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7.Passionate
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年が明けて、半月が過ぎ、リックにもレティシアにも慌ただしく、忙しい日々が戻って来た。
年末に感じた寂しさは、すっかりどこかへ去り、レティシアは、四人の子供たちの世話と家事で、毎日、息つく暇もないほど、忙しかった。
リックも、来年に予定される蒸気機関車の運行に向けて、エドガー、ブラッドの、ホイットマン親子と共に、鉄道省、鉄道会社との細かな打ち合わせ、レールの敷設、そして、何より、蒸気機関車の性能、安全性を高めるために、妥協することなく、さらなる改良を試みていた。
けれども、互いに、どれほど忙しくとも、土曜日の夜の、レティシアの語学の勉強が、取り止めになることはなかった。
リックは、土曜日の夜、大抵はアダムからの差し入れを持って訪れ、フランクの書斎で、レティシアに言葉を教えた。
最初に比べると、レティシアの語学力は、各段に上達していた。
毎日、フォルティスの言葉を聞き、フォルティスの言葉でしか話さないのだから、当然と言えば、当然かもしれなかったが、レティシアの日々の努力が、あったことは言うまでもなかった。
ただ、新年を迎えてから、少しばかり、レティシアの様子に変化があった。
マクファーレンの家から戻って以降、レティシアは、どことなくリックによそよそしくなった。
これまでなら、勉強中でも、リックの軽口に、レティシアの弾けるような笑いが溢れて、 一緒に過ごす時間は、互いに楽しいものだった。
けれども、レティシアは、リックの冗談に、あまり応じなくなった。
笑うにしても、伏し目がちに微笑むのが精いっぱいで、リックは、以前のような明るい笑顔を、眼にすることがなくなった。
レティシアの心の内には、そろそろ、修道院へ帰る支度をしなければならないという、思いがあった。
四月に、修道院へ帰るとして、聖ラファエラ女子修道院と手紙をやり取りして、帰る手段、日にちを、詳細に打ち合わせる必要があった。
レティシアが修道院に帰る際には、リックが向こうまで送り届けるという話になっていたが、レティシアにそのつもりはなかった。
今、リックの仕事が大変な時だということを知っていたので、これ以上、自分のために、時間を割かせるわけにいかないということは、十分に承知していた。
時間がかかったとしても、たとえ、女の一人旅が危険だと反対されても、駅馬車を乗り継いで、帰るつもりだった。
本当なら、レティシアの言葉も、日常困ることはないくらいに上達していたし、フォルティスにいるのもあと少しなので、土曜の勉強も必要がないと断れば、リックの負担が減ることは、わかっていた。
それに、あと三カ月たらずで、修道院に帰るのに、これ以上リックと親しくなるべきではないということも、よくわかっていたから、断るべきだとも思っていた。
けれども、そうすると、もうリックに会うこともなくなると思うと、レティシアは、中々そう言いだすことができないでいた。
その、レティシアの複雑な心中が、リックに対して壁を作った。
一方、リックは、もう少しで、修道院へ戻らなければならないという、レティシアの心中を、よく理解していた。
左肩の烙印が、レティシアを修道院へ帰らせる、一番の理由であることは、簡単に察しがついた。
何もかも本当のことを、レティシアに話してしまった方がいいと、思うこともあった。
けれども、その過去を知って、衝撃を受けたレティシアが、記憶だけでなく、今度こそ正気を失ってしまったら?
もう二度と、あの花のような笑顔を、見ることができなくなってしまったら・・・?
都合の悪い部分だけを隠して、嘘をつき通す自信などなかった。
何故、これまで、本当のことを隠していたのかと、問い詰められたら、どう答えればいいのか。
ブロンディーヌ、ミラージュ、ラングラン公爵・・・、今更、そんなことを話してどうなる?
