11 / 28
2.tenderness
4
しおりを挟む
翌日も、朝から夏の日差しが眩しかった。
オーランドとサディアスとキースは、いつものように朝食の席に着き、そして、今日もそれぞれ園主、取引先、果樹園へ出向く用があり、出かける用意をしていた。
オーランドは、昨日の夕食と、今朝の朝食に、コーディリアが姿を見せなかったことを、心配していた。
アニーを通じて、少し体調が優れないので、部屋で休んでいます、食事は部屋で頂いておりますので、どうぞご心配なく、との伝言が寄せられたが、何かあったのだろうかと、気にかかっていた。
フォーシーズンズ・ハウスへやって来た当日は、長旅の疲れに、トカゲの一件や、初対面と言うこともあり、硬い表情を崩さないコーディリアだったが、キースとホレスへ出向いたのを機に、表情が和らかくなってきて、良い傾向だとほっとしていたのに、気に障ることでもあったのだろうかと、気になった。
今日の夕飯も一緒に摂れないようなら、話し合う機会を設けた方が良さそうだと考えていた。
縁談を承諾するコーディリアからの手紙を受け取った時、オーランドも妙な話だとは思った。
由緒正しきグラハム家の伯爵令嬢が、片田舎チェストルの領主と結婚するために、身一つでやって来る、というのは、どう考えても異例だった。
けれども、都会で生まれ育った令嬢が、覚悟を決めて、チェストルへ嫁いでくるというのだし、自分自身が原因で、オーランドは二度の見合いに失敗していたわけで・・・、実際に来てもらって、まず、よく話し合ってみることだ、と思った。
サディアスは、コーディリアに、警戒を解くなとしきりに助言してきたが、何か狙いがあって、三兄弟の待つフィンドレー家へ飛び込んでくるというのなら、それはそれで中々度胸があると思った。
チェストルを、フォーシーズンズ・ハウスでの暮らしを、愛してくれる女性ならいいのだが、というのが、オーランドの唯一の願いだった。
実際、コーディリアに会ってみて、噂通り、随分美しい婦人だとは思ったが、表情の暗いところや自信なさげなところは、気になった。
が、話してみると、気遣いのできる優しい女性だと思った。
いや、むしろ、少々気遣いが過ぎて、これでは、気疲れするのではないかと心配することもあった。
一方で、コーディリアがやってきて、まだ数日だったが、男ばかりの暮らしに、女性がひとり加わっただけで、こうも空気が華やぐものかと、驚かされた。
一緒に食事を摂る際の、何気ない会話のやり取りが楽しかった。
コーディリアの自分への第一印象は、酷いものに違いないと自覚していたオーランドは、結婚を急かすようなことはしたくなかった。
少しずつチェストルの暮らしに慣れて、そういう方向へ進んでいけたら、と、ふたりで気持ちを育んでいけたなら、と思っていた。
だから、次第に表情が和んでいくコーディリアを見て、安心していたのに・・・。
胸の内に、心配の種を抱えつつ、朝食を終え、書斎で、確認しておかなければならない書類に眼を通してから、領地の園主と約束があったために、外出しようと、玄関ホールへの階段を降りた時だった。
オーランド様、と、聞き覚えのある声に呼び止められて振り返ると、コーディリアが立っていた。
「大丈夫?アニーから体調が良くないと聞いて、心配していた」
顔を見られた安堵で、一瞬、オーランドは笑顔を浮かべたが、血色の良くない頬を見て、表情を曇らせた。
「お仕事から戻られたら・・・、お話したいことがございます」
「敬語を使わない約束では?」
コーディリアは、首を振った。
「いいえ・・・、そういったこともよくなかったのですわ。わたくし、身の程も知らずに、自分の厚かましい振る舞いを、心から恥じております。どうぞ、お許しくださいませ」
コーディリアは、オーランドに頭を下げた。
「何かあった?」
「お仕事から戻られましたら、お話したいと思います。朝のお忙しい時間にお時間を取らせてしまって、申し訳ございませんでした」
