コットンブーケ

海子

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7.I MISS YOU

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 ランドルフ様・・・。
その蹄の音が耳に入った時、アンヌは、即座にそう思った。
灯りはなく、はっきりとした時刻はわからなかったが、十時には、ベッドに入ったものの、寝付けずにいたので、随分、遅い時刻であることだけは確かだった。
その夜、眠りは、中々訪れようとはしなかった。 
どのくらい、そうしていたのかはわからなかったが、ベッドに入ってから、一時間以上は過ぎているように思えた。
アンヌの寝つきが悪かったのは、今夜、モーガン邸で開かれているという、夜会のせいに違いなかった。 
招待されるはずもなかったし、行くつもりもなかったが、モーガン邸で催される盛大な夜会の噂は、どこからともなく、アンヌの耳にも入った。 



 ランドルフがアンヌの屋敷を去ってから、二カ月以上が過ぎようとしていた。
もうすっかり、この農園のことは、忘れただろう・・・。 
今夜の夜会は、特別な人と一緒に、楽しい時間を過ごしているのだろうか。
幸せな時を、過ごしているのだろうか。
ランドルフの幸せを、心から願っているはずのアンヌだった。 
けれども、今夜、舞踏会で、アンヌの知らない娘が、ランドルフと共に踊り、笑い、自らが受けたランドルフの熱い抱擁と、唇を、今頃は、人目を避けた暗がりで、誰か他の娘が受けているのかもしれないと思えば、心穏やかでいるのは難しかった。
諦めと、妬ましさと、自己嫌悪とが、心の中でせめぎ合い、何度も、ベッドの中でため息を漏らすアンヌだった。 
もう、終わったこと。 
もう・・・、あの方とは、終わったのだ。 
今、アンヌは、多忙を理由に、社交界からできるだけ遠ざかっていたが、そのうち嫌でも、婚約者を伴ったランドルフと、どこかの夜会で、顔を合わせることになるに違いなかった。 
その頃には、わたくしの心も落ち着いているだろうか。 
微笑んで、祝福を述べることができるだろうか・・・。
・・・自信を持ちなさい。 
わたくしなら、できます。 
遠い昔、目の前で、愛し合う二人を、黙って見ていることしかできなかった時も、嫉妬で気が狂いそうな時も、自分の感情と向き合って、ひとりで乗り越えて来たのだから。 
けれども・・・、今回は、あの時とは少し違うような気もする。
あの時は、耐えるしかなかった。 
でも、今度は・・・、愛していると、告げられた。 
熱い抱擁を受けて、唇を重ね、愛しい人の唇が、何度もアンヌを求めて、うなじを、喉を、情熱的に走った。 
あの時、身体に呼び起された、甘やかで、狂おしい感情を、忘れることができるのだろうか。 
・・・厄介だこと。 
本当に、厄介だこと。
アンヌは、もう何度目になるかわからないため息を、漏らした。 
アンヌが、蹄の音を聞きつけたのは、そんなことを考えていた時だった。 



 アンヌは、ベッドから起き上がり、化粧着を羽織ると、室内履きに足をいれた。
火事の恐れがあるため、夜、家中の灯りを落としていたせいで、屋敷の中は真っ暗だった。
アンヌは、手探りで、慎重に、足元に気を付けながら、一歩ずつ進んだ。 
手すりを持って、ゆっくり階段を降りてゆくと、
「アンヌ様」 
と、一階の使用人部屋から、恐る恐るエマが出て来た。
「アンヌ様、蹄の音が・・・」
「あなたは、部屋に戻っていなさい」 
「窓から、そっと覗いたのですが、小さな灯を持った人影が見えました。アンヌ様、あれは・・・、あのお姿は・・・」 
「エマ、あなたは、部屋にいるのです。ここは、わたくしが何とかします。わたくしがいいと言うまで、決して、出て来てはいけません。いいですね」 
エマは、心配そうな顔のまま、小さく頷くと、アンヌを気にしながらも、言いつけ通り、そのまま部屋へと戻って行った。
アンヌは、暗がりの中、壁を伝い、足音を立てないよう、静かに玄関までやって来た。 
人の声も、馬の嘶きも、靴音も、何の音も、聞こえなかった。 
屋敷は、夜の静寂に包まれていた。 
けれども、アンヌにはわかった。
この扉の向こうに、ランドルフが、じっと佇んでいるのだということが。 
アンヌは、そっと扉に指先を当てた。 
この扉の向こうに、ランドルフ様がいる。 
ランドルフ様が・・・。
アンヌは、眼を閉じた。
ランドルフの優しい笑顔が、瞼によみがえった。


 あなた・・・。
愛しい、あなた。 
あなたは、知っているのでしょうか。
わたくしがいつ、あなたに恋をしたのか。 


 セスが住む村へ向かう道で、わたくしは、ひどく不機嫌でした。 
強引にわたくしを連れ出したあなたに、わたくしは、腹を立てていました。
あなたは、そのわたくしに、ダールベルグデージーの黄色い花を摘み、花束にすると、
「強引だったことは、認める。謝るよ。だから、機嫌を直して、僕と一緒に行ってくれないか?」 
そう言って、差し出したのです。 
あの時、困り顔のあなたは、わたくしを真摯な眼で見つめていました。 
わたくしの機嫌を直そうと、一生懸命でした。
その時、わたくしは・・・、まっすぐなその鳶色の眼差しに、ときめいたのです。 


 一緒に、農園で過ごしたこのひと夏は、あなたのその眼差しに、翻弄されて、自分を見失いそうで、恐ろしかった。 
七月の日差しの中、農園で、綿花の芽を摘んでいて、視線を感じて、ふと、顔を上げると、あなたの眼差しが・・・、優しい眼差しが、わたくしを見つめていて、わたくしはその眼差しに、心を射抜かれそうで、わざと冷たく視線を逸らせました。 
その時、わたくしの鼓動が、早鐘のようにうっていたなど、あなたは、知る由もないでしょう。 


 あなたが、わたくしにピアノの楽譜を差し出した日。 
あれほど、楽しかった夜を、これまで、わたくしは知りません。
わたくしの演奏を、あなたは心から楽しんでくれた。
一緒に微笑み、語り合った、かけがえのない時間でした。 
そして・・・、その後の抱擁を、わたくしは一生、忘れることはないでしょう。
あの甘美な時間を、たとえ、あなたが忘れてしまっても、わたくしはいつまでも心に留めておきます。


 あなたがいなくなってからの二カ月、この農園は、火が消えたようです。 
綿花の収穫は、順調に進み、先日無事、終えました。
大地一面に、真っ白に弾けたコットンボールを、あなたと一緒に見ることはできませんでしたが、あなたが、このひと夏、わたくしの農園を助けてくださったおかげで、今年も無事、収穫を終えることが出来ました。
何もかもが順調なはずなのに・・・、農園はどこか沈んだままです。
あなたが、いないから。 
皆を勇気づけ、明るく導いてくれたあなたが、いなくなってしまったから・・・。 
奴隷たちもどこか元気を失い、オーウェンも、アンソニーも、エマも、何故か、活気がないのです。 
あなたの前向きな明るさは、わたくしが持っていないものを、わたくしの農園に運んできてくれていたのです。 
あなたが、いなくなってしまって・・・、みな寂しい思いをしています。


 あなた・・・。
愛しい、あなた。 
今夜は、舞踏会ではないのですか? 
あなたは、美しい娘の手を取って、息を弾ませて踊り、時間を過ごしたことでしょう。 
あなたは、何故、今夜ここへ来たのですか?
何故、何も言わずに、そうして佇んでいるのですか? 
ここには、何もありません・・・。 
わたくしが、あなたに差し上げられるものは、たったひとつの言葉以外にありません。
どうか、どうか・・・、お幸せに。
どうか、末永く、いついつまでも、お幸せに・・・。 



 アンヌは、指先を、扉から離した。 
そして、ひと時、扉を見つめた後、静かに背を向けた。 
アンヌが、数歩、進んだ時、
「アンヌ」 
この二カ月、焦がれ続けたその声が、アンヌの耳に入った。 
アンヌの足が、ぴたりと、止まった。 
「アンヌ、そこにいるんだろう・・・」 
アンヌは、足音を立てていなかった。
扉の内側にいることを、知られるはずはなかった。 
それでも、ランドルフは、そこにいるアンヌの存在を確信するかのように、 
「ここを開けてくれ」 
そう言った。 
アンヌは、動かなかった。 
息をすることさえ忘れたかのように、固まったまま、動かなかった。 
アンヌは、目を閉じた。 
扉を開ければ、何が起きるのだろう。 
この扉を開ければ、一体何が・・・、起こるのだろう。
きっとそれは、わたくしが、たった一度でいいから、一度きりでいいから、知りたいと思ったもの。 
遠い遠い昔、美しいヘーゼルの持ち主、レティシアが、リックとの別れを選んで、ウッドフィールドをひとりで立ち去ろうとしていた時、アンヌは、闇に紛れて、そっとその想いを耳にした。 
「初めて、レイクビューで、あなたに抱かれた夜に、決めました。ウッドフィールドまでは、恋をしようって。一度だけでいいから、ちゃんと恋がしてみたいって」
リックに告げられたレティシアのひたむきな想いは、アンヌの想いでもあった。 
・・・生涯で、たった一度きりでいい。 
公爵令嬢という肩書も、農園主という肩書も忘れ去って、アンヌというひとりの娘になって、愛されてみたい。
「ここを、開けてくれ。・・・お願いだ」 
その声に、振り返ったアンヌは、夢中でかんぬきをはずした。
扉の外に灯り一つを持って立つランドルフが目に入るのと、その強い腕で抱きしめられるのは、ほぼ同時だった。 
「アンヌ・・・、悪かった。どうか、僕を許してほしい」
ランドルフは、流れるようなアンヌの髪に、唇を落とし続けた。 
「お会いしたかった・・・」 
アンヌは、ランドルフの腕の中で、囁くような声を上げた。
「アンヌ・・・」
「ずっと・・・、お会いしたかった」 
その瞬間、ランドルフは、アンヌの唇をふさいでいた。 
口づけは、互いを求めあい、最初から、情熱的に始まった。 
ランドルフは、頬、うなじへと唇を走らせ、胸元まで、唇を押し当てた後、アンヌの身体を抱き上げた。
 
  
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