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9.You take my breath away
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その後、ホイットマン製造会社の従業員たちは、そのまま、全員、留置所へ放り込まれ、一夜を明かした。
このあと、自分たちが一体どうなるのか、誰にも、想像がつかなかった。
もし、誰かが、逮捕されるなどということがあれば、会社は、蒸気機関車は、一体どうなってしまうのか。
この事件が、鉄道会社に知られて、ホイットマン製造会社の、蒸気機関車の採用が取り消しなどということになったら・・。
最高の一日が、最悪の日に変わった。
みな、どん底の気分で、一夜を明かした。
ところが、朝、警察での、厳しい取り調べを覚悟していた、ホイットマン製造会社の者たちは、突然、釈放された。
その一同の下へ、すぐさま、ジェフリーからの呼び出しが来た。
ジェフリーは、カンカンに怒り狂っていた。
マクファーレン商会の、ジェフリーの執務室で、ホイットマン製造会社の全員が、一列に並ばされ、額に青筋を立てて激怒するジェフリーの説教を、たっぷり三時間、立ったままで、聞かされる羽目になった。
「あなたがたは、自分たちの成功を、自分たちの手で握りつぶす気か!」
ステッキを、どんと、床につき、一列に並んだ一同の前を、行ったり来たりしながら、ジェフリーはおよそ三時間、その怒りをぶちまけた。
特に、責任者たるエドガーと、こういった事態を恐れて、事前に忠告していたにもかかわらず、事件を引き起こす発端となった、リックに対しての怒りは、相当なものだった。
当初、自分たちは被害者なのだと、弁明を考えていたリックだったが、鬼気迫るジェフリーに、一切の釈明を諦めた。
これ以上、ジェフリーを怒らせるようなことになれば、俺は、ハロルド河に沈められる、そう思ったからだった。
そのリックの判断は、正しかった。
三時間に及ぶ、ジェフリーの厳しい説教を受けた後は、ともかく各自、帰宅を許されたからだった。
昨夜の乱闘で、酷い目に会い、留置所で、ほとんど寝ずに過ごし、とどめにジェフリーの長く、きつい説教を受け、這々の体で、帰って行った。
ただ、リックは、ジェフリーの怒りは、もっともなものだとも思った。
万一、蒸気機関車の採用が、取り消しなどということになれば、これまでホイットマン製造会社に、多額の投資をしてきたマクファーレン商会は、大きな損害を被ることになった。
そして、昨日の乱闘で、めちゃめちゃに破壊されたクレセントの修繕費、店の営業が中止の間の損害、それらが全て、ジェフリーの肩にかかってくるのだと思えば、リックは、ジェフリーに、頭が上がらなかった。
ジェフリーに帰宅を許され、それにしても、と、リックは、首を傾げた。
あれだけの乱闘事件を起こして、一晩、留置所に放り込まれただけで、警察に解放されるのは、妙だと思った。
普通なら、もっと厳しく取り調べを受けることになっただろうし、逮捕されても仕方がないほどの、大きな乱闘だった。
裏で、何かある、と思った、リックの想像は正しかった。
これは、リックが、後日、ジェフリーの秘書、スチュアート・ヘインズに教えてもらったことだったが、簡単に言えば、ジェフリーが、事件をもみ消したのだった。
事件の後すぐ、ジェフリーは、女のところに転がり込んでいたデニスを探し出し、連れて来させた。
そして、今回の一件は、仲間同士の、他愛無いケンカの延長上のものだったことにするよう、迫った。
酒が入っていたから、少々羽目を外したのだと。
スチュアートの把握する限り、一番酷い怪我は、折れたデニスの鼻だった。
それは、リックの仕業に違いなかったのだが、ジェフリーは、それを打撲だと一方的に、決めつけた。
そして、何としても、それを、デニスが、骨折だと言い張り、殴った相手に処罰を求めるというのなら、御者の仕事を取り上げ、二度と、ブリストンでは、仕事につけないようにすると、言い放った。
逆に、ジェフリーの提案を、全て飲むというのなら、鼻の具合が、完全に良くなるまでの休暇と、治療費を保証し、鼻が治癒すれば、また御者として働かせてやると、・・・つまりは、脅したのだ。
その条件を、デニスが呑まないわけはなかった。
ジェフリーの条件を飲みさえすれば、これから数週間、治療費という名目の酒代、つまりは、口止め料が支払われるのである。
逆に、条件をのまなければ、ブリストンにいられなくなるということは、考えの浅いデニスといえども、よくわかった。
デニスは、あっさり、ジェフリーの条件を呑んだ。
デニスの懐柔に加えて、あれほどの事件だったのに、他には、重傷者がひとりもいなかったことも、事件が穏便に済んだ一因だったが、何より、ブリストンの警察の幹部に、ジェフリーの知り合いがふたりもいたことが、大きかった。
しかも、ただの知り合いではない。
ジェフリーは、ふたりに、多額の金を貸していた。
ひとりには、女への手切れ金、もうひとりには、公にはできない、博打の借金の肩代わり。
バッカスでの事件を、なかったことにしたい。
ジェフリーが、そう言いさえすれば、それで、ことは済んだ。
後日、スチュアート・ヘインズから、その話を聞いたとき、俺は、一生、ジェフリーを敵には回さない、そう固く誓ったリックだった。
ジェフリーのきつい説教を受けた後、リックは、大乱闘の現場、バッカスにある自分の部屋へ戻った。
前夜、あんな騒ぎを起こした場所に戻るのは、かなり覚悟のいることだったが、さりとて、他に帰る場所もなかった。
だから、できるだけ、誰とも顔を合わせないよう、こっそりと自分の部屋へ戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。
ようやく自分のベッドへ戻ってほっとすると、それまで気が張っていてあまり感じなかった、相手の拳がカウンターで入って、ひどく腫れた右頬と、思いきり蹴られた背中の痛みが、じんじんと襲ってきて、疲れているはずなのに、中々、眠りには落ちなかった。
痛みに顔をしかめながら、目をつむっていると、昨夜の、レティシアが思い出された。
何故、レティシアがあんな恰好で、あの場所へ現れたのかは、全くわからなかったが、レティシアの身体が放つ薔薇の香り、すがりつくしなやかな腕、何より、胸に寄せられた、乳房の柔らかな感触に、浸った。
そして、浸りかけると、背中と右頬の痛みに襲われる。
痛みを紛らわせるために、浸る。
という、中々落ち着かない状況を、繰り返し行き来するうちに、いつしか眠りに落ちていた。
そして、目覚めたのは、すっかり深夜で、今度こそレティシアに会いに行くつもりだったのが、結局、再び伸びてしまうことになったのだった。
そして、月曜日の今朝、ホイットマン製造会社へ出勤する前に、フランクの家のドアに、レティシアが、昼食を持ってきてくれることを期待して、紐を結び付けておいたのだったが、昼食を持って現れたのは、ケイティだった。
「レティシアが、落ち込んでる?」
バッカスの酒場での乱闘から二日が経ち、五月になったばかりの昼前、リックは、ホイットマン製造会社で、いつものように昼食を受け取った。
いつもなら、昼食を届けに来るのは、レティシアだった。
ところが、昼、ホイットマン製造会社に昼飯を持って来たのは、ケイティだった。
少し話があるんだけど、と、ケイティは、リックを事務所の外へ誘い出し、おとといの一件の顛末を話した。
「あんなことになってしまって、私も、ローズも、ジミーも、本当に責任を感じているわ」
「話はわかったが、レティシアは、何故そんなに落ち込んでいるんだ?」
「それは、そうよ。あんな恰好で、ミルフェアストリートを駆けて、みんなが見ている前で、あなたに、抱き着いたんでしょう?」
レティシアが駆けだし、ジミーは、急いでその後を追ったのだが、レティシアの方が、一足早くバッカスに駆け込んでしまった。
バッカスから、半泣きで駆け戻ったレティシアは、屋根裏に閉じこもったままで、ケイティは、バッカスでの出来事を、ジミーから知らされたのだった。
「それほど、ひどい恰好だとは思わなかったけどな。確かにいつもより、薄着だったが」
「問題は、あなたがどう思おうが、本人が、半裸だったと思いこんでいることよ」
あまり、深刻には受け止めてなかったリックだったが、ケイティの顔が険しいままなので、問題は、そう簡単ではないことがわかって来た。
「落ち込んでいるって言うのは、つまり、寝込んでいるのか?」
「そういうわけじゃないけれど、キッチンから、一歩も出ようとしないの」
