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9.You take my breath away
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トライアルの翌日の土曜日、ロングヒルから蒸気機関車と共に、戻って来たリックは、帰り支度をして、ホイットマン製造会社を出ようとしていたところを、同僚のボブ・カーティスに、呼び止められた。
ホイットマン製造会社の従業員は、社長のエドガーを含め七名だったが、エドガー、ブラッド、リック、そしてボブは、事務所に自分の机があった。
後の三名は、作業員で、現場作業に従事していた。
ボブは、茶髪で、ごく標準的な体形の、三十五になる、気さくで明るい男だった。
ただ、ひどい近視のせいで、いつも眼鏡が手放せなかった。
四年半ほど前、突然リックが、ホイットマン製造会社で働くことになった時、
「今度の新人は、図体だけじゃなく、態度もでかいぜ」
と、茶化しながら、輪の中に、さりげなく引き込んでくれた。
今回のトライアルでも、ボブではなく、体力があって、機転の利くリックが、エドガー、ブラッドと共に、機関車の運転を任されることになって、職場の気まずい雰囲気を感じ取るや、
「今は、トライアルに勝つことだけに、集中しよう」
と、自ら、嫌な空気を一掃してくれたのだった。
言わば、ホイットマン製造会社のムードメーカーで、トライアルに向けて、煮詰まりがちな職場を、何気ない言葉で、和らげてくれたのだった。
今回の、トライアルの勝利は、ホイットマン製造会社の技術力が、優れていたことはもちろんだったが、そのチームワークによるところも大きかった。
そのボブが、帰宅しようとするリックを、呼び止めた。
「リック、今夜は、何か予定入っているか?」
「いえ、特には」
本当は、これから、レティシアに会いに行くつもりだったが、何か、頼まれごとでもあるのかと考えて、敢えて、口には出さなかった。
「昼間、ブラッドと話していたんだが、今夜、祝勝会をしないか。大げさなのじゃなくて、内々で、ささやかなものを。他のみんなは、大丈夫だそうだ」
一瞬、リックは迷ったが、せっかくの雰囲気に、水を差すようなことはしたくなかった。
レティシアのところへは、祝勝会を早めに抜けて行こうと、決めた。
「俺も、大丈夫ですよ」
「エドガーさんとブラッドは、直接、来るって」
エドガーと、ブラッドは、ジェフリーに、トライアルの正式な結果報告をするために、マクファーレン商会へ行っていた。
「場所は、決まっているんですか?」
「お前の家だよ。バッカスだ」
ボブは、笑ってそう言った。
確かに、バッカスの一階には、アダムが腕を振るう食堂、ダファディルとは別に、クレセントという酒場があった。
「マクファーレンさんの経営するタヴァンだし、ちょうどいいと思って。いけなかったか?」
リックは、一月の終わりに、ジェフリーにマクファーレン商会へ呼び出されたことを、思い出した。
バッカスの者たちは、蒸気機関車の運行を、快く思っていない。
騒ぎが起きる前に、バッカスを出ろ。
ジェフリーは、リックにそう忠告した。
「いえ、そういう訳じゃないですけど・・・」
リックは、少し考えたが、 心配しすぎか、と、思い直した。
そういう訳で、トライアルの勝利を祝って、ホイットマン製造会社のささやかな祝勝会が、バッカスの酒場クレセントで、行われることになった。
このことが、数時間後、とんでもない騒ぎを引き起こすことになるとは、夢にも思わないリックだった。
レティシアは、時計を見上げた。
六時前・・・。
夕飯の支度は、整っていた。
後は、ダイニングテーブルに並べ、いつも通り、ギルとウォルトを二階から連れて降りて来て、まだまだ食べることに手のかかる、ふたりの夕食から、始めるつもりだった。