その思いが、リックに、真実を話すことをためらわせた。
互いに、本心を置き去りにしたまま、一緒に過ごす時間は、心に易しくない痛みを伴った。
けれども、その心の痛みを、どうすれば拭い去ることが出来るのか、答えは出てこなかった。
一月も終わりに近づいた、粉雪の舞うある朝、リックは、ミルフェアストリートにある、マクファーレン商会へと呼び出された。
三階建ての、煉瓦造りのその建物へ呼び出されることなど、まずなかった。
だから、
「何か、問題があったのか?」
三階にある、ジェフリーの執務室に入るや否や、挨拶よりもまず、リックはそう言った。
「問題というほどではないが。最近、身の回りで、変わったことはないか?」
ジェフリーは、机について、書類にサインをしていたが、リックが入って来たのを見て、手を止め、椅子を勧めた。
「身の回りで?俺の?」
そう言われて、頭を巡らせてみても、思い当たるようなことは、なかった。
「心当たりはないが、何かまずいことでも?」
ジェフリーは、少し前に耳に入ってきた話だが、と、話し始めた。
リックの寝起きするバッカスは、駅馬車と、切っても切り離すことはできない。
何故なら、バッカスの前が、駅馬車の発着場になっていて、バッカスは、駅馬車を利用する者の宿として、賑わっているからだった。
けれども、来年にも蒸気機関車が、ここ、ブリストンと、首都タリスを結んで走ることになり、そうなれば、駅馬車を生業とする御者を始め、駅馬車に関わって働く者たちの仕事が、失われるとまではいかないまでも、打撃を受ける。
蒸気機関車が走るようになれば、蒸気機関車が駅馬車にとって代わり、少なくとも、その運行区間を走る駅馬車が、廃れていくことになるのは、明らかだった。
そして、蒸気機関車が成功を収め、その運行区間が広がれば広がるほど、駅馬車が縮小されていくことに、間違いなかった。
つまり、駅馬車に関わる者や、駅馬車の利用客の宿であるタヴァンの者たちが、蒸気機関車の運行を、快く思うはずはなかったのである。
蒸気機関車の運行が、迫ってくる中、駅馬車に関わる者たちの不満や、将来への不安は、次第に大きくなっていると考えられた。
ジェフリーの心配は、それだった。
タヴァン、バッカスに寝起きするリックは、蒸気機関車に携わっている。
蒸気機関車の運行を快く思わない御者や、バッカスの従業員たちの不満が、高まりつつあると耳にして、リックが、思わぬ嫌がらせを受けるかもしれない、ということだった。
酒好きで、気性の荒い御者は、多かった。
酔った御者たちに、リックが襲われるようなことにでもなる前に、そろそろバッカスを出た方がいいのではないか、というのが、ジェフリーの見解だった。
「あんたの言っていることは、間違いじゃないかもしれない」
ジェフリーの話を聞いて、思い返してみれば、以前は、親しく口をきく間柄だった御者が、最近は、顔を合わせても、挨拶だけで通り過ぎることが多かった。
「心当たりがあるなら、行動に移すことだ。騒ぎが起きる前に」
「そうだな。早いうちに、どこかへ移る」
「手ごろな物件を、探してやってもいいが」
「いや、いい。自分のことぐらい、自分でする。忙しいのに、わざわざ悪かったな」
と、リックは、席を立った。
そのリックをジェフリーは呼び止めると、
「ホイットマン氏から報告は来ているが、彼の言う通り、仕事は順調で間違いないか?」
そう尋ねた。
「問題は山積みさ。やらなければならないことは、いくらでもある。時間がどれだけあっても、足りない」
「自信は?」
「ジェフリー、そういう問題じゃない」
「何?」
「失敗は、許されないんだ」
リックは、そう言い残して、ジェフリーの執務室を後にした。
エドガー・ホイットマン製造会社に、その衝撃的な報告が入ったのは、一月の最終日、リックがマクファーレン商会を訪れてから、五日ほど経っていた。
「何だって?」
エドガーからその話を聞かされた時、リックは、耳を疑った。
