赤毛とトカゲと淑女。

海子

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2.tenderness

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 翌日も、朝から夏の日差しが眩しかった。 
オーランドとサディアスとキースは、いつものように朝食の席に着き、そして、今日もそれぞれ園主、取引先、果樹園へ出向く用があり、出かける用意をしていた。
オーランドは、昨日の夕食と、今朝の朝食に、コーディリアが姿を見せなかったことを、心配していた。 
アニーを通じて、少し体調が優れないので、部屋で休んでいます、食事は部屋で頂いておりますので、どうぞご心配なく、との伝言が寄せられたが、何かあったのだろうかと、気にかかっていた。 
フォーシーズンズ・ハウスへやって来た当日は、長旅の疲れに、トカゲの一件や、初対面と言うこともあり、硬い表情を崩さないコーディリアだったが、キースとホレスへ出向いたのを機に、表情が和らかくなってきて、良い傾向だとほっとしていたのに、気に障ることでもあったのだろうかと、気になった。 
今日の夕飯も一緒に摂れないようなら、話し合う機会を設けた方が良さそうだと考えていた。 



 縁談を承諾するコーディリアからの手紙を受け取った時、オーランドも妙な話だとは思った。 
由緒正しきグラハム家の伯爵令嬢が、片田舎チェストルの領主と結婚するために、身一つでやって来る、というのは、どう考えても異例だった。 
けれども、都会で生まれ育った令嬢が、覚悟を決めて、チェストルへ嫁いでくるというのだし、自分自身が原因で、オーランドは二度の見合いに失敗していたわけで・・・、実際に来てもらって、まず、よく話し合ってみることだ、と思った。
サディアスは、コーディリアに、警戒を解くなとしきりに助言してきたが、何か狙いがあって、三兄弟の待つフィンドレー家へ飛び込んでくるというのなら、それはそれで中々度胸があると思った。 
チェストルを、フォーシーズンズ・ハウスでの暮らしを、愛してくれる女性ならいいのだが、というのが、オーランドの唯一の願いだった。 
実際、コーディリアに会ってみて、噂通り、随分美しい婦人だとは思ったが、表情の暗いところや自信なさげなところは、気になった。
が、話してみると、気遣いのできる優しい女性だと思った。 
いや、むしろ、少々気遣いが過ぎて、これでは、気疲れするのではないかと心配することもあった。 
一方で、コーディリアがやってきて、まだ数日だったが、男ばかりの暮らしに、女性がひとり加わっただけで、こうも空気が華やぐものかと、驚かされた。 
一緒に食事を摂る際の、何気ない会話のやり取りが楽しかった。 
コーディリアの自分への第一印象は、酷いものに違いないと自覚していたオーランドは、結婚を急かすようなことはしたくなかった。 
少しずつチェストルの暮らしに慣れて、そういう方向へ進んでいけたら、と、ふたりで気持ちを育んでいけたなら、と思っていた。 
だから、次第に表情が和んでいくコーディリアを見て、安心していたのに・・・。 
胸の内に、心配の種を抱えつつ、朝食を終え、書斎で、確認しておかなければならない書類に眼を通してから、領地の園主と約束があったために、外出しようと、玄関ホールへの階段を降りた時だった。 
オーランド様、と、聞き覚えのある声に呼び止められて振り返ると、コーディリアが立っていた。 
「大丈夫?アニーから体調が良くないと聞いて、心配していた」 
顔を見られた安堵で、一瞬、オーランドは笑顔を浮かべたが、血色の良くない頬を見て、表情を曇らせた。
「お仕事から戻られたら・・・、お話したいことがございます」 
「敬語を使わない約束では?」 
コーディリアは、首を振った。 
「いいえ・・・、そういったこともよくなかったのですわ。わたくし、身の程も知らずに、自分の厚かましい振る舞いを、心から恥じております。どうぞ、お許しくださいませ」 
コーディリアは、オーランドに頭を下げた。
「何かあった?」 
「お仕事から戻られましたら、お話したいと思います。朝のお忙しい時間にお時間を取らせてしまって、申し訳ございませんでした」 
コーディリアが顔を伏せがちに、立ち去ろうとするのを、
「いや、いい。話は、今、聞く」 
オーランドは、引き止めた。
「わたくしのことで、これ以上、お手間を取らせたくはございません」 
「手間だと思ってない」
「ですが・・・」 
「少し、外を歩こうか。朝の時分は涼しくて、散歩するにはちょうどいい」 
オーランドは、玄関のドアを開けて、明るい日差しと瑞々しい緑の中へ、コーディリアを誘った。 
コーディリアは、きゅっと、心を引き締め、オーランドに従った。



