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3.花酔
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昼食を終え、そうして三人でしばらく時間を過ごした後、ランドルフは、セスに、アンヌと少し歩いてくるよと言って、ふたりで、小川の傍の草地を歩き始めた。
太陽の光を浴びて、川面は美しく輝き、せせらぎが、耳に心地良かった。
「さっきは、悪かったね。君にまで、重苦しい気分を味わわせてしまって」
「気にしてはいません。誰にでも、辛い時はあります。家族の死は、誰にとっても辛いものです」
「君も?」
「覚えはあります」
そう、と、ランドルフは、答えて、それ以上は尋ねずに、話題を変えた。
「ふたりは・・・、アンソニーとエマは、君のところで、どうしている?」
アンソニーとエマが、深夜に、モーガン邸を飛び出して、ちょうど、一週間がたとうとしていた。
エマは、元通り、アンヌの農園のハウスメイドとして日々を送り、アンソニーは、今後、農園の経理を担当してもらうため、今アンヌが、少しずつ農園の財務状況を説明し、ふたりで経営状況を確認しているところだった。
モーガン家の経理を担当していただけあって、アンソニーは数字に明るく、一度、書類を確認しただけで、改善点や、付け加えるべき点を、的確に指摘してきた。
指摘されてみれば、なるほどと思うことばかりで、アンヌは、アンソニーの有能さを、改めて思い知ったのだった。
アンソニーは、今、炊事場や手洗いが共同の、使用人の住む建物に、一室を与えられ、農園監督者のオーウェンとふたりで暮らしていた。
自分の部屋があるとはいえ、一軒家を与えられていたモーガン家での暮らしに比べれば、ずいぶん不自由な暮らしに違いなかった。
自分の部屋以外は、農園監督者のオーウェンと共同で使わねばならず、使用人としての待遇は、間違いなく、落ちた。
けれども、今のところ、アンソニーに、何か不満があるようには見えなかった。
一度、何か、不都合はないかアンヌが尋ねてみたが、笑顔で、楽しいです、と答えが返って来た。
それは、一つしか年の違わない、同居人のような存在のオーウェンと、相性がいいことも、大きな理由に違いなかった。
几帳面なアンソニーと、そそっかしいオーウェンでは、全く性格が違ったが、親切で温和な点については、ふたりに共通していることだった。
アンヌは、この一週間の間に、リラックスした表情で、立ち話をするふたりを何度か見けることがあり、このふたりなら、トラブルを起こすこともなく、うまくやっていけそうだと、ほっと安堵していた。
アンソニーとエマについては、ふたりがモーガン家から戻って来た翌日、アンヌは、ふたりを一緒に呼び出して、今後についてのことを、きちんと申し伝えた。
農園が、最も忙しくなる綿花の収穫を終えたら、婚約をすること。
来年の種まきの前、つまり、来年の綿花栽培が始まって、農園が慌ただしくなる前に、ペンナの街の教会で、結婚式を挙げられるように、段取りを進めておくこと。
そして、結婚式までに、農園内に、ふたりの新居となる家を建てるので、そこで新婚生活を始めることとし、エマは今まで通り、アンヌの屋敷で働き、アンソニーには、経理を任せると言う旨を、伝えた。
この、アンヌの申し出に、ふたりは、驚き、そして、その厚意に、胸を熱くした。
けれども、アンヌは、言うべきことも、もちろん、言い忘れなかった。
結婚するまで、エマが、アンソニーの部屋を訪れることも、アンソニーがエマの部屋を訪れることも禁止。
二人が会ってもいいのは、各自の仕事をきちんと終えてから、アンヌの屋敷の前にある大きな樫の木の下で、夜八時から、九時までの一時間ということ。
