31 / 74
7.Passionate
4
しおりを挟む
リックが帰った後も、先ほどリックの綴った言葉が、ずっと、レティシアの頭を巡り続けていた。
彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。
彼は、彼女の全てを受け入れる。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
彼は、彼女を・・・
レティシアは、小さく頭を振った。
話せるはずがない。
自分は、罪人なのだと。
左肩に、女囚の証が刻まれているのだと・・・。
レティシアは、リックを玄関まで見送ったあと、机の上を片付けるために、フランクの書斎に戻った。
書斎には、ペンと、インクと、先ほどお互いに綴った紙が、そのまま残されていた。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
そう記した、癖のあるリックの文字が、レティシアの目に焼き付いて、離れなかった。
しばらく、レティシアは、リックの綴った文字を見つめていたが、ペンにインクを付けると、その下に綴った。
彼女も、心から彼を愛しています。
そうして、心を振り切るように、その紙を手で握って丸め、そのまま、ストーブを開けて、中へ放り込んだ。
紙は、すぐ炎に飲み込まれた。
頬に伝う涙を手で拭いながら、机の上を片付け始めた時、机の端に置かれた本に気づいた。
ぱらぱらと捲ってみたものの、何かの専門書のようで、レティシアには内容がよく理解できなかったが、それは、フランクではなく、リックの持ち物のように思えた。
思い返すと、リックは来た時に、手に本を持っていたような気もした。
レティシアは、本を手に取って、子供たちが眠ったあと、リビングで編み物をしていたケイティに尋ねてみたところ、私もよくわからないけれど、確かに、フランクのものではなさそうね、と言った。
そこへちょうど、フランクが帰って来たので、尋ねてみたところ、やはり自分の物ではないという。
それで、その本は、リックの忘れ物ということが、わかった。
もし、仕事で使う大切な本だったら、どこで忘れたのかわからなくて、困っているかもしれない。
そう考えれば、早く届けてあげた方が、いいように思えた。
少し考えて、レティシアは、明日の朝、自分がホイットマン製造会社まで、届けに行くと言った。
バッカスのリックの部屋まで行って、直接手渡すのは馴れ馴れしい気がしたし、さりとて受付に預けたのでは、ちゃんと、本人に渡してくれるかどうか、不安だった。
先ほどのようなやりとりがあった後だったので、レティシアは、もうリックに会ってはいけないような気がしたが、仕事場で、本を渡すだけなら、きっと今夜のようなことには、ならないだろうと思った。
翌朝、ホイットマン製造会社まで、出かけなければならないレティシアは、いつもより早く起きて、ケイティと共に、慌ただしく、みなの朝食の支度と洗濯を終えた。
「レティシア、ここはいいから早く行ってらっしゃい」
それでも、ケンカが始まったり、転んで頭をぶつけたり、次々と、問題を起こす子供たちに手を取られて、中々、家を出ることが出来ないので、ケイティはレティシアの耳元でそう囁いて、促した。
何故、ケイティがレティシアの耳元で、そう囁いたかと言えば、レティシアが出かけることが、アンディとデイヴに知られたなら、ふたりとも、レティシアについて行く、と言い出すに違いないからだった。
レティシアは、アンディとデイヴに気取られないように、屋根裏部屋へ上がり、リックの本と、昨夜、あれからしたためた、聖ラファエラ女子修道院の修道院長への手紙を取って、鞄に入れた。
手紙には、四月の初めにブリストンを離れて、修道院へ帰りたい意向を、記した。
リックに本を届けた後、バッカスに立ち寄って、その手紙を出すつもりだった。
レティシアは、ケープをかぶり、ミトンをすると、本と手紙を入れた鞄を手に、静かに階段を降りた。
どドアを閉める瞬間、
「おかあさん、レティシアは?」
と、尋ねるデイヴの声が耳に届いて、レティシアは慌てて表に出た。
凍えるような寒さで、道端には雪が積もっていた。
レティシアは、通りを小走りになった。
そこまで急ぐ必要はなかったのかもしれなかったが、リックが、本を失って困っているかもしれないと思うと、少しでも早く、届けてあげたいような気がした。