けれども、この日、レティシアは、ほんの少し外出したかった。
というのは、これからバッカスに行って、聖ラファエラ女子修道院への手紙を、出したかったのだった。
トライアルでインスパイア号が勝利した、一昨日の夜のうちに、半月ほどしたらブリストンを発ち、修道院へ向かう旨を記した手紙を、したためていた。
本当なら、昨日のうちに、ケイティに、あと半月ほどしたら修道院へ帰ると打ち明けて、修道院へ宛てた手紙を出してしまいたかったのだが、子供たちの世話に手を取られて、ケイティに話を切り出すことも、手紙を出しに行く時間も、見つけることが出来なかった。
今日、ホイットマン製造会社の者たちが、トライアルから帰って来ることを、昼間、サム・カーティスから聞いたので、気持ちに整理をつけておくためにも、リックがフランクの家へやって来る前に、帰る準備を進めておきたかった。
聖ラファエラ女子修道院まで、駅馬車を乗り継いで帰る手段は、休みの日に、バッカスや、他のタヴァンに出向いて、調べていた。
聖ラファエラ女子修道院を出る時に、修道院長から渡されたいくらかのお金と、ほとんど使わずに、ためておいたお給金で、何とか修道院まで、帰り着けるはずだった。
レティシアは、二階のリビングにいるケイティに、修道院へ帰る話を切り出すため、階段を上った。
今日は、お店をお休みにしたようで、少し前に、お手製のアップルクランブルと、ジンジャービールを土産に、ローズが顔を覗かせていた。
「実は、アップルクランブルとジンジャービール以外にも、珍しいものを持ってきたのよ」
と、大きな荷物を手に、微笑むローズだったが、その後、レティシアは、夕飯の支度のために階下に降りてしまったため、ローズの持参してきた荷物が、何なのかを知らなかった。
今だと、ローズにも、聖ラファエラ女子修道院へ帰ることを話せて、いいわね。
階段を上がりながら、レティシアはそう思った。
レティシアが二階へ上がると、ギルとウォルトは、ローズに相手をしてもらって、ご機嫌だった。
アンディと、デイヴのふたりは、先日、祖父母にプレゼントされた、からくり人形に夢中になっていた。
「あらっ、レティシア」
と、上がって来たレティシアを見て、ローズが声を上げたが、すぐにレティシアは、いつもと様子が違うことに気づいた。
顔が、ひどく上気していた。
「ローズ、何かあった?」
「私?私は、いつもと同じよ。ねえ、ケイティ」
「そうそう、私たちは、いつもと同じよ。仲良し」
と、ローズとケイティは、きゅうっ、と、くっつき合って、きゃあきゃあ、笑った。
どう見ても、いつものふたりではなかった。
何だか、おかしい・・・。
レティシアが、テーブルの上を見ると、ローズの持ってきたジンジャービールの瓶と、コップがふたつあった。
ジンジャービールの入った瓶は、ほとんど空になっていた。
レティシアが瓶の匂いを嗅ぐと、アルコールの匂いがした。
レティシアは、驚いた。
ジンジャービールは、ビールとは言うものの、本来、アルコール分を含まない飲み物だったからだ。
けれど、あることを思い出し、
「ローズ、時間、間違えた?」
そう尋ねた。
「時間、時間?さあ、どうだったかしら?ところで、何の時間?」
「ローズ、時間なんていいのよ。気にしないで」
と、ふたりとも、すっかり酔っぱらってしまった様子で、上機嫌だった。
ローズとクリスマスを過ごしたレティシアは、お酒を飲むと、ローズが楽しくなる性格だということを知っていた。
でも、ケイティまで・・・。
ああ、どうしましょう。
レティシアは、ジンジャービールの入った瓶の匂いを嗅いだ瞬間、ローズが、ジンジャービールの発酵時間を間違えたのだ、と、気が付いた。
何故なら、クリスマスの日、アダムの家に招かれて、アダム手作りのジンジャービールがとても美味しかったことから、そのレシピを、アダムから、直接、ローズとレティシアが教わったからだった。
