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3.シュヴァリエ<騎士> 前編
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三月下旬のある午後、来週、三十歳を迎えるポール・グノー巡査は、二つ年下の同僚、リオネル・マレ巡査と一緒に、王都アルカンスィエルを流れる、ロメーヌ河沿いに立つ、小さなアパートを目指して歩いていた。
警察署を出てすぐ、低く垂れこめた雲からは、小雨がぱらつきだした。
「ついてないな」
「本当に、すぐ止むといいのですが」
巡回や、夜勤の折、パートナーを組むことの多い二人は、すっかり気心の知れた中で、お互い変に気を遣うことがなかった。
仕事上の付き合いで、プライベートでの親交は、特になかったが、グノー巡査に、七歳と四歳の娘がおり、マレ巡査には、三歳の娘がいたので、休憩時間には、幼い娘たちのことで、会話が弾むことも多かった。
その、グノー巡査と、マレ巡査が、何故、王都アルカンスィエルを流れる、ロメーヌ河下流の下町、シャルドンに向かっているのかと言えば、今朝、警察署に、不審者情報が寄せられたからだった。
最も、不審者情報など、眼付きの怪しい奴が引っ越してきただの、部屋から夜な夜な妙な物音が漏れてくるだの、週に数件は警察署に寄せられていて、その大半は、今すぐ何か事件に結びつくものではなく、また、住民同士のトラブルで、警察が介入できる類のものでないことも多々あり、警察としては、双方に説諭するだけのことも多かった。
とはいえ、警察署としては、通報を無視する訳にもいかず、不審人物の通報があれば、署員が、現場を訪れることになっていた。
この度、警察署に寄せられた不審者情報というのは、ロメーヌ河下流の下町、シャルドンにある、古い小さなアパートの大家からのものだった。
今年に入ってすぐ、所有するアパートの一階に住む、男やもめの大家、ドニ・クレスパンのもとに、空き部屋があれば借りたいと、訪れるものがあった。
男の名前はマリウス・ルモワーヌ、二十代半ばで、文筆業だと言った。
頬の青白い、暗い雰囲気の男だったが、仕事が、文筆業と聞いて、親戚に物書きのいるドニは、ものを書く仕事が、収入も時間も不規則で、あまり健康的ではないことを知っていたために、その時点で、マリウスに特別不審は感じなかった。
だから、このアパートは部屋が十あるが、今は一番、陽当たりの悪い、二階の角部屋しか空いていないこと、炊事場と、便所は一階で共同、そして、毎月一日の家賃が、二回滞った場合は、直ぐに出て行ってもらうということに、了承すれば、こちらとしては何の異存もないことを、ドニは伝えた。
マリウスは、ドニの条件を承諾し、その日のうちに、アパートに入った。
ドニは、アパートの住人すべてと、親しく口を利くわけではなかったが、それでも同じ建物の中に住んでいれば、住人の暮らしぶりと言うのは、それとなくわかるものだった。
マリウスの部屋は、日の高い間、誰かが訪れることもなく、本人が外出することも、ほとんどなかった。
夕刻、帽子を目深に被って、出かけて行く姿を、時折眼にするものの、帰って来る姿は見かけなかった。
では、戻っていないのかと言えば、翌朝、一階の共同便所や炊事場で顔を合わせるので、深夜のうちに帰って来ていたのだと言うことがわかった。
そんなことが、二、三度続き、話好きのドニは、夕刻、外出しようとするマリウスを呼び止め、