タリスの鉄道会社へ赴いたエドガーが、その話を持ち帰って来た時、事務所に集められた、エドガー・ホイットマン製造会社の従業員たち、七名はみな、驚きと怒りを隠せなかった。
それは、来年、ブリストンとタリスを結んで走る蒸気機関車が、四月末に行われるトライアルで、決定することになった、というものだった。
そんな話は、ホイットマン製造会社の者たちにとって、寝耳に水だった。
国内初、いや、世界初の蒸気機関車として、ホイットマン製造会社の蒸気機関車を使うことは、決定していた。
決定しているはず、だった。
ところが、ここへ来て、鉄道会社の上層部での、派閥争いが、激しくなった。
ホイットマン製造会社の、蒸気機関車を押す会社の幹部と、他の蒸気機関車製造会社の制作する、蒸気機関車を押す会社の幹部たちが、激しい争いを展開した。
それで、会社としては、採用する蒸気機関車を、公平に決めるため、トライアルを実施することに決めたのだった。
トライアルへの参加条件は、なし。
希望すれば、誰にでも、どの会社でも、トライアルに参加することが出来る。
同じ条件の下、一定区間を走り、一番早く走り終えた蒸気機関車には、賞金が与えられ、ブリストンと首都タリスを結んで走る、世界初の蒸気機関車として、採用されることになった。
「今頃になって、そんな・・・」
従業員のひとりが、思わず呟いた。
これまで、ホイットマン製造会社の者たちは、時間も、資金も、情熱も、希望も、全てを蒸気機関車に懸けて来た。
世界初の蒸気機関車を、自分たちの手で作るのだと、誇りを持って、仕事に従事してきた。
それが・・・、もしかしたら、全て、水の泡となってしまうのかもしれない。
万一、不採用などということになれば、このホイットマン製造会社自体が、無くなってしまうのかもしれない・・・。
しばらく、誰も、口をきくことができなかった。
沈黙を破ったのは、エドガーだった。
「みんな、何故、そんなに暗い顔をしているんだ?四月のトライアルでは、俺たちの蒸気機関車が、一番になる。間違いない。俺たちの作った蒸気機関車が、一番だ」
確信のこもった声だった。
そのエドガーの言葉で、みな、我に返った。
やるしかない。
トライアルで優勝して、世界初の蒸気機関車となる権利を、もぎとるのだ、と。
レティシアは、つと、手を止めた。
隣で、レティシアの綴りを見ているはずのリックだったが、何やら、いつもとは違う気配を感じて、頬杖をついたリックの顔を見ると、瞼が閉じていた。
その拍子に、肘が滑って、リックは目を覚ました。
「ん・・・、なんだ、ああ、寝てたのか」
リックは、手で目をこすった。
充血した目をしていた。
「リック、疲れている?」
「いや、そうでもない。ここは、暖かいからな」
確かに、書斎にストーブは入れてあったが、リックの眠気を誘ったのは、暖かさのせいだけとは思えなかった。
「リック、私、勉強、しなくていい」
「何?」
「私、もう、勉強、いい。必要ない」
もうすぐしたら修道院へ帰るのだからと言いかけて、レティシアは言葉を飲み込んだ。
「俺に、気を遣っているのか?」
「リック、仕事、忙しい。この土曜の夜の勉強、あなたに、迷惑」
リックは、余計な心配をかけたくなかったので、トライアルの一件を、フランクにも、ケイティにも、レティシアにも、話していなかった。
その内、ジェフリーの口から、フランクの耳に入り、ケイティやレティシアの耳にも入るのかもしれなかったが、ホイットマン製造会社に、トライアルの話が持ち込まれて、半月を経ても、レティシアの耳には、まだ届いていない様子だった。
それでも、リックがいつも以上に疲れている、ということには、気づいたようだった。
トライアルの話が持ち込まれて以降、この半月、寝る時間もままならないほど、時には泊まり込みで、作業に取り組んでいた。
普段通りを装ったところで、リックの顔には、疲労の色が出ていた。
「迷惑だなんて、思ってない」
「でも・・・」
「ちゃんと、綴れてるのか?見せてみろよ」
話すことには、慣れたレティシアだったが、書くことは、まだ不慣れだった。
