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7.Passionate
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リックが帰った後も、先ほどリックの綴った言葉が、ずっと、レティシアの頭を巡り続けていた。
彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。
彼は、彼女の全てを受け入れる。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
彼は、彼女を・・・
レティシアは、小さく頭を振った。
話せるはずがない。
自分は、罪人なのだと。
左肩に、女囚の証が刻まれているのだと・・・。
レティシアは、リックを玄関まで見送ったあと、机の上を片付けるために、フランクの書斎に戻った。
書斎には、ペンと、インクと、先ほどお互いに綴った紙が、そのまま残されていた。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
そう記した、癖のあるリックの文字が、レティシアの目に焼き付いて、離れなかった。
しばらく、レティシアは、リックの綴った文字を見つめていたが、ペンにインクを付けると、その下に綴った。
彼女も、心から彼を愛しています。
そうして、心を振り切るように、その紙を手で握って丸め、そのまま、ストーブを開けて、中へ放り込んだ。
紙は、すぐ炎に飲み込まれた。
頬に伝う涙を手で拭いながら、机の上を片付け始めた時、机の端に置かれた本に気づいた。
ぱらぱらと捲ってみたものの、何かの専門書のようで、レティシアには内容がよく理解できなかったが、それは、フランクではなく、リックの持ち物のように思えた。
思い返すと、リックは来た時に、手に本を持っていたような気もした。
レティシアは、本を手に取って、子供たちが眠ったあと、リビングで編み物をしていたケイティに尋ねてみたところ、私もよくわからないけれど、確かに、フランクのものではなさそうね、と言った。
そこへちょうど、フランクが帰って来たので、尋ねてみたところ、やはり自分の物ではないという。
それで、その本は、リックの忘れ物ということが、わかった。
もし、仕事で使う大切な本だったら、どこで忘れたのかわからなくて、困っているかもしれない。
そう考えれば、早く届けてあげた方が、いいように思えた。
少し考えて、レティシアは、明日の朝、自分がホイットマン製造会社まで、届けに行くと言った。
バッカスのリックの部屋まで行って、直接手渡すのは馴れ馴れしい気がしたし、さりとて受付に預けたのでは、ちゃんと、本人に渡してくれるかどうか、不安だった。
先ほどのようなやりとりがあった後だったので、レティシアは、もうリックに会ってはいけないような気がしたが、仕事場で、本を渡すだけなら、きっと今夜のようなことには、ならないだろうと思った。
翌朝、ホイットマン製造会社まで、出かけなければならないレティシアは、いつもより早く起きて、ケイティと共に、慌ただしく、みなの朝食の支度と洗濯を終えた。
「レティシア、ここはいいから早く行ってらっしゃい」
それでも、ケンカが始まったり、転んで頭をぶつけたり、次々と、問題を起こす子供たちに手を取られて、中々、家を出ることが出来ないので、ケイティはレティシアの耳元でそう囁いて、促した。
何故、ケイティがレティシアの耳元で、そう囁いたかと言えば、レティシアが出かけることが、アンディとデイヴに知られたなら、ふたりとも、レティシアについて行く、と言い出すに違いないからだった。
レティシアは、アンディとデイヴに気取られないように、屋根裏部屋へ上がり、リックの本と、昨夜、あれからしたためた、聖ラファエラ女子修道院の修道院長への手紙を取って、鞄に入れた。
手紙には、四月の初めにブリストンを離れて、修道院へ帰りたい意向を、記した。
リックに本を届けた後、バッカスに立ち寄って、その手紙を出すつもりだった。
レティシアは、ケープをかぶり、ミトンをすると、本と手紙を入れた鞄を手に、静かに階段を降りた。
どドアを閉める瞬間、
「おかあさん、レティシアは?」
と、尋ねるデイヴの声が耳に届いて、レティシアは慌てて表に出た。
凍えるような寒さで、道端には雪が積もっていた。