二週間に一度の公休日は、二人揃えることにするから、公休日には、ペンナの街の教会で婚約、結婚式の段取りをきちんと進め、必ず、暗くなる前に帰ってくること。
アンヌに報告が必要なことは、きちんと、報告すること。
それらを、アンヌはふたりに約束させた。
それは、結婚前の男女の交際に、何かと口うるさい、世間の人々の非難から、エマを守るためでもあった。
アンソニーとエマに、異存はなかった。
むしろ、アンヌの提案が、ふたりの将来を、考えてくれているものであることは、明らかで、エマもアンソニーも、ただただ、有り難いと、アンヌに頭を下げた。
それ以降、夜、八時を迎えると、小さな灯りを手に、屋敷の前で、楽しそうに話すアンソニーとエマを、アンヌはかかさず見かけるようになった。
それは、本当に、幸せそうな恋人同士だった。
エマが、アンソニーと出会ってまだ、ほんの一カ月ほどだったが、随分、表情が豊かになった、とアンヌは思う。
この短期間に、十二年間、一度も見たことのなかったエマの泣き顔や、恋する表情を、幾度となく目にしたアンヌだった。
そして、これまでのエマよりも、ずっと生き生きと輝いていた。
この一週間の経緯を、ランドルフに話し、
「わたくしの眼には、ふたりは今、幸せに満ちているように映ります」
アンヌは、そう締めくくった。
「何よりだ」
ランドルフは、アンヌと並んで歩きながら、木洩れ日に、眼を細めた。
「モーガン家には、大変な迷惑をかけましたが・・・」
「それは、もう言いっこなしだ」
ランドルフは立ち止まると、少々咎めるような眼差しで、アンヌを見つめ、
「ふたりが幸せなら、それでいい」
違うかい、と尋ねるように、アンヌの深い緑色の瞳を覗き込んだ。
「ええ・・・、その通りだと思います」
そう言って、そっと微笑むアンヌだった。
そのアンヌの微笑みを見つめていると、何故かランドルフは、無性に、亡き妻フローレンスのことを、話したくなった。
同情はしない、ただ哀しみに共感すると言うアンヌに、心の内をさらけ出したくなった。
誰にも、一度も、話したことのない本心を。
「フローレンスは・・・、本当に、愛らしくて、優しい妻だった。僕には、もったいないくらいの女性だった」
ランドルフは、静かに話し出した。
「フローレンスは、ペンナの街の貿易商の娘で、僕が二十歳の時、アンダーソン家のパーティーで出会ったんだ。彼女は十七歳で、社交界にデビューしたばかりだった」
ランドルフは、その日の事を、まるで昨日の出来事のように、覚えていた。
「まだ、そういった集いに慣れていなくて、彼女は、母親と、姉の後ろに隠れるようにして、壁際に立っていた。僕には、それが、とても可愛らしく映って、ダンスに誘ったんだ。フローレンスは、はにかみながら、応じてくれた。彼女の指は、震えていて、緊張しているのは、すぐに分かった。彼女は、何度もステップを間違えて、何度も足を踏まれそうになったけど・・・、それは、僕にとって、最高の時間だった」
ランドルフは、その時の気持ちを思い起こし、かみしめるように、眼を閉じた。
「それからは、毎日が、フローレンス、フローレンスだよ。幸運にも、彼女も、僕を望んでくれて、家族の誰もが、僕たちの交際を祝福してくれて・・・、幸せだった。僕は二十三歳で、フローレンスと結婚し、申し分のない新婚生活を送った。自分の農園に、愛する妻を迎えて、後は、一日も早くふたりの子供が生まれることを、僕もフローレンスも、望んでいた。それなのに・・・、フローレンスは、突然、吐血したんだ」
「吐血・・・」
「フローレンスは、吐血するその少し前から、時々、胃のあたりが痛くて、あまり食欲がないって言っていたんだ。もしかしたら、赤ちゃんが出来たのかもしれないって、ふたりで喜んで、もう少ししたら、一度、医者と産婆を呼ぼうって、言っていたところだった。まさか、病気だなんて思いもしなかった。・・・それから、亡くなるまでは二カ月もなかった」