リックは、レティシアの綴った紙を、手に取った。
どのように、という言葉を使って、文を作る練習をしていた。
「どのように、私は、答えればいいですか?」
「どのように、お母さんは、料理をするのですか?」
「どのように、彼は、彼女と出会ったのですか?」
どれもきれいな字で、丁寧に綴られていた。
綴りに、間違いはなかった。
リックは、それをしばらくじっと眺めていたが、 その下に、癖のある字で、何やら綴って、レティシアの前に差し出した。
「最初に会った時、多分、彼女は、彼を嫌っていた」
それは、一番下の例文の答えのように、見えた。
レティシアは、眼を通して、少し微笑み、その下に書き足した。
「彼女には、彼が、不愛想に見えた」
今度は、リックがそれを読んで、笑った。
それから、ふたりは交代で、言葉を書き続けた。
「けれども、それから、二人は、一緒に楽しい時間を過ごした」
「クリスマスや新年は、本当に素敵な時間だった。彼への、彼女の感謝は、言葉にできない」
「彼が、彼女に望んでいるのは、感謝ではない」
リックはそう記すと、レティシアの前に、紙を置いた。
レティシアは真顔になって、記された文字を見つめた。
目を伏せたまま、レティシアは、次に記す言葉を探していたが、
「彼女は、赤ちゃんを宿したことがある」
そう記した文字は、少し、震えていた。
「彼は、過去を気にしない」
「彼女は、去らなくてはならない。彼女には、絶対、人には言えない秘密がある。ひどい秘密がある」
震える手で文字を綴る、レティシアの頬は、蒼白だった。
「彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。彼は、彼女の全てを受け入れる」
リックは、そう書き記した。
レティシアは、顔を上げた。
涙を含んだ瞳で、ただ、じっと、リックを見つめていた。
そのレティシアの前に、リックは、最後の言葉を記して、差し出した。
「何故なら、彼は、心から彼女を愛している」
年末に感じた寂しさは、すっかりどこかへ去り、レティシアは、四人の子供たちの世話と家事で、毎日、息つく暇もないほど、忙しかった。
リックも、来年に予定される蒸気機関車の運行に向けて、エドガー、ブラッドの、ホイットマン親子と共に、鉄道省、鉄道会社との細かな打ち合わせ、レールの敷設、そして、何より、蒸気機関車の性能、安全性を高めるために、妥協することなく、さらなる改良を試みていた。
けれども、互いに、どれほど忙しくとも、土曜日の夜の、レティシアの語学の勉強が、取り止めになることはなかった。
リックは、土曜日の夜、大抵はアダムからの差し入れを持って訪れ、フランクの書斎で、レティシアに言葉を教えた。
最初に比べると、レティシアの語学力は、各段に上達していた。
毎日、フォルティスの言葉を聞き、フォルティスの言葉でしか話さないのだから、当然と言えば、当然かもしれなかったが、レティシアの日々の努力が、あったことは言うまでもなかった。
ただ、新年を迎えてから、少しばかり、レティシアの様子に変化があった。
マクファーレンの家から戻って以降、レティシアは、どことなくリックによそよそしくなった。
これまでなら、勉強中でも、リックの軽口に、レティシアの弾けるような笑いが溢れて、 一緒に過ごす時間は、互いに楽しいものだった。
けれども、レティシアは、リックの冗談に、あまり応じなくなった。
笑うにしても、伏し目がちに微笑むのが精いっぱいで、リックは、以前のような明るい笑顔を、眼にすることがなくなった。
レティシアの心の内には、そろそろ、修道院へ帰る支度をしなければならないという、思いがあった。
四月に、修道院へ帰るとして、聖ラファエラ女子修道院と手紙をやり取りして、帰る手段、日にちを、詳細に打ち合わせる必要があった。
レティシアが修道院に帰る際には、リックが向こうまで送り届けるという話になっていたが、レティシアにそのつもりはなかった。