「今から、仕事かい?」
そう尋ねてみた。
「ええ、まあ」
「あんたは、何を書くんだ?新聞?小説?」
「え、いや、あの、小さな雑誌の記事を・・・」
マリウスの、歯切れは悪かった。
「雑誌、ほう、じゃあ、これから出版社へ?」
「まあ、そんなところです」
「ロメーヌ河をちょっと上がった向こうに、小さな出版社があるのを、知っているかい?」
「いえ・・・」
「そこの編集長やっている奴が、友達でね。今度会ったら、あんたのこと、話しとくよ。何か、いい話があるかもしれないだろう」
ドニに、そう言われて、マリウスは明らかに戸惑っていた。
礼をいう訳でもなく、何やら、口の中で呟くと、まだ、何か話そうとするドニを振りきる様に、立ち去って行った。
その時点でもまだドニは、何だかちょっと変わった、人付き合いの悪い若者だなあ、と、しかしまあ、近頃の若者というのはあんなものか、と思い、それ以上深くは考えなかった。
ドニが、マリウスに疑念を抱いたのは、その夜の事だった。
その夜、行きつけの小さな居酒屋に、足を運んだドニは、しばらく会っていなかった友人と、顔を合わせた。
久しぶりとあって、話は弾み、いつもなら、十時には家に帰るところが、そのしばらく会っていなかった友人というのが、居酒屋の主人とも知り合いだったことから、看板後も、三人で、そのまま話し込んで過ごし、店を出た時には、深夜零時を回っていた。
懐かしい友人と共に酒を飲み、楽しい時間を過ごして、上機嫌で帰り道を歩くドニだったが、その耳に、何やら話し声が聞こえて来た。
ドニは五十代半ばだったが、耳の具合は、すこぶるよかった。
若い時と変わらず、数メートル先の囁き声でも、聞き取ることが出来た。
その小さな声は、直ぐ先の路地裏から漏れ聞こえて来たのだったが、随分、その口調は激しかった。
路地に灯りはなく、顔は全く分からなかったが、ドニはその声に聞き覚えがあった。
それは、夕刻、話したマリウスの声だった。
路地裏には男がふたりいる様で、激しい口調で話すのが、マリウス、そして、もう一人の男は、相槌を打つことが多かった。
ただ、その話し声は、はっきりと耳に届くものの、ドニにはその内容が、全く理解できなかった。
何故なら、マリウスの話す言葉が、ユースティティアのものではなく、外国のものだったからだった。
ドニは、路地裏のマリウスたちに気づかれないよう、そっとその場を離れた。
ドニは、胸騒ぎを覚えた。
文筆業を名乗る男が、闇に紛れ、真剣に外国語でやり取りをしているのは、どう考えても奇妙だった。
家に戻り、酒が入っていたせいで、強烈な睡魔に襲われたドニは、そのままベッドに入って、寝入ったものの、朝、目が覚めて、昨夜の路地裏の一件思い出せば、不信感はどうしても拭えなかった。
朝食を済ませた後、ドニは警察署へ赴き、昨夜の、マリウスの一件を話した。
そして、通報を受けた警察署の署員、グノー巡査とマレ巡査は、マリウスに会うため、午後から、ロメーヌ河沿いの下町シャルドンにある、ドニのアパートを訪れることになったのだった。
ドニのアパートは、グノー巡査の予想通り、木造の古く、寂れたアパートだった。
グノー巡査と、マレ巡査は、まず一階に住む大家、ドニの部屋を訪れ、マリウスの部屋を確認した。
グノー巡査が、今朝はマリウスが自宅へ戻ってきているのかどうかをドニに尋ねると、午前中に、一階の炊事場で顔を合わせたと言うことで、今、部屋にいることは間違いないようだった。
グノー巡査と、マレ巡査は、古びた階段を上がり、マリウスの部屋だという、二階の一番奥の、角部屋の前に立った。
グノー巡査が、コンコンと、ドアをノックし、ルモワーヌさん、と、マリウスの姓を呼んだ。
部屋の中にいるマリウスが、
「誰?」
と、返事をするまでには、少々時間がかかった。
そして、その声には、警戒心があった。
「警察です」
マリウスからの返事は、なかった。
「ルモワーヌさん、少し、お聞きしたいことがあります。ここを開けてもらえませんか?」
マリウスの躊躇いを現すかのように、ドアは、直ぐには、開かなかった。
グノー巡査が、もう一度、ルモワーヌさん、と呼びかけたところで、ようやく、部屋の鍵の外れる音がして、マリウスが顔を出した。
マリウスは開いたドアの隙間に立ち、部屋の外には出て来なかった。
「何の・・・、用ですか?」
マリウスは、警戒の眼で、グノー巡査とマレ巡査の顔を、交互に見つめた。
「お邪魔してすいません、ルモワーヌさん。少々、お聞きしたいことがあるのですが」
「今、仕事中で・・・、また今度にしてもらえませんか?」
「そう、お時間は取らせませんよ」
グノー巡査は、引かなかった。
マリウスを一目見た瞬間、この男は何かある、そう睨んだグノー巡査だった。
それは、多くの犯罪者たちを、縄にかけて来た、グノー巡査の警官としての勘だった。
マリウスからは見えない位置で、グノー巡査は、傍らに立つマレ巡査の腿を、ポンと叩いた。
注意しろ、と促したのだった。
「お仕事は、何を?」
アパートの大家、ドニから文筆業だと聞いていたが、敢えて知らない振りをして、グノー巡査は尋ねた。
「雑誌の記事を、書いています」
「雑誌の記事?では、出版社の名前を」
「・・・言いたくありません。言わないといけませんか?」
「それは、あなたの自由ですが、間違いなくあなたへの心象は悪くなりますよ。正直に言った方が、あなたの身のためだ。それとも、何か言えない理由が?」
「署まで、ご同行いただくことになるかもしれませんよ」
マレ巡査が、グノー巡査の横から、加勢するように口をはさんだ。
明らかに、マリウスは、ぎくっ、と頬を強張らせた。
「お名前は、マリウス・ルモワーヌ、それで間違いないですね」
こいつは逃がすことが出来ないと、グノー巡査が、もう一度、念を押した時だった。
グノー巡査は、マリウスに怪しい匂いを嗅ぎつけていた。
けれども、まさか、この瞬間、ドアに隠れていた右手に、短剣を隠し持っていて、首を一突きされる事態になるなどとは、予想しなかった。
その技は、素人ではなく、あきらかに訓練された熟練者の腕前だった。
叫び声を上げる間もなく、首から血を噴き出したグノー巡査は、床に崩れ落ちた。
突然、目の前で起こった惨劇に、マレ巡査は、自分の眼を疑った。
マリウスは、勢いよく部屋の外へ飛び出して、マレ巡査に突き当たると、階段を駆け降りた。
突き飛ばされて、膝をついたマレ巡査だったが、すぐに立ち上がり、マリウスを追った。
マリウスを追って、表に出ると、ナイフを手にしたまま、走り去るその後ろ姿が、眼に入った。
返り血を浴び、ナイフを手にして、警官に追われるマリウスを目撃した通行人は、巻き込まれてはたまったものではないと、慌てて、避けた。
マリウスは、街を駆け抜け、裏道を走り抜けた。
捕まるわけにはいかなかった。
グラディウス王家の・・・、アレクセイ国王陛下の、ご下命を果たすまでは!
マリウスは路地を突き進み、薄暗い、人影のないアパートに駆け込み、物陰に身を潜めた。
陽当たりの悪い、貧民街の湿気を帯びた臭気が、鼻をついた。
どうやら、巻いたらしい。
マリウスは、大きく深呼吸をして、血飛沫を浴びた、ジャケットを脱ぎ捨てた。
「そこまでだ」
その声に、はっと、顔を上げると、マレ巡査が、マリウスを睨みつけて立っていた。
マレ巡査のピストルの銃口は、まっすぐ、マリウスに向いていた。
マリウスは、次の行動を躊躇しなかった。
それは、一瞬の出来事だった。
「アレクセイ国王、万歳!」
マリウスは、吠えるような声で、そう叫ぶと、首に下げてあった、ペンダントトップを口に入れ、そのまま噛み千切った。
反撃を受けると身構えたマレ巡査は、引き金を引きかけた。
けれども、すぐに、そうではないことに気づいた。
マリウスの身体は、小刻みに痙攣を始めたかと思うと、その場に崩れ落ちた。
マリウスは、そのまま、絶命した。
警察署を出てすぐ、低く垂れこめた雲からは、小雨がぱらつきだした。
「ついてないな」
「本当に、すぐ止むといいのですが」
巡回や、夜勤の折、パートナーを組むことの多い二人は、すっかり気心の知れた中で、お互い変に気を遣うことがなかった。
仕事上の付き合いで、プライベートでの親交は、特になかったが、グノー巡査に、七歳と四歳の娘がおり、マレ巡査には、三歳の娘がいたので、休憩時間には、幼い娘たちのことで、会話が弾むことも多かった。
その、グノー巡査と、マレ巡査が、何故、王都アルカンスィエルを流れる、ロメーヌ河下流の下町、シャルドンに向かっているのかと言えば、今朝、警察署に、不審者情報が寄せられたからだった。
最も、不審者情報など、眼付きの怪しい奴が引っ越してきただの、部屋から夜な夜な妙な物音が漏れてくるだの、週に数件は警察署に寄せられていて、その大半は、今すぐ何か事件に結びつくものではなく、また、住民同士のトラブルで、警察が介入できる類のものでないことも多々あり、警察としては、双方に説諭するだけのことも多かった。
とはいえ、警察署としては、通報を無視する訳にもいかず、不審人物の通報があれば、署員が、現場を訪れることになっていた。
この度、警察署に寄せられた不審者情報というのは、ロメーヌ河下流の下町、シャルドンにある、古い小さなアパートの大家からのものだった。
今年に入ってすぐ、所有するアパートの一階に住む、男やもめの大家、ドニ・クレスパンのもとに、空き部屋があれば借りたいと、訪れるものがあった。
男の名前はマリウス・ルモワーヌ、二十代半ばで、文筆業だと言った。
頬の青白い、暗い雰囲気の男だったが、仕事が、文筆業と聞いて、親戚に物書きのいるドニは、ものを書く仕事が、収入も時間も不規則で、あまり健康的ではないことを知っていたために、その時点で、マリウスに特別不審は感じなかった。
だから、このアパートは部屋が十あるが、今は一番、陽当たりの悪い、二階の角部屋しか空いていないこと、炊事場と、便所は一階で共同、そして、毎月一日の家賃が、二回滞った場合は、直ぐに出て行ってもらうということに、了承すれば、こちらとしては何の異存もないことを、ドニは伝えた。
マリウスは、ドニの条件を承諾し、その日のうちに、アパートに入った。
ドニは、アパートの住人すべてと、親しく口を利くわけではなかったが、それでも同じ建物の中に住んでいれば、住人の暮らしぶりと言うのは、それとなくわかるものだった。
マリウスの部屋は、日の高い間、誰かが訪れることもなく、本人が外出することも、ほとんどなかった。
夕刻、帽子を目深に被って、出かけて行く姿を、時折眼にするものの、帰って来る姿は見かけなかった。
では、戻っていないのかと言えば、翌朝、一階の共同便所や炊事場で顔を合わせるので、深夜のうちに帰って来ていたのだと言うことがわかった。
そんなことが、二、三度続き、話好きのドニは、夕刻、外出しようとするマリウスを呼び止め、
「今から、仕事かい?」
そう尋ねてみた。
「ええ、まあ」
「あんたは、何を書くんだ?新聞?小説?」
「え、いや、あの、小さな雑誌の記事を・・・」
マリウスの、歯切れは悪かった。
「雑誌、ほう、じゃあ、これから出版社へ?」
「まあ、そんなところです」
「ロメーヌ河をちょっと上がった向こうに、小さな出版社があるのを、知っているかい?」
「いえ・・・」
「そこの編集長やっている奴が、友達でね。今度会ったら、あんたのこと、話しとくよ。何か、いい話があるかもしれないだろう」
ドニに、そう言われて、マリウスは明らかに戸惑っていた。
礼をいう訳でもなく、何やら、口の中で呟くと、まだ、何か話そうとするドニを振りきる様に、立ち去って行った。
その時点でもまだドニは、何だかちょっと変わった、人付き合いの悪い若者だなあ、と、しかしまあ、近頃の若者というのはあんなものか、と思い、それ以上深くは考えなかった。
ドニが、マリウスに疑念を抱いたのは、その夜の事だった。
その夜、行きつけの小さな居酒屋に、足を運んだドニは、しばらく会っていなかった友人と、顔を合わせた。
久しぶりとあって、話は弾み、いつもなら、十時には家に帰るところが、そのしばらく会っていなかった友人というのが、居酒屋の主人とも知り合いだったことから、看板後も、三人で、そのまま話し込んで過ごし、店を出た時には、深夜零時を回っていた。
懐かしい友人と共に酒を飲み、楽しい時間を過ごして、上機嫌で帰り道を歩くドニだったが、その耳に、何やら話し声が聞こえて来た。
ドニは五十代半ばだったが、耳の具合は、すこぶるよかった。
若い時と変わらず、数メートル先の囁き声でも、聞き取ることが出来た。
その小さな声は、直ぐ先の路地裏から漏れ聞こえて来たのだったが、随分、その口調は激しかった。
路地に灯りはなく、顔は全く分からなかったが、ドニはその声に聞き覚えがあった。
それは、夕刻、話したマリウスの声だった。
路地裏には男がふたりいる様で、激しい口調で話すのが、マリウス、そして、もう一人の男は、相槌を打つことが多かった。
ただ、その話し声は、はっきりと耳に届くものの、ドニにはその内容が、全く理解できなかった。
何故なら、マリウスの話す言葉が、ユースティティアのものではなく、外国のものだったからだった。
ドニは、路地裏のマリウスたちに気づかれないよう、そっとその場を離れた。
ドニは、胸騒ぎを覚えた。
文筆業を名乗る男が、闇に紛れ、真剣に外国語でやり取りをしているのは、どう考えても奇妙だった。
家に戻り、酒が入っていたせいで、強烈な睡魔に襲われたドニは、そのままベッドに入って、寝入ったものの、朝、目が覚めて、昨夜の路地裏の一件思い出せば、不信感はどうしても拭えなかった。
朝食を済ませた後、ドニは警察署へ赴き、昨夜の、マリウスの一件を話した。
そして、通報を受けた警察署の署員、グノー巡査とマレ巡査は、マリウスに会うため、午後から、ロメーヌ河沿いの下町シャルドンにある、ドニのアパートを訪れることになったのだった。
ドニのアパートは、グノー巡査の予想通り、木造の古く、寂れたアパートだった。
グノー巡査と、マレ巡査は、まず一階に住む大家、ドニの部屋を訪れ、マリウスの部屋を確認した。
グノー巡査が、今朝はマリウスが自宅へ戻ってきているのかどうかをドニに尋ねると、午前中に、一階の炊事場で顔を合わせたと言うことで、今、部屋にいることは間違いないようだった。
グノー巡査と、マレ巡査は、古びた階段を上がり、マリウスの部屋だという、二階の一番奥の、角部屋の前に立った。
グノー巡査が、コンコンと、ドアをノックし、ルモワーヌさん、と、マリウスの姓を呼んだ。
部屋の中にいるマリウスが、
「誰?」
と、返事をするまでには、少々時間がかかった。
そして、その声には、警戒心があった。
「警察です」
マリウスからの返事は、なかった。
「ルモワーヌさん、少し、お聞きしたいことがあります。ここを開けてもらえませんか?」