コーディリアが顔を伏せがちに、立ち去ろうとするのを、
「いや、いい。話は、今、聞く」
オーランドは、引き止めた。
「わたくしのことで、これ以上、お手間を取らせたくはございません」
「手間だと思ってない」
「ですが・・・」
「少し、外を歩こうか。朝の時分は涼しくて、散歩するにはちょうどいい」
オーランドは、玄関のドアを開けて、明るい日差しと瑞々しい緑の中へ、コーディリアを誘った。
コーディリアは、きゅっと、心を引き締め、オーランドに従った。
「お忙しい時間に・・・、本当に申し訳ございません」
コーディリアと出かける際、オーランドが執事を呼び、何か耳打ちするのを見て、自分のせいで、オーランドが、今朝の予定を変更したのだと察した。
「俺の判断だ。君が、気にする必要はない。今の優先順位は、君だ」
木々の間から日差しの差し込むプロムナードを、並んで歩きながら、そういえば、コーディリアとふたりきりで話をするのは、今日が初めてだ、とオーランドは、思った。
丘の上に建つフォーシーズンズ・ハウスは、石造りで、赤茶色の屋根を持つ、フィンドレー家の邸宅で、部屋は十五人の使用人たちの居住空間を含めて、三十ほどだった。
これは、領主の邸宅としては、かなり小規模で、見方によっては、お粗末と評されても仕方のないことかもしれなかったが、オーランドは、屋敷に名付けられた通り、四季の移ろいを、眼で、肌で、楽しむことが出来るここでの暮らしを、何よりも愛していた。
緑豊かな森に囲まれたフォーシーズンズ・ハウスの辺り一帯は、春はブルーベル、初夏は瑞々しい新緑や野ばら、秋は美しく木の葉が色づき、冬は、雪景色に包まれた。
フォーシーズンズ・ハウスの住人にとって、コマドリのさえずり、リスや鹿との遭遇は、身近な日常で、誰もが心和まされた。
屋敷の前庭には手入れの行き届いた季節の花々が、訪れる客を歓迎するかのように迎え、 屋敷の裏庭には、ローズマリー、ミント、タイム、レモングラス、セージ、オレガノといった、いくつもの種類のハーブが、大切に育てられていた。
そして、この豊かな自然を愛する先代当主によって、領主一家や使用人たちが、森の息吹を楽しめるようにと、屋敷の裏庭から森の中へ、プロムナードが整備されたのだった。
プロムナードの途中には、小さな広場やベンチが据え置かれて、季節のいい頃には、父母と三兄弟が、度々ピクニックを楽しんだ、思い出の尽きない場所でもあった。
「話というのは?」
ゆっくりとした足取りで、プロムナードを進みつつ、躊躇うコーディリアにオーランドの方から、話を向けた。
「わたくし、明日、ウォルトンへ帰ります」
「理由を尋ねても?」
「わたくしが・・・、ここへ来たのは、あなたと結婚するためではなかったのです。正しく申し上げますと、結婚する気がなかった、というより、自棄でした。わたくしには、十歳の時から両親の決めた婚約者がいて、来年の春に結婚する予定だったのです。相手の方は、お父様が高い地位にある方で・・・、いえ、お話しないのは、卑怯ですわね。わたくしの勝手な振る舞いで、あなたには、大変なご迷惑をおかけすることになったのですから・・・、お相手のお父様は、ボズウェル伯爵、今、現在、この国の首相ですわ」
「つまり、ボズウェル首相?」
ええ、そうですわと、コーディリアは頷き、
「わたくしの婚約者の名前は、ヴィクター・チャールズ・ボズウェル。ボズウェル首相のご長男です。正確には、元婚約者ですけれど」
そう答えた。
「そんな立派な相手がいたのに、君がここへ来たのは、何か余程の事情があったということ?」
「余程・・・、ええ、そうですわ。わたくしにとっては、余程の、耐えられない事情でした。ですが・・・、落ち着いて考えてみれば、お父様やお母様、お兄様の言う通り、世間ではよくある、取るに足らないことだったのかもしれません。つまり・・・、ヴィクターには、恋人がいたのです」