ランドルフは、アンヌから視線を逸らすと、小川の傍に、腰を下ろして、川に向かって、小石を投げ込んだ。
小石は、チャポンと小さな音を立てて沈み、再び何事もなかったかのように、せせらぎが続いた。
アンヌも、ランドルフの斜め後ろに、そっと腰を下ろした。
「あの時、もっと早くに医者に見せていれば、フローレンスは助かったのかもしれないと思う。僕が呑気に浮かれる前に、一度ちゃんと医者に見せていればという後悔は、フローレンスが亡くなって、五年が経っても消えない。みんなは、僕のせいじゃないって言うけれど、この罪悪感は多分、一生消えない・・・」
大きなはずのランドルフの背中が、その時、アンヌには、小さく映った。
ランドルフは、一度、アンヌを振り返り、また、視線を川に向けると、
「フローレンスは、亡くなる前、もう自分が長くないことを、分かっていた。もう僕とは、一緒に過ごせないって。だから、僕に、自分が亡くなったら、再婚しろって、言った。素敵な人を見つけて、再婚して、必ず、幸せになってほしいって、痩せ細った身体で、涙をぽろぽろ流しながら、そう言うんだ。可哀想だよ。僕は今でも、フローレンスが可哀想でたまらないんだ」
穏やかに、そう話したが、淡々と話す分、哀しみの深さが伝わった。
「たった二年の結婚生活だったし、もう五年も経ったんだから、そろそろ、フローレンスのことは忘れて、新しい妻を迎えたらどうかと、時々、人に言われる。僕も、そうした方がいいのは、良く分かっている。自分にとっても、両親にとっても、モーガン家の跡取りとして、相応しい相手を見つけて、跡継ぎが生まれて、今度こそ、幸せな家庭を築くことが出来たら、誰もが幸せになれることは、よくわかっているんだ。でも、僕は、フローレンスを忘れることは、一生できない。フローレンスを忘れることのできない僕に、再婚なんて、できるはずがない。それは、相手に対しても、失礼だ」
大きな羽音を立てて、鳥が、飛び立っていった。
しばらくの沈黙の後、
「忘れる必要は、ないのだと思います」
アンヌは、そう口を開いた。
「奥様を、忘れる必要はないのだと思います」
「アンヌ・・・」
「奥様のことは、忘れずに、ずっと心にとどめて良いのだと思います。あなたが、奥様を思い出すとき、奥様はいつもあなたに寄り添っているのです。そうして、奥様は、あなたを励ましてくれているのです。奥様の身体は、もうこの世にはありませんが、奥様の心は、いつも、あなたと共にあります。わたくしは、あなたの心の中に住む奥様も一緒に、愛してくれる人が、現れるよう、祈ります」
深い哀しみを経験する、濃緑の瞳は、人の哀しみに対して、どこまでも思いやりが深く、優しかった。
「ひとつ、尋ねてもいいかな?」
「何でしょう?」
「さっき、家族の死は、誰にとっても辛いものだと、君は言った。身に覚えがあると。それは?」
アンヌは、眼を閉じた。
優しいその面影が、瞼に懐かしく、浮かんだ。
「アンヌ、行くのです。あなたは、行かなくてはいけません。そして、後ろを振り返ってはいけません。決して、後ろを振り返らずにお行きなさい。いいですね。わたくしとの、約束ですよ」
それは、アンヌを守るために、夫であるラングラン公爵を撃ち、共に逝った母、フランセットの最期の言葉だった。
「母です」
「母上?」
「様々な事情があって・・・、母とは、母娘らしい関係を持つことが出来ませんでした。けれども、母が最期に残してくれた言葉は、辛い時、哀しい時、いつもわたくしを励ましてくれます。それは、何よりも心強く、わたくしを勇気づけてくれます。・・・あなたもわたくしの母ように、きっと奥様が、励まし続けてくれます。あなたは、亡くなった奥様に、恥じないように、生きなくてはなりませんね」