マリウスの躊躇いを現すかのように、ドアは、直ぐには、開かなかった。
グノー巡査が、もう一度、ルモワーヌさん、と呼びかけたところで、ようやく、部屋の鍵の外れる音がして、マリウスが顔を出した。
マリウスは開いたドアの隙間に立ち、部屋の外には出て来なかった。
「何の・・・、用ですか?」
マリウスは、警戒の眼で、グノー巡査とマレ巡査の顔を、交互に見つめた。
「お邪魔してすいません、ルモワーヌさん。少々、お聞きしたいことがあるのですが」
「今、仕事中で・・・、また今度にしてもらえませんか?」
「そう、お時間は取らせませんよ」
グノー巡査は、引かなかった。
マリウスを一目見た瞬間、この男は何かある、そう睨んだグノー巡査だった。
それは、多くの犯罪者たちを、縄にかけて来た、グノー巡査の警官としての勘だった。
マリウスからは見えない位置で、グノー巡査は、傍らに立つマレ巡査の腿を、ポンと叩いた。
注意しろ、と促したのだった。
「お仕事は、何を?」
アパートの大家、ドニから文筆業だと聞いていたが、敢えて知らない振りをして、グノー巡査は尋ねた。
「雑誌の記事を、書いています」
「雑誌の記事?では、出版社の名前を」
「・・・言いたくありません。言わないといけませんか?」
「それは、あなたの自由ですが、間違いなくあなたへの心象は悪くなりますよ。正直に言った方が、あなたの身のためだ。それとも、何か言えない理由が?」
「署まで、ご同行いただくことになるかもしれませんよ」
マレ巡査が、グノー巡査の横から、加勢するように口をはさんだ。
明らかに、マリウスは、ぎくっ、と頬を強張らせた。
「お名前は、マリウス・ルモワーヌ、それで間違いないですね」
こいつは逃がすことが出来ないと、グノー巡査が、もう一度、念を押した時だった。
グノー巡査は、マリウスに怪しい匂いを嗅ぎつけていた。
けれども、まさか、この瞬間、ドアに隠れていた右手に、短剣を隠し持っていて、首を一突きされる事態になるなどとは、予想しなかった。
その技は、素人ではなく、あきらかに訓練された熟練者の腕前だった。
叫び声を上げる間もなく、首から血を噴き出したグノー巡査は、床に崩れ落ちた。
突然、目の前で起こった惨劇に、マレ巡査は、自分の眼を疑った。
マリウスは、勢いよく部屋の外へ飛び出して、マレ巡査に突き当たると、階段を駆け降りた。
突き飛ばされて、膝をついたマレ巡査だったが、すぐに立ち上がり、マリウスを追った。
マリウスを追って、表に出ると、ナイフを手にしたまま、走り去るその後ろ姿が、眼に入った。
返り血を浴び、ナイフを手にして、警官に追われるマリウスを目撃した通行人は、巻き込まれてはたまったものではないと、慌てて、避けた。
マリウスは、街を駆け抜け、裏道を走り抜けた。
捕まるわけにはいかなかった。
グラディウス王家の・・・、アレクセイ国王陛下の、ご下命を果たすまでは!
マリウスは路地を突き進み、薄暗い、人影のないアパートに駆け込み、物陰に身を潜めた。
陽当たりの悪い、貧民街の湿気を帯びた臭気が、鼻をついた。
どうやら、巻いたらしい。
マリウスは、大きく深呼吸をして、血飛沫を浴びた、ジャケットを脱ぎ捨てた。
「そこまでだ」
その声に、はっと、顔を上げると、マレ巡査が、マリウスを睨みつけて立っていた。
マレ巡査のピストルの銃口は、まっすぐ、マリウスに向いていた。
マリウスは、次の行動を躊躇しなかった。
それは、一瞬の出来事だった。
「アレクセイ国王、万歳!」
マリウスは、吠えるような声で、そう叫ぶと、首に下げてあった、ペンダントトップを口に入れ、そのまま噛み千切った。
反撃を受けると身構えたマレ巡査は、引き金を引きかけた。
けれども、すぐに、そうではないことに気づいた。
マリウスの身体は、小刻みに痙攣を始めたかと思うと、その場に崩れ落ちた。
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