「ああ・・・、なるほど」
「わたくし、そのご婦人がヴィクターに宛てた手紙を、偶然目にしてしまったのです。手紙には、ふたりの密会の詳細が記されていて・・・」
閨の睦言があからさまに記された手紙を、目にした時のコーディリアの衝撃は、測り知れなかった。
そういった経験がなく、性的な欲求が未知なだけに、コーディリアの胸には、なぜ、どうして、という想いが、絶え間なく渦巻いた。
「相手のご婦人は、二十六歳のヴィクターより十も年上の男爵夫人です。お子様も、おふたりいらっしゃいます。わたくしも夜会や、お茶会で何度かお話したことがあるのですが、朗らかで、お話上手で、ご主人とも仲がおよろしい様で、とてもそんな風には・・・」
つい先頃まで婚約者だった男の、秘密の恋人の顔が甦り、コーディリアは、一瞬息苦しさを覚えた。
「それでも、わたくし、ヴィクターを許そうと思っていました。まだ結婚前のことですし、両親の決めた婚約者ではありましたけれど、わたくしなりの想いがございました。真面目で穏やかな彼の人柄を、ずっと尊敬していました。だからこそ、一度の過ちなら許そうと決めました。ヴィクターなら、わたくしの気持ちを分かってくれると、夫人との関係にきちんと区切りをつけて、心からの謝罪をしてくれると・・・、信じていました」
ひとり悩み苦しんだ時間を思い返せば、まだ激しく胸は痛んだ。
「けれども、それは、わたくしの思い違いでした。夫人との関係の解消を望んだわたくしに、彼は・・・、ヴィクターは、お相手と別れるつもりはないと、自分たちの結婚は、互いの家柄と地位を維持するための、形式上の契約にすぎないのだから、と」
その時、コーディリアは頭の中が真っ白になり、指先が冷たくなっていくのが分かった。
「わたくし、彼に尋ねました。何故、男爵夫人が必要なのですか、と。わたくしでは、何がいけないのでしょう、何が至らないのでしょう、と。彼は・・・、こう答えました。君は、確かに美しいけれど、退屈な女性だ。ただ、綺麗なだけだと、飽きるよ、って」
コーディリアは、その時の、ヴィクターの冷たい声を、忘れることが出来なかった。
それは、コーディリアの知る、穏やかで優しいヴィクターではなかった。
わたくしは、これまで、この方の何を見てきたのだろう・・・。
コーディリアに冷たい眼差しを向ける紳士は、コーディリアの知らない男だった。
「それからもしばらくひとりで、悩み続けたのですが、これはもう、どうしようもないことと、ご縁がなかったと、婚約解消を覚悟して、父と母に経緯を打ち明けました。わたくしは、グラハム家から直ぐに婚約解消を申し入れることになると、思っていました。けれども・・・、父は、まあ、時機の悪いことだ、と言うだけで、後は何も申しません。その後、わたくしの知らないところで父と母は話し合ったようで、母は翌日、わたくしを呼んで、こう話しました。コーディリア、あなたの気持ちは、よくわかるけれど・・・、こういったことは、決して特別なことではないの。経験のない若いあなたには、辛いことかもしれないけれど、あまり深く考えてはいけないわ。殿方は、妻ではない女性と関係を持つことがあっても、それは愛人に過ぎないの。正式な妻とは、全く立場が違うものなのよ。あなたは、堂々としていればいいの、って」
コーディリアには、到底、理解が出来なかった。
世の中には、結婚しても、愛人や恋人を作る男たちがいることを、知ってはいた。
実際に、夜会や婦人たちの集いで、そういったことを見聞きすることはあった。
けれども、それが実際に自分の身に起こるとなると、話は別だった。
思わず、お母様も、そうなのですか、お母様も、そういったことを辛抱してこられたのでしょうか、と、尋ねたコーディリアから、母は、黙って視線を逸らせた。
それで、コーディリアは悟った。
自分が知らなかっただけで、この家にも・・・、父と母にも、そういった事実が存在していたのだと。