ホイットマン製造会社は、デイヴと一緒に迷子になった日、一度前を通ったきりだったが、あれから三カ月が経ち、買い物や、休みの日に街を歩くこともあって、ブリストンの街には、幾分詳しくなっていた。
だから、ホイットマン製造会社へは、迷うことなく、小走りだったせいもあって、十分ほどでついた。
通りに面した、エドガー・ホイットマン製造会社という看板のかかった、木造の事務所のような建物の中の様子を、窓からそっと伺うものの、人の気配はなかった。
家を出た時間を考えると、もう八時にはなっているはずだった。
レティシアのいる場所から、事務所の裏手の様子はわからなかったが、随分広くて、作業場になっているようにも思えたから、みなそちらにいるのかもしれない、と思った。
事務所のドアのノブを回すと、開いた。
鍵は、かかっていなかった。
このまま、事務所に入って、そっと本だけ置いておこうか。
レティシアが、そう考えた時、
「何か、御用ですか、お嬢さん」
背後から、いきなりそう声を掛けられて、レティシアは、飛び上がりそうなほど驚いた。
振り返ると、立っていたのは、コートに身を包んだ、痩せ型の、きついウェーブのかかった黒髪の男だった。
レティシアは、リックと同じぐらいの歳の、その男を見た時、どこかで見た顔だと思った。
それは、男の方も同じだったようで、じっと、レティシアの顔を見つめていたが、
「ああ、いつかのお嬢さん」
と、笑顔になった。
ちょうど、その時、レティシアも思い出した。
レティシアとデイヴが迷子になって、リックと会った時、その隣にいた男だった。
リックは、確かあの時、隣に立っていた、今、目の前にいる聡明そうな男のことを、 会社のえらい人だ、といった。
それを思い出して、レティシアは、恐縮した。
「あの、この本、リックの忘れもの。私、届けに来ただけ」
と、男に、本を差し出した。
「まだ、来てない?あれ、おかしいな。裏かな」
男は、ノブに手を伸ばして、ドアを開けると、そのまま中に入り、思いついたように、事務所の中にたててあるつい立ての向こうを、覗き込んだ。
そして、ふっと、表情を緩めると、レティシアに向かって、唇の前で人差し指を立てて、そっと、手招きした。
不思議に思いながらも、レティシアが静かについたてに近づいて、中を覗き込むと、毛布にくるまったリックが、来客用のソファで、窮屈そうに、大きな身体を丸めるようにして横になり、眠っていた。
「どうして・・・?」
レティシアは、驚いて、思わず呟いた。
男は、リックを起こさないようにするため、レティシアの腕を取って、事務所を出た。
「この半月は、本当に大変でね。聞いていませんか?」
レティシアは、首を振った。
男は、レティシアに、自分は、ブラッド・ホイットマンだと名乗り、社長である、エドガー・ホイットマンの息子なのだと言った。
そして、先月の末、来年、ブリストンと、首都タリスを結んで走る蒸気機関車に、エドガー・ホイットマン製造会社の制作する、蒸気機関車を使用するというこれまでの約束を、鉄道会社が急に翻して、四月の末に、急遽、トライアルが実施されることになった、ということ、トライアルの参加は自由で、トライアルに優勝した会社の機関車が、賞金を得て、世界初の蒸気機関車として、採用されることに決まった、ということを、レティシアに話した。
「何故・・・、今頃、急に・・・」
レティシアは、リックが、この仕事にどれほど懸けているか、よく知っていた。
クリスマスに、アダムの家を訪れた時、生き生きとした眼で、蒸気機関車のことを話していたリックの顔が、忘れられなかった。
「みんな、そう思っている。何故、今頃になって、って。だけど、鉄道会社の方針だと言われれば、それに従うしかない」
「もし・・・、トライアルで、負けたら・・・」
「全てを失う。おそらくこの会社も潰れるし、これまで開発に莫大な投資をしてきたマクファーレン商会も、無傷ではいられないでしょう」
「そんな・・・」
「大丈夫、僕たちは、勝ちますよ。どんなことをしてもね。少し、驚かせすぎてしまったかな」
レティシアの顔が、よほど悲壮だったのか、あわててブラッドはとりなし、
「ただ、ちょっと、リックのことは、心配だな」
と、続けた。
「リックが、心配?」