そう言って、アンヌは唇の端をそっと上げて、穏やかな微笑みを浮かべた。
アンヌの言葉は、ランドルフの心に染み入り、その哀しみを、癒した。
アンヌの座るすぐ傍らには、夏の訪れを告げる、ガーデニアの花が、その高貴な白い花びらを幾重にもして、咲き誇り、鼻をくすぐる甘い香りを、辺りに放った。
それは、ランドルフが、初めてアンヌと出会った、アンダーソン邸での夜、アンヌが身に纏っていた香りでもあった。
今、立ち込めるガーデニアの強く甘い香りは、強さと優しさを兼ね備える、アンヌそのものだった。
ガーデニアの凛とした美しさは、アンヌ自身だった。
木洩れ日の下、気高いガーデニアの傍で、静かに微笑む気品あふれる女性は、ランドルフの眼に、絵画のようにも映り、この瞬間を切り取って、ずっと手元で慈しみたいような気持になった。
そして、ランドルフは、確信した。
目の前にいる、激しい一面を持ちながらも、賢明で深い思いやりを持つ、気品溢れる美しい女性に、自分は、恋をしたのだと。
セスの農家に戻り、しばらくとりとめのない話をした後、ランドルフとアンヌは帰路についた。
ここでいいから、というランドルフの言葉を聞き入れず、セスは、ランドルフの荷馬車の荷台に乗って、村のはずれまで見送りに来た。
そうして、荷台から降りると、瞳に涙を浮かべながら、何度も何度もランドルフに頭を下げて、感謝を告げ、ランドルフとアンヌが、視界から見えなくなるまで、ずっと手を振って、見送り続けた。
一年で、最も、昼の時間が長くなる六月のこの時期、八時を過ぎるまで日は落ちず、六時前に、ふたりがアンヌの屋敷に帰り着いた時、まだ空は明るく、奴隷たちは農園で農作業の最中だった。
先に馬車から降りたランドルフは、アンヌに手を貸し、降りるのを手伝い、
「今日は、楽しかった」
と、その鳶色の眼差しをアンヌに向けて、微笑んだ。
「お役に立てたのなら、何よりです」
アンヌは、冷たくそう答えた。
敏感なアンヌは、二人の間に生まれ来る感情に、警戒していた。
「私も、楽しかったとは、言ってもらえない?」
アンヌは、それに、答えなかった。
束の間の沈黙の後、アンヌは、ごきげんよう、と挨拶をして、ランドルフに背を向けた。
「アンヌ」
呼び止められて、振り返ったアンヌに、
「アンヌ、僕と、付き合ってくれないか?」
ランドルフは、そう告げた。
「僕は、君に惹かれている。・・・君が好きだ」
「お断りします」
アンヌの返答は、いささかの余地もなく、素っ気なかった。
「亡き妻に想いを残す、女々しい男とは、付き合えない?それとも、他に理由が?」
「ランドルフ様、これだけは、はっきり言っておきます」
と、アンヌは、ランドルフに向き直った。
「わたくしは、どなたとも、決して、交際することはありません」
「何故、そう決めつけるんだ?その頑な態度の、理由を知りたい」
「理由はお話しできません。私たちは・・・、隣人です。必要な時に、協力し合える、良き隣人です。それ以上でも、以下でもありません」
その言葉は、アンヌが自分自身に言い聞かせているようにも、聞こえた。
「アンヌ・・・」
「失礼します」
先刻の、ガーデニアの花の傍での、柔らかな表情とは打って変わって、誰も寄せ付けないような硬い表情でそう言うと、アンヌは踵を返した。
と、そこへ、アンヌ様、と大声で叫ぶ声が響いた。
アンヌが、その声のする方を振り返ると、広大な綿花畑の方向から、リーダー格の奴隷、ディエゴが、慌てた様子で走って来た。
「どうかしましたか?何があったのですか?」
「スミスさんが・・・」
ディエゴは、ゼイゼイと、息を切らせた。
「オーウェン?」
オーウェン・スミスは、アンヌの農園の農園監督者だった。
「今、オーウェンさんが・・・、落馬して、腰を強くうって、動けなくなってしまったんです」
アンヌは、ランドルフと共に、駆けだした。
太陽の光を浴びて、川面は美しく輝き、せせらぎが、耳に心地良かった。
「さっきは、悪かったね。君にまで、重苦しい気分を味わわせてしまって」
「気にしてはいません。誰にでも、辛い時はあります。家族の死は、誰にとっても辛いものです」
「君も?」
「覚えはあります」
そう、と、ランドルフは、答えて、それ以上は尋ねずに、話題を変えた。
「ふたりは・・・、アンソニーとエマは、君のところで、どうしている?」
アンソニーとエマが、深夜に、モーガン邸を飛び出して、ちょうど、一週間がたとうとしていた。
エマは、元通り、アンヌの農園のハウスメイドとして日々を送り、アンソニーは、今後、農園の経理を担当してもらうため、今アンヌが、少しずつ農園の財務状況を説明し、ふたりで経営状況を確認しているところだった。
モーガン家の経理を担当していただけあって、アンソニーは数字に明るく、一度、書類を確認しただけで、改善点や、付け加えるべき点を、的確に指摘してきた。
指摘されてみれば、なるほどと思うことばかりで、アンヌは、アンソニーの有能さを、改めて思い知ったのだった。
アンソニーは、今、炊事場や手洗いが共同の、使用人の住む建物に、一室を与えられ、農園監督者のオーウェンとふたりで暮らしていた。
自分の部屋があるとはいえ、一軒家を与えられていたモーガン家での暮らしに比べれば、ずいぶん不自由な暮らしに違いなかった。
自分の部屋以外は、農園監督者のオーウェンと共同で使わねばならず、使用人としての待遇は、間違いなく、落ちた。
けれども、今のところ、アンソニーに、何か不満があるようには見えなかった。
一度、何か、不都合はないかアンヌが尋ねてみたが、笑顔で、楽しいです、と答えが返って来た。
それは、一つしか年の違わない、同居人のような存在のオーウェンと、相性がいいことも、大きな理由に違いなかった。
几帳面なアンソニーと、そそっかしいオーウェンでは、全く性格が違ったが、親切で温和な点については、ふたりに共通していることだった。
アンヌは、この一週間の間に、リラックスした表情で、立ち話をするふたりを何度か見けることがあり、このふたりなら、トラブルを起こすこともなく、うまくやっていけそうだと、ほっと安堵していた。
アンソニーとエマについては、ふたりがモーガン家から戻って来た翌日、アンヌは、ふたりを一緒に呼び出して、今後についてのことを、きちんと申し伝えた。
農園が、最も忙しくなる綿花の収穫を終えたら、婚約をすること。
来年の種まきの前、つまり、来年の綿花栽培が始まって、農園が慌ただしくなる前に、ペンナの街の教会で、結婚式を挙げられるように、段取りを進めておくこと。
そして、結婚式までに、農園内に、ふたりの新居となる家を建てるので、そこで新婚生活を始めることとし、エマは今まで通り、アンヌの屋敷で働き、アンソニーには、経理を任せると言う旨を、伝えた。
この、アンヌの申し出に、ふたりは、驚き、そして、その厚意に、胸を熱くした。
けれども、アンヌは、言うべきことも、もちろん、言い忘れなかった。
結婚するまで、エマが、アンソニーの部屋を訪れることも、アンソニーがエマの部屋を訪れることも禁止。
二人が会ってもいいのは、各自の仕事をきちんと終えてから、アンヌの屋敷の前にある大きな樫の木の下で、夜八時から、九時までの一時間ということ。
二週間に一度の公休日は、二人揃えることにするから、公休日には、ペンナの街の教会で婚約、結婚式の段取りをきちんと進め、必ず、暗くなる前に帰ってくること。
アンヌに報告が必要なことは、きちんと、報告すること。
それらを、アンヌはふたりに約束させた。
それは、結婚前の男女の交際に、何かと口うるさい、世間の人々の非難から、エマを守るためでもあった。
アンソニーとエマに、異存はなかった。
むしろ、アンヌの提案が、ふたりの将来を、考えてくれているものであることは、明らかで、エマもアンソニーも、ただただ、有り難いと、アンヌに頭を下げた。
それ以降、夜、八時を迎えると、小さな灯りを手に、屋敷の前で、楽しそうに話すアンソニーとエマを、アンヌはかかさず見かけるようになった。
それは、本当に、幸せそうな恋人同士だった。
エマが、アンソニーと出会ってまだ、ほんの一カ月ほどだったが、随分、表情が豊かになった、とアンヌは思う。
この短期間に、十二年間、一度も見たことのなかったエマの泣き顔や、恋する表情を、幾度となく目にしたアンヌだった。
そして、これまでのエマよりも、ずっと生き生きと輝いていた。
この一週間の経緯を、ランドルフに話し、
「わたくしの眼には、ふたりは今、幸せに満ちているように映ります」
アンヌは、そう締めくくった。
「何よりだ」
ランドルフは、アンヌと並んで歩きながら、木洩れ日に、眼を細めた。
「モーガン家には、大変な迷惑をかけましたが・・・」
「それは、もう言いっこなしだ」
ランドルフは立ち止まると、少々咎めるような眼差しで、アンヌを見つめ、
「ふたりが幸せなら、それでいい」
違うかい、と尋ねるように、アンヌの深い緑色の瞳を覗き込んだ。
「ええ・・・、その通りだと思います」
そう言って、そっと微笑むアンヌだった。
そのアンヌの微笑みを見つめていると、何故かランドルフは、無性に、亡き妻フローレンスのことを、話したくなった。
同情はしない、ただ哀しみに共感すると言うアンヌに、心の内をさらけ出したくなった。
誰にも、一度も、話したことのない本心を。
「フローレンスは・・・、本当に、愛らしくて、優しい妻だった。僕には、もったいないくらいの女性だった」
ランドルフは、静かに話し出した。
「フローレンスは、ペンナの街の貿易商の娘で、僕が二十歳の時、アンダーソン家のパーティーで出会ったんだ。彼女は十七歳で、社交界にデビューしたばかりだった」
ランドルフは、その日の事を、まるで昨日の出来事のように、覚えていた。
「まだ、そういった集いに慣れていなくて、彼女は、母親と、姉の後ろに隠れるようにして、壁際に立っていた。僕には、それが、とても可愛らしく映って、ダンスに誘ったんだ。フローレンスは、はにかみながら、応じてくれた。彼女の指は、震えていて、緊張しているのは、すぐに分かった。彼女は、何度もステップを間違えて、何度も足を踏まれそうになったけど・・・、それは、僕にとって、最高の時間だった」
ランドルフは、その時の気持ちを思い起こし、かみしめるように、眼を閉じた。
「それからは、毎日が、フローレンス、フローレンスだよ。幸運にも、彼女も、僕を望んでくれて、家族の誰もが、僕たちの交際を祝福してくれて・・・、幸せだった。僕は二十三歳で、フローレンスと結婚し、申し分のない新婚生活を送った。自分の農園に、愛する妻を迎えて、後は、一日も早くふたりの子供が生まれることを、僕もフローレンスも、望んでいた。それなのに・・・、フローレンスは、突然、吐血したんだ」
「吐血・・・」
「フローレンスは、吐血するその少し前から、時々、胃のあたりが痛くて、あまり食欲がないって言っていたんだ。もしかしたら、赤ちゃんが出来たのかもしれないって、ふたりで喜んで、もう少ししたら、一度、医者と産婆を呼ぼうって、言っていたところだった。まさか、病気だなんて思いもしなかった。・・・それから、亡くなるまでは二カ月もなかった」
ランドルフは、アンヌから視線を逸らすと、小川の傍に、腰を下ろして、川に向かって、小石を投げ込んだ。
小石は、チャポンと小さな音を立てて沈み、再び何事もなかったかのように、せせらぎが続いた。
アンヌも、ランドルフの斜め後ろに、そっと腰を下ろした。
「あの時、もっと早くに医者に見せていれば、フローレンスは助かったのかもしれないと思う。僕が呑気に浮かれる前に、一度ちゃんと医者に見せていればという後悔は、フローレンスが亡くなって、五年が経っても消えない。みんなは、僕のせいじゃないって言うけれど、この罪悪感は多分、一生消えない・・・」
大きなはずのランドルフの背中が、その時、アンヌには、小さく映った。
ランドルフは、一度、アンヌを振り返り、また、視線を川に向けると、
「フローレンスは、亡くなる前、もう自分が長くないことを、分かっていた。もう僕とは、一緒に過ごせないって。だから、僕に、自分が亡くなったら、再婚しろって、言った。素敵な人を見つけて、再婚して、必ず、幸せになってほしいって、痩せ細った身体で、涙をぽろぽろ流しながら、そう言うんだ。可哀想だよ。僕は今でも、フローレンスが可哀想でたまらないんだ」
穏やかに、そう話したが、淡々と話す分、哀しみの深さが伝わった。
「たった二年の結婚生活だったし、もう五年も経ったんだから、そろそろ、フローレンスのことは忘れて、新しい妻を迎えたらどうかと、時々、人に言われる。僕も、そうした方がいいのは、良く分かっている。自分にとっても、両親にとっても、モーガン家の跡取りとして、相応しい相手を見つけて、跡継ぎが生まれて、今度こそ、幸せな家庭を築くことが出来たら、誰もが幸せになれることは、よくわかっているんだ。でも、僕は、フローレンスを忘れることは、一生できない。フローレンスを忘れることのできない僕に、再婚なんて、できるはずがない。それは、相手に対しても、失礼だ」
大きな羽音を立てて、鳥が、飛び立っていった。
しばらくの沈黙の後、
「忘れる必要は、ないのだと思います」
アンヌは、そう口を開いた。
「奥様を、忘れる必要はないのだと思います」
「アンヌ・・・」
「奥様のことは、忘れずに、ずっと心にとどめて良いのだと思います。あなたが、奥様を思い出すとき、奥様はいつもあなたに寄り添っているのです。そうして、奥様は、あなたを励ましてくれているのです。奥様の身体は、もうこの世にはありませんが、奥様の心は、いつも、あなたと共にあります。わたくしは、あなたの心の中に住む奥様も一緒に、愛してくれる人が、現れるよう、祈ります」
深い哀しみを経験する、濃緑の瞳は、人の哀しみに対して、どこまでも思いやりが深く、優しかった。
「ひとつ、尋ねてもいいかな?」
「何でしょう?」
「さっき、家族の死は、誰にとっても辛いものだと、君は言った。身に覚えがあると。それは?」
アンヌは、眼を閉じた。
優しいその面影が、瞼に懐かしく、浮かんだ。
「アンヌ、行くのです。あなたは、行かなくてはいけません。そして、後ろを振り返ってはいけません。決して、後ろを振り返らずにお行きなさい。いいですね。わたくしとの、約束ですよ」
それは、アンヌを守るために、夫であるラングラン公爵を撃ち、共に逝った母、フランセットの最期の言葉だった。
「母です」
「母上?」
「様々な事情があって・・・、母とは、母娘らしい関係を持つことが出来ませんでした。けれども、母が最期に残してくれた言葉は、辛い時、哀しい時、いつもわたくしを励ましてくれます。それは、何よりも心強く、わたくしを勇気づけてくれます。・・・あなたもわたくしの母ように、きっと奥様が、励まし続けてくれます。あなたは、亡くなった奥様に、恥じないように、生きなくてはなりませんね」
そう言って、アンヌは唇の端をそっと上げて、穏やかな微笑みを浮かべた。
アンヌの言葉は、ランドルフの心に染み入り、その哀しみを、癒した。
アンヌの座るすぐ傍らには、夏の訪れを告げる、ガーデニアの花が、その高貴な白い花びらを幾重にもして、咲き誇り、鼻をくすぐる甘い香りを、辺りに放った。
それは、ランドルフが、初めてアンヌと出会った、アンダーソン邸での夜、アンヌが身に纏っていた香りでもあった。
今、立ち込めるガーデニアの強く甘い香りは、強さと優しさを兼ね備える、アンヌそのものだった。
ガーデニアの凛とした美しさは、アンヌ自身だった。
木洩れ日の下、気高いガーデニアの傍で、静かに微笑む気品あふれる女性は、ランドルフの眼に、絵画のようにも映り、この瞬間を切り取って、ずっと手元で慈しみたいような気持になった。
そして、ランドルフは、確信した。
目の前にいる、激しい一面を持ちながらも、賢明で深い思いやりを持つ、気品溢れる美しい女性に、自分は、恋をしたのだと。
セスの農家に戻り、しばらくとりとめのない話をした後、ランドルフとアンヌは帰路についた。
ここでいいから、というランドルフの言葉を聞き入れず、セスは、ランドルフの荷馬車の荷台に乗って、村のはずれまで見送りに来た。
そうして、荷台から降りると、瞳に涙を浮かべながら、何度も何度もランドルフに頭を下げて、感謝を告げ、ランドルフとアンヌが、視界から見えなくなるまで、ずっと手を振って、見送り続けた。
一年で、最も、昼の時間が長くなる六月のこの時期、八時を過ぎるまで日は落ちず、六時前に、ふたりがアンヌの屋敷に帰り着いた時、まだ空は明るく、奴隷たちは農園で農作業の最中だった。
先に馬車から降りたランドルフは、アンヌに手を貸し、降りるのを手伝い、
「今日は、楽しかった」
と、その鳶色の眼差しをアンヌに向けて、微笑んだ。
「お役に立てたのなら、何よりです」
アンヌは、冷たくそう答えた。
敏感なアンヌは、二人の間に生まれ来る感情に、警戒していた。
「私も、楽しかったとは、言ってもらえない?」
アンヌは、それに、答えなかった。
束の間の沈黙の後、アンヌは、ごきげんよう、と挨拶をして、ランドルフに背を向けた。
「アンヌ」
呼び止められて、振り返ったアンヌに、
「アンヌ、僕と、付き合ってくれないか?」
ランドルフは、そう告げた。
「僕は、君に惹かれている。・・・君が好きだ」
「お断りします」
アンヌの返答は、いささかの余地もなく、素っ気なかった。
「亡き妻に想いを残す、女々しい男とは、付き合えない?それとも、他に理由が?」
「ランドルフ様、これだけは、はっきり言っておきます」
と、アンヌは、ランドルフに向き直った。
「わたくしは、どなたとも、決して、交際することはありません」
「何故、そう決めつけるんだ?その頑な態度の、理由を知りたい」
「理由はお話しできません。私たちは・・・、隣人です。必要な時に、協力し合える、良き隣人です。それ以上でも、以下でもありません」
その言葉は、アンヌが自分自身に言い聞かせているようにも、聞こえた。
「アンヌ・・・」
「失礼します」
先刻の、ガーデニアの花の傍での、柔らかな表情とは打って変わって、誰も寄せ付けないような硬い表情でそう言うと、アンヌは踵を返した。
と、そこへ、アンヌ様、と大声で叫ぶ声が響いた。
アンヌが、その声のする方を振り返ると、広大な綿花畑の方向から、リーダー格の奴隷、ディエゴが、慌てた様子で走って来た。
「どうかしましたか?何があったのですか?」
「スミスさんが・・・」
ディエゴは、ゼイゼイと、息を切らせた。
「オーウェン?」
オーウェン・スミスは、アンヌの農園の農園監督者だった。
「今、オーウェンさんが・・・、落馬して、腰を強くうって、動けなくなってしまったんです」
アンヌは、ランドルフと共に、駆けだした。
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