今、リックの仕事が大変な時だということを知っていたので、これ以上、自分のために、時間を割かせるわけにいかないということは、十分に承知していた。
時間がかかったとしても、たとえ、女の一人旅が危険だと反対されても、駅馬車を乗り継いで、帰るつもりだった。
本当なら、レティシアの言葉も、日常困ることはないくらいに上達していたし、フォルティスにいるのもあと少しなので、土曜の勉強も必要がないと断れば、リックの負担が減ることは、わかっていた。
それに、あと三カ月たらずで、修道院に帰るのに、これ以上リックと親しくなるべきではないということも、よくわかっていたから、断るべきだとも思っていた。
けれども、そうすると、もうリックに会うこともなくなると思うと、レティシアは、中々そう言いだすことができないでいた。
その、レティシアの複雑な心中が、リックに対して壁を作った。
一方、リックは、もう少しで、修道院へ戻らなければならないという、レティシアの心中を、よく理解していた。
左肩の烙印が、レティシアを修道院へ帰らせる、一番の理由であることは、簡単に察しがついた。
何もかも本当のことを、レティシアに話してしまった方がいいと、思うこともあった。
けれども、その過去を知って、衝撃を受けたレティシアが、記憶だけでなく、今度こそ正気を失ってしまったら?
もう二度と、あの花のような笑顔を、見ることができなくなってしまったら・・・?
都合の悪い部分だけを隠して、嘘をつき通す自信などなかった。
何故、これまで、本当のことを隠していたのかと、問い詰められたら、どう答えればいいのか。
ブロンディーヌ、ミラージュ、ラングラン公爵・・・、今更、そんなことを話してどうなる?
その思いが、リックに、真実を話すことをためらわせた。
互いに、本心を置き去りにしたまま、一緒に過ごす時間は、心に易しくない痛みを伴った。
けれども、その心の痛みを、どうすれば拭い去ることが出来るのか、答えは出てこなかった。
一月も終わりに近づいた、粉雪の舞うある朝、リックは、ミルフェアストリートにある、マクファーレン商会へと呼び出された。
三階建ての、煉瓦造りのその建物へ呼び出されることなど、まずなかった。
だから、
「何か、問題があったのか?」
三階にある、ジェフリーの執務室に入るや否や、挨拶よりもまず、リックはそう言った。
「問題というほどではないが。最近、身の回りで、変わったことはないか?」
ジェフリーは、机について、書類にサインをしていたが、リックが入って来たのを見て、手を止め、椅子を勧めた。
「身の回りで?俺の?」
そう言われて、頭を巡らせてみても、思い当たるようなことは、なかった。
「心当たりはないが、何かまずいことでも?」
ジェフリーは、少し前に耳に入ってきた話だが、と、話し始めた。
リックの寝起きするバッカスは、駅馬車と、切っても切り離すことはできない。
何故なら、バッカスの前が、駅馬車の発着場になっていて、バッカスは、駅馬車を利用する者の宿として、賑わっているからだった。
けれども、来年にも蒸気機関車が、ここ、ブリストンと、首都タリスを結んで走ることになり、そうなれば、駅馬車を生業とする御者を始め、駅馬車に関わって働く者たちの仕事が、失われるとまではいかないまでも、打撃を受ける。
蒸気機関車が走るようになれば、蒸気機関車が駅馬車にとって代わり、少なくとも、その運行区間を走る駅馬車が、廃れていくことになるのは、明らかだった。
そして、蒸気機関車が成功を収め、その運行区間が広がれば広がるほど、駅馬車が縮小されていくことに、間違いなかった。
つまり、駅馬車に関わる者や、駅馬車の利用客の宿であるタヴァンの者たちが、蒸気機関車の運行を、快く思うはずはなかったのである。
蒸気機関車の運行が、迫ってくる中、駅馬車に関わる者たちの不満や、将来への不安は、次第に大きくなっていると考えられた。
ジェフリーの心配は、それだった。
タヴァン、バッカスに寝起きするリックは、蒸気機関車に携わっている。