レティシアは、通りを小走りになった。
そこまで急ぐ必要はなかったのかもしれなかったが、リックが、本を失って困っているかもしれないと思うと、少しでも早く、届けてあげたいような気がした。
ホイットマン製造会社は、デイヴと一緒に迷子になった日、一度前を通ったきりだったが、あれから三カ月が経ち、買い物や、休みの日に街を歩くこともあって、ブリストンの街には、幾分詳しくなっていた。
だから、ホイットマン製造会社へは、迷うことなく、小走りだったせいもあって、十分ほどでついた。
通りに面した、エドガー・ホイットマン製造会社という看板のかかった、木造の事務所のような建物の中の様子を、窓からそっと伺うものの、人の気配はなかった。
家を出た時間を考えると、もう八時にはなっているはずだった。
レティシアのいる場所から、事務所の裏手の様子はわからなかったが、随分広くて、作業場になっているようにも思えたから、みなそちらにいるのかもしれない、と思った。
事務所のドアのノブを回すと、開いた。
鍵は、かかっていなかった。
このまま、事務所に入って、そっと本だけ置いておこうか。
レティシアが、そう考えた時、
「何か、御用ですか、お嬢さん」
背後から、いきなりそう声を掛けられて、レティシアは、飛び上がりそうなほど驚いた。
振り返ると、立っていたのは、コートに身を包んだ、痩せ型の、きついウェーブのかかった黒髪の男だった。
レティシアは、リックと同じぐらいの歳の、その男を見た時、どこかで見た顔だと思った。
それは、男の方も同じだったようで、じっと、レティシアの顔を見つめていたが、
「ああ、いつかのお嬢さん」
と、笑顔になった。
ちょうど、その時、レティシアも思い出した。
レティシアとデイヴが迷子になって、リックと会った時、その隣にいた男だった。
リックは、確かあの時、隣に立っていた、今、目の前にいる聡明そうな男のことを、 会社のえらい人だ、といった。
それを思い出して、レティシアは、恐縮した。
「あの、この本、リックの忘れもの。私、届けに来ただけ」
と、男に、本を差し出した。
「まだ、来てない?あれ、おかしいな。裏かな」
男は、ノブに手を伸ばして、ドアを開けると、そのまま中に入り、思いついたように、事務所の中にたててあるつい立ての向こうを、覗き込んだ。
そして、ふっと、表情を緩めると、レティシアに向かって、唇の前で人差し指を立てて、そっと、手招きした。
不思議に思いながらも、レティシアが静かについたてに近づいて、中を覗き込むと、毛布にくるまったリックが、来客用のソファで、窮屈そうに、大きな身体を丸めるようにして横になり、眠っていた。
「どうして・・・?」
レティシアは、驚いて、思わず呟いた。
男は、リックを起こさないようにするため、レティシアの腕を取って、事務所を出た。
「この半月は、本当に大変でね。聞いていませんか?」
レティシアは、首を振った。
男は、レティシアに、自分は、ブラッド・ホイットマンだと名乗り、社長である、エドガー・ホイットマンの息子なのだと言った。
そして、先月の末、来年、ブリストンと、首都タリスを結んで走る蒸気機関車に、エドガー・ホイットマン製造会社の制作する、蒸気機関車を使用するというこれまでの約束を、鉄道会社が急に翻して、四月の末に、急遽、トライアルが実施されることになった、ということ、トライアルの参加は自由で、トライアルに優勝した会社の機関車が、賞金を得て、世界初の蒸気機関車として、採用されることに決まった、ということを、レティシアに話した。
「何故・・・、今頃、急に・・・」
レティシアは、リックが、この仕事にどれほど懸けているか、よく知っていた。
クリスマスに、アダムの家を訪れた時、生き生きとした眼で、蒸気機関車のことを話していたリックの顔が、忘れられなかった。
「みんな、そう思っている。何故、今頃になって、って。だけど、鉄道会社の方針だと言われれば、それに従うしかない」
「もし・・・、トライアルで、負けたら・・・」
「全てを失う。おそらくこの会社も潰れるし、これまで開発に莫大な投資をしてきたマクファーレン商会も、無傷ではいられないでしょう」
「そんな・・・」
「大丈夫、僕たちは、勝ちますよ。どんなことをしてもね。少し、驚かせすぎてしまったかな」
レティシアの顔が、よほど悲壮だったのか、あわててブラッドはとりなし、
「ただ、ちょっと、リックのことは、心配だな」
