コットンブーケ

海子

文字の大きさ
上 下
53 / 61
10.マーガレット<後編>

しおりを挟む
 「お取込み中、失礼するわね」 
突如、その良く通る声が聞こえて、マーガレットは、弾かれたように、ヘンリーの胸の中から、顔を上げた。
ヘンリーと、マーガレットの視線の先には、灯りを手にし、シルバーグレーの落ち着いた色のドレスを身に着けた、背の高い婦人が立っていた。 
ベアトリス・アンダーソンだった。 
「何かあった?」
打ち解けた口調で、ヘンリーが尋ねる。 
「あなた方を探していたのよ。あなたたちふたりの姿が見えないことに、気が付き始めた人たちが、あまり好ましくない噂を始めているの。早く、大広間に戻った方がいいわ」 
マーガレットは、何を噂されているのか、直ぐに想像がついた。

あの二人、どこかへ消えたまま、帰って来ないわね。
マーガレット・ジョーンズの次の獲物は、ヘンリー・モーガンというわけね。 
ヘンリーも、酷い娘にすっかり誑かされて、気の毒だこと。 
あんな娘に嫁いで来られるようなことにでもなれば、モーガン家も、もう終わりよ。 
パトリックも、頭の痛い話だこと。 

そう噂する夫人たちの声が、聞こえるかのようだった。
「大変、直ぐに戻らないと」 
「僕は、構わないよ」 
ヘンリーは、きっぱりと告げた。 
「ヘンリー・・・」
「どう噂されても、僕は構わない」 
「世間の批判に左右されない、あなたのその姿勢には、感心するけれど、今、むやみに周囲を刺激するのは、やめた方がいいわね。あなた方の関係は・・・、きっと、繊細で、慎重に進めて行かなければならないのでしょう。周囲からの余計な干渉を受けたくなければ、今は、目立った行動を控えることね」
「君は、本当に思慮深いね。敬服するよ」 
「バルコニーの東側の階段を降りたあたりを、夫が探していると思うから、一緒に、大広間に戻って。私は、しばらくしてから、マーガレットと一緒に戻るわ。誰かに何かを聞かれたら、ずっと主人と一緒だったって答えるのよ。主人も、事情は良く分かっているわ。マーガレットの方は、私に任せておいて」 
「助かるよ」 
そう言って、ヘンリーは、邸宅へと続く小道を、戻って行った。 
その場に、マーガレットは、ベアトリスとふたりで残った。
「ベアトリス・・・、わざわざ、知らせてくれて、ありがとう」 
「構わないわ」 
マーガレットとベアトリスは、五つの年の差があったが、知らない仲ではなかった。
マーガレットと同じく、ベアトリスの実家もアウラ近郊で、綿花農園を営んでいたし、半年前に、ベアトリスが嫁いだアンダーソン家は、モーガン家と一、二を争う綿花の大農園だった。
だから、舞踏会やお茶会などの集いで、度々顔を合わせる機会はあったものの、あまりにも性格の違うふたりは、親しくなることがなかった。 
マーガレットは、取り巻きに囲まれて、若さを満喫し、恋の真似事を楽しんでいた。
一方、ベアトリスは、芸術、歴史、世界情勢や、政治、慈善事業にまで熱心で、老若男女問わず、同様の関心を持つ者たちと、集うことが多かった。 
だから、敵対することもなければ、親しくなることもなく、挨拶程度の付き合いだった。
「そういえば、半年前に結婚したのよね。お祝いもまだ言ってなかったわね。遅くなったけど・・・、結婚おめでとう」
「ありがとう」 
マーガレットに祝いを述べられて、ベアトリスは微笑んだ。 
「ヘンリーとは、親しいの?」
「親しいのは、私ではなくて主人ね。どちらの家も同じ生業だから、昔から何かと行き来があって、親しくしているみたいよ」
「ベアトリス・・・」
「何?」 
「あなたは、どうして、私と普通に話をしてくれるの?私の評判は、知っての通りよ。こうして、私と一緒にいて、嫌じゃないの?」
ベアトリスは、しばらく、黙って考えていたが、
「あなたを否定することは、簡単だわ」 
そう話し出した。 
冷静で知的な黒い瞳が、マーガレットをまっすぐに見つめていた。 
「でも、あなたを否定することは、人は変わるかもしれないという可能性を、否定することだと思うの。私の言っていること、わかるかしら?」 
「少し、難しいけれど・・・」 
「あなたは、若くて、とても軽率で、浅はかで、悲惨な事件を起こし、大きな罪を犯した。そこから、あなたは、どう変わるのかしら?失礼な言い方かもしれないけれど、私は、そのことに、とても関心があるの。ヘンリーは、あなたに惹かれているようだけど、私の眼が確かなら、彼は、外見の美しさだけに惑わされる、愚かな人ではないわ。ヘンリーが、あなたに惹かれたのなら、彼は、今のあなたに何か魅力を感じているのでしょう。以前の、美しくはあっても、軽率なあなたにはなかった魅力が。つまり、あなた自身が、変化してきているのよ」
「自分では、何が変わってきたのか、よくわからないわ。ただ、以前の私が、どうしようもなく愚かに思えるの。まだあれから、一年にしかならないのに・・・」
「自分が愚かだったと思えることは、成長の証よ。あなたは、変わってきている。私は、その変化を否定したくないの。人は、変われるということを、否定したくないのよ。あなたのことを、否定して締め出してしまうよりは、見守る側でいたいと思っているわ」 
「ベアトリス・・・」 
マーガレットの瞳に、涙が浮かんだ。
なんて、思慮深くて、大きな人なのだろうと、思わずにはいられなかった。
「お願いだから、泣かないで。今から、私と一緒に、舞踏会に戻るのよ。あなたが泣いていたら、ベアトリス・アンダーソンが、マーガレット・ジョーンズを泣かせたって、みんなに思われるでしょう」 
「でも、あなたは、大丈夫なの?私と一緒に帰って。誰かに、酷く言われたりしないかしら?」 
「ヘンリーと一緒で、私も周囲の批判を気にしない性格よ。さあ、そろそろ、戻りましょうか」 
と、ベアトリスは灯りを手に、マーガレットを邸宅へ促した。
少し先を歩く、ベアトリスの背中が、とても頼もしく思えた。
「ベアトリス・・・」 
両脇に木立の並ぶ、石の小道を進み、邸宅が近くなった時、マーガレットはベアトリスの背中を呼び止め、
「ベアトリス、もし、あなたさえ、嫌じゃなかったら・・・、お友達になってくれる?あなたが、お友達でいてくれたら、とても、心強い気がして。嫌なら・・・、断って。私、気にしないから」 
勇気を絞って、そう言った。
「もう、友達だと思っているわよ。何でも、相談に乗るわ、マギー」 
マーガレットの新しい友達は、優しい笑顔でそう答えた。 