そして、グラハム家とボズウェル家の結婚を、取りやめるつもりがないのだということを。
それでも、コーディリアは、ヴィクターの妻になるのだということを。
娘の幸せより、対面を優先するのだと。
「わたくしは、奈落に突き落とされたような絶望を、味わっていました。もう、誰も・・・、何も信じられない。結婚なんて・・・、結婚なんて、滅茶滅茶に砕け散ってしまえばいい、そう思って・・・、それでも、結局父や母に、逆らうことが出来ずに、グラハム家という巨大な目に見えない圧力に、押しつぶされそうになりながら、日々を過ごしていました。アールーズから手紙が舞い込んだのは・・・、そんな時でした」
コーディリアは、木洩れ日に眼を細めつつ、話に、黙って耳を傾けるオーランドを見上げた。
オーランドとサディアスとキースは、いつものように朝食の席に着き、そして、今日もそれぞれ園主、取引先、果樹園へ出向く用があり、出かける用意をしていた。
オーランドは、昨日の夕食と、今朝の朝食に、コーディリアが姿を見せなかったことを、心配していた。
アニーを通じて、少し体調が優れないので、部屋で休んでいます、食事は部屋で頂いておりますので、どうぞご心配なく、との伝言が寄せられたが、何かあったのだろうかと、気にかかっていた。
フォーシーズンズ・ハウスへやって来た当日は、長旅の疲れに、トカゲの一件や、初対面と言うこともあり、硬い表情を崩さないコーディリアだったが、キースとホレスへ出向いたのを機に、表情が和らかくなってきて、良い傾向だとほっとしていたのに、気に障ることでもあったのだろうかと、気になった。
今日の夕飯も一緒に摂れないようなら、話し合う機会を設けた方が良さそうだと考えていた。
縁談を承諾するコーディリアからの手紙を受け取った時、オーランドも妙な話だとは思った。
由緒正しきグラハム家の伯爵令嬢が、片田舎チェストルの領主と結婚するために、身一つでやって来る、というのは、どう考えても異例だった。
けれども、都会で生まれ育った令嬢が、覚悟を決めて、チェストルへ嫁いでくるというのだし、自分自身が原因で、オーランドは二度の見合いに失敗していたわけで・・・、実際に来てもらって、まず、よく話し合ってみることだ、と思った。
サディアスは、コーディリアに、警戒を解くなとしきりに助言してきたが、何か狙いがあって、三兄弟の待つフィンドレー家へ飛び込んでくるというのなら、それはそれで中々度胸があると思った。
チェストルを、フォーシーズンズ・ハウスでの暮らしを、愛してくれる女性ならいいのだが、というのが、オーランドの唯一の願いだった。
実際、コーディリアに会ってみて、噂通り、随分美しい婦人だとは思ったが、表情の暗いところや自信なさげなところは、気になった。
が、話してみると、気遣いのできる優しい女性だと思った。
いや、むしろ、少々気遣いが過ぎて、これでは、気疲れするのではないかと心配することもあった。
一方で、コーディリアがやってきて、まだ数日だったが、男ばかりの暮らしに、女性がひとり加わっただけで、こうも空気が華やぐものかと、驚かされた。
一緒に食事を摂る際の、何気ない会話のやり取りが楽しかった。
コーディリアの自分への第一印象は、酷いものに違いないと自覚していたオーランドは、結婚を急かすようなことはしたくなかった。
少しずつチェストルの暮らしに慣れて、そういう方向へ進んでいけたら、と、ふたりで気持ちを育んでいけたなら、と思っていた。
だから、次第に表情が和んでいくコーディリアを見て、安心していたのに・・・。
胸の内に、心配の種を抱えつつ、朝食を終え、書斎で、確認しておかなければならない書類に眼を通してから、領地の園主と約束があったために、外出しようと、玄関ホールへの階段を降りた時だった。
オーランド様、と、聞き覚えのある声に呼び止められて振り返ると、コーディリアが立っていた。