と、続けた。
「リックが、心配?」
「リックは、のめりこむ性格だから、昼食をとらずに働くし、トライアルが決まってからは、寝る暇も惜しんで、取り組んでいる。時には、徹夜も。これでは、身体を壊してしまう。実は、僕も以前、過労で肺をやって、辛い思いをしてね。今は、妻もうるさく言うし、身体には、気を遣うようにしているけど、リックは、体力に自信があるだけ、無茶をしている」
レティシアは、言葉がなかった。
「昨夜は、めずらしく僕より早く帰ったと思ったら、また、戻って来ていたようだ」
昨夜・・・。
昨夜、リックは、レティシアに言葉を教えるため、家へ来た。
リックは、レティシアに言葉を教えるためだけに、仕事を抜け出して来ていたのだ。
「そんな・・・、そんなことって・・・」
「リックが、ここまで一生懸命になる理由のひとつは、あなたなのかな」
レティシアが、ひどく動揺する様子を見て、ブラッドは、たどたどしいフォルティスの言葉を話す、目の前の娘が、リックの恋人なのだと察した。
「私?」
「もちろん、彼自身の夢であることには、違いないけれど、あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。大丈夫、我々は、絶対に勝ち取ります」
必ず、リックに渡しておくと、ブラッドは、本を受け取った。
ホイットマン製造会社へ向かう時とは、対照的に、帰り道のレティシアの足取りは、重かった。
トライアルに勝たなければ、リックの夢が、潰える。
トライアルは、四月の終わり・・・。
レティシアは、鞄の中に手を差し入れると、昨夜、聖ラファエラ女子修道院の修道院長に宛ててしたためた、手紙を取り出した。
手紙には、四月の初めにブリストンを発って、聖ラファエラ女子修道院へ向かいたいと、記した。
四月の初めにブリストンを発てば、トライアルの結果を知ることは出来ない。
あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。
さっき、ブラッドは、そう言った。
リックが、人生を懸けて向き合う仕事から目を背けて、修道院へ帰るの?
それで、本当に充実した修道生活が送れるの?
曇りのない心で、神に仕えることが出来るの、レティシア?
レティシアは、手紙を鞄に押し戻した。
そして、来た時と同じように駆けだした。
私に、できること。
彼のために、何か、私にもできること。
レティシアには、今、とっさに思いついたことがあった。
それを、ケイティに打ち明けるため、レティシアは、さらに足を速めた。
「リックに、昼食を届けたい?」
リビングで、ギルと、ウォルトの遊び相手をしていたケイティは、突然、思いがけないことを言い出すレティシアに、そう問い返した。
家に駆け戻ってきたと思ったら、息を切らしながら、真剣な眼差しをして、これから毎日、リックに昼食を届けたいというレティシアを、まあ少し落ち着いて、と宥めた。
レティシアは、今しがた、ホイットマン製造会社で、見聞きした話を、そのまま、ケイティに伝えた。
トライアルの話は、ケイティの耳にも、まだ入っていなかった。
多分、フランクは、ジェフリーから聞いて、知っているはず。
私や、レティシアを心配させまいと、知っていて、黙っているのだわ。
全く、男と来たら、どうしてこういった話になると、こうも秘密主義なのかしら。
と、レティシアから話を聞いて、内心、ケイティは不満だった。
「材料のお金、私の、お給金から。だから、いい?ケイティ、いい?」
レティシアは、必死だった。
リックに、何かしてあげたいと思っても、自分一人の考えでは、何一つできないことが、もどかしかった。
レティシアに詰め寄られて、小柄なケイティは、後ろにのけ反った。
「わかったから、とにかくまず、落ち着いて」
と、ケイティは、押しとどめた。
「リックに、昼食を届けることは、いい考えだと思うわ。私も賛成よ。彼は、フランクの親友だし、家族だもの。そんな不摂生って、あり得ない」
ケイティは、レティシアの給金から、材料代を引くつもりがないとも、言った。
「ありがとう、ケイティ。本当に、ありがとう。私、本当に、良かった」
レティシアの表情が、一気に輝いた。
その様子を見て、ケイティは今、レティシアがリックに恋をしているのだと、悟った。
一途なレティシアを見て、ケイティは、何て可愛い娘なのかしらと、思わずにいられなかった。
恋する乙女ね。
八つ年下の、恋に一喜一憂するレティシアに、ケイティは、私にも確かにそんな頃があったのよね、と、懐かしくなって、思わず、うふふと、顔がにやけた。
彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。
彼は、彼女の全てを受け入れる。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
彼は、彼女を・・・
レティシアは、小さく頭を振った。
話せるはずがない。
自分は、罪人なのだと。
左肩に、女囚の証が刻まれているのだと・・・。
レティシアは、リックを玄関まで見送ったあと、机の上を片付けるために、フランクの書斎に戻った。
書斎には、ペンと、インクと、先ほどお互いに綴った紙が、そのまま残されていた。
何故なら、彼は、心から彼女を愛している。
そう記した、癖のあるリックの文字が、レティシアの目に焼き付いて、離れなかった。
しばらく、レティシアは、リックの綴った文字を見つめていたが、ペンにインクを付けると、その下に綴った。
彼女も、心から彼を愛しています。
そうして、心を振り切るように、その紙を手で握って丸め、そのまま、ストーブを開けて、中へ放り込んだ。
紙は、すぐ炎に飲み込まれた。
頬に伝う涙を手で拭いながら、机の上を片付け始めた時、机の端に置かれた本に気づいた。
ぱらぱらと捲ってみたものの、何かの専門書のようで、レティシアには内容がよく理解できなかったが、それは、フランクではなく、リックの持ち物のように思えた。
思い返すと、リックは来た時に、手に本を持っていたような気もした。
レティシアは、本を手に取って、子供たちが眠ったあと、リビングで編み物をしていたケイティに尋ねてみたところ、私もよくわからないけれど、確かに、フランクのものではなさそうね、と言った。
そこへちょうど、フランクが帰って来たので、尋ねてみたところ、やはり自分の物ではないという。
それで、その本は、リックの忘れ物ということが、わかった。
もし、仕事で使う大切な本だったら、どこで忘れたのかわからなくて、困っているかもしれない。
そう考えれば、早く届けてあげた方が、いいように思えた。
少し考えて、レティシアは、明日の朝、自分がホイットマン製造会社まで、届けに行くと言った。
バッカスのリックの部屋まで行って、直接手渡すのは馴れ馴れしい気がしたし、さりとて受付に預けたのでは、ちゃんと、本人に渡してくれるかどうか、不安だった。
先ほどのようなやりとりがあった後だったので、レティシアは、もうリックに会ってはいけないような気がしたが、仕事場で、本を渡すだけなら、きっと今夜のようなことには、ならないだろうと思った。
翌朝、ホイットマン製造会社まで、出かけなければならないレティシアは、いつもより早く起きて、ケイティと共に、慌ただしく、みなの朝食の支度と洗濯を終えた。
「レティシア、ここはいいから早く行ってらっしゃい」
それでも、ケンカが始まったり、転んで頭をぶつけたり、次々と、問題を起こす子供たちに手を取られて、中々、家を出ることが出来ないので、ケイティはレティシアの耳元でそう囁いて、促した。
何故、ケイティがレティシアの耳元で、そう囁いたかと言えば、レティシアが出かけることが、アンディとデイヴに知られたなら、ふたりとも、レティシアについて行く、と言い出すに違いないからだった。
レティシアは、アンディとデイヴに気取られないように、屋根裏部屋へ上がり、リックの本と、昨夜、あれからしたためた、聖ラファエラ女子修道院の修道院長への手紙を取って、鞄に入れた。
手紙には、四月の初めにブリストンを離れて、修道院へ帰りたい意向を、記した。
リックに本を届けた後、バッカスに立ち寄って、その手紙を出すつもりだった。
レティシアは、ケープをかぶり、ミトンをすると、本と手紙を入れた鞄を手に、静かに階段を降りた。
どドアを閉める瞬間、
「おかあさん、レティシアは?」
と、尋ねるデイヴの声が耳に届いて、レティシアは慌てて表に出た。
凍えるような寒さで、道端には雪が積もっていた。
レティシアは、通りを小走りになった。
そこまで急ぐ必要はなかったのかもしれなかったが、リックが、本を失って困っているかもしれないと思うと、少しでも早く、届けてあげたいような気がした。
ホイットマン製造会社は、デイヴと一緒に迷子になった日、一度前を通ったきりだったが、あれから三カ月が経ち、買い物や、休みの日に街を歩くこともあって、ブリストンの街には、幾分詳しくなっていた。
だから、ホイットマン製造会社へは、迷うことなく、小走りだったせいもあって、十分ほどでついた。
通りに面した、エドガー・ホイットマン製造会社という看板のかかった、木造の事務所のような建物の中の様子を、窓からそっと伺うものの、人の気配はなかった。
家を出た時間を考えると、もう八時にはなっているはずだった。
レティシアのいる場所から、事務所の裏手の様子はわからなかったが、随分広くて、作業場になっているようにも思えたから、みなそちらにいるのかもしれない、と思った。
事務所のドアのノブを回すと、開いた。
鍵は、かかっていなかった。
このまま、事務所に入って、そっと本だけ置いておこうか。
レティシアが、そう考えた時、
「何か、御用ですか、お嬢さん」
背後から、いきなりそう声を掛けられて、レティシアは、飛び上がりそうなほど驚いた。
振り返ると、立っていたのは、コートに身を包んだ、痩せ型の、きついウェーブのかかった黒髪の男だった。
レティシアは、リックと同じぐらいの歳の、その男を見た時、どこかで見た顔だと思った。
それは、男の方も同じだったようで、じっと、レティシアの顔を見つめていたが、
「ああ、いつかのお嬢さん」
と、笑顔になった。
ちょうど、その時、レティシアも思い出した。
レティシアとデイヴが迷子になって、リックと会った時、その隣にいた男だった。
リックは、確かあの時、隣に立っていた、今、目の前にいる聡明そうな男のことを、 会社のえらい人だ、といった。
それを思い出して、レティシアは、恐縮した。
「あの、この本、リックの忘れもの。私、届けに来ただけ」
と、男に、本を差し出した。
「まだ、来てない?あれ、おかしいな。裏かな」
男は、ノブに手を伸ばして、ドアを開けると、そのまま中に入り、思いついたように、事務所の中にたててあるつい立ての向こうを、覗き込んだ。
そして、ふっと、表情を緩めると、レティシアに向かって、唇の前で人差し指を立てて、そっと、手招きした。
不思議に思いながらも、レティシアが静かについたてに近づいて、中を覗き込むと、毛布にくるまったリックが、来客用のソファで、窮屈そうに、大きな身体を丸めるようにして横になり、眠っていた。
「どうして・・・?」
レティシアは、驚いて、思わず呟いた。
男は、リックを起こさないようにするため、レティシアの腕を取って、事務所を出た。
「この半月は、本当に大変でね。聞いていませんか?」
レティシアは、首を振った。
男は、レティシアに、自分は、ブラッド・ホイットマンだと名乗り、社長である、エドガー・ホイットマンの息子なのだと言った。
そして、先月の末、来年、ブリストンと、首都タリスを結んで走る蒸気機関車に、エドガー・ホイットマン製造会社の制作する、蒸気機関車を使用するというこれまでの約束を、鉄道会社が急に翻して、四月の末に、急遽、トライアルが実施されることになった、ということ、トライアルの参加は自由で、トライアルに優勝した会社の機関車が、賞金を得て、世界初の蒸気機関車として、採用されることに決まった、ということを、レティシアに話した。
「何故・・・、今頃、急に・・・」
レティシアは、リックが、この仕事にどれほど懸けているか、よく知っていた。
クリスマスに、アダムの家を訪れた時、生き生きとした眼で、蒸気機関車のことを話していたリックの顔が、忘れられなかった。
「みんな、そう思っている。何故、今頃になって、って。だけど、鉄道会社の方針だと言われれば、それに従うしかない」
「もし・・・、トライアルで、負けたら・・・」
「全てを失う。おそらくこの会社も潰れるし、これまで開発に莫大な投資をしてきたマクファーレン商会も、無傷ではいられないでしょう」
「そんな・・・」
「大丈夫、僕たちは、勝ちますよ。どんなことをしてもね。少し、驚かせすぎてしまったかな」
レティシアの顔が、よほど悲壮だったのか、あわててブラッドはとりなし、
「ただ、ちょっと、リックのことは、心配だな」
と、続けた。
「リックが、心配?」