 「お忙しい時間に・・・、本当に申し訳ございません」
コーディリアと出かける際、オーランドが執事を呼び、何か耳打ちするのを見て、自分のせいで、オーランドが、今朝の予定を変更したのだと察した。 
「俺の判断だ。君が、気にする必要はない。今の優先順位は、君だ」 
木々の間から日差しの差し込むプロムナードを、並んで歩きながら、そういえば、コーディリアとふたりきりで話をするのは、今日が初めてだ、とオーランドは、思った。 



 丘の上に建つフォーシーズンズ・ハウスは、石造りで、赤茶色の屋根を持つ、フィンドレー家の邸宅で、部屋は十五人の使用人たちの居住空間を含めて、三十ほどだった。 
これは、領主の邸宅としては、かなり小規模で、見方によっては、お粗末と評されても仕方のないことかもしれなかったが、オーランドは、屋敷に名付けられた通り、四季の移ろいを、眼で、肌で、楽しむことが出来るここでの暮らしを、何よりも愛していた。 
緑豊かな森に囲まれたフォーシーズンズ・ハウスの辺り一帯は、春はブルーベル、初夏は瑞々しい新緑や野ばら、秋は美しく木の葉が色づき、冬は、雪景色に包まれた。
フォーシーズンズ・ハウスの住人にとって、コマドリのさえずり、リスや鹿との遭遇は、身近な日常で、誰もが心和まされた。 
屋敷の前庭には手入れの行き届いた季節の花々が、訪れる客を歓迎するかのように迎え、 屋敷の裏庭には、ローズマリー、ミント、タイム、レモングラス、セージ、オレガノといった、いくつもの種類のハーブが、大切に育てられていた。 
そして、この豊かな自然を愛する先代当主によって、領主一家や使用人たちが、森の息吹を楽しめるようにと、屋敷の裏庭から森の中へ、プロムナードが整備されたのだった。 
プロムナードの途中には、小さな広場やベンチが据え置かれて、季節のいい頃には、父母と三兄弟が、度々ピクニックを楽しんだ、思い出の尽きない場所でもあった。 