「大丈夫?アニーから体調が良くないと聞いて、心配していた」
顔を見られた安堵で、一瞬、オーランドは笑顔を浮かべたが、血色の良くない頬を見て、表情を曇らせた。
「お仕事から戻られたら・・・、お話したいことがございます」
「敬語を使わない約束では?」
コーディリアは、首を振った。
「いいえ・・・、そういったこともよくなかったのですわ。わたくし、身の程も知らずに、自分の厚かましい振る舞いを、心から恥じております。どうぞ、お許しくださいませ」
コーディリアは、オーランドに頭を下げた。
「何かあった?」
「お仕事から戻られましたら、お話したいと思います。朝のお忙しい時間にお時間を取らせてしまって、申し訳ございませんでした」
コーディリアが顔を伏せがちに、立ち去ろうとするのを、
「いや、いい。話は、今、聞く」
オーランドは、引き止めた。
「わたくしのことで、これ以上、お手間を取らせたくはございません」
「手間だと思ってない」
「ですが・・・」
「少し、外を歩こうか。朝の時分は涼しくて、散歩するにはちょうどいい」
オーランドは、玄関のドアを開けて、明るい日差しと瑞々しい緑の中へ、コーディリアを誘った。
コーディリアは、きゅっと、心を引き締め、オーランドに従った。
「お忙しい時間に・・・、本当に申し訳ございません」
コーディリアと出かける際、オーランドが執事を呼び、何か耳打ちするのを見て、自分のせいで、オーランドが、今朝の予定を変更したのだと察した。
「俺の判断だ。君が、気にする必要はない。今の優先順位は、君だ」
木々の間から日差しの差し込むプロムナードを、並んで歩きながら、そういえば、コーディリアとふたりきりで話をするのは、今日が初めてだ、とオーランドは、思った。
丘の上に建つフォーシーズンズ・ハウスは、石造りで、赤茶色の屋根を持つ、フィンドレー家の邸宅で、部屋は十五人の使用人たちの居住空間を含めて、三十ほどだった。
これは、領主の邸宅としては、かなり小規模で、見方によっては、お粗末と評されても仕方のないことかもしれなかったが、オーランドは、屋敷に名付けられた通り、四季の移ろいを、眼で、肌で、楽しむことが出来るここでの暮らしを、何よりも愛していた。
緑豊かな森に囲まれたフォーシーズンズ・ハウスの辺り一帯は、春はブルーベル、初夏は瑞々しい新緑や野ばら、秋は美しく木の葉が色づき、冬は、雪景色に包まれた。
フォーシーズンズ・ハウスの住人にとって、コマドリのさえずり、リスや鹿との遭遇は、身近な日常で、誰もが心和まされた。
屋敷の前庭には手入れの行き届いた季節の花々が、訪れる客を歓迎するかのように迎え、 屋敷の裏庭には、ローズマリー、ミント、タイム、レモングラス、セージ、オレガノといった、いくつもの種類のハーブが、大切に育てられていた。
そして、この豊かな自然を愛する先代当主によって、領主一家や使用人たちが、森の息吹を楽しめるようにと、屋敷の裏庭から森の中へ、プロムナードが整備されたのだった。
プロムナードの途中には、小さな広場やベンチが据え置かれて、季節のいい頃には、父母と三兄弟が、度々ピクニックを楽しんだ、思い出の尽きない場所でもあった。
「話というのは?」
ゆっくりとした足取りで、プロムナードを進みつつ、躊躇うコーディリアにオーランドの方から、話を向けた。
「わたくし、明日、ウォルトンへ帰ります」
「理由を尋ねても?」
「わたくしが・・・、ここへ来たのは、あなたと結婚するためではなかったのです。正しく申し上げますと、結婚する気がなかった、というより、自棄でした。わたくしには、十歳の時から両親の決めた婚約者がいて、来年の春に結婚する予定だったのです。相手の方は、お父様が高い地位にある方で・・・、いえ、お話しないのは、卑怯ですわね。わたくしの勝手な振る舞いで、あなたには、大変なご迷惑をおかけすることになったのですから・・・、お相手のお父様は、ボズウェル伯爵、今、現在、この国の首相ですわ」
