東雲色のロマンス

海子

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4.レティシアの休日

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 レティシアは、途方に暮れていた。 
ああ、どうしましょう。 
ユースティティアの言葉で、ぽつりと呟いた。 
アダムに見送られて、デイヴとふたり、バッカスを出たまではよかった。
もう三時が近く、レティシアは、そのまま家に帰るつもりだった。 
けれども、昼寝をして元気を取り戻したデイヴが、もう少しだけ街を歩きたいと言いだした。
時間的にもう帰った方がいいことは、レティシアもよくわかっていたが、心もお腹も満たされて、つい気が緩んでいたのだろう。 
もう少しだけなら、と、デイヴと一緒に、街を歩き始めた。 
ところが、ひと寝入りして、すっかり元気になったデイヴは、先へ先へと、どうかすると速足になった。
レティシアが、手をつなごうとしても、すぐに振りほどいて、興味の赴くまま、進んでいく。 
「ダメ、ダメ、デイヴ。待って、デイヴ、ダメ」 
それを、追いかけるようについていくうち、気が付けば、見たことのない場所へ来てしまっていた。 
ここは、どこ・・・。 
そこは、工場が立ち並ぶ一角だった。 
正面には大きな河があって、それが、先日いなくなったデイヴを探しに出た時に行き当たった、ハロルド河だということは、わかった。
けれども、今、ハロルド河の一体どのあたりにいるのか、見当がつかなかった。 
どうしたらいいの・・・。 
風は、さらに冷たくなり始めていた。 
レティシアは、ショールの前を掻き合わせた。
もう、四時は過ぎているに違いなかった。 
もう少しで、日が暮れる。 
ブリストンの街は、治安のよくない場所もあると、ケイティから聞かされていた。 
日が暮れてしまってから、デイヴと、そんな場所へ迷い込んでしまうことは、避けなければならなかった。 
誰かに道を聞こうにも、工場が立ち並ぶ場所なだけにめぼしい店はなく、道行く人も、いることはいたのだが、レティシアの拙いフォルティスの言葉がどこまで通じるのか、自信がなかった。
「レティシア、僕たち、迷子?」 
「迷子?」 
「道、わからなくなっちゃったの?」 
デイヴが、茶色い不安そうな瞳で、レティシアを見上げてきた。
「そう、今、少し、道、わからない」 
レティシアが、困ったようにそう答えると、デイヴは、突然、レティシアの手を取った。
そして、
「大丈夫だよ、レティシア。僕がいるから」 
と、繋ぐ手に、小さな力を込めてきた。 
「デイヴ・・・」
「安心して、レティシア。僕が、守ってあげる」 
唇を、真一文字にキュッと結んで、前を見つめるデイヴの横顔に、一瞬、レティシアは見入った。 
小さくても、デイヴは男の子なのだと、じわっと、こみ上げるものがあった。 
その小さな優しさが、たまらなく愛おしかった。 
そして、思った。
もしもあの時、無事に生まれていたら、今頃、こうやって、手をつないで、街をふたりで歩いて・・・、私も、お母さんと、呼んでもらえたのだろうか。
レティシアは、小さな手をそっと、握り返した。 
レティシアは、ふっと小さな息を吐くと、覚悟を決めて、道行く人に、道を尋ねることにした。 
このままデイヴとふたり、迷子のままでいるわけには、いかなかった。 
「あの・・・」
「レティシア?」
レティシアが、覚悟を決めて、道行く人に声をかけようとしたとき、後ろから、名前を呼ばれた。 
驚いて振り返ると、リックが立っていた。
リックは、ひとりではなかった。 
その隣には、リックと同じ年恰好で、長身のリックよりは、幾分、背丈の低い痩せ形の男が、並んでいた。 
男は、きついウェーブのかかった、黒髪をしていた。 
「何をやっているんだ、こんなところで?」
「ああ、リック・・・」
思わず、レティシアは、安堵のため息を漏らした。 
「僕たち、迷子なの」
「迷子?」 
ケイティから、休みをもらって、一日ブリストンの街の散策を楽しんだものの、帰り道に迷ってしまったことを、レティシアは、リックに、たどたどしく伝えた。
「リック、送って行ってあげた方がいい」 
リックの隣にいた、聡明そうな男が、レティシアの話を聞いて、そう言った。
「あの、道だけ、大丈夫。デイヴと帰る。大丈夫」 
「もうすぐ日が暮れる。若い娘さんと小さい子供が、道に迷って、万一貧困街にでも入り込んだら、大変なことになる。リックに、送ってもらったほうがいい」 
と、男は、リックの手にしていた図面を預かると、促した。
「そうだな、その方が安心だ。じゃあ、ちょっと行ってきます、ブラッドさん」
と、リックは、レティシアとデイヴと一緒に歩きだした。 
「ごめんなさい、リック。ごめんなさい。迷惑、ごめんなさい」
「気にするな。さほど、時間はかからない」 
「リック、今日も、お仕事?」 
「ああ、そこが俺の仕事場。近くの鉄工所から、ちょうど、帰るところだった」 
と、リックが、通りを挟んで、すぐ前の工場を指さした。 
エドガー・ホイットマン製造会社の看板が、掲げられていた。 
「さっきの人は・・・」 
「云わば、俺の師匠だな。正確に言うと、大師匠の息子だ」
「師匠?会社、えらい人?」 
「まあ、そういうことだ」 
「お仕事・・・、本当、ごめんなさい」 
「たまには、お前とこうやって歩くのも、悪くない」 
レティシアは、そう言うリックの真意を測りかねたが、並んで歩く、リックの横顔をちらりと見上げると、どことなく楽しそうだった。
リックに家まで送ってもらえるとなって、すっかり安心したデイヴは、ふざけてわざと路地に入りこもうとしたり、真っすぐ歩こうとはしなかったりで、レティシアは、やっぱり、
「ダメ、ダメ、デイヴ、ダメ」
と、繰り返すことになった。 
「で、今日は、ブリストンのどこへ行ったんだ?」 
リックのその問いに、レティシアは、今朝からの出来事を、話し出した。
盛況なミルフェアストリートに驚いたこと、小さな食料品店の女店主、ローズ・ギャレットと友達になったこと、バッカスで、アダムの美味しい料理を味わったこと。 
レティシアの話は、次から次へ途切れることがなく、その瞳は、生き生きと輝いていた。 
それで、リックはレティシアの今日一日が、この上なく充実したものであることを知った。
「楽しい一日で、良かったな」
「楽しい?」 
そう言われて、レティシアは、改めて今日一日の、自分の心のうちを思い返した。
「はい、そうです・・・。今日、とても、とても、楽しかった」 
そういうレティシアのヘーゼルの瞳は、ブリストンに来てから、一番の輝きを放っていた。