 その夜、モーガン家の夜会から、マーガレットが帰宅したのは、深夜だった。 
疲れているはずなのに、中々寝付けなかった。 
ベッドに入っても、夜会の興奮は、中々収まらなかった。 
正装の紳士、華やかに着飾った貴婦人たち。 
美味しいお料理に、心酔わせるお酒。 
ヘンリーの細やかなサポートとフォローに、心和んだ。
音楽の演奏に合わせて、大広間で踊りを楽しむ人たち。 
ああ、それに、酷い厭味。 
覚悟はしていたけれど・・・、やっぱり辛かった。
そして、思わぬ、ダンスレッスン。
お世辞にも、上手な踊り手とはいえないけれど・・・、とても楽しかった。 
新しい友達との出会いも。 
ベアトリス・アンダーソン。
これから・・・、どうぞよろしく。 
そして・・・、そして、
「君が好きだ・・・、マギー」 
引き寄せられて、抱きしめられた時の、胸が苦しくなるような、あんな想いは、これまで一度も経験したことがなかった・・・。 
寝つけずに、マーガレットは寝返りをうった。 
楽しかった夜だと、思った。
けれども、辛い夜でもあった。 
本当の恋を知った夜であり、それでも、結ばれることはないだろうと、諦めを受け入れなければならない夜でもあった。
楽しかった夜を思い返し、マーガレットは、微笑んでいたつもりだった。 
けれども、知らないうちに、頬には涙が伝っていた。 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

巨根王宮騎士の妻となりまして

天災
恋愛
 巨根王宮騎士の妻となりまして

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

王女の朝の身支度

sleepingangel02
恋愛
政略結婚で愛のない夫婦。夫の国王は,何人もの側室がいて,王女はないがしろ。それどころか,王女担当まで用意する始末。さて,その行方は?

別に要りませんけど?

ユウキ
恋愛
「お前を愛することは無い!」 そう言ったのは、今日結婚して私の夫となったネイサンだ。夫婦の寝室、これから初夜をという時に投げつけられた言葉に、私は素直に返事をした。 「……別に要りませんけど?」 ※Rに触れる様な部分は有りませんが、情事を指す言葉が出ますので念のため。 ※なろうでも掲載中

【R18】私はお父さんの性処理係

神通百力
恋愛
麗華は寝ていたが、誰かが乳房を揉んでいることに気付き、ゆっくりと目を開けた。父親が鼻息を荒くし、麗華の乳房を揉んでいた。父親は麗華が起きたことに気付くと、ズボンとパンティーを脱がし、オマンコを広げるように命令した。稲凪七衣名義でノクターンノベルズにも投稿しています。

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

私の知らぬ間に

豆狸
恋愛
私は激しい勢いで学園の壁に叩きつけられた。 背中が痛い。 私は死ぬのかしら。死んだら彼に会えるのかしら。

【完結】どうして殺されたのですか?貴方達の愛はもう要りません  

たろ
恋愛
処刑されたエリーゼ。 何もしていないのに冤罪で…… 死んだと思ったら6歳に戻った。 さっき処刑されたばかりなので、悔しさも怖さも痛さも残ったまま巻き戻った。 絶対に許さない! 今更わたしに優しくしても遅い! 恨みしかない、父親と殿下! 絶対に復讐してやる! ★設定はかなりゆるめです ★あまりシリアスではありません ★よくある話を書いてみたかったんです!!

処理中です...