ジンジャービールは、イーストを発酵して作る。
レシピを渡しながら、アダムが言った。
「発酵時間には、気を付けて。長く発酵すると、アルコールになってしまう」
ローズは、発酵時間を間違えたのだ。
レティシアは、真っ青になって、
「アンディ、デイヴ、ジンジャービール、飲んでない?」
ふたりに向かって、思わず、そう叫んでいた。
からくり人形に夢中だったふたりは、飲んでないよ、と、首を振った。
レティシアは、安堵のため息をついた。
聖ラファエラ女子修道院へ帰る話など、もうすっかりどこかへ行ってしまっていた。
「ねえ、ケイティ、私、珍しいものを、持って来たって言ったでしょう」
「ええ、そう言っていたわ」
「見せてあげましょうか。レティシアも、さあ、ここへ来て、座って」
と、ローズに、強引に腕を取られて、半ば強制的にソファに座らされた。
ローズが、持ってきた大きな包みを開けると、中から出てきたのは、ドレスと、レザーサンダルだった。
けれども、そのドレスは、一般の娘が着るような、ドレスではなかった。
真っ白い、薄手のモスリンの古代風ドレスは、大きく胸が開いて、どうかすると、胸元のドレープから、谷間まで見えそうで、そのドレスを見ただけで、レティシアなど頬が赤くなった。
ハイウエストの、ゆったり床に落ちるスカートは、膝から下が透けていて、レティシアが、決して日常身に着けることのない類の品だった。
「このドレスって、外国製じゃないかしら?今、ユースティティアの社交界じゃ、こういう薄手のドレスが、流行らしいわね。もっと薄い、シュミーズドレスが、流行っているって言うけど、これ以上薄いドレスなんて、風邪をひきそう」
と言いながら、酔いのまわったケイティは、ひくっ、としゃっくりを上げた。
「まあ、あなた、詳しいのね。私には、よくわからないけど、サロンっていうところで、着るのかもしれないわね。男のひと、誘ったりするために」
お酒に酔ったローズは、少々饒舌で、未婚ではあったが、レティシアと違って、歳を重ねている分だけ、いくらか開放的でもあった。
レティシアは、すっかり顔を赤くして、下を向いてしまったが。
「でも、どうして、こんなもの、あなたが持っているの?」
「それが、忘れ物なの」
「忘れ物?」
「もう半年くらい前になるけど、大きな包みを、お店に忘れて行った人があるの。気が付いて、取りに来るかと思って、そのままにしておいたのだけど、誰も来なくて。処分する前に、中身を確認した方がいいと思って、昨日、包みを開けたら、そのドレスが出てきたの。でも、処分するにしても、一度くらい、袖を通してみたいでしょう」
「これを来て、一体どこへ行くの?ミルフェアストリートをこんな格好で歩いたら、警察に捕まってしまうわよ」
「外に、行かなければ、いいんじゃない?」
「どういうこと?」
「着てみるだけなら、いいんじゃないかしら。うちの中で」
「でも、一体誰が、着るの?」
「どうせ着るなら、このドレスが似合いそうな、若くて、美しい人がいいと思ったの」
ローズは、レティシアを見つめて、にっこりと微笑んだ。
「ああ・・・、そうね、きっと、それがいいわ」
ケイティも、そのローズの悪戯に、加担した。
単調な毎日に、少々退屈して、ささやかな刺激を求めた、酒に酔った、年上ふたりの悪だくみが何なのか、レティシアも、段々気が付いてきた。
「ローズ、私・・・、その、ドレスは、無理」
レティシアは、とっさに左肩の烙印を思った。
洋服の下で、しっかりと布で覆って、きつく結び、たとえ下着姿になったとしても、人の目に触れないようにしているものの、不用意に肌をさらすようなことは、したくなかった。
「恥ずかしがることはないわ、レティシア。この家には、私たちしかいないのよ。さあ、屋根裏の、あなたの部屋に行きましょう」
「でも・・・」