「リックは、のめりこむ性格だから、昼食をとらずに働くし、トライアルが決まってからは、寝る暇も惜しんで、取り組んでいる。時には、徹夜も。これでは、身体を壊してしまう。実は、僕も以前、過労で肺をやって、辛い思いをしてね。今は、妻もうるさく言うし、身体には、気を遣うようにしているけど、リックは、体力に自信があるだけ、無茶をしている」
レティシアは、言葉がなかった。
「昨夜は、めずらしく僕より早く帰ったと思ったら、また、戻って来ていたようだ」
昨夜・・・。
昨夜、リックは、レティシアに言葉を教えるため、家へ来た。
リックは、レティシアに言葉を教えるためだけに、仕事を抜け出して来ていたのだ。
「そんな・・・、そんなことって・・・」
「リックが、ここまで一生懸命になる理由のひとつは、あなたなのかな」
レティシアが、ひどく動揺する様子を見て、ブラッドは、たどたどしいフォルティスの言葉を話す、目の前の娘が、リックの恋人なのだと察した。
「私?」
「もちろん、彼自身の夢であることには、違いないけれど、あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。大丈夫、我々は、絶対に勝ち取ります」
必ず、リックに渡しておくと、ブラッドは、本を受け取った。
ホイットマン製造会社へ向かう時とは、対照的に、帰り道のレティシアの足取りは、重かった。
トライアルに勝たなければ、リックの夢が、潰える。
トライアルは、四月の終わり・・・。
レティシアは、鞄の中に手を差し入れると、昨夜、聖ラファエラ女子修道院の修道院長に宛ててしたためた、手紙を取り出した。
手紙には、四月の初めにブリストンを発って、聖ラファエラ女子修道院へ向かいたいと、記した。
四月の初めにブリストンを発てば、トライアルの結果を知ることは出来ない。
あなたに、喜んでもらいたいのでしょう。
さっき、ブラッドは、そう言った。
リックが、人生を懸けて向き合う仕事から目を背けて、修道院へ帰るの?
それで、本当に充実した修道生活が送れるの?
曇りのない心で、神に仕えることが出来るの、レティシア?
レティシアは、手紙を鞄に押し戻した。
そして、来た時と同じように駆けだした。
私に、できること。
彼のために、何か、私にもできること。
レティシアには、今、とっさに思いついたことがあった。
それを、ケイティに打ち明けるため、レティシアは、さらに足を速めた。
「リックに、昼食を届けたい?」
リビングで、ギルと、ウォルトの遊び相手をしていたケイティは、突然、思いがけないことを言い出すレティシアに、そう問い返した。
家に駆け戻ってきたと思ったら、息を切らしながら、真剣な眼差しをして、これから毎日、リックに昼食を届けたいというレティシアを、まあ少し落ち着いて、と宥めた。
レティシアは、今しがた、ホイットマン製造会社で、見聞きした話を、そのまま、ケイティに伝えた。
トライアルの話は、ケイティの耳にも、まだ入っていなかった。
多分、フランクは、ジェフリーから聞いて、知っているはず。
私や、レティシアを心配させまいと、知っていて、黙っているのだわ。
全く、男と来たら、どうしてこういった話になると、こうも秘密主義なのかしら。
と、レティシアから話を聞いて、内心、ケイティは不満だった。
「材料のお金、私の、お給金から。だから、いい?ケイティ、いい?」
レティシアは、必死だった。
リックに、何かしてあげたいと思っても、自分一人の考えでは、何一つできないことが、もどかしかった。
レティシアに詰め寄られて、小柄なケイティは、後ろにのけ反った。
「わかったから、とにかくまず、落ち着いて」
と、ケイティは、押しとどめた。
「リックに、昼食を届けることは、いい考えだと思うわ。私も賛成よ。彼は、フランクの親友だし、家族だもの。そんな不摂生って、あり得ない」
ケイティは、レティシアの給金から、材料代を引くつもりがないとも、言った。
「ありがとう、ケイティ。本当に、ありがとう。私、本当に、良かった」
レティシアの表情が、一気に輝いた。
その様子を見て、ケイティは今、レティシアがリックに恋をしているのだと、悟った。
一途なレティシアを見て、ケイティは、何て可愛い娘なのかしらと、思わずにいられなかった。
恋する乙女ね。
八つ年下の、恋に一喜一憂するレティシアに、ケイティは、私にも確かにそんな頃があったのよね、と、懐かしくなって、思わず、うふふと、顔がにやけた。
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