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7.鈴蘭の祈り

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 午後九時になって、ぽつぽつと、小さな雨が、屋根を叩き始めた。
六月末の最も日中が長くなるこの時期、本来なら十時近くまで、外は明るかったが、雨模様の今夜は、早い時間から、薄暗かった。
明朝までに、止むといいんだが・・・ 自室の窓辺に立って、外を眺めていたヴィクトルは、明朝の派兵を考え、そう思った。
やり残したことは、何もなかった。
自分が帰って来なかった時の財産、不動産の売却は、すべて、弁護士を通じ、遺言として書類に残し、セドリックとサビーヌに譲り渡すことになっていた。
ヴィクトルが国境へ向かう時には、必要に応じて、遺言に新たに追加した項目や削除した項目を、セドリックに説明する習慣で、今回も同様だったが、
「働けるだけ働いて、蓄えておく方がいい。おまえたちの次の勤め先を世話してくれるよう、ジュネ少佐に頼んでおいた。働けなくなったら、私の遺した金を使え。贅沢さえしなければ、生きている間、お前たちが路頭に迷うことはないだろう」 
書類を示しながらそう話すヴィクトルの前で、セドリックは、はい、はい、と頷きながら、何度も目頭を拭った。 
サビーヌはといえば、一週間前、ヴィクトルの国境への派遣を聞いてから、まともにヴィクトルの顔を見ようとはしなかった。 
ヴィクトルが国境へ向かう時はいつもそうで、その落胆ぶりが手に取るようだった。 
ヴィクトルは、常日頃、口うるさい、そしてお節介なサビーヌの暗い顔が何よりも苦手で、辛気臭い顔は止めろと、度々、苦言を呈したが、一向に効果はなく、派遣の日が近づくにつれて、サビーヌのふくよかな頬は、次第にやつれていった。 
そのサビーヌに、昨日、ヴィクトルは、ピンクの紫陽花の花束を贈った。 
不愛想に手渡された途端、サビーヌの瞳からは、涙が溢れ出た。
「嫌ですよ・・・、こんな、柄にもないことなさって・・・」 
そう言って、サビーヌは、口元を抑え、肩を震わせた。 
ヴィクトルは、無言で、その肩を抱き寄せた。 
両親の代わりに、幼いヴィクトルを大切に育ててくれた人の背中は、ヴィクトルが思うより、ずっと小さかった。 
窓辺に立つヴィクトルは、雨の音に耳を傾けながら、セドリックとサビーヌ、ふたりへの感謝の想いを、小さく呟いた。 
そして、ヴィクトルは、昼間、出陣壮行式の後、騎兵科本部の裏手で会ったミレーヌに、想いを馳せた。 



 今にも、泣き出しそうな顔をしていた。 
俺が、ミレーヌに気づいた時、ミレーヌは、今にも泣き出しそうな、赤く潤んだ瞳で、俺のことをじっと見つめていた。 
ミレーヌは、俺の事を心配してくれているのだと。 
俺の事を心配して、気遣って、来てくれたのだと、すぐにわかった。 
ミレーヌに微笑みかけ、これまでの礼と、別れの言葉を素直に述べられたら、どれほど良かっただろう。
けれども、そうしたら、優しいミレーヌは、俺を心配して、一層瞳を赤く潤ませたに違いない。
そうすればきっと・・・、俺はもう彼女を抱きしめずには、いられなかった。
冷淡な態度の俺に、ミレーヌは、御武運がありますようにと、鈴蘭の刺繍を施したハンカチを、差し出した。
贈られた者に最高の幸運をもたらすとされる、十三輪の花をつけた鈴蘭を縫い付けたハンカチを。
ミレーヌが、俺の無事を祈って、刺繍したに違いなかった。
有難いと・・・、俺は、ミレーヌの真心と思いやりに、心打たれた。 
俺が、ミレーヌを突き放したのは、いかなる些細な想いも、俺に残してほしくなかったからだ。
今度の戦いは、これまでのどの戦いよりも、厳しくなると予想されている。 
俺は、生きて戻らない。
俺の屍に想いを馳せて、憐みの涙を流すくらいなら、他人ごとの様に受け流して、忘れて、幸福な人生を歩んでほしい。 
君の愛する伴侶と共に。
俺は、君のはにかんだような笑顔が好きだ。 
その愛らしい笑顔を、何よりも、大切に思っている。
ミレーヌ、君を、愛している。 
心から、君を愛している。 
女性の君には、理解してもらえないかもしれないが、俺は、これまでに幾人かの女と関係を持った。
いずれ、戦場に散る身と、伴侶を持つことを躊躇い、愛を拒み、刹那的な快楽のみを求め続けた。
俺は、決して聖人君子ではない。 
けれども、そういった関係は、もう終わりにした。
俺は、君に軽蔑されたくない。 
君に、恥じるようなことは、したくない。 
俺の望みは、愛する君に、一点の染みもない心で、騎兵としての使命を全うし、戦いにこの身を捧げることだ。
俺の心に、迷いはない。
ただ、ひとつだけ・・・、心残りがある。
本当は、最後に、君のはにかんだような笑顔が、見たかった。
愛する君の、最高に愛らしい笑顔を。



 自室の椅子に座って、じっと物思いに耽っていたミレーヌは、窓を打ち付ける雨音に気づいて、顔を上げた。
置時計に目を向けると、午後九時を過ぎたところだった。 
再び、ミレーヌは、机の上の、受け取ってはもらえなかった、鈴蘭の刺繍を施したハンカチに、眼を落した。 
昼間、ヴィクトルに、酷い言葉を投げつけられてから、ミレーヌの心は、落胆と後悔に囚われ続けていた。
「私は、こんなものを、頼んだ覚えはない。図々しく、こんなところまでやって来て、見苦しい」 
ヴィクトルのその冷たい言葉は、繰り返しミレーヌの心に浮かび、惨めになった。
行くべきじゃなかった。 
シャリエ大尉が、喜んでくれるだなんて・・・、先夜の様に、優しい眼差しで応えてくれるなんて期待した私が、間違っていたのよ。
もしかしたら・・・、もしかしたら、シャリエ大尉に、少しは必要とされているのかもしれないと考えた私が、愚かだったのよ。 
もう、忘れましょう。 
所詮、大尉とは、ご縁がなかったのよ・・・。
そうやって、ミレーヌは、断ち切れない想いに、無理やり終止符を打とうとしていた。 



 出陣壮行式から帰って来たかと思えば、突然号泣するミレーヌを、ソフィもデジレも、酷く心配していた。 
涙が少し落ち着いてから、ミレーヌは、自分がシャリエ大尉に惹かれてることに気付いていなかったこと、先日、マクシムと別れたこと、そして、明日出兵するシャリエ大尉に、どうしても会いたいと思い、鈴蘭の刺繍を施したハンカチを手渡しに行き・・・、拒まれたことを話した。 
ミレーヌから経緯を聞いたソフィとデジレは、シャリエ大尉にどういった思惑があるにせよ、若い娘が想いを込めて刺繍したハンカチを、そんな風に突き返すことはないでしょうにと、驚き、それとなく非難したが、一方で、大変な役目を担って、国境へと向かわれるのだから、神経を尖らせているのでしょうと、その心中を察したのだった。 



 私が哀しい顔をしていれば、ソフィもデジレも、私を心配するだろう。 
ソフィやデジレを、これ以上心配させてはいけない。
もう・・・、済んだことよ。
ミレーヌは、そう思い、鈴蘭のハンカチを手に取ると、屑籠の中へ、入れようとした。 
その時、
「ミレーヌ、シャリエ大尉は、もうすぐ、国境に向かう。大尉が行ってしまう前に、君は自分の気持ちを伝えないといけないんじゃないか?決して、後悔しないように」
先日のマクシムの声が、頭の中で甦った。 
屑籠の上で、ハンカチを持つ手を離しかけたミレーヌの手が、止まった。
後悔しないように・・・。 
決して、後悔しないように・・・。 
ミレーヌは、ハンカチの中の、十三輪の小さな花を、じっと見つめた。
最高の幸運が、訪れますように。
必ず、生きて・・・、ご無事で帰って来られますように。 
ハンカチを握る手は、小刻みに震え出した。 
一針、一針、祈る様にして針を通した想いを、なかったことにするなんて、出来るはずない! 
ミレーヌは、ハンカチを握りしめ、机の上の灯りを手にすると、そのまま、部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「お嬢様、どちらに・・・」 
弾丸のように、階段を駆け下りるミレーヌを目撃して、デジレは目を丸くした。
「シャリエ大尉に・・・お会いしてくる」 
「お嬢様・・・」 
「シャリエ大尉に・・・、会いに行くの!」 
ミレーヌは、そう叫ぶと、玄関を開け、自分の名を呼ぶデジレの声を背中に聞きながら、雨の中を走り出した。 



 窓辺に立ち、ミレーヌに想いを馳せていたヴィクトルが、我に返って、置時計の針に目を向けると、十時が近かった。 
そろそろ、休むか・・・。 
そう思い、窓辺を、離れかけた時だった。
窓の外から、バシャ、バシャと、水を撥ねる音が、ヴィクトルの耳に入って来た。 
音のする方へ、ヴィクトルは、視線を向けた。
小さな灯りが、すっと、ヴィクトルの自宅のフェンスの前を行き過ぎたかと思うと、立ち止まり、動かなくなった。
こんな時間に、誰だ?
小さな灯りの持ち主は、ヴィクトルの立つ二階の窓を、伺っているようにも見えた。
ヴィクトルは、目を凝らした。
小さな灯りの持ち主は、ずぶ濡れのまま、二階の窓辺に立つヴィクトルを、思いつめたような表情で見上げていた。
ミレーヌ!
ヴィクトルは、即座に、走り出した。
階段を駆け下り、玄関を飛び出した。
衝動を抑えることは、もうできなかった。
六月の生温い雨が、ヴィクトルに吹き付けたが、構わず、ミレーヌに向かった。 
降りしきる雨の中で、ヴィクトルは、ミレーヌを強く抱きしめ、俺の幸福(フェリシテ)と、ミレーヌのミドルネームを呟いた。 
「ラ・ギーユ中尉とは・・・、お付き合いできなくなってしまいました」 
強く抱きしめられたまま、喘ぐような声で、ミレーヌは話し始めた。
「ラ・ギーユ中尉とは、お付き合いできなくなってしまいました。あなたのことを・・・、好きになってしまったから」 
ミレーヌの瞳からは、ぽろぽろと、涙が零れ落ちた。 
どうして、こんなにも、涙が溢れるのだろう? 
どうして、こんなにも、胸が苦しくなるのだろう?
ただ、想いを伝えたいだけなのに。 
愛が、これほど苦しいものだとは、思ってもみなかった・・・。
「ミレーヌ・・・」
「私は、ずっと・・・、いつまでも、あなたのお帰りをお待ちしています。ご無事で、帰って来られる日を、ずっと・・・、ずっとお待ちしています」 
次の瞬間、ヴィクトルは、ミレーヌに唇を重ねていた。 
ミレーヌへの情熱のままに、ヴィクトルは激しく、その唇を求め続けた。

無情にも、夜明けと共に訪れる別離の時は、刻一刻と迫っていた。 

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