物をしない?君は、全く自覚が足りない」 
「でも、ギャレット食料品店は・・・」
「あんな、古びた、品揃えの悪い店は、早晩、潰れる。客の需要に応えられない店は、淘汰されて当然だがね。君も、今後は、マクファーレンの食料品店で、買い物をするように。では、これで失礼」
と、ジェフリーは、レティシアの返事を待たずに、踵を返すと、御者に、すぐ出してくれと告げて、馬車に乗り込み、あっという間に、走り去った。
「ローズ・・・、ごめんなさい」
レティシアの隣にいたローズが、ギャレット食料品店の主だと知らなかったとはいえ、ジェフリーの言葉は、酷いものに違いなかった。
「どうして、あなたが謝るの。あなたは、何も悪くないわ。それに、言われていることは、間違ってないもの。残念だけど、お客さんの期待に、応えられなかった。きっと、私みたいな呑気者に、商売は向いていなかったのね。これからは、田舎で、叔母のお世話をしながら、のんびり暮らすわ」 
別段、傷ついた風でもなく、ローズは、いつものように、おっとりとした温かな声で、そう言った。
そうして、あなたも、もう帰らないとケイティが心配するでしょう、少し急ぎましょうかと、優しく、レティシアの背中を押した。 

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