「ローズ、私のドレッサーを使いましょう。どうせなら、髪もお化粧も、それらしくした方がいいもの」
「じゃあ、まず、ケイティに任せるわね。着替えとお化粧が済んだら、呼んでちょうだい。髪を結うの、得意なのよ。それまで、ここで、子供たちを見ているわ」
「あの、ちょっと、待って・・・」
と、戸惑うレティシアを、ケイティは、寝室へと招き入れ、ドレッサーの前に立たせた。
そして、洋服の紐をするりとほどいて、レティシアを下着姿にさせる。
「さあ、レティシア、コルセットもシュミーズも、取りましょう。でないと、あのドレスは着られないわ」
「ケイティ・・・、私」
と、困り果てたレティシアが、どう断ったものかと、思った時、左肩にきつく巻きつけたはずの布が、わずかに下がっていて、烙印の一部分が、眼に入った。
レティシアは、慌てて、ずれた布を引き上げて、手で押さえた。
はっ、とケイティを見ると、ケイティは、レティシアの服をたたんでいて、気づいてはいなかった。
レティシアの背中を、冷たい汗が流れた。
こんなものが、見つかったら・・・、とんでもないことになる。
「コルセット取るの、手伝うわ。左の肩、どうかしたの?」
と、ケイティが、レティシアの左肩に巻き付けられた布に、気づいた。
「私、とても、ひどいあざがあって・・・」
「あら、そうなの。じゃあ、それは、そのままでもいいわ。ドレスに袖があるから、ちょうど隠れるし」
と、ケイティが、レティシアのコルセットの紐に、手をかけた。
「あの・・・、ケイティ、私、自分で、着る。だから、向こう、行ってて。着たら、呼ぶ」
「そう?」
「その方が、いい。だから、向こう行って、子供たちの、夕飯して」
と、今度は、レティシアが、ケイティを、寝室から、追い出すような形になった。
ケイティが、部屋から出て行ったあと、モスリンのドレスを手に取って、ほうっ、と息をついた。
レティシアは、左肩の布をずらして、そうっとめくった。
普段、あまり、その烙印を、見ないようにしていた。
握りこぶしほどの、茶色く焦げた肉が、百合の様式化した模様を形作り、周りは引きつれたように、皺が寄っていた。
酷い、傷・・・。
レティシアは、烙印に指でそっと触れた。
ホイットマン製造会社の従業員は、社長のエドガーを含め七名だったが、エドガー、ブラッド、リック、そしてボブは、事務所に自分の机があった。
後の三名は、作業員で、現場作業に従事していた。
ボブは、茶髪で、ごく標準的な体形の、三十五になる、気さくで明るい男だった。
ただ、ひどい近視のせいで、いつも眼鏡が手放せなかった。
四年半ほど前、突然リックが、ホイットマン製造会社で働くことになった時、
「今度の新人は、図体だけじゃなく、態度もでかいぜ」
と、茶化しながら、輪の中に、さりげなく引き込んでくれた。
今回のトライアルでも、ボブではなく、体力があって、機転の利くリックが、エドガー、ブラッドと共に、機関車の運転を任されることになって、職場の気まずい雰囲気を感じ取るや、
「今は、トライアルに勝つことだけに、集中しよう」
と、自ら、嫌な空気を一掃してくれたのだった。
言わば、ホイットマン製造会社のムードメーカーで、トライアルに向けて、煮詰まりがちな職場を、何気ない言葉で、和らげてくれたのだった。
今回の、トライアルの勝利は、ホイットマン製造会社の技術力が、優れていたことはもちろんだったが、そのチームワークによるところも大きかった。
そのボブが、帰宅しようとするリックを、呼び止めた。
「リック、今夜は、何か予定入っているか?」
「いえ、特には」
本当は、これから、レティシアに会いに行くつもりだったが、何か、頼まれごとでもあるのかと考えて、敢えて、口には出さなかった。
「昼間、ブラッドと話していたんだが、今夜、祝勝会をしないか。大げさなのじゃなくて、内々で、ささやかなものを。他のみんなは、大丈夫だそうだ」
一瞬、リックは迷ったが、せっかくの雰囲気に、水を差すようなことはしたくなかった。
レティシアのところへは、祝勝会を早めに抜けて行こうと、決めた。
「俺も、大丈夫ですよ」
「エドガーさんとブラッドは、直接、来るって」
エドガーと、ブラッドは、ジェフリーに、トライアルの正式な結果報告をするために、マクファーレン商会へ行っていた。
「場所は、決まっているんですか?」
「お前の家だよ。バッカスだ」
ボブは、笑ってそう言った。
確かに、バッカスの一階には、アダムが腕を振るう食堂、ダファディルとは別に、クレセントという酒場があった。
「マクファーレンさんの経営するタヴァンだし、ちょうどいいと思って。いけなかったか?」
リックは、一月の終わりに、ジェフリーにマクファーレン商会へ呼び出されたことを、思い出した。
バッカスの者たちは、蒸気機関車の運行を、快く思っていない。
騒ぎが起きる前に、バッカスを出ろ。
ジェフリーは、リックにそう忠告した。
「いえ、そういう訳じゃないですけど・・・」
リックは、少し考えたが、 心配しすぎか、と、思い直した。
そういう訳で、トライアルの勝利を祝って、ホイットマン製造会社のささやかな祝勝会が、バッカスの酒場クレセントで、行われることになった。
このことが、数時間後、とんでもない騒ぎを引き起こすことになるとは、夢にも思わないリックだった。
レティシアは、時計を見上げた。
六時前・・・。
夕飯の支度は、整っていた。
後は、ダイニングテーブルに並べ、いつも通り、ギルとウォルトを二階から連れて降りて来て、まだまだ食べることに手のかかる、ふたりの夕食から、始めるつもりだった。
けれども、この日、レティシアは、ほんの少し外出したかった。
というのは、これからバッカスに行って、聖ラファエラ女子修道院への手紙を、出したかったのだった。
トライアルでインスパイア号が勝利した、一昨日の夜のうちに、半月ほどしたらブリストンを発ち、修道院へ向かう旨を記した手紙を、したためていた。
本当なら、昨日のうちに、ケイティに、あと半月ほどしたら修道院へ帰ると打ち明けて、修道院へ宛てた手紙を出してしまいたかったのだが、子供たちの世話に手を取られて、ケイティに話を切り出すことも、手紙を出しに行く時間も、見つけることが出来なかった。
今日、ホイットマン製造会社の者たちが、トライアルから帰って来ることを、昼間、サム・カーティスから聞いたので、気持ちに整理をつけておくためにも、リックがフランクの家へやって来る前に、帰る準備を進めておきたかった。
聖ラファエラ女子修道院まで、駅馬車を乗り継いで帰る手段は、休みの日に、バッカスや、他のタヴァンに出向いて、調べていた。
聖ラファエラ女子修道院を出る時に、修道院長から渡されたいくらかのお金と、ほとんど使わずに、ためておいたお給金で、何とか修道院まで、帰り着けるはずだった。
レティシアは、二階のリビングにいるケイティに、修道院へ帰る話を切り出すため、階段を上った。
今日は、お店をお休みにしたようで、少し前に、お手製のアップルクランブルと、ジンジャービールを土産に、ローズが顔を覗かせていた。
「実は、アップルクランブルとジンジャービール以外にも、珍しいものを持ってきたのよ」
と、大きな荷物を手に、微笑むローズだったが、その後、レティシアは、夕飯の支度のために階下に降りてしまったため、ローズの持参してきた荷物が、何なのかを知らなかった。
今だと、ローズにも、聖ラファエラ女子修道院へ帰ることを話せて、いいわね。
階段を上がりながら、レティシアはそう思った。
レティシアが二階へ上がると、ギルとウォルトは、ローズに相手をしてもらって、ご機嫌だった。
アンディと、デイヴのふたりは、先日、祖父母にプレゼントされた、からくり人形に夢中になっていた。
「あらっ、レティシア」
と、上がって来たレティシアを見て、ローズが声を上げたが、すぐにレティシアは、いつもと様子が違うことに気づいた。
顔が、ひどく上気していた。
「ローズ、何かあった?」
「私?私は、いつもと同じよ。ねえ、ケイティ」
「そうそう、私たちは、いつもと同じよ。仲良し」
と、ローズとケイティは、きゅうっ、と、くっつき合って、きゃあきゃあ、笑った。
どう見ても、いつものふたりではなかった。
何だか、おかしい・・・。
レティシアが、テーブルの上を見ると、ローズの持ってきたジンジャービールの瓶と、コップがふたつあった。
ジンジャービールの入った瓶は、ほとんど空になっていた。
レティシアが瓶の匂いを嗅ぐと、アルコールの匂いがした。
レティシアは、驚いた。
ジンジャービールは、ビールとは言うものの、本来、アルコール分を含まない飲み物だったからだ。
けれど、あることを思い出し、
「ローズ、時間、間違えた?」
そう尋ねた。
「時間、時間?さあ、どうだったかしら?ところで、何の時間?」
「ローズ、時間なんていいのよ。気にしないで」
と、ふたりとも、すっかり酔っぱらってしまった様子で、上機嫌だった。
ローズとクリスマスを過ごしたレティシアは、お酒を飲むと、ローズが楽しくなる性格だということを知っていた。
でも、ケイティまで・・・。
ああ、どうしましょう。
レティシアは、ジンジャービールの入った瓶の匂いを嗅いだ瞬間、ローズが、ジンジャービールの発酵時間を間違えたのだ、と、気が付いた。
何故なら、クリスマスの日、アダムの家に招かれて、アダム手作りのジンジャービールがとても美味しかったことから、そのレシピを、アダムから、直接、ローズとレティシアが教わったからだった。
ジンジャービールは、イーストを発酵して作る。
レシピを渡しながら、アダムが言った。
「発酵時間には、気を付けて。長く発酵すると、アルコールになってしまう」
ローズは、発酵時間を間違えたのだ。
レティシアは、真っ青になって、
「アンディ、デイヴ、ジンジャービール、飲んでない?」
ふたりに向かって、思わず、そう叫んでいた。
からくり人形に夢中だったふたりは、飲んでないよ、と、首を振った。
レティシアは、安堵のため息をついた。
聖ラファエラ女子修道院へ帰る話など、もうすっかりどこかへ行ってしまっていた。
「ねえ、ケイティ、私、珍しいものを、持って来たって言ったでしょう」
「ええ、そう言っていたわ」
「見せてあげましょうか。レティシアも、さあ、ここへ来て、座って」
と、ローズに、強引に腕を取られて、半ば強制的にソファに座らされた。
ローズが、持ってきた大きな包みを開けると、中から出てきたのは、ドレスと、レザーサンダルだった。
けれども、そのドレスは、一般の娘が着るような、ドレスではなかった。
真っ白い、薄手のモスリンの古代風ドレスは、大きく胸が開いて、どうかすると、胸元のドレープから、谷間まで見えそうで、そのドレスを見ただけで、レティシアなど頬が赤くなった。
ハイウエストの、ゆったり床に落ちるスカートは、膝から下が透けていて、レティシアが、決して日常身に着けることのない類の品だった。
「このドレスって、外国製じゃないかしら?今、ユースティティアの社交界じゃ、こういう薄手のドレスが、流行らしいわね。もっと薄い、シュミーズドレスが、流行っているって言うけど、これ以上薄いドレスなんて、風邪をひきそう」
と言いながら、酔いのまわったケイティは、ひくっ、としゃっくりを上げた。
「まあ、あなた、詳しいのね。私には、よくわからないけど、サロンっていうところで、着るのかもしれないわね。男のひと、誘ったりするために」
お酒に酔ったローズは、少々饒舌で、未婚ではあったが、レティシアと違って、歳を重ねている分だけ、いくらか開放的でもあった。
レティシアは、すっかり顔を赤くして、下を向いてしまったが。
「でも、どうして、こんなもの、あなたが持っているの?」