「つまり、ボズウェル首相?」
ええ、そうですわと、コーディリアは頷き、
「わたくしの婚約者の名前は、ヴィクター・チャールズ・ボズウェル。ボズウェル首相のご長男です。正確には、元婚約者ですけれど」
そう答えた。
「そんな立派な相手がいたのに、君がここへ来たのは、何か余程の事情があったということ?」
「余程・・・、ええ、そうですわ。わたくしにとっては、余程の、耐えられない事情でした。ですが・・・、落ち着いて考えてみれば、お父様やお母様、お兄様の言う通り、世間ではよくある、取るに足らないことだったのかもしれません。つまり・・・、ヴィクターには、恋人がいたのです」
「ああ・・・、なるほど」
「わたくし、そのご婦人がヴィクターに宛てた手紙を、偶然目にしてしまったのです。手紙には、ふたりの密会の詳細が記されていて・・・」
閨の睦言があからさまに記された手紙を、目にした時のコーディリアの衝撃は、測り知れなかった。
そういった経験がなく、性的な欲求が未知なだけに、コーディリアの胸には、なぜ、どうして、という想いが、絶え間なく渦巻いた。
「相手のご婦人は、二十六歳のヴィクターより十も年上の男爵夫人です。お子様も、おふたりいらっしゃいます。わたくしも夜会や、お茶会で何度かお話したことがあるのですが、朗らかで、お話上手で、ご主人とも仲がおよろしい様で、とてもそんな風には・・・」
つい先頃まで婚約者だった男の、秘密の恋人の顔が甦り、コーディリアは、一瞬息苦しさを覚えた。
「それでも、わたくし、ヴィクターを許そうと思っていました。まだ結婚前のことですし、両親の決めた婚約者ではありましたけれど、わたくしなりの想いがございました。真面目で穏やかな彼の人柄を、ずっと尊敬していました。だからこそ、一度の過ちなら許そうと決めました。ヴィクターなら、わたくしの気持ちを分かってくれると、夫人との関係にきちんと区切りをつけて、心からの謝罪をしてくれると・・・、信じていました」
ひとり悩み苦しんだ時間を思い返せば、まだ激しく胸は痛んだ。
「けれども、それは、わたくしの思い違いでした。夫人との関係の解消を望んだわたくしに、彼は・・・、ヴィクターは、お相手と別れるつもりはないと、自分たちの結婚は、互いの家柄と地位を維持するための、形式上の契約にすぎないのだから、と」
その時、コーディリアは頭の中が真っ白になり、指先が冷たくなっていくのが分かった。
「わたくし、彼に尋ねました。何故、男爵夫人が必要なのですか、と。わたくしでは、何がいけないのでしょう、何が至らないのでしょう、と。彼は・・・、こう答えました。君は、確かに美しいけれど、退屈な女性だ。ただ、綺麗なだけだと、飽きるよ、って」
コーディリアは、その時の、ヴィクターの冷たい声を、忘れることが出来なかった。
それは、コーディリアの知る、穏やかで優しいヴィクターではなかった。
わたくしは、これまで、この方の何を見てきたのだろう・・・。
コーディリアに冷たい眼差しを向ける紳士は、コーディリアの知らない男だった。
「それからもしばらくひとりで、悩み続けたのですが、これはもう、どうしようもないことと、ご縁がなかったと、婚約解消を覚悟して、父と母に経緯を打ち明けました。わたくしは、グラハム家から直ぐに婚約解消を申し入れることになると、思っていました。けれども・・・、父は、まあ、時機の悪いことだ、と言うだけで、後は何も申しません。その後、わたくしの知らないところで父と母は話し合ったようで、母は翌日、わたくしを呼んで、こう話しました。コーディリア、あなたの気持ちは、よくわかるけれど・・・、こういったことは、決して特別なことではないの。経験のない若いあなたには、辛いことかもしれないけれど、あまり深く考えてはいけないわ。殿方は、妻ではない女性と関係を持つことがあっても、それは愛人に過ぎないの。正式な妻とは、全く立場が違うものなのよ。あなたは、堂々としていればいいの、って」