「リックは、のめりこむ性格だから、昼食をとらずに働くし、トライアルが決まってからは、寝る暇も惜しんで、取り組んでいる。時には、徹夜も。これでは、身体を壊してしまう。実は、僕も以前、過労で肺をやって、辛い思いをしてね。今は、妻もうるさく言うし、身体には、気を遣うようにしているけど、リックは、体力に自信があるだけ、無茶をしている」
レティシアは、言葉がなかった。
「昨夜は、めずらしく僕より早く帰ったと思ったら、また、戻って来ていたようだ」
昨夜・・・。
昨夜、リックは、レティシアに言葉を教えるため、家へ来た。
リックは、レティシアに言葉を教えるためだけに、仕事を抜け出して来ていたのだ。
「そんな・・・、そんなことって・・・」
「リックが、ここまで一生懸命になる理由のひとつは、あなたなのかな」
レティシアが、ひどく動揺する様子を見て、ブラッドは、たどたどしいフォルティスの言葉を話す、目の前の娘が、リックの恋人なのだと察した。
「私?」
「もちろん、彼自身の夢であることには、違いないけれど、あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。大丈夫、我々は、絶対に勝ち取ります」
必ず、リックに渡しておくと、ブラッドは、本を受け取った。
ホイットマン製造会社へ向かう時とは、対照的に、帰り道のレティシアの足取りは、重かった。
トライアルに勝たなければ、リックの夢が、潰える。
トライアルは、四月の終わり・・・。
レティシアは、鞄の中に手を差し入れると、昨夜、聖ラファエラ女子修道院の修道院長に宛ててしたためた、手紙を取り出した。
手紙には、四月の初めにブリストンを発って、聖ラファエラ女子修道院へ向かいたいと、記した。
四月の初めにブリストンを発てば、トライアルの結果を知ることは出来ない。
あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。
さっき、ブラッドは、そう言った。
リックが、人生を懸けて向き合う仕事から目を背けて、修道院へ帰るの?
それで、本当に充実した修道生活が送れるの?
曇りのない心で、神に仕えることが出来るの、レティシア?
レティシアは、手紙を鞄に押し戻した。
そして、来た時と同じように駆けだした。
私に、できること。
彼のために、何か、私にもできること。
レティシアには、今、とっさに思いついたことがあった。
それを、ケイティに打ち明けるため、レティシアは、さらに足を速めた。
「リックに、昼食を届けたい?」
リビングで、ギルと、ウォルトの遊び相手をしていたケイティは、突然、思いがけないことを言い出すレティシアに、そう問い返した。
家に駆け戻ってきたと思ったら、息を切らしながら、真剣な眼差しをして、これから毎日、リックに昼食を届けたいというレティシアを、まあ少し落ち着いて、と宥めた。
レティシアは、今しがた、ホイットマン製造会社で、見聞きした話を、そのまま、ケイティに伝えた。
トライアルの話は、ケイティの耳にも、まだ入っていなかった。
多分、フランクは、ジェフリーから聞いて、知っているはず。
私や、レティシアを心配させまいと、知っていて、黙っているのだわ。
全く、男と来たら、どうしてこういった話になると、こうも秘密主義なのかしら。
と、レティシアから話を聞いて、内心、ケイティは不満だった。
「材料のお金、私の、お給金から。だから、いい?ケイティ、いい?」
レティシアは、必死だった。
リックに、何かしてあげたいと思っても、自分一人の考えでは、何一つできないことが、もどかしかった。
レティシアに詰め寄られて、小柄なケイティは、後ろにのけ反った。
「わかったから、とにかくまず、落ち着いて」
と、ケイティは、押しとどめた。
「リックに、昼食を届けることは、いい考えだと思うわ。私も賛成よ。彼は、フランクの親友だし、家族だもの。そんな不摂生って、あり得ない」
ケイティは、レティシアの給金から、材料代を引くつもりがないとも、言った。
「ありがとう、ケイティ。本当に、ありがとう。私、本当に、良かった」
レティシアの表情が、一気に輝いた。
その様子を見て、ケイティは今、レティシアがリックに恋をしているのだと、悟った。
一途なレティシアを見て、ケイティは、何て可愛い娘なのかしらと、思わずにいられなかった。
恋する乙女ね。
八つ年下の、恋に一喜一憂するレティシアに、ケイティは、私にも確かにそんな頃があったのよね、と、懐かしくなって、思わず、うふふと、顔がにやけた。
彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。
彼は、彼女の全てを受け入れる。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
彼は、彼女を・・・
レティシアは、小さく頭を振った。
話せるはずがない。
自分は、罪人なのだと。
左肩に、女囚の証が刻まれているのだと・・・。
レティシアは、リックを玄関まで見送ったあと、机の上を片付けるために、フランクの書斎に戻った。
書斎には、ペンと、インクと、先ほどお互いに綴った紙が、そのまま残されていた。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
そう記した、癖のあるリックの文字が、レティシアの目に焼き付いて、離れなかった。
しばらく、レティシアは、リックの綴った文字を見つめていたが、ペンにインクを付けると、その下に綴った。
彼女も、心から彼を愛しています。
そうして、心を振り切るように、その紙を手で握って丸め、そのまま、ストーブを開けて、中へ放り込んだ。
紙は、すぐ炎に飲み込まれた。
頬に伝う涙を手で拭いながら、机の上を片付け始めた時、机の端に置かれた本に気づいた。
ぱらぱらと捲ってみたものの、何かの専門書のようで、レティシアには内容がよく理解できなかったが、それは、フランクではなく、リックの持ち物のように思えた。
思い返すと、リックは来た時に、手に本を持っていたような気もした。
レティシアは、本を手に取って、子供たちが眠ったあと、リビングで編み物をしていたケイティに尋ねてみたところ、私もよくわからないけれど、確かに、フランクのものではなさそうね、と言った。
そこへちょうど、フランクが帰って来たので、尋ねてみたところ、やはり自分の物ではないという。
それで、その本は、リックの忘れ物ということが、わかった。
もし、仕事で使う大切な本だったら、どこで忘れたのかわからなくて、困っているかもしれない。
そう考えれば、早く届けてあげた方が、いいように思えた。
少し考えて、レティシアは、明日の朝、自分がホイットマン製造会社まで、届けに行くと言った。
バッカスのリックの部屋まで行って、直接手渡すのは馴れ馴れしい気がしたし、さりとて受付に預けたのでは、ちゃんと、本人に渡してくれるかどうか、不安だった。
先ほどのようなやりとりがあった後だったので、レティシアは、もうリックに会ってはいけないような気がしたが、仕事場で、本を渡すだけなら、きっと今夜のようなことには、ならないだろうと思った。
翌朝、ホイットマン製造会社まで、出かけなければならないレティシアは、いつもより早く起きて、ケイティと共に、慌ただしく、みなの朝食の支度と洗濯を終えた。
「レティシア、ここはいいから早く行ってらっしゃい」
それでも、ケンカが始まったり、転んで頭をぶつけたり、次々と、問題を起こす子供たちに手を取られて、中々、家を出ることが出来ないので、ケイティはレティシアの耳元でそう囁いて、促した。
何故、ケイティがレティシアの耳元で、そう囁いたかと言えば、レティシアが出かけることが、アンディとデイヴに知られたなら、ふたりとも、レティシアについて行く、と言い出すに違いないからだった。
レティシアは、アンディとデイヴに気取られないように、屋根裏部屋へ上がり、リックの本と、昨夜、あれからしたためた、聖ラファエラ女子修道院の修道院長への手紙を取って、鞄に入れた。
手紙には、四月の初めにブリストンを離れて、修道院へ帰りたい意向を、記した。
リックに本を届けた後、バッカスに立ち寄って、その手紙を出すつもりだった。
レティシアは、ケープをかぶり、ミトンをすると、本と手紙を入れた鞄を手に、静かに階段を降りた。
どドアを閉める瞬間、
「おかあさん、レティシアは?」
と、尋ねるデイヴの声が耳に届いて、レティシアは慌てて表に出た。
凍えるような寒さで、道端には雪が積もっていた。
レティシアは、通りを小走りになった。
そこまで急ぐ必要はなかったのかもしれなかったが、リックが、本を失って困っているかもしれないと思うと、少しでも早く、届けてあげたいような気がした。
ホイットマン製造会社は、デイヴと一緒に迷子になった日、一度前を通ったきりだったが、あれから三カ月が経ち、買い物や、休みの日に街を歩くこともあって、ブリストンの街には、幾分詳しくなっていた。