「それが、忘れ物なの」
「忘れ物?」
「もう半年くらい前になるけど、大きな包みを、お店に忘れて行った人があるの。気が付いて、取りに来るかと思って、そのままにしておいたのだけど、誰も来なくて。処分する前に、中身を確認した方がいいと思って、昨日、包みを開けたら、そのドレスが出てきたの。でも、処分するにしても、一度くらい、袖を通してみたいでしょう」
「これを来て、一体どこへ行くの?ミルフェアストリートをこんな格好で歩いたら、警察に捕まってしまうわよ」
「外に、行かなければ、いいんじゃない?」
「どういうこと?」
「着てみるだけなら、いいんじゃないかしら。うちの中で」
「でも、一体誰が、着るの?」
「どうせ着るなら、このドレスが似合いそうな、若くて、美しい人がいいと思ったの」
ローズは、レティシアを見つめて、にっこりと微笑んだ。
「ああ・・・、そうね、きっと、それがいいわ」
ケイティも、そのローズの悪戯に、加担した。
単調な毎日に、少々退屈して、ささやかな刺激を求めた、酒に酔った、年上ふたりの悪だくみが何なのか、レティシアも、段々気が付いてきた。
「ローズ、私・・・、その、ドレスは、無理」
レティシアは、とっさに左肩の烙印を思った。
洋服の下で、しっかりと布で覆って、きつく結び、たとえ下着姿になったとしても、人の目に触れないようにしているものの、不用意に肌をさらすようなことは、したくなかった。
「恥ずかしがることはないわ、レティシア。この家には、私たちしかいないのよ。さあ、屋根裏の、あなたの部屋に行きましょう」
「でも・・・」
「ローズ、私のドレッサーを使いましょう。どうせなら、髪もお化粧も、それらしくした方がいいもの」
「じゃあ、まず、ケイティに任せるわね。着替えとお化粧が済んだら、呼んでちょうだい。髪を結うの、得意なのよ。それまで、ここで、子供たちを見ているわ」
「あの、ちょっと、待って・・・」
と、戸惑うレティシアを、ケイティは、寝室へと招き入れ、ドレッサーの前に立たせた。
そして、洋服の紐をするりとほどいて、レティシアを下着姿にさせる。
「さあ、レティシア、コルセットもシュミーズも、取りましょう。でないと、あのドレスは着られないわ」
「ケイティ・・・、私」
と、困り果てたレティシアが、どう断ったものかと、思った時、左肩にきつく巻きつけたはずの布が、わずかに下がっていて、烙印の一部分が、眼に入った。
レティシアは、慌てて、ずれた布を引き上げて、手で押さえた。
はっ、とケイティを見ると、ケイティは、レティシアの服をたたんでいて、気づいてはいなかった。
レティシアの背中を、冷たい汗が流れた。
こんなものが、見つかったら・・・、とんでもないことになる。
「コルセット取るの、手伝うわ。左の肩、どうかしたの?」
と、ケイティが、レティシアの左肩に巻き付けられた布に、気づいた。
「私、とても、ひどいあざがあって・・・」
「あら、そうなの。じゃあ、それは、そのままでもいいわ。ドレスに袖があるから、ちょうど隠れるし」
と、ケイティが、レティシアのコルセットの紐に、手をかけた。
「あの・・・、ケイティ、私、自分で、着る。だから、向こう、行ってて。着たら、呼ぶ」
「そう?」
「その方が、いい。だから、向こう行って、子供たちの、夕飯して」
と、今度は、レティシアが、ケイティを、寝室から、追い出すような形になった。
ケイティが、部屋から出て行ったあと、モスリンのドレスを手に取って、ほうっ、と息をついた。
レティシアは、左肩の布をずらして、そうっとめくった。
普段、あまり、その烙印を、見ないようにしていた。
握りこぶしほどの、茶色く焦げた肉が、百合の様式化した模様を形作り、周りは引きつれたように、皺が寄っていた。
酷い、傷・・・。
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