コーディリアには、到底、理解が出来なかった。
世の中には、結婚しても、愛人や恋人を作る男たちがいることを、知ってはいた。
実際に、夜会や婦人たちの集いで、そういったことを見聞きすることはあった。
けれども、それが実際に自分の身に起こるとなると、話は別だった。
思わず、お母様も、そうなのですか、お母様も、そういったことを辛抱してこられたのでしょうか、と、尋ねたコーディリアから、母は、黙って視線を逸らせた。
それで、コーディリアは悟った。
自分が知らなかっただけで、この家にも・・・、父と母にも、そういった事実が存在していたのだと。
そして、グラハム家とボズウェル家の結婚を、取りやめるつもりがないのだということを。
それでも、コーディリアは、ヴィクターの妻になるのだということを。
娘の幸せより、対面を優先するのだと。
「わたくしは、奈落に突き落とされたような絶望を、味わっていました。もう、誰も・・・、何も信じられない。結婚なんて・・・、結婚なんて、滅茶滅茶に砕け散ってしまえばいい、そう思って・・・、それでも、結局父や母に、逆らうことが出来ずに、グラハム家という巨大な目に見えない圧力に、押しつぶされそうになりながら、日々を過ごしていました。アールーズから手紙が舞い込んだのは・・・、そんな時でした」
コーディリアは、木洩れ日に眼を細めつつ、話に、黙って耳を傾けるオーランドを見上げた。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
憧れの童顔巨乳家庭教師といちゃいちゃラブラブにセックスするのは最高に気持ちいい
suna
恋愛
僕の家庭教師は完璧なひとだ。
かわいいと美しいだったらかわいい寄り。
美女か美少女だったら美少女寄り。
明るく元気と知的で真面目だったら後者。
お嬢様という言葉が彼女以上に似合う人間を僕はこれまて見たことがないような女性。
そのうえ、服の上からでもわかる圧倒的な巨乳。
そんな憧れの家庭教師・・・遠野栞といちゃいちゃラブラブにセックスをするだけの話。
ヒロインは丁寧語・敬語、年上家庭教師、お嬢様、ドMなどの属性・要素があります。
【R18】隣のデスクの歳下後輩君にオカズに使われているらしいので、望み通りにシてあげました。
雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向け33位、人気ランキング146位達成※隣のデスクに座る陰キャの歳下後輩君から、ある日私の卑猥なアイコラ画像を誤送信されてしまい!?彼にオカズに使われていると知り満更でもない私は彼を部屋に招き入れてお望み通りの行為をする事に…。強気な先輩ちゃん×弱気な後輩くん。でもエッチな下着を身に付けて恥ずかしくなった私は、彼に攻められてすっかり形成逆転されてしまう。
——全話ほぼ濡れ場で小難しいストーリーの設定などが無いのでストレス無く集中できます(はしがき・あとがきは含まない)
※完結直後のものです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
下品な男に下品に調教される清楚だった図書委員の話
神谷 愛
恋愛
クラスで目立つこともない彼女。半ば押し付けれられる形でなった図書委員の仕事のなかで出会った体育教師に堕とされる話。
つまらない学校、つまらない日常の中の唯一のスパイスである体育教師に身も心も墜ちていくハートフルストーリー。ある時は図書室で、ある時は職員室で、様々な場所で繰り広げられる終わりのない蜜月の軌跡。
歪んだ愛と実らぬ恋の衝突
ノクターンノベルズにもある
☆とブックマークをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる