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7.I MISS YOU
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十月の中旬、マーガレットは、半月後に予定されている、モーガン家の夜会の招待状を手に、アンダーソン邸を訪れていた。
この時期、マーガレットが、招待状を持って、ベアトリス・アンダーソンを訪れることは、長年の慣例となっていた。
十一月初旬に迫る夜会の招待状を、この時期に、届けると言うのは、どう考えても遅すぎたが、マーガレットの四十年来の親友であるベアトリスの出席は、当然で、事前に、招待状を送る必要もなかったため、こうして、期日が迫った折に、直接マーガレットが、招待状を手にベアトリスを訪問して、他愛無いお喋りに興じると言うのが、習慣になっていた。
アンダーソン一族は、千エーカーに及ぶ綿花プランテーションの土地を所有し、百人を超える奴隷を所有していた。
モーガン家と同等か、それ以上の広大な邸宅を構え、綿花の大農園主として、アウラに君臨するアンダーソン家だった。
四月に、六十二歳迎えた、ベアトリス・アンダーソンは、未亡人で、実質的なプランテーション経営は、頼もしい二人の息子たちが引き継いでいたものの、夫と共に、長年プランテーション経営に携わり、成功に導いてきたその手腕、人脈と、莫大な資金故に、アウラの農園主たち、社交界から、未だ一目置かれる存在だった。
マーガレットと同様、ベアトリスも、アウラの社交界の中心人物ともいえる存在で、年齢を重ねているとはいえ、農園主たちの間で、その発言力、意向を、無視できるものはいなかった。
上流階級の人々から嫌煙されているアンヌが、なぜ、アウラで農園主としてやっていけるかは、ベアトリスの庇護があるからに他ならなかった。
アウラの農園主たちにとって、リーダー的存在のふたりだったが、その性質は、対照的だった。
精力的で、情熱的、こうと決めたら、一途に物事を推し進めるマーガレットに対し、ベアトリスは、冷静、沈着で、思慮深く、あまり感情が表には出ない性質だった。
背が高く、痩せ型のベアトリスは、歳を重ね、ほとんどが白く変わってしまった黒髪だったが、まだたっぷりと残るその髪を、きりっと後頭部で束ね、老獪で隙のない、けれども、どこか温情と、懐の深さを感じさせる黒い瞳の持ち主だった。
性質は対照的だったが、どちらの実家もアウラ近郊で綿花農園を営んでいて、綿花の大地に生まれ、この地で育ち、生きて来たふたりは、綿花を実らせるアウラの大地をこよなく愛し、土地に誇りを持っていた。
五つの年の差があり、全く性質は違ったが、心の底に共通項をもつふたりは、四十年来の親友でもあった。
一旦、こうと思い込んだら、中々、他人の意見は聞き入れないマーガレットだったが、尊敬する、五歳年上の思慮深い親友の言葉にだけは、耳を傾けた。
父母もすでに他界し、実家の後を継いだ弟夫婦とも、あまり行き来のないマーガレットにとっては、ベアトリスは、姉のような存在でもあった。
ふたりとも、大農園を経営する一族であり、何かと多忙な日々で、社交界の集いで顔を合わせることは、度々あっても、このように、ふたりでゆっくりお茶を楽しむと言う機会は、そうそうあるものではなかった。
それゆえに、ふたりで語らうこの時間を、両者とも、貴重に思っていたのだった。
今、ふたりが談笑する、広々としたゲストルームは、ベージュの壁に、白の柱が通り、邸宅を取り囲むベランダへと続く窓の上部に、ステンドグラスがはめ込まれていて、陽当たりが良く、開放感があって、ベアトリスお気に入りの部屋だった。
「こうして、あなたが招待状を届けてくれる時期になると、いつも、ああ、今年も、もうあと少しという気分になるわね。あなたのお屋敷の夜会が終われば、感謝祭、そしてクリスマス・・・、本当に、年々、一年があっという間に過ぎていくわ」
ベアトリスは、そう言って、ティーカップを置いた。
「本当に、あなたの言うとおりね。自分が、こんな年を迎えるなんて、若いころには、想像もつかなかったわ」
そう答えるマーガレットは、ベアトリスの前で、くつろいだ表情を見せていた。
夜会を半月後に控え、近頃は、その準備で、多忙を極めていたマーガレットだった。
夜会は、例年の行事だったが、今年に限って、例年以上に神経を使っている気がするのは、やはり、ランドルフとシャーロットのことがあるからに違いなかった。
「夜会の準備が、忙しいのかしら?少し、疲れた顔をしているわ」
「何でも、お見通しね。でも、大丈夫。今年は、少し、そう、気合が入っているの。理由は、言わなくても分かっているでしょう?」
マーガレットは、ランドルフとシャーロットの見合いの件について、その経緯を、口止めをして、義弟夫婦である、トーマスとレイチェル、そしてベアトリスにだけは、話していた。
もちろんまだ、当人同士に、具体的な進展がなかったので、それ以外の人々に、話すようなことはしなかったが、ベアトリスは四十年来の親友でもあったし、何より、口の堅い人物だったので、打ち明けていたのだった。
「ランディと、ブラウン家のお嬢さんとのお話ね」
ベアトリスのその言葉に、マーガレットは微笑んで、頷いた。
けれども、ベアトリスの次の言葉で、マーガレットの表情は一気に曇った。
「ランディと言えば、この夏頃は、随分と、頻繁にアンヌの屋敷に通っていたみたいだけれど」
「・・・誰か、噂をしている人がいるの?」
「いいえ、噂というほどではないわ。私の耳に、かすかに届いたくらいね。あなたの心配するような話にはなっていないから、大丈夫よ」
ベアトリスは、口が堅かった。
それ故、誰もが安心して話すせいか、どんなささいな出来事でも、ベアトリスの耳には入った。
どこかのお屋敷のハウスメイドが、昨夜、皿を一枚割った、という話でさえ、ベアトリスの耳には届くと言われるほどの、情報通でもあった。
「それに、近頃は、もうアンヌの屋敷へは、行っていないそうじゃないの。現在進行形ならともかく、過去の話なんですから、例え、そんな噂があったとしても、噂のまま終わるでしょう。人の関心なんて、移ろいやすいものよ。すぐに、みんな忘れるわ。でも、私は、話を耳にして、似合いのふたりだと思ったのだけど・・・、残念ね」
「トリス、あなた、本当にそう思っているの?」
マーガレットは、いつものように、親友を愛称で呼んだ。
「ふたりのこと?ええ、もちろんだわ。アンヌは、このアウラの大地を愛しているし、賢明で、思いやりの深い娘ですからね。ランドルフとうまくいけば、モーガン家も安泰だと思っていたのよ」
「とても、あなたが、本気でそう言っているとは思えないわ。あの娘の社交界での評判を、あなたが知らないはずないでしょう?四月の、私の屋敷での、ドハティ夫人やテイラー夫人とのひどい諍いも、耳に入っているのでしょう?あんな娘に嫁いで来られたら、モーガン家は崩壊してしまうわ。そうなってからでは遅いの。・・・あなただから、正直に言うけれど、私が、ふたりの関係を終わらせたのよ」
「そうでしょうね。そうだと思っていたわ」
変わらず、冷静なベアトリスだった。
「その私の判断が、間違っていると言いたいの?・・・いいえ、トリス、私、前からあなたに一度、聞きたいことがあったの。あなたは、どうしてあの高慢で、自分勝手な娘に協力するの?あの娘は、長くアウラの地に根差す、私たち農園主を、一切敬おうとしない、不躾な娘よ。あなたさえ、協力しなければ、あの娘は、とうにこのアウラの地を追われているでしょう」
しばらくの沈黙の後、
「マギー、今から私が話すことは、他言無用よ」
ベアトリスは、その懐の深さを感じさせる黒い瞳で、マーガレットをじっと見つめた。
「アンヌの本当の名前は・・・、アンヌ・マリー・ジュスティーヌ・ド・ラングラン」
「ラングラン?では、クレマンは、偽名だと言うの?」
思いがけない話に、マーガレットは、驚きを隠せなかった。
「アンヌは、ユースティティアの名門貴族、ラングラン家の公爵令嬢よ。そしてアンヌの姉は、グラディウスの、クリスティーヌ王妃」
「まさか、そんな・・・」
それ以上は、言葉が続かないマーガレットだった。
「六年程前の、グラディウスのユースティティア侵攻は、もちろん知っているわよね。ユースティティアの王都アルカンスィエルは、グラディウス軍によって陥落し、ユースティティア国王は殺害された。ユースティティア王妃であったクリスティーヌ様は、捕らえられ、グラディウスの王都、セヴェロリンスクへ連れ去られたわ。クリスティーヌ王妃は、諸外国に知れ渡るほどの美貌の持ち主だったから、アレクセイ国王が、そのまま放っておくはずがないわね。クリスティーヌ様は、グラディウスのアレクセイ国王の王妃となり、その寵愛を受けて、今や、国王との間に、三人の男の子がいて、国母として不動の地位を築いているわ。だけど・・・、その陰では、いろんな陰謀が渦巻いていたの。詳細は省くけれど、ともかく、アンヌの父親であるラングラン公爵は、国家転覆の首謀者で、自分の意のままになる、ある闇の組織のリーダーでもあった」
「闇の組織・・・」
「ユースティティアの、あらゆる権力を望んだラングラン公爵は、その組織を使って、数々の犯罪にも手を染めていたの。つまり、殺人、ということね」
「殺人?」
あまりの現実離れした、恐ろしい話に、マーガレットは、一瞬、これは、ベアトリスの作り話ではないかと、思ったほどだった。
けれども、見つめ返したベアトリスの眼差しを見て、作り話などではない、事実なのだと、思い知った。
すっと、指先が冷たくなっていく、マーガレットだった。
「そんな・・・、恐ろしい人物の娘が、何故、このアウラに?」
「王都が陥落し、一度はグラディウスに屈服しかけたユースティティアだったけれど、先代国王の庶子、フィリップ様が王位につかれて、巻き返し、グラディウス軍を国から追い払った。その間に、ラングラン公爵は、ラングラン公爵夫人と一緒に亡くなったの。自らの策謀が招いた悲劇、ともいうべきかしら。ともかく、アンヌは、父親と母親を、一度に亡くしてしまったの」
手を付けないお茶は、ふたつとも次第に、冷たくなっていった。
屋敷のすぐそばにある、大きな樫の木の葉の、風に揺れる音が、届いた。
「アンヌは、十代の頃から、父である、ラングラン公爵の組織の一員だった。十代とは思えない度胸と、歳に似合わない指導力で、父親が率いる、闇の組織の実力者だったと聞くわ。でも、組織の指導者の父親が亡くなり、清廉潔白なフィリップ様が王位につかれて、ユースティティアに居場所がなくなってしまった。そうして、アンヌは、ユースティティアから、遠く離れた、このアウラへやってきたの。たったひとりの、侍女だけをつれて」
「どうして・・・、あなたは、そんな恐ろしい話を知っているの?あの娘が、あなたに、話したの?」
ベアトリスは、首を振った。
「アンヌは、何も、話さないわ。自分の過去は一切、何もね。あらゆる国と分野に、情報網を張り巡らせておくことは、とても大切なことよ、マギー。全く自分には関係ないと思っていた出来事が、思いもかけず、身に降りかかってくることがあるの。アンヌの件のようにね」
「あなたの話を聞いて、私の疑問は膨らむばかりだわ。あの娘が、そんな恐ろしい組織に関わって来たのだとすれば、尚更、このアウラに居座ってもらったら困るでしょう。あなたも、早くあの娘から、手を引いた方が、身のためよ」
「あなたが、そう言うとは、思わなかったわ」
「どういう意味?」
「四十年前に犯した罪と、未だ向き合い続けている、あなたの言葉だとは思えない、っていう意味よ」
「その話は、止めてちょうだい」
マーガレットの顔が、さっと気色ばんだ。
「ヘンリーが心配していたわ。夜明けに、ひとりひっそりと祈り続けるあなたを。近頃、祈りの時間が長くなっているから、何か思いつめていなければいいけど、って」
「その話は、止めてと言ったはずよ」
鋭いマーガレットの声だった。
「もう四十年も昔の話よ。事件を知っている人も、少なくなっているでしょう。そろそろ、自分を許してあげてもいいんじゃないかしら?」
「たとえ、どれほどの時間が過ぎても、私の中で、この罪の意識が消えることはないわ。私の周囲が、事件を忘れても、私が自分の犯してしまった罪を、忘れることはないの。この私の苦しみは、誰にも分からない。ヘンリーにも、あなたにも・・・」
マーガレットの声が、詰まった。
みるみるうちに、瞳には、涙が盛り上がった。
その涙は、事件から四十年の時を経ても、マーガレットの苦しみを取り払うことはできないことを、物語っていた。
「確かにそうね。それは、あなたにしか分からない苦しみだわ。でも、だったら、そのあなたが、何故、アンヌを排除しようとするの?あなたは、アンヌと同じ苦しみを知っているはずなのに」
「トリス・・・」
はっ、とマーガレットは息をのんだ。
「あなたの質問に戻るわね。何故、私がアンヌに協力をするのか、って言う。答えは簡単よ。私は、アンヌが、不憫なのよ。同情を嫌う娘だから、私は、決して、アンヌに憐れみをみせたりはしないけれど、私は、率直に、アンヌが可哀想だと思うの。考えてもみて、そんな恐ろしい犯罪に、自ら望んで手を染める若い娘がいると思う?おそらくは、父親からの抑圧と、強制があったのでしょう。だとすれば、従う以外、アンヌにはどうしようもできないことよ。本来なら何不自由なく暮らす、身分の高い娘でありながら、そういった運命を背負わされたアンヌが、わたしは、とても不憫なの。でも、彼女は、過去を乗り越えようと戦っている。ねえ、マギー、二十歳にもならない娘が、たったひとりの侍女と一緒に、海を渡って、綿花農園を始めるということが、どれほど勇気のいることか、あなたには、想像がつかない?」
マーガレットは答えなかった。
アンヌの思いがけない一面を、どう受け止めるべきなのか、直ぐに答えは出なかった。
「もちろん、アンヌにも、至らない点があることを、良く知っているわ。人一倍気が強いし、愛想がいいとはいえない。高慢だと言われても仕方がないような物言いも、反省すべきだと思うわ。でも、だからと言って、アンヌを突き放すのは、間違いだと思うの。彼女の、ひたむきな努力と情熱を、何よりこの大地を愛する想いを、認めてあげたいと思うの。私は、間違っているかしら?」
「・・・私には、わからないわ。何が、真実で、何がそうでないのか。だって、そうでしょう?あの娘が、私の様に、自らの犯した罪に苦しんでいるということが、どうしてわかるの?私と同じ苦しみを抱えて生きているって、どうして言い切れるの?」
マーガレットの混乱は、深まるばかりだった。
「一度、アンヌに尋ねたことがあるのよ」
ベアトリスは、ようやく、ふっ、と頬を緩めて、もうすっかり冷え切ってしまったお茶で、のどを潤した。
「私のところへ来て、間もないころ、ふたりで綿花畑を歩きながら、尋ねたことがあるの。何故、このアウラで、綿花農園をやってみようと思ったの、って。若い娘がひとりで、農園をやっていくのは、とても、大変なことだし、わざわざ、そんな苦労をしなくても、もっと楽な生き方があるでしょう、って。アンヌは、こう答えたわ。私は、これまでずっと、人を不幸にして生きて来た、それは、どう悔いても、もう取り返しがつかない、って。だから、せめて、今度は、人の暮らしに役立つものを作りたいんだ、って。そうして、自分は、人の心を取り戻したいんだ、って。そう言って、地面にかがんで、畑の土を、両手にすくって、その匂いを嗅いでいたわ。・・・とてもいい眼をしていたの」
「トリス・・・」
戸惑うマーガレットに、ベアトリスは微笑みつつ、けれども、確信の籠った声で告げる。
「アンヌが、ここで綿花農園を営み続ける限り、私はアンヌに協力するつもりよ。これまでも、これからもずっとね。でも、アンヌという娘を、本当に理解して、助けることが出来るのは、私じゃない。マギー、あなたよ」
この時期、マーガレットが、招待状を持って、ベアトリス・アンダーソンを訪れることは、長年の慣例となっていた。
十一月初旬に迫る夜会の招待状を、この時期に、届けると言うのは、どう考えても遅すぎたが、マーガレットの四十年来の親友であるベアトリスの出席は、当然で、事前に、招待状を送る必要もなかったため、こうして、期日が迫った折に、直接マーガレットが、招待状を手にベアトリスを訪問して、他愛無いお喋りに興じると言うのが、習慣になっていた。
アンダーソン一族は、千エーカーに及ぶ綿花プランテーションの土地を所有し、百人を超える奴隷を所有していた。
モーガン家と同等か、それ以上の広大な邸宅を構え、綿花の大農園主として、アウラに君臨するアンダーソン家だった。
四月に、六十二歳迎えた、ベアトリス・アンダーソンは、未亡人で、実質的なプランテーション経営は、頼もしい二人の息子たちが引き継いでいたものの、夫と共に、長年プランテーション経営に携わり、成功に導いてきたその手腕、人脈と、莫大な資金故に、アウラの農園主たち、社交界から、未だ一目置かれる存在だった。
マーガレットと同様、ベアトリスも、アウラの社交界の中心人物ともいえる存在で、年齢を重ねているとはいえ、農園主たちの間で、その発言力、意向を、無視できるものはいなかった。
上流階級の人々から嫌煙されているアンヌが、なぜ、アウラで農園主としてやっていけるかは、ベアトリスの庇護があるからに他ならなかった。
アウラの農園主たちにとって、リーダー的存在のふたりだったが、その性質は、対照的だった。
精力的で、情熱的、こうと決めたら、一途に物事を推し進めるマーガレットに対し、ベアトリスは、冷静、沈着で、思慮深く、あまり感情が表には出ない性質だった。
背が高く、痩せ型のベアトリスは、歳を重ね、ほとんどが白く変わってしまった黒髪だったが、まだたっぷりと残るその髪を、きりっと後頭部で束ね、老獪で隙のない、けれども、どこか温情と、懐の深さを感じさせる黒い瞳の持ち主だった。
性質は対照的だったが、どちらの実家もアウラ近郊で綿花農園を営んでいて、綿花の大地に生まれ、この地で育ち、生きて来たふたりは、綿花を実らせるアウラの大地をこよなく愛し、土地に誇りを持っていた。
五つの年の差があり、全く性質は違ったが、心の底に共通項をもつふたりは、四十年来の親友でもあった。
一旦、こうと思い込んだら、中々、他人の意見は聞き入れないマーガレットだったが、尊敬する、五歳年上の思慮深い親友の言葉にだけは、耳を傾けた。
父母もすでに他界し、実家の後を継いだ弟夫婦とも、あまり行き来のないマーガレットにとっては、ベアトリスは、姉のような存在でもあった。
ふたりとも、大農園を経営する一族であり、何かと多忙な日々で、社交界の集いで顔を合わせることは、度々あっても、このように、ふたりでゆっくりお茶を楽しむと言う機会は、そうそうあるものではなかった。
それゆえに、ふたりで語らうこの時間を、両者とも、貴重に思っていたのだった。
今、ふたりが談笑する、広々としたゲストルームは、ベージュの壁に、白の柱が通り、邸宅を取り囲むベランダへと続く窓の上部に、ステンドグラスがはめ込まれていて、陽当たりが良く、開放感があって、ベアトリスお気に入りの部屋だった。
「こうして、あなたが招待状を届けてくれる時期になると、いつも、ああ、今年も、もうあと少しという気分になるわね。あなたのお屋敷の夜会が終われば、感謝祭、そしてクリスマス・・・、本当に、年々、一年があっという間に過ぎていくわ」
ベアトリスは、そう言って、ティーカップを置いた。
「本当に、あなたの言うとおりね。自分が、こんな年を迎えるなんて、若いころには、想像もつかなかったわ」
そう答えるマーガレットは、ベアトリスの前で、くつろいだ表情を見せていた。
夜会を半月後に控え、近頃は、その準備で、多忙を極めていたマーガレットだった。
夜会は、例年の行事だったが、今年に限って、例年以上に神経を使っている気がするのは、やはり、ランドルフとシャーロットのことがあるからに違いなかった。
「夜会の準備が、忙しいのかしら?少し、疲れた顔をしているわ」
「何でも、お見通しね。でも、大丈夫。今年は、少し、そう、気合が入っているの。理由は、言わなくても分かっているでしょう?」
マーガレットは、ランドルフとシャーロットの見合いの件について、その経緯を、口止めをして、義弟夫婦である、トーマスとレイチェル、そしてベアトリスにだけは、話していた。
もちろんまだ、当人同士に、具体的な進展がなかったので、それ以外の人々に、話すようなことはしなかったが、ベアトリスは四十年来の親友でもあったし、何より、口の堅い人物だったので、打ち明けていたのだった。
「ランディと、ブラウン家のお嬢さんとのお話ね」
ベアトリスのその言葉に、マーガレットは微笑んで、頷いた。
けれども、ベアトリスの次の言葉で、マーガレットの表情は一気に曇った。
「ランディと言えば、この夏頃は、随分と、頻繁にアンヌの屋敷に通っていたみたいだけれど」
「・・・誰か、噂をしている人がいるの?」
「いいえ、噂というほどではないわ。私の耳に、かすかに届いたくらいね。あなたの心配するような話にはなっていないから、大丈夫よ」
ベアトリスは、口が堅かった。
それ故、誰もが安心して話すせいか、どんなささいな出来事でも、ベアトリスの耳には入った。
どこかのお屋敷のハウスメイドが、昨夜、皿を一枚割った、という話でさえ、ベアトリスの耳には届くと言われるほどの、情報通でもあった。
「それに、近頃は、もうアンヌの屋敷へは、行っていないそうじゃないの。現在進行形ならともかく、過去の話なんですから、例え、そんな噂があったとしても、噂のまま終わるでしょう。人の関心なんて、移ろいやすいものよ。すぐに、みんな忘れるわ。でも、私は、話を耳にして、似合いのふたりだと思ったのだけど・・・、残念ね」
「トリス、あなた、本当にそう思っているの?」
マーガレットは、いつものように、親友を愛称で呼んだ。
「ふたりのこと?ええ、もちろんだわ。アンヌは、このアウラの大地を愛しているし、賢明で、思いやりの深い娘ですからね。ランドルフとうまくいけば、モーガン家も安泰だと思っていたのよ」
「とても、あなたが、本気でそう言っているとは思えないわ。あの娘の社交界での評判を、あなたが知らないはずないでしょう?四月の、私の屋敷での、ドハティ夫人やテイラー夫人とのひどい諍いも、耳に入っているのでしょう?あんな娘に嫁いで来られたら、モーガン家は崩壊してしまうわ。そうなってからでは遅いの。・・・あなただから、正直に言うけれど、私が、ふたりの関係を終わらせたのよ」
「そうでしょうね。そうだと思っていたわ」
変わらず、冷静なベアトリスだった。
「その私の判断が、間違っていると言いたいの?・・・いいえ、トリス、私、前からあなたに一度、聞きたいことがあったの。あなたは、どうしてあの高慢で、自分勝手な娘に協力するの?あの娘は、長くアウラの地に根差す、私たち農園主を、一切敬おうとしない、不躾な娘よ。あなたさえ、協力しなければ、あの娘は、とうにこのアウラの地を追われているでしょう」
しばらくの沈黙の後、
「マギー、今から私が話すことは、他言無用よ」
ベアトリスは、その懐の深さを感じさせる黒い瞳で、マーガレットをじっと見つめた。
「アンヌの本当の名前は・・・、アンヌ・マリー・ジュスティーヌ・ド・ラングラン」
「ラングラン?では、クレマンは、偽名だと言うの?」
思いがけない話に、マーガレットは、驚きを隠せなかった。
「アンヌは、ユースティティアの名門貴族、ラングラン家の公爵令嬢よ。そしてアンヌの姉は、グラディウスの、クリスティーヌ王妃」
「まさか、そんな・・・」
それ以上は、言葉が続かないマーガレットだった。
「六年程前の、グラディウスのユースティティア侵攻は、もちろん知っているわよね。ユースティティアの王都アルカンスィエルは、グラディウス軍によって陥落し、ユースティティア国王は殺害された。ユースティティア王妃であったクリスティーヌ様は、捕らえられ、グラディウスの王都、セヴェロリンスクへ連れ去られたわ。クリスティーヌ王妃は、諸外国に知れ渡るほどの美貌の持ち主だったから、アレクセイ国王が、そのまま放っておくはずがないわね。クリスティーヌ様は、グラディウスのアレクセイ国王の王妃となり、その寵愛を受けて、今や、国王との間に、三人の男の子がいて、国母として不動の地位を築いているわ。だけど・・・、その陰では、いろんな陰謀が渦巻いていたの。詳細は省くけれど、ともかく、アンヌの父親であるラングラン公爵は、国家転覆の首謀者で、自分の意のままになる、ある闇の組織のリーダーでもあった」
「闇の組織・・・」
「ユースティティアの、あらゆる権力を望んだラングラン公爵は、その組織を使って、数々の犯罪にも手を染めていたの。つまり、殺人、ということね」
「殺人?」
あまりの現実離れした、恐ろしい話に、マーガレットは、一瞬、これは、ベアトリスの作り話ではないかと、思ったほどだった。
けれども、見つめ返したベアトリスの眼差しを見て、作り話などではない、事実なのだと、思い知った。
すっと、指先が冷たくなっていく、マーガレットだった。
「そんな・・・、恐ろしい人物の娘が、何故、このアウラに?」
「王都が陥落し、一度はグラディウスに屈服しかけたユースティティアだったけれど、先代国王の庶子、フィリップ様が王位につかれて、巻き返し、グラディウス軍を国から追い払った。その間に、ラングラン公爵は、ラングラン公爵夫人と一緒に亡くなったの。自らの策謀が招いた悲劇、ともいうべきかしら。ともかく、アンヌは、父親と母親を、一度に亡くしてしまったの」
手を付けないお茶は、ふたつとも次第に、冷たくなっていった。
屋敷のすぐそばにある、大きな樫の木の葉の、風に揺れる音が、届いた。
「アンヌは、十代の頃から、父である、ラングラン公爵の組織の一員だった。十代とは思えない度胸と、歳に似合わない指導力で、父親が率いる、闇の組織の実力者だったと聞くわ。でも、組織の指導者の父親が亡くなり、清廉潔白なフィリップ様が王位につかれて、ユースティティアに居場所がなくなってしまった。そうして、アンヌは、ユースティティアから、遠く離れた、このアウラへやってきたの。たったひとりの、侍女だけをつれて」
「どうして・・・、あなたは、そんな恐ろしい話を知っているの?あの娘が、あなたに、話したの?」
ベアトリスは、首を振った。
「アンヌは、何も、話さないわ。自分の過去は一切、何もね。あらゆる国と分野に、情報網を張り巡らせておくことは、とても大切なことよ、マギー。全く自分には関係ないと思っていた出来事が、思いもかけず、身に降りかかってくることがあるの。アンヌの件のようにね」
「あなたの話を聞いて、私の疑問は膨らむばかりだわ。あの娘が、そんな恐ろしい組織に関わって来たのだとすれば、尚更、このアウラに居座ってもらったら困るでしょう。あなたも、早くあの娘から、手を引いた方が、身のためよ」
「あなたが、そう言うとは、思わなかったわ」
「どういう意味?」
「四十年前に犯した罪と、未だ向き合い続けている、あなたの言葉だとは思えない、っていう意味よ」
「その話は、止めてちょうだい」
マーガレットの顔が、さっと気色ばんだ。
「ヘンリーが心配していたわ。夜明けに、ひとりひっそりと祈り続けるあなたを。近頃、祈りの時間が長くなっているから、何か思いつめていなければいいけど、って」
「その話は、止めてと言ったはずよ」
鋭いマーガレットの声だった。
「もう四十年も昔の話よ。事件を知っている人も、少なくなっているでしょう。そろそろ、自分を許してあげてもいいんじゃないかしら?」
「たとえ、どれほどの時間が過ぎても、私の中で、この罪の意識が消えることはないわ。私の周囲が、事件を忘れても、私が自分の犯してしまった罪を、忘れることはないの。この私の苦しみは、誰にも分からない。ヘンリーにも、あなたにも・・・」
マーガレットの声が、詰まった。
みるみるうちに、瞳には、涙が盛り上がった。
その涙は、事件から四十年の時を経ても、マーガレットの苦しみを取り払うことはできないことを、物語っていた。
「確かにそうね。それは、あなたにしか分からない苦しみだわ。でも、だったら、そのあなたが、何故、アンヌを排除しようとするの?あなたは、アンヌと同じ苦しみを知っているはずなのに」
「トリス・・・」
はっ、とマーガレットは息をのんだ。
「あなたの質問に戻るわね。何故、私がアンヌに協力をするのか、って言う。答えは簡単よ。私は、アンヌが、不憫なのよ。同情を嫌う娘だから、私は、決して、アンヌに憐れみをみせたりはしないけれど、私は、率直に、アンヌが可哀想だと思うの。考えてもみて、そんな恐ろしい犯罪に、自ら望んで手を染める若い娘がいると思う?おそらくは、父親からの抑圧と、強制があったのでしょう。だとすれば、従う以外、アンヌにはどうしようもできないことよ。本来なら何不自由なく暮らす、身分の高い娘でありながら、そういった運命を背負わされたアンヌが、わたしは、とても不憫なの。でも、彼女は、過去を乗り越えようと戦っている。ねえ、マギー、二十歳にもならない娘が、たったひとりの侍女と一緒に、海を渡って、綿花農園を始めるということが、どれほど勇気のいることか、あなたには、想像がつかない?」
マーガレットは答えなかった。
アンヌの思いがけない一面を、どう受け止めるべきなのか、直ぐに答えは出なかった。
「もちろん、アンヌにも、至らない点があることを、良く知っているわ。人一倍気が強いし、愛想がいいとはいえない。高慢だと言われても仕方がないような物言いも、反省すべきだと思うわ。でも、だからと言って、アンヌを突き放すのは、間違いだと思うの。彼女の、ひたむきな努力と情熱を、何よりこの大地を愛する想いを、認めてあげたいと思うの。私は、間違っているかしら?」
「・・・私には、わからないわ。何が、真実で、何がそうでないのか。だって、そうでしょう?あの娘が、私の様に、自らの犯した罪に苦しんでいるということが、どうしてわかるの?私と同じ苦しみを抱えて生きているって、どうして言い切れるの?」
マーガレットの混乱は、深まるばかりだった。
「一度、アンヌに尋ねたことがあるのよ」
ベアトリスは、ようやく、ふっ、と頬を緩めて、もうすっかり冷え切ってしまったお茶で、のどを潤した。
「私のところへ来て、間もないころ、ふたりで綿花畑を歩きながら、尋ねたことがあるの。何故、このアウラで、綿花農園をやってみようと思ったの、って。若い娘がひとりで、農園をやっていくのは、とても、大変なことだし、わざわざ、そんな苦労をしなくても、もっと楽な生き方があるでしょう、って。アンヌは、こう答えたわ。私は、これまでずっと、人を不幸にして生きて来た、それは、どう悔いても、もう取り返しがつかない、って。だから、せめて、今度は、人の暮らしに役立つものを作りたいんだ、って。そうして、自分は、人の心を取り戻したいんだ、って。そう言って、地面にかがんで、畑の土を、両手にすくって、その匂いを嗅いでいたわ。・・・とてもいい眼をしていたの」
「トリス・・・」
戸惑うマーガレットに、ベアトリスは微笑みつつ、けれども、確信の籠った声で告げる。
「アンヌが、ここで綿花農園を営み続ける限り、私はアンヌに協力するつもりよ。これまでも、これからもずっとね。でも、アンヌという娘を、本当に理解して、助けることが出来るのは、私じゃない。マギー、あなたよ」
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