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2.エマの縁談
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エマにとって、四度目の逢瀬となる、六月に入って、二度目の金曜日の夜、アンヌは、二階の書斎から、暗闇の中、小さな灯を手に、木立に向かって小走りになるエマの姿を、見つめていた。
ここ一カ月のエマの変化に、アンヌが気付かないはずは、なかった。
窓辺から離れて、アンヌは、これからどうしたものかと、息をついた。
ふたりが、愛し合うようになったのは、いいことだと、アンヌは思った。
エマが、満ち足りた時間を過ごしていることを、祝福しているアンヌだった。
けれども、このままで、いいはずがなかった。
夜、人目を忍んで、ふたりきりの時間を過ごしていることで、煩いアウラの人々から、エマがどういった非難を浴びることになるかは、すぐに予想がついた。
だから、早いうちに、アンヌは、エマとアンソニーの関係を、公にしなければならないだろうと思った。
つまりそれは、婚約、結婚と、話を進めていくということだった。
前回、エマに結婚の話を持ち掛けた時、エマは、結婚は嫌だと言った。
一生、アンヌに仕えることが、自分の望みだと言った。
もう一度、アンソニーとの結婚を促したら、今度は、受け入れるだろうか。
早いうちに、エマともう一度、話し合わなくては。
アンヌは、そう考えていた。
すると、翌日の夕刻、ランドルフが、やって来た。
ランドルフは、アンヌを散歩に誘った。
それは、屋敷で話すには、都合の悪い、つまり、エマには聞かれたくない話があるからに、違いなかった。
ふたりは、農園の周りを歩いた。
道端には、濃いピンク色のユウゲショウの花が咲き、ふたりの訪れを歓迎するかのように、風に揺れた。
農園では、五月の初旬に撒いた綿花の種から芽が出た後、間引きをし、肥料を与え、綿花は三十センチほどの背丈にまで伸びて来ていた。
「相談があります」
歩き出してすぐ、アンヌはそう切り出した。
「多分君の相談と、僕の話は、同じだと思う」
「エマの件です」
「予想通りだ」
アンヌは、この一カ月、アンソニーとエマが、金曜日の夜、人目を忍んで会い続けていることを話し、このままこういったことが続くのは、エマにとってはよろしくないし、エマの年齢を考えると、結婚は少しでも早い方がいいと思うので、話を進めていきたいということ、エマには、よく言って聞かせると言うことを、伝えた。
一方、ランドルフの方も、ふたりが、金曜日の夜に