だから、ホイットマン製造会社へは、迷うことなく、小走りだったせいもあって、十分ほどでついた。
通りに面した、エドガー・ホイットマン製造会社という看板のかかった、木造の事務所のような建物の中の様子を、窓からそっと伺うものの、人の気配はなかった。
家を出た時間を考えると、もう八時にはなっているはずだった。
レティシアのいる場所から、事務所の裏手の様子はわからなかったが、随分広くて、作業場になっているようにも思えたから、みなそちらにいるのかもしれない、と思った。
事務所のドアのノブを回すと、開いた。
鍵は、かかっていなかった。
このまま、事務所に入って、そっと本だけ置いておこうか。
レティシアが、そう考えた時、
「何か、御用ですか、お嬢さん」
背後から、いきなりそう声を掛けられて、レティシアは、飛び上がりそうなほど驚いた。
振り返ると、立っていたのは、コートに身を包んだ、痩せ型の、きついウェーブのかかった黒髪の男だった。
レティシアは、リックと同じぐらいの歳の、その男を見た時、どこかで見た顔だと思った。
それは、男の方も同じだったようで、じっと、レティシアの顔を見つめていたが、
「ああ、いつかのお嬢さん」
と、笑顔になった。
ちょうど、その時、レティシアも思い出した。
レティシアとデイヴが迷子になって、リックと会った時、その隣にいた男だった。
リックは、確かあの時、隣に立っていた、今、目の前にいる聡明そうな男のことを、 会社のえらい人だ、といった。
それを思い出して、レティシアは、恐縮した。
「あの、この本、リックの忘れもの。私、届けに来ただけ」
と、男に、本を差し出した。
「まだ、来てない?あれ、おかしいな。裏かな」
男は、ノブに手を伸ばして、ドアを開けると、そのまま中に入り、思いついたように、事務所の中にたててあるつい立ての向こうを、覗き込んだ。
そして、ふっと、表情を緩めると、レティシアに向かって、唇の前で人差し指を立てて、そっと、手招きした。
不思議に思いながらも、レティシアが静かについたてに近づいて、中を覗き込むと、毛布にくるまったリックが、来客用のソファで、窮屈そうに、大きな身体を丸めるようにして横になり、眠っていた。
「どうして・・・?」
レティシアは、驚いて、思わず呟いた。
男は、リックを起こさないようにするため、レティシアの腕を取って、事務所を出た。
「この半月は、本当に大変でね。聞いていませんか?」
レティシアは、首を振った。
男は、レティシアに、自分は、ブラッド・ホイットマンだと名乗り、社長である、エドガー・ホイットマンの息子なのだと言った。
そして、先月の末、来年、ブリストンと、首都タリスを結んで走る蒸気機関車に、エドガー・ホイットマン製造会社の制作する、蒸気機関車を使用するというこれまでの約束を、鉄道会社が急に翻して、四月の末に、急遽、トライアルが実施されることになった、ということ、トライアルの参加は自由で、トライアルに優勝した会社の機関車が、賞金を得て、世界初の蒸気機関車として、採用されることに決まった、ということを、レティシアに話した。
「何故・・・、今頃、急に・・・」
レティシアは、リックが、この仕事にどれほど懸けているか、よく知っていた。
クリスマスに、アダムの家を訪れた時、生き生きとした眼で、蒸気機関車のことを話していたリックの顔が、忘れられなかった。
「みんな、そう思っている。何故、今頃になって、って。だけど、鉄道会社の方針だと言われれば、それに従うしかない」
「もし・・・、トライアルで、負けたら・・・」
「全てを失う。おそらくこの会社も潰れるし、これまで開発に莫大な投資をしてきたマクファーレン商会も、無傷ではいられないでしょう」
「そんな・・・」
「大丈夫、僕たちは、勝ちますよ。どんなことをしてもね。少し、驚かせすぎてしまったかな」
レティシアの顔が、よほど悲壮だったのか、あわててブラッドはとりなし、
「ただ、ちょっと、リックのことは、心配だな」
と、続けた。
「リックが、心配?」
「リックは、のめりこむ性格だから、昼食をとらずに働くし、トライアルが決まってからは、寝る暇も惜しんで、取り組んでいる。時には、徹夜も。これでは、身体を壊してしまう。実は、僕も以前、過労で肺をやって、辛い思いをしてね。今は、妻もうるさく言うし、身体には、気を遣うようにしているけど、リックは、体力に自信があるだけ、無茶をしている」
レティシアは、言葉がなかった。
「昨夜は、めずらしく僕より早く帰ったと思ったら、また、戻って来ていたようだ」
昨夜・・・。
昨夜、リックは、レティシアに言葉を教えるため、家へ来た。
リックは、レティシアに言葉を教えるためだけに、仕事を抜け出して来ていたのだ。
「そんな・・・、そんなことって・・・」
「リックが、ここまで一生懸命になる理由のひとつは、あなたなのかな」
レティシアが、ひどく動揺する様子を見て、ブラッドは、たどたどしいフォルティスの言葉を話す、目の前の娘が、リックの恋人なのだと察した。
「私?」
「もちろん、彼自身の夢であることには、違いないけれど、あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。大丈夫、我々は、絶対に勝ち取ります」
必ず、リックに渡しておくと、ブラッドは、本を受け取った。
ホイットマン製造会社へ向かう時とは、対照的に、帰り道のレティシアの足取りは、重かった。
トライアルに勝たなければ、リックの夢が、潰える。
トライアルは、四月の終わり・・・。
レティシアは、鞄の中に手を差し入れると、昨夜、聖ラファエラ女子修道院の修道院長に宛ててしたためた、手紙を取り出した。
手紙には、四月の初めにブリストンを発って、聖ラファエラ女子修道院へ向かいたいと、記した。
四月の初めにブリストンを発てば、トライアルの結果を知ることは出来ない。
あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。
さっき、ブラッドは、そう言った。
リックが、人生を懸けて向き合う仕事から目を背けて、修道院へ帰るの?
それで、本当に充実した修道生活が送れるの?
曇りのない心で、神に仕えることが出来るの、レティシア?
レティシアは、手紙を鞄に押し戻した。
そして、来た時と同じように駆けだした。
私に、できること。
彼のために、何か、私にもできること。
レティシアには、今、とっさに思いついたことがあった。
それを、ケイティに打ち明けるため、レティシアは、さらに足を速めた。
「リックに、昼食を届けたい?」
リビングで、ギルと、ウォルトの遊び相手をしていたケイティは、突然、思いがけないことを言い出すレティシアに、そう問い返した。
家に駆け戻ってきたと思ったら、息を切らしながら、真剣な眼差しをして、これから毎日、リックに昼食を届けたいというレティシアを、まあ少し落ち着いて、と宥めた。
レティシアは、今しがた、ホイットマン製造会社で、見聞きした話を、そのまま、ケイティに伝えた。
トライアルの話は、ケイティの耳にも、まだ入っていなかった。
多分、フランクは、ジェフリーから聞いて、知っているはず。
私や、レティシアを心配させまいと、知っていて、黙っているのだわ。
全く、男と来たら、どうしてこういった話になると、こうも秘密主義なのかしら。
と、レティシアから話を聞いて、内心、ケイティは不満だった。
「材料のお金、私の、お給金から。だから、いい?ケイティ、いい?」
レティシアは、必死だった。
リックに、何かしてあげたいと思っても、自分一人の考えでは、何一つできないことが、もどかしかった。
レティシアに詰め寄られて、小柄なケイティは、後ろにのけ反った。
「わかったから、とにかくまず、落ち着いて」
と、ケイティは、押しとどめた。
「リックに、昼食を届けることは、いい考えだと思うわ。私も賛成よ。彼は、フランクの親友だし、家族だもの。そんな不摂生って、あり得ない」
ケイティは、レティシアの給金から、材料代を引くつもりがないとも、言った。
「ありがとう、ケイティ。本当に、ありがとう。私、本当に、良かった」
レティシアの表情が、一気に輝いた。
その様子を見て、ケイティは今、レティシアがリックに恋をしているのだと、悟った。
一途なレティシアを見て、ケイティは、何て可愛い娘なのかしらと、思わずにいられなかった。
恋する乙女ね。
八つ年下の、恋に一喜一憂するレティシアに、ケイティは、私にも確かにそんな頃があったのよね、と、懐かしくなって、思わず、うふふと、顔がにやけた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる