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5.SAY YES
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アンヌの屋敷から、一時間ほど馬車を走らせた場所にある、ターホープ・レイクの湖畔の宿の料理店で、素朴な、けれども、地元の野菜や豚肉を使用した、素材を生かした料理に舌鼓をうった後、ヘンリーとアンヌは、写生のための場所を探して、湖畔を歩いた。
そうして、青空の下、勢いよく木々の茂る、美しい夏の湖の、一所に場所を定め、ヘンリーの準備してきたイーゼルに、ボードを置き、絵に取り掛かった。
絵に取り掛かるまでは、社交界や、お互いの農園のことで、話が弾んでいたが、絵に向かい始めると、ふたりともとたんに無口になり、それぞれの作品に、集中した。
そうして、一時間半が過ぎた頃、ヘンリーがようやく自分のボードから顔を上げ、ほうっと、息をついた。
「お疲れでしょう」
そのヘンリーを見て、アンヌも絵筆を置いた。
「最近は、歳を感じるよ。以前は、もっと長い時間でも、集中して描いていられたものだったが、近頃はどうも・・・」
同じ姿勢で、絵に向き合っていたせいで、肩が凝ったらしく、ヘンリーは、右肩を左手で、何度か揉んだ。
「お若いころから、水彩画を?」
「狩りや乗馬というのは、どうも性に合わなくてね。水彩画など、女子供のするものだと、随分、父親には叱られたものだよ。私も若かったから、農園主としての務めさえ、しっかり果たせば、他は何をしても私の自由だろうと、反発した。しかし、長年やっている割には、あまり上手くならない。君の絵を、拝見しても?」
「ええ、もちろんです。ですが、わたくしも、もうずっと以前に描いていただけですので、お見せするほどのものではないと思います」
「失礼」
と、ヘンリーは、アンヌのボードの前に立った。
そうして、ふうむと、唸り、
「全く、私は、自信を失うね。自分の才能のなさを、呪うばかりだ。長い間、描いていない君に、これだけの作品が仕上げられるというのに、長年取り組んでいる私の画は、何と稚拙なことか・・・」
ため息をついた。
拝見します、と、アンヌも、まだ描き残しのあるヘンリーのボードの前に、立った。
ヘンリーは、嘆いていたが、アンヌの見る限り、ヘンリーの画は、構図も、配置も、不自然な点はなく、全体的なバランスは悪くなかった。
問題があるとすれば、やはり、色の方で、透明感のある綺麗な水彩画を描こうとすれば、どう色をにじませていくかが、必要不可欠なのだったが、そのあたりに改善の余地がある様に思えた。
「人にお教えできる身ではないのですが、下塗りの時に、もっと大胆ににじませておくと、一層、透明感が出てくると思います。失敗を恐れず、大胆に、にじませる」
「・・・なるほど。言われてみれば、そうかもしれない。私の周りには、君のように具体的に指摘してくれる者が、なくてね。君は、貴重な存在だ」
「そうは申しましても、この絵は、素敵です。以前に絵を拝見した時にも申し上げましたが、絵から、優しいお人柄が、伺えます。温かみのある、良い絵だと思います。わたくしの絵は、確かに一見、良く描けているように見えるかもしれませんが、それは、ただ技法によるだけで・・・、何かを置き去りにしているようで、あまり、良い絵だとは思えません」
アンヌは自分の絵に、どこか納得できないものがあった。
それは、自分でも知らぬ間に、絵に映し出される、内面的な部分かもしれないと、思った。
「君も、私も、向上心が強い、ということにしておこう」
「本当に」
ヘンリーの言葉に、ふたりで、微笑みを交わした。
そして、絵を描き上げてしまったら、帰る前に、少し湖畔を散歩しようと、ヘンリーはアンヌを誘った。
アンヌは、そのヘンリーの誘いを承諾してから、ごく当たり前の、父と娘とは、こういうものなのだろうか。
ふと、そんな思いがよぎった。
それは、自分には、決して訪れることのなかった、穏やかで温かな時間だった。
アンヌは、夏空を見上げた。
つがいの鳥が、彼方へと飛んで行った。
「私の息子は・・・、ランディは、君の役に立っているかな?」
互いに、絵を描き上げてしまい、並んで、ターホープ・レイクの湖畔を歩き出してすぐ、ヘンリーは、アンヌにそう尋ねた。
「一度、そのことは、きちんとお詫び申し上げなければならないと、思っていました」
「お詫び?何故、詫びなど?望んで行っているのは、ランディの方だ。それぐらいは、私にもわかるよ」
「ですが、モーガン家に、大変なご迷惑をおかけしています。ご子息は、モーガン家の嫡男です。本来なら、モーガン家の農園の、責任者としての務めを果たさなければならない方です。こちらに事情があるとはいえ、その方に、農園を管理していただくなど、あってはならないことだと、恥じ入っております」
「アンヌ・・・、君は知っているのかな?」
「何でしょう?」
「ランディは、五年前に妻を亡くしている」
「存じ上げています」
「それは、ランディが?」
「はい、先日、その心の内を伺って、胸が痛みました」
ヘンリーは、隣を歩くアンヌの横顔を、そっと伺った。
滅多なことでは、自分の哀しみや苦しみを表に出すことのない、ランドルフだった。
それは、きっと、同情されたくないという想いと、周囲への気遣いからに違いなかったが、親としては、それだけに余計、息子が不憫だった。
誰に話すこともなく、じっと、その哀しみを胸の内に秘めているのだと思うと、何とかしてやりたいという想いと、何ともしてやれない想いの狭間で、もどかしさを味わっていたヘンリーだった。
そのランドルフが、アンヌには自分の胸の内をさらけ出したというのだから、ランドルフが、アンヌに心を許しているということが、よく分かった。
「あの子は、妻を・・・、フローレンスを亡くしてから、ずいぶん、笑顔が減った。三十を過ぎた息子に対して、親馬鹿が過ぎると思って、聞いてもらって構わないが、あの子は、優しい子だ。自分が、取り乱せば、私たちが悲しむと知っている。だから、平静を装っている。だけど、親ならわかる。ずっと張り裂けそうな心の痛みと、向き合ってきたのだということが」
その言葉で、アンヌは、ランドルフの哀しみは、ヘンリーの哀しみでもあるのだということを、知った。
「そのランディが、今年の夏は、随分と楽しそうだ。あんなに、楽しそうな息子を見るのは、何年ぶりだろうかと思う。自分の農園を従兄弟たちに任せきりにして、あんなに楽しそうに、いったいどこに行っているのかと、最初は、腹立ち半分、好奇心半分だった。息子の行き先は、君の農園だった」
「モーガン様・・・」
ヘンリーは、敬って、姓で呼ぶアンヌに、ヘンリーだ、アンヌ、私たちは、親友だからねと、悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。
「アンヌ、勘違いしないでほしい。私は、君に感謝しているんだ。君は、息子に、再び笑顔を取り戻してくれた。あの子は、この夏、本当に楽しそうだ。生き生きとして、輝いている。私は、それでいい。それで、十分だ」
「わたくしは、何も・・・」
「あの子は、君が好きなようだ」
アンヌは、黙った。
「君と、ランディの関係に口を出すつもりはない。ふたりのことは、ふたりで考えればいいし、そうあるべきだと思う。話しておきたかったのは、私の気持ちだ。四月の終わりの、お茶会での様子や、アンソニーの件を考えると、マーガレットが、ランディと君の恋路を妨げているように、思えてね。あの人は、熱心で、一途な性格だ。決して悪い人ではないのだが、時々、感情的なところがあってね」
「マーガレット様が、お優しい方だということは、存じ上げています」
「わかるかね?」
「ベアトリス様の頼みを聞き入れて、わたくしを、お茶会に招いてくださいました。それに、お茶会の折も、みなさまの話の輪に入らないわたくしを気遣って、会話に誘ってくださったのです。・・・結果的に、あのような事態になってしまいましたが」
「それを聞いて、私は、少し安心したよ。つまり・・・、私が、君に何を言いたかったかというと、私に、モーガン家に、異存はないと言うこと。もし、君が、我が家に来てくれるのなら、これほど嬉しいことはない。マーガレットは、最初、反対するかもしれないが、あの人は、人の気持ちの分からない人ではない。きっと、君たちを祝福するだろう」
アンヌは、立ち止まった。
しばらく、言葉は出て来なかった。
ただ、黙って、湖面を見つめ続けていた。