 「話というのは?」 
ゆっくりとした足取りで、プロムナードを進みつつ、躊躇うコーディリアにオーランドの方から、話を向けた。
「わたくし、明日、ウォルトンへ帰ります」
「理由を尋ねても?」
「わたくしが・・・、ここへ来たのは、あなたと結婚するためではなかったのです。正しく申し上げますと、結婚する気がなかった、というより、自棄でした。わたくしには、十歳の時から両親の決めた婚約者がいて、来年の春に結婚する予定だったのです。相手の方は、お父様が高い地位にある方で・・・、いえ、お話しないのは、卑怯ですわね。わたくしの勝手な振る舞いで、あなたには、大変なご迷惑をおかけすることになったのですから・・・、お相手のお父様は、ボズウェル伯爵、今、現在、この国の首相ですわ」 
「つまり、ボズウェル首相?」 
ええ、そうですわと、コーディリアは頷き、
「わたくしの婚約者の名前は、ヴィクター・チャールズ・ボズウェル。ボズウェル首相のご長男です。正確には、元婚約者ですけれど」
そう答えた。
「そんな立派な相手がいたのに、君がここへ来たのは、何か余程の事情があったということ?」 
「余程・・・、ええ、そうですわ。わたくしにとっては、余程の、耐えられない事情でした。ですが・・・、落ち着いて考えてみれば、お父様やお母様、お兄様の言う通り、世間ではよくある、取るに足らないことだったのかもしれません。つまり・・・、ヴィクターには、恋人がいたのです」 
「ああ・・・、なるほど」
「わたくし、そのご婦人がヴィクターに宛てた手紙を、偶然目にしてしまったのです。手紙には、ふたりの密会の詳細が記されていて・・・」
閨の睦言があからさまに記された手紙を、目にした時のコーディリアの衝撃は、測り知れなかった。
そういった経験がなく、性的な欲求が未知なだけに、コーディリアの胸には、なぜ、どうして、という想いが、絶え間なく渦巻いた。
「相手のご婦人は、二十六歳のヴィクターより十も年上の男爵夫人です。お子様も、おふたりいらっしゃいます。わたくしも夜会や、お茶会で何度かお話したことがあるのですが、朗らかで、お話上手で、ご主人とも仲がおよろしい様で、とてもそんな風には・・・」 
つい先頃まで婚約者だった男の、秘密の恋人の顔が甦り、コーディリアは、一瞬息苦しさを覚えた。 
「それでも、わたくし、ヴィクターを許そうと思っていました。まだ結婚前のことですし、両親の決めた婚約者ではありましたけれど、わたくしなりの想いがございました。真面目で穏やかな彼の人柄を、ずっと尊敬していました。だからこそ、一度の過ちなら許そうと決めました。ヴィクターなら、わたくしの気持ちを分かってくれると、夫人との関係にきちんと区切りをつけて、心からの謝罪をしてくれると・・・、信じていました」
ひとり悩み苦しんだ時間を思い返せば、まだ激しく胸は痛んだ。
「けれども、それは、わたくしの思い違いでした。夫人との関係の解消を望んだわたくしに、彼は・・・、ヴィクターは、お相手と別れるつもりはないと、自分たちの結婚は、互いの家柄と地位を維持するための、形式上の契約にすぎないのだから、と」 
その時、コーディリアは頭の中が真っ白になり、指先が冷たくなっていくのが分かった。
「わたくし、彼に尋ねました。何故、男爵夫人が必要なのですか、と。わたくしでは、何がいけないのでしょう、何が至らないのでしょう、と。彼は・・・、こう答えました。君は、確かに美しいけれど、退屈な女性だ。ただ、綺麗なだけだと、飽きるよ、って」
コーディリアは、その時の、ヴィクターの冷たい声を、忘れることが出来なかった。 
それは、コーディリアの知る、穏やかで優しいヴィクターではなかった。 
わたくしは、これまで、この方の何を見てきたのだろう・・・。
コーディリアに冷たい眼差しを向ける紳士は、コーディリアの知らない男だった。
「それからもしばらくひとりで、悩み続けたのですが、これはもう、どうしようもないことと、ご縁がなかったと、婚約解消を覚悟して、父と母に経緯を打ち明けました。わたくしは、グラハム家から直ぐに婚約解消を申し入れることになると、思っていました。けれども・・・、父は、まあ、時機の悪いことだ、と言うだけで、後は何も申しません。その後、わたくしの知らないところで父と母は話し合ったようで、母は翌日、わたくしを呼んで、こう話しました。コーディリア、あなたの気持ちは、よくわかるけれど・・・、こういったことは、決して特別なことではないの。経験のない若いあなたには、辛いことかもしれないけれど、あまり深く考えてはいけないわ。殿方は、妻ではない女性と関係を持つことがあっても、それは愛人に過ぎないの。正式な妻とは、全く立場が違うものなのよ。あなたは、堂々としていればいいの、って」
コーディリアには、到底、理解が出来なかった。
世の中には、結婚しても、愛人や恋人を作る男たちがいることを、知ってはいた。 
実際に、夜会や婦人たちの集いで、そういったことを見聞きすることはあった。 
けれども、それが実際に自分の身に起こるとなると、話は別だった。 
思わず、お母様も、そうなのですか、お母様も、そういったことを辛抱してこられたのでしょうか、と、尋ねたコーディリアから、母は、黙って視線を逸らせた。
それで、コーディリアは悟った。 
自分が知らなかっただけで、この家にも・・・、父と母にも、そういった事実が存在していたのだと。 
そして、グラハム家とボズウェル家の結婚を、取りやめるつもりがないのだということを。 
それでも、コーディリアは、ヴィクターの妻になるのだということを。 
娘の幸せより、対面を優先するのだと。 
「わたくしは、奈落に突き落とされたような絶望を、味わっていました。もう、誰も・・・、何も信じられない。結婚なんて・・・、結婚なんて、滅茶滅茶に砕け散ってしまえばいい、そう思って・・・、それでも、結局父や母に、逆らうことが出来ずに、グラハム家という巨大な目に見えない圧力に、押しつぶされそうになりながら、日々を過ごしていました。アールーズから手紙が舞い込んだのは・・・、そんな時でした」 
コーディリアは、木洩れ日に眼を細めつつ、話に、黙って耳を傾けるオーランドを見上げた。

 
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