蒸気機関車の運行を快く思わない御者や、バッカスの従業員たちの不満が、高まりつつあると耳にして、リックが、思わぬ嫌がらせを受けるかもしれない、ということだった。
酒好きで、気性の荒い御者は、多かった。
酔った御者たちに、リックが襲われるようなことにでもなる前に、そろそろバッカスを出た方がいいのではないか、というのが、ジェフリーの見解だった。
「あんたの言っていることは、間違いじゃないかもしれない」
ジェフリーの話を聞いて、思い返してみれば、以前は、親しく口をきく間柄だった御者が、最近は、顔を合わせても、挨拶だけで通り過ぎることが多かった。
「心当たりがあるなら、行動に移すことだ。騒ぎが起きる前に」
「そうだな。早いうちに、どこかへ移る」
「手ごろな物件を、探してやってもいいが」
「いや、いい。自分のことぐらい、自分でする。忙しいのに、わざわざ悪かったな」
と、リックは、席を立った。
そのリックをジェフリーは呼び止めると、
「ホイットマン氏から報告は来ているが、彼の言う通り、仕事は順調で間違いないか?」
そう尋ねた。
「問題は山積みさ。やらなければならないことは、いくらでもある。時間がどれだけあっても、足りない」
「自信は?」
「ジェフリー、そういう問題じゃない」
「何?」
「失敗は、許されないんだ」
リックは、そう言い残して、ジェフリーの執務室を後にした。
エドガー・ホイットマン製造会社に、その衝撃的な報告が入ったのは、一月の最終日、リックがマクファーレン商会を訪れてから、五日ほど経っていた。
「何だって?」
エドガーからその話を聞かされた時、リックは、耳を疑った。
タリスの鉄道会社へ赴いたエドガーが、その話を持ち帰って来た時、事務所に集められた、エドガー・ホイットマン製造会社の従業員たち、七名はみな、驚きと怒りを隠せなかった。
それは、来年、ブリストンとタリスを結んで走る蒸気機関車が、四月末に行われるトライアルで、決定することになった、というものだった。
そんな話は、ホイットマン製造会社の者たちにとって、寝耳に水だった。
国内初、いや、世界初の蒸気機関車として、ホイットマン製造会社の蒸気機関車を使うことは、決定していた。
決定しているはず、だった。
ところが、ここへ来て、鉄道会社の上層部での、派閥争いが、激しくなった。
ホイットマン製造会社の、蒸気機関車を押す会社の幹部と、他の蒸気機関車製造会社の制作する、蒸気機関車を押す会社の幹部たちが、激しい争いを展開した。
それで、会社としては、採用する蒸気機関車を、公平に決めるため、トライアルを実施することに決めたのだった。
トライアルへの参加条件は、なし。
希望すれば、誰にでも、どの会社でも、トライアルに参加することが出来る。
同じ条件の下、一定区間を走り、一番早く走り終えた蒸気機関車には、賞金が与えられ、ブリストンと首都タリスを結んで走る、世界初の蒸気機関車として、採用されることになった。
「今頃になって、そんな・・・」
従業員のひとりが、思わず呟いた。
これまで、ホイットマン製造会社の者たちは、時間も、資金も、情熱も、希望も、全てを蒸気機関車に懸けて来た。
世界初の蒸気機関車を、自分たちの手で作るのだと、誇りを持って、仕事に従事してきた。
それが・・・、もしかしたら、全て、水の泡となってしまうのかもしれない。
万一、不採用などということになれば、このホイットマン製造会社自体が、無くなってしまうのかもしれない・・・。
しばらく、誰も、口をきくことができなかった。
沈黙を破ったのは、エドガーだった。
「みんな、何故、そんなに暗い顔をしているんだ?四月のトライアルでは、俺たちの蒸気機関車が、一番になる。間違いない。俺たちの作った蒸気機関車が、一番だ」
確信のこもった声だった。
そのエドガーの言葉で、みな、我に返った。
やるしかない。
トライアルで優勝して、世界初の蒸気機関車となる権利を、もぎとるのだ、と。
レティシアは、つと、手を止めた。
隣で、レティシアの綴りを見ているはずのリックだったが、何やら、いつもとは違う気配を感じて、頬杖をついたリックの顔を見ると、瞼が閉じていた。
その拍子に、肘が滑って、リックは目を覚ました。
「ん・・・、なんだ、ああ、寝てたのか」
リックは、手で目をこすった。
充血した目をしていた。
「リック、疲れている?」
「いや、そうでもない。ここは、暖かいからな」
確かに、書斎にストーブは入れてあったが、リックの眠気を誘ったのは、暖かさのせいだけとは思えなかった。
「リック、私、勉強、しなくていい」
「何?」
「私、もう、勉強、いい。必要ない」
もうすぐしたら修道院へ帰るのだからと言いかけて、レティシアは言葉を飲み込んだ。
「俺に、気を遣っているのか?」
「リック、仕事、忙しい。この土曜の夜の勉強、あなたに、迷惑」
リックは、余計な心配をかけたくなかったので、トライアルの一件を、フランクにも、ケイティにも、レティシアにも、話していなかった。
その内、ジェフリーの口から、フランクの耳に入り、ケイティやレティシアの耳にも入るのかもしれなかったが、ホイットマン製造会社に、トライアルの話が持ち込まれて、半月を経ても、レティシアの耳には、まだ届いていない様子だった。
それでも、リックがいつも以上に疲れている、ということには、気づいたようだった。
トライアルの話が持ち込まれて以降、この半月、寝る時間もままならないほど、時には泊まり込みで、作業に取り組んでいた。
普段通りを装ったところで、リックの顔には、疲労の色が出ていた。
「迷惑だなんて、思ってない」
「でも・・・」
「ちゃんと、綴れてるのか?見せてみろよ」
話すことには、慣れたレティシアだったが、書くことは、まだ不慣れだった。
リックは、レティシアの綴った紙を、手に取った。
どのように、という言葉を使って、文を作る練習をしていた。
「どのように、私は、答えればいいですか?」
「どのように、お母さんは、料理をするのですか?」
「どのように、彼は、彼女と出会ったのですか?」
どれもきれいな字で、丁寧に綴られていた。
綴りに、間違いはなかった。
リックは、それをしばらくじっと眺めていたが、 その下に、癖のある字で、何やら綴って、レティシアの前に差し出した。
「最初に会った時、多分、彼女は、彼を嫌っていた」
それは、一番下の例文の答えのように、見えた。
レティシアは、眼を通して、少し微笑み、その下に書き足した。
「彼女には、彼が、不愛想に見えた」
今度は、リックがそれを読んで、笑った。
それから、ふたりは交代で、言葉を書き続けた。
「けれども、それから、二人は、一緒に楽しい時間を過ごした」
「クリスマスや新年は、本当に素敵な時間だった。彼への、彼女の感謝は、言葉にできない」
「彼が、彼女に望んでいるのは、感謝ではない」
リックはそう記すと、レティシアの前に、紙を置いた。
レティシアは真顔になって、記された文字を見つめた。
目を伏せたまま、レティシアは、次に記す言葉を探していたが、
「彼女は、赤ちゃんを宿したことがある」
そう記した文字は、少し、震えていた。
「彼は、過去を気にしない」
「彼女は、去らなくてはならない。彼女には、絶対、人には言えない秘密がある。ひどい秘密がある」
震える手で文字を綴る、レティシアの頬は、蒼白だった。
「彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。彼は、彼女の全てを受け入れる」
リックは、そう書き記した。
レティシアは、顔を上げた。
涙を含んだ瞳で、ただ、じっと、リックを見つめていた。
そのレティシアの前に、リックは、最後の言葉を記して、差し出した。
「何故なら、彼は、心から彼女を愛している」
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あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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