「・・・どうやら、私は、いらぬお節介をしてしまったようだ」
これだから、歳をとると、と、自戒の言葉を口にするヘンリーだった。
「いいえ、そうではないのです。問題は・・・、マーガレット様ではなく、わたくしです」
「君の方?」
「わたくしが、全てを捨てて、故国ユースティティアを離れたのは、離れなくてはならない理由が、あったからです」
「その、理由というのは?」
「お話しできません。お話しできるようなことではないのです。わたくしたちは・・・わたくしは、生涯、決して許されることのない過ちを、犯したのです。どうか、これ以上は、ご容赦ください」
「だから、ランディとは交際できないと?」
「そうです」
しばらく、ヘンリーは、じっと、考え込んだ。
過ち。
この言葉に、ヘンリーは、人並み以上に敏感だった。
何故なら、三十年以上前・・・、正確に言えば、今日、ランドルフが三十一歳を迎え、結婚したのがその七年前だったから、三十八年前、自らの犯した過ちに苦しみ続け、今なお苦しみ続ける人を、娶ったのだったから。
人目がある時の、精力的で、活発なその女性は、決して他人に見せることのない、別の顔を持っていた。
夫であるヘンリーだけは、知っていた。
この三十八年間、ランドルフが生まれた翌日も、足元がおぼつかない高熱の折も、いかなる時も欠かさず、夜明けと共に、私室でひとりひっそり、祈り続けるその姿を。
「ぜひ、君と、話をさせたい人がいるんだが・・・。正確に言うと、君と面識はあるんだが、まだ多分、互いの事を良く知らない。ぜひ、一度、じっくり話した方がいいとは思うんだが・・・、まあ、今は止めておこう。今は、まだその時ではないようだ」
先日、とうとう、ランドルフの外出先を突き止め、怒りの収まらない妻の顔を思い浮かべて、考えを改めたヘンリーだった。
日の傾き加減を見て、そろそろ、戻りましょうと、アンヌは促し、先を歩いた。
その後ろ姿に、ヘンリーはアンヌの背負う苦しみを、見たような気がした。
アンヌ、と、ヘンリーは呼び止め、振り返ったアンヌに、
「最後に、ひとつだけ聞きたい。差し出がましいことは承知で、聞きたい。君は、ランディのことをどう思っている?」
そう、尋ねた。
「・・・どうぞ、お察しください」
アンヌは、憂いを帯びた瞳で、小さく微笑んでそう答え、それからは、帰路につくまで、お互い、何も話さなかった。
そうして、青空の下、勢いよく木々の茂る、美しい夏の湖の、一所に場所を定め、ヘンリーの準備してきたイーゼルに、ボードを置き、絵に取り掛かった。
絵に取り掛かるまでは、社交界や、お互いの農園のことで、話が弾んでいたが、絵に向かい始めると、ふたりともとたんに無口になり、それぞれの作品に、集中した。
そうして、一時間半が過ぎた頃、ヘンリーがようやく自分のボードから顔を上げ、ほうっと、息をついた。
「お疲れでしょう」
そのヘンリーを見て、アンヌも絵筆を置いた。
「最近は、歳を感じるよ。以前は、もっと長い時間でも、集中して描いていられたものだったが、近頃はどうも・・・」
同じ姿勢で、絵に向き合っていたせいで、肩が凝ったらしく、ヘンリーは、右肩を左手で、何度か揉んだ。
「お若いころから、水彩画を?」
「狩りや乗馬というのは、どうも性に合わなくてね。水彩画など、女子供のするものだと、随分、父親には叱られたものだよ。私も若かったから、農園主としての務めさえ、しっかり果たせば、他は何をしても私の自由だろうと、反発した。しかし、長年やっている割には、あまり上手くならない。君の絵を、拝見しても?」
「ええ、もちろんです。ですが、わたくしも、もうずっと以前に描いていただけですので、お見せするほどのものではないと思います」
「失礼」
と、ヘンリーは、アンヌのボードの前に立った。
そうして、ふうむと、唸り、
「全く、私は、自信を失うね。自分の才能のなさを、呪うばかりだ。長い間、描いていない君に、これだけの作品が仕上げられるというのに、長年取り組んでいる私の画は、何と稚拙なことか・・・」
ため息をついた。
拝見します、と、アンヌも、まだ描き残しのあるヘンリーのボードの前に、立った。
ヘンリーは、嘆いていたが、アンヌの見る限り、ヘンリーの画は、構図も、配置も、不自然な点はなく、全体的なバランスは悪くなかった。
問題があるとすれば、やはり、色の方で、透明感のある綺麗な水彩画を描こうとすれば、どう色をにじませていくかが、必要不可欠なのだったが、そのあたりに改善の余地がある様に思えた。
「人にお教えできる身ではないのですが、下塗りの時に、もっと大胆ににじませておくと、一層、透明感が出てくると思います。失敗を恐れず、大胆に、にじませる」
「・・・なるほど。言われてみれば、そうかもしれない。私の周りには、君のように具体的に指摘してくれる者が、なくてね。君は、貴重な存在だ」
「そうは申しましても、この絵は、素敵です。以前に絵を拝見した時にも申し上げましたが、絵から、優しいお人柄が、伺えます。温かみのある、良い絵だと思います。わたくしの絵は、確かに一見、良く描けているように見えるかもしれませんが、それは、ただ技法によるだけで・・・、何かを置き去りにしているようで、あまり、良い絵だとは思えません」
アンヌは自分の絵に、どこか納得できないものがあった。
それは、自分でも知らぬ間に、絵に映し出される、内面的な部分かもしれないと、思った。
「君も、私も、向上心が強い、ということにしておこう」
「本当に」
ヘンリーの言葉に、ふたりで、微笑みを交わした。
そして、絵を描き上げてしまったら、帰る前に、少し湖畔を散歩しようと、ヘンリーはアンヌを誘った。
アンヌは、そのヘンリーの誘いを承諾してから、ごく当たり前の、父と娘とは、こういうものなのだろうか。
ふと、そんな思いがよぎった。
それは、自分には、決して訪れることのなかった、穏やかで温かな時間だった。
アンヌは、夏空を見上げた。
つがいの鳥が、彼方へと飛んで行った。
「私の息子は・・・、ランディは、君の役に立っているかな?」
互いに、絵を描き上げてしまい、並んで、ターホープ・レイクの湖畔を歩き出してすぐ、ヘンリーは、アンヌにそう尋ねた。
「一度、そのことは、きちんとお詫び申し上げなければならないと、思っていました」
「お詫び?何故、詫びなど?望んで行っているのは、ランディの方だ。それぐらいは、私にもわかるよ」
「ですが、モーガン家に、大変なご迷惑をおかけしています。ご子息は、モーガン家の嫡男です。本来なら、モーガン家の農園の、責任者としての務めを果たさなければならない方です。こちらに事情があるとはいえ、その方に、農園を管理していただくなど、あってはならないことだと、恥じ入っております」
「アンヌ・・・、君は知っているのかな?」
「何でしょう?」
「ランディは、五年前に妻を亡くしている」
「存じ上げています」
「それは、ランディが?」
「はい、先日、その心の内を伺って、胸が痛みました」
ヘンリーは、隣を歩くアンヌの横顔を、そっと伺った。
滅多なことでは、自分の哀しみや苦しみを表に出すことのない、ランドルフだった。
それは、きっと、同情されたくないという想いと、周囲への気遣いからに違いなかったが、親としては、それだけに余計、息子が不憫だった。
誰に話すこともなく、じっと、その哀しみを胸の内に秘めているのだと思うと、何とかしてやりたいという想いと、何ともしてやれない想いの狭間で、もどかしさを味わっていたヘンリーだった。
そのランドルフが、アンヌには自分の胸の内をさらけ出したというのだから、ランドルフが、アンヌに心を許しているということが、よく分かった。
「あの子は、妻を・・・、フローレンスを亡くしてから、ずいぶん、笑顔が減った。三十を過ぎた息子に対して、親馬鹿が過ぎると思って、聞いてもらって構わないが、あの子は、優しい子だ。自分が、取り乱せば、私たちが悲しむと知っている。だから、平静を装っている。だけど、親ならわかる。ずっと張り裂けそうな心の痛みと、向き合ってきたのだということが」
その言葉で、アンヌは、ランドルフの哀しみは、ヘンリーの哀しみでもあるのだということを、知った。
「そのランディが、今年の夏は、随分と楽しそうだ。あんなに、楽しそうな息子を見るのは、何年ぶりだろうかと思う。自分の農園を従兄弟たちに任せきりにして、あんなに楽しそうに、いったいどこに行っているのかと、最初は、腹立ち半分、好奇心半分だった。息子の行き先は、君の農園だった」
「モーガン様・・・」
ヘンリーは、敬って、姓で呼ぶアンヌに、ヘンリーだ、アンヌ、私たちは、親友だからねと、悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。
「アンヌ、勘違いしないでほしい。私は、君に感謝しているんだ。君は、息子に、再び笑顔を取り戻してくれた。あの子は、この夏、本当に楽しそうだ。生き生きとして、輝いている。私は、それでいい。それで、十分だ」
「わたくしは、何も・・・」
「あの子は、君が好きなようだ」
アンヌは、黙った。
「君と、ランディの関係に口を出すつもりはない。ふたりのことは、ふたりで考えればいいし、そうあるべきだと思う。話しておきたかったのは、私の気持ちだ。四月の終わりの、お茶会での様子や、アンソニーの件を考えると、マーガレットが、ランディと君の恋路を妨げているように、思えてね。あの人は、熱心で、一途な性格だ。決して悪い人ではないのだが、時々、感情的なところがあってね」
「マーガレット様が、お優しい方だということは、存じ上げています」
「わかるかね?」
「ベアトリス様の頼みを聞き入れて、わたくしを、お茶会に招いてくださいました。それに、お茶会の折も、みなさまの話の輪に入らないわたくしを気遣って、会話に誘ってくださったのです。・・・結果的に、あのような事態になってしまいましたが」
「それを聞いて、私は、少し安心したよ。つまり・・・、私が、君に何を言いたかったかというと、私に、モーガン家に、異存はないと言うこと。もし、君が、我が家に来てくれるのなら、これほど嬉しいことはない。マーガレットは、最初、反対するかもしれないが、あの人は、人の気持ちの分からない人ではない。きっと、君たちを祝福するだろう」
アンヌは、立ち止まった。
しばらく、言葉は出て来なかった。
ただ、黙って、湖面を見つめ続けていた。
「・・・どうやら、私は、いらぬお節介をしてしまったようだ」
これだから、歳をとると、と、自戒の言葉を口にするヘンリーだった。
「いいえ、そうではないのです。問題は・・・、マーガレット様ではなく、わたくしです」
「君の方?」
「わたくしが、全てを捨てて、故国ユースティティアを離れたのは、離れなくてはならない理由が、あったからです」
「その、理由というのは?」
「お話しできません。お話しできるようなことではないのです。わたくしたちは・・・わたくしは、生涯、決して許されることのない過ちを、犯したのです。どうか、これ以上は、ご容赦ください」
「だから、ランディとは交際できないと?」
「そうです」
しばらく、ヘンリーは、じっと、考え込んだ。
過ち。
この言葉に、ヘンリーは、人並み以上に敏感だった。
何故なら、三十年以上前・・・、正確に言えば、今日、ランドルフが三十一歳を迎え、結婚したのがその七年前だったから、三十八年前、自らの犯した過ちに苦しみ続け、今なお苦しみ続ける人を、娶ったのだったから。
人目がある時の、精力的で、活発なその女性は、決して他人に見せることのない、別の顔を持っていた。
夫であるヘンリーだけは、知っていた。
この三十八年間、ランドルフが生まれた翌日も、足元がおぼつかない高熱の折も、いかなる時も欠かさず、夜明けと共に、私室でひとりひっそり、祈り続けるその姿を。
「ぜひ、君と、話をさせたい人がいるんだが・・・。正確に言うと、君と面識はあるんだが、まだ多分、互いの事を良く知らない。ぜひ、一度、じっくり話した方がいいとは思うんだが・・・、まあ、今は止めておこう。今は、まだその時ではないようだ」
先日、とうとう、ランドルフの外出先を突き止め、怒りの収まらない妻の顔を思い浮かべて、考えを改めたヘンリーだった。
日の傾き加減を見て、そろそろ、戻りましょうと、アンヌは促し、先を歩いた。
その後ろ姿に、ヘンリーはアンヌの背負う苦しみを、見たような気がした。
アンヌ、と、ヘンリーは呼び止め、振り返ったアンヌに、
「最後に、ひとつだけ聞きたい。差し出がましいことは承知で、聞きたい。君は、ランディのことをどう思っている?」
そう、尋ねた。
「・・・どうぞ、お察しください」
アンヌは、憂いを帯びた瞳で、小さく微笑んでそう答え、それからは、帰路につくまで、お互い、何も話さなかった。
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