「キッチンから?」
「ええ、そう。キッチンの仕事だけを黙ってこなして、二階にも上がってこないし、子供たちとも、話さないわ。というより、話せないみたいね。少し話すと、泣いてしまうみたいで。だから、今、私がここへ来ている間は、モリーとデボラが、子供たちをみてくれているわ。このサンドイッチを作ったのは、レティシアよ。でも、自分は、持っていけないから、届けてくれって、泣き声で言うの。用事がない時は、キッチンの椅子に座って、ずっと、下を向いているわ」
「重症だな」
「私も、ローズも、ジミーも、まさかこんなことになるなんて、思っていなくて。ジミーも、あんな風に言えば、きっと、心配したレティシアが、バッカスまで様子を見に来るだろうから、あなたが喜ぶと思ったんですって。みんな、彼女に謝ったんだけど、小さく首を振って、みんなは悪くない、いけないのは私だからって、涙ぐむの。見ている私たちの方が、辛くなってしまって・・・」
「わかった。今夜、そっちへ行くって、レティシアに伝えてくれ」
「とんでもない、そんなことを言ったら、彼女、家出をしてしまうわよ」
ケイティは、慌てて、首を振った。
「家出?なぜ?」
「彼女、多分、あなたには、一番逢いたくないと思っているはずよ。自分の行動を、恥じているんですもの。でも・・・、結局、解決できるのは、あなただけだと思うわ」
「わかった、じゃあ、レティシアには、黙っててくれ。七時には、行けると思う」
そう約束をして、ケイティは、少しは気が楽になったのか、来た時より幾分和らいだ表情で帰って行った。
土曜日の乱闘の後、ホイットマン製造会社の従業員は、留置所で一夜を明かし、日曜日は、ジェフリーの長い説教を受けた後、そのまま帰宅し、今朝からは、通常通りに仕事が始まった。
ホイットマン製造会社の、社長及び従業員七名は、程度の差はあれど、顔が腫れ、身体の痛みに顔をしかめてはいたが、誰一人休むことなく、出勤してきた。
それで、少し、ほっとしたリックだった。
騒ぎの発端は、自分だと責任を感じていたリックは、始業時、社長のエドガーに謝罪に行ったのだが、
「お前だけのせいじゃない。みんな、いい大人なんだ。責任は、ひとりひとりにある。社長として、止められなかった俺も、悪い。とにかく、やってしまったことは仕方ない。あとのことは、ジェフリーさんに任せて、俺たちは、仕事に集中しよう」
と、エドガーはみなを集めて、言った。
それで、みな、気持ちを切り替えて、仕事に集中しようとしたのだったが、それぞれ、身体のどこかしらに、痛みがあるらしく、今日ばかりは、中々それも難しかった。
昼、ケイティが帰ったあと、リックが机に向かって、鉄道会社への提出書類に目を通しながら、ベーコンと卵のサンドイッチを頬張っていると、
「今日は、女神じゃなかったみたいだね」
と、これから、外出するブラッドが、書類を鞄に詰めながら、笑って言った。
ブラッドは、時折、右わき腹の痛みに顔をしかめていたものの、顔は、あまり殴られなかったと見えて、目立った腫れは、見られなかった。
「女神は、機嫌を損ねたみたいです」
「へえ、めずらしい。君の身を、あれほど案じていたのに」
「俺を?」
「そうだよ、クレセントで、君のことを、ずっと祈っていた」
クレセントで、レティシアは、リックに縋り付いて何事かを祈っていたが、ユースティティアの言葉だったせいで、リックには、レティシアが何を祈っていたのか、わからなかった。
あの場所にいた者の中で、ユースティティアの言葉を理解したのは、おそらく、学歴のあるブラッドだけに、違いなかった。
それで、リックは、あの時のレティシアの祈りの言葉を、ブラッドに尋ねてみた。
ブラッドは、笑って、
「彼女は、君が、殴られて亡くなってしまうと、勘違いをしていたみたいだね」
と、レティシアの祈りを、フォルティスの言葉に変えた。
ああ、一体誰が、こんなひどいことを・・・。
お願いよ・・・、目を覚まして。
ああ、神様、お願いです。
どうか、この方の命を、お助けくださいませ。
私、この方のためでしたら、どのようにでもいたします。
ですから、私の愛する人を、どうか・・・、どうか、お助けくださいませ。
「レティシアが、そんなことを・・・」
「いい彼女だね。大切にしないといけないよ」
ブラッドは、リックの肩をぽんと叩くと、そう言い残して、事務所を出て行った。
リックは、食べかけのサンドイッチの断面を、見つめた。
美しいヘーゼルの瞳が、脳裏をよぎった。
なぜだか、胸が、しめつけられるような気がした。
このあと、自分たちが一体どうなるのか、誰にも、想像がつかなかった。
もし、誰かが、逮捕されるなどということがあれば、会社は、蒸気機関車は、一体どうなってしまうのか。
この事件が、鉄道会社に知られて、ホイットマン製造会社の、蒸気機関車の採用が取り消しなどということになったら・・。
最高の一日が、最悪の日に変わった。
みな、どん底の気分で、一夜を明かした。
ところが、朝、警察での、厳しい取り調べを覚悟していた、ホイットマン製造会社の者たちは、突然、釈放された。
その一同の下へ、すぐさま、ジェフリーからの呼び出しが来た。
ジェフリーは、カンカンに怒り狂っていた。
マクファーレン商会の、ジェフリーの執務室で、ホイットマン製造会社の全員が、一列に並ばされ、額に青筋を立てて激怒するジェフリーの説教を、たっぷり三時間、立ったままで、聞かされる羽目になった。
「あなたがたは、自分たちの成功を、自分たちの手で握りつぶす気か!」
ステッキを、どんと、床につき、一列に並んだ一同の前を、行ったり来たりしながら、ジェフリーはおよそ三時間、その怒りをぶちまけた。
特に、責任者たるエドガーと、こういった事態を恐れて、事前に忠告していたにもかかわらず、事件を引き起こす発端となった、リックに対しての怒りは、相当なものだった。
当初、自分たちは被害者なのだと、弁明を考えていたリックだったが、鬼気迫るジェフリーに、一切の釈明を諦めた。
これ以上、ジェフリーを怒らせるようなことになれば、俺は、ハロルド河に沈められる、そう思ったからだった。
そのリックの判断は、正しかった。
三時間に及ぶ、ジェフリーの厳しい説教を受けた後は、ともかく各自、帰宅を許されたからだった。
昨夜の乱闘で、酷い目に会い、留置所で、ほとんど寝ずに過ごし、とどめにジェフリーの長く、きつい説教を受け、這々の体で、帰って行った。
ただ、リックは、ジェフリーの怒りは、もっともなものだとも思った。
万一、蒸気機関車の採用が、取り消しなどということになれば、これまでホイットマン製造会社に、多額の投資をしてきたマクファーレン商会は、大きな損害を被ることになった。
そして、昨日の乱闘で、めちゃめちゃに破壊されたクレセントの修繕費、店の営業が中止の間の損害、それらが全て、ジェフリーの肩にかかってくるのだと思えば、リックは、ジェフリーに、頭が上がらなかった。
ジェフリーに帰宅を許され、それにしても、と、リックは、首を傾げた。
あれだけの乱闘事件を起こして、一晩、留置所に放り込まれただけで、警察に解放されるのは、妙だと思った。
普通なら、もっと厳しく取り調べを受けることになっただろうし、逮捕されても仕方がないほどの、大きな乱闘だった。
裏で、何かある、と思った、リックの想像は正しかった。
これは、リックが、後日、ジェフリーの秘書、スチュアート・ヘインズに教えてもらったことだったが、簡単に言えば、ジェフリーが、事件をもみ消したのだった。
事件の後すぐ、ジェフリーは、女のところに転がり込んでいたデニスを探し出し、連れて来させた。
そして、今回の一件は、仲間同士の、他愛無いケンカの延長上のものだったことにするよう、迫った。
酒が入っていたから、少々羽目を外したのだと。
スチュアートの把握する限り、一番酷い怪我は、折れたデニスの鼻だった。
それは、リックの仕業に違いなかったのだが、ジェフリーは、それを打撲だと一方的に、決めつけた。
そして、何としても、それを、デニスが、骨折だと言い張り、殴った相手に処罰を求めるというのなら、御者の仕事を取り上げ、二度と、ブリストンでは、仕事につけないようにすると、言い放った。
逆に、ジェフリーの提案を、全て飲むというのなら、鼻の具合が、完全に良くなるまでの休暇と、治療費を保証し、鼻が治癒すれば、また御者として働かせてやると、・・・つまりは、脅したのだ。
その条件を、デニスが呑まないわけはなかった。
ジェフリーの条件を飲みさえすれば、これから数週間、治療費という名目の酒代、つまりは、口止め料が支払われるのである。
逆に、条件をのまなければ、ブリストンにいられなくなるということは、考えの浅いデニスといえども、よくわかった。
デニスは、あっさり、ジェフリーの条件を呑んだ。
デニスの懐柔に加えて、あれほどの事件だったのに、他には、重傷者がひとりもいなかったことも、事件が穏便に済んだ一因だったが、何より、ブリストンの警察の幹部に、ジェフリーの知り合いがふたりもいたことが、大きかった。
しかも、ただの知り合いではない。
ジェフリーは、ふたりに、多額の金を貸していた。
ひとりには、女への手切れ金、もうひとりには、公にはできない、博打の借金の肩代わり。
バッカスでの事件を、なかったことにしたい。
ジェフリーが、そう言いさえすれば、それで、ことは済んだ。
後日、スチュアート・ヘインズから、その話を聞いたとき、俺は、一生、ジェフリーを敵には回さない、そう固く誓ったリックだった。
ジェフリーのきつい説教を受けた後、リックは、大乱闘の現場、バッカスにある自分の部屋へ戻った。
前夜、あんな騒ぎを起こした場所に戻るのは、かなり覚悟のいることだったが、さりとて、他に帰る場所もなかった。
だから、できるだけ、誰とも顔を合わせないよう、こっそりと自分の部屋へ戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。
ようやく自分のベッドへ戻ってほっとすると、それまで気が張っていてあまり感じなかった、相手の拳がカウンターで入って、ひどく腫れた右頬と、思いきり蹴られた背中の痛みが、じんじんと襲ってきて、疲れているはずなのに、中々、眠りには落ちなかった。
痛みに顔をしかめながら、目をつむっていると、昨夜の、レティシアが思い出された。
何故、レティシアがあんな恰好で、あの場所へ現れたのかは、全くわからなかったが、レティシアの身体が放つ薔薇の香り、すがりつくしなやかな腕、何より、胸に寄せられた、乳房の柔らかな感触に、浸った。
そして、浸りかけると、背中と右頬の痛みに襲われる。
痛みを紛らわせるために、浸る。
という、中々落ち着かない状況を、繰り返し行き来するうちに、いつしか眠りに落ちていた。
そして、目覚めたのは、すっかり深夜で、今度こそレティシアに会いに行くつもりだったのが、結局、再び伸びてしまうことになったのだった。
そして、月曜日の今朝、ホイットマン製造会社へ出勤する前に、フランクの家のドアに、レティシアが、昼食を持ってきてくれることを期待して、紐を結び付けておいたのだったが、昼食を持って現れたのは、ケイティだった。
「レティシアが、落ち込んでる?」
バッカスの酒場での乱闘から二日が経ち、五月になったばかりの昼前、リックは、ホイットマン製造会社で、いつものように昼食を受け取った。
いつもなら、昼食を届けに来るのは、レティシアだった。
ところが、昼、ホイットマン製造会社に昼飯を持って来たのは、ケイティだった。
少し話があるんだけど、と、ケイティは、リックを事務所の外へ誘い出し、おとといの一件の顛末を話した。
「あんなことになってしまって、私も、ローズも、ジミーも、本当に責任を感じているわ」
「話はわかったが、レティシアは、何故そんなに落ち込んでいるんだ?」
「それは、そうよ。あんな恰好で、ミルフェアストリートを駆けて、みんなが見ている前で、あなたに、抱き着いたんでしょう?」
レティシアが駆けだし、ジミーは、急いでその後を追ったのだが、レティシアの方が、一足早くバッカスに駆け込んでしまった。
バッカスから、半泣きで駆け戻ったレティシアは、屋根裏に閉じこもったままで、ケイティは、バッカスでの出来事を、ジミーから知らされたのだった。
「それほど、ひどい恰好だとは思わなかったけどな。確かにいつもより、薄着だったが」
「問題は、あなたがどう思おうが、本人が、半裸だったと思いこんでいることよ」
あまり、深刻には受け止めてなかったリックだったが、ケイティの顔が険しいままなので、問題は、そう簡単ではないことがわかって来た。
「落ち込んでいるって言うのは、つまり、寝込んでいるのか?」
「そういうわけじゃないけれど、キッチンから、一歩も出ようとしないの」
「キッチンから?」