 家に着くと、ケイティが、ギルを抱いて、表に出ていた。 
「少し、帰りが遅いから、迷子になったんじゃないかと思って、心配していたのよ。ウォルトは、お昼寝中。あら、リックも一緒?」 
帰りの遅い二人を心配して、様子を伺いに、表に出てきたらしかった。
「帰り、遅い。ごめんなさい」
「ほんの少しだけよ。どう、楽しかった、ふたりとも?」
「うん」
「はい、とても」 
「それは、よかったわ。ねえ、ギル、お兄ちゃん、お帰りなさい、さあ、言ってみましょう」
ケイティは、言葉の遅れがちな、幼い二人の息子に、言葉を教えることを、諦めてはいないようだった。
けれども、ギルは、素知らぬ風で、あちこちをきょろきょろと、眺めている。
「ああ、手強いわね・・・」 
「そんなむきにならなくても、そのうち、喋るんじゃないか?」
リックは、なあ、とケイティに抱かれている、ギルの柔らかな頬を、そっと、つねった。 
「あなたにはまだ、親心はわからないわ。あら、デイヴは?」 
今まで、傍にいたはずの、デイヴが見当たらなくなって、あたりを見渡すと、通りの向かいにあるマクファーレン診療所のドアを開けて、中を覗き込んでいた。 
「ダメ、ダメ、デイヴ、ダメ、おうち、帰って」 
と、レティシアが、通りを渡って、デイヴを連れに行こうとした時だった。 
「ダメー、デーヴ、デーヴ、ダメ、ダメー」 
突然、ケイティの腕に抱かれたギルが、そう言って、喋りだした。
「まあ・・・」 
ケイティも、レティシアも、目を丸くした。 
そして、一瞬の後、レティシアは、ぷっと、噴き出した。
「ギル、私の真似。それ、私」 
レティシアは、くすくすと、笑いが止まらなくなった。 
眩しいほど、明るい笑顔だった。 
ケイティとリックは、思わず顔を見合わせていた。
ケイティも、リックも、レティシアがブリストンへ来てから、初めて見る笑顔だった。
そのレティシアの笑顔を見て、ケイティもリックも、可笑しそうに笑いだした。
大人三人が、愉快そうに笑い出す、その様子を、マクファーレン診療所の前から、デイヴは、不思議そうに見つめていた。 
そして、ケイティに抱かれたギルは、指をくわえたまま、きょとんとした表情で、大人たちの顔を、見つめていた。


 花のように、優しく柔らかなレティシアの笑顔は、四年前、リックに向けられた笑顔と、何一つ変わることはなかった。 

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