「ええ、そう。キッチンの仕事だけを黙ってこなして、二階にも上がってこないし、子供たちとも、話さないわ。というより、話せないみたいね。少し話すと、泣いてしまうみたいで。だから、今、私がここへ来ている間は、モリーとデボラが、子供たちをみてくれているわ。このサンドイッチを作ったのは、レティシアよ。でも、自分は、持っていけないから、届けてくれって、泣き声で言うの。用事がない時は、キッチンの椅子に座って、ずっと、下を向いているわ」
「重症だな」
「私も、ローズも、ジミーも、まさかこんなことになるなんて、思っていなくて。ジミーも、あんな風に言えば、きっと、心配したレティシアが、バッカスまで様子を見に来るだろうから、あなたが喜ぶと思ったんですって。みんな、彼女に謝ったんだけど、小さく首を振って、みんなは悪くない、いけないのは私だからって、涙ぐむの。見ている私たちの方が、辛くなってしまって・・・」
「わかった。今夜、そっちへ行くって、レティシアに伝えてくれ」
「とんでもない、そんなことを言ったら、彼女、家出をしてしまうわよ」
ケイティは、慌てて、首を振った。
「家出?なぜ?」
「彼女、多分、あなたには、一番逢いたくないと思っているはずよ。自分の行動を、恥じているんですもの。でも・・・、結局、解決できるのは、あなただけだと思うわ」
「わかった、じゃあ、レティシアには、黙っててくれ。七時には、行けると思う」
そう約束をして、ケイティは、少しは気が楽になったのか、来た時より幾分和らいだ表情で帰って行った。
土曜日の乱闘の後、ホイットマン製造会社の従業員は、留置所で一夜を明かし、日曜日は、ジェフリーの長い説教を受けた後、そのまま帰宅し、今朝からは、通常通りに仕事が始まった。
ホイットマン製造会社の、社長及び従業員七名は、程度の差はあれど、顔が腫れ、身体の痛みに顔をしかめてはいたが、誰一人休むことなく、出勤してきた。
それで、少し、ほっとしたリックだった。
騒ぎの発端は、自分だと責任を感じていたリックは、始業時、社長のエドガーに謝罪に行ったのだが、
「お前だけのせいじゃない。みんな、いい大人なんだ。責任は、ひとりひとりにある。社長として、止められなかった俺も、悪い。とにかく、やってしまったことは仕方ない。あとのことは、ジェフリーさんに任せて、俺たちは、仕事に集中しよう」
と、エドガーはみなを集めて、言った。
それで、みな、気持ちを切り替えて、仕事に集中しようとしたのだったが、それぞれ、身体のどこかしらに、痛みがあるらしく、今日ばかりは、中々それも難しかった。
昼、ケイティが帰ったあと、リックが机に向かって、鉄道会社への提出書類に目を通しながら、ベーコンと卵のサンドイッチを頬張っていると、
「今日は、女神じゃなかったみたいだね」
と、これから、外出するブラッドが、書類を鞄に詰めながら、笑って言った。
ブラッドは、時折、右わき腹の痛みに顔をしかめていたものの、顔は、あまり殴られなかったと見えて、目立った腫れは、見られなかった。
「女神は、機嫌を損ねたみたいです」
「へえ、めずらしい。君の身を、あれほど案じていたのに」
「俺を?」
「そうだよ、クレセントで、君のことを、ずっと祈っていた」
クレセントで、レティシアは、リックに縋り付いて何事かを祈っていたが、ユースティティアの言葉だったせいで、リックには、レティシアが何を祈っていたのか、わからなかった。
あの場所にいた者の中で、ユースティティアの言葉を理解したのは、おそらく、学歴のあるブラッドだけに、違いなかった。
それで、リックは、あの時のレティシアの祈りの言葉を、ブラッドに尋ねてみた。
ブラッドは、笑って、
「彼女は、君が、殴られて亡くなってしまうと、勘違いをしていたみたいだね」
と、レティシアの祈りを、フォルティスの言葉に変えた。
ああ、一体誰が、こんなひどいことを・・・。
お願いよ・・・、目を覚まして。
ああ、神様、お願いです。
どうか、この方の命を、お助けくださいませ。
私、この方のためでしたら、どのようにでもいたします。
ですから、私の愛する人を、どうか・・・、どうか、お助けくださいませ。
「レティシアが、そんなことを・・・」
「いい彼女だね。大切にしないといけないよ」
ブラッドは、リックの肩をぽんと叩くと、そう言い残して、事務所を出て行った。
リックは、食べかけのサンドイッチの断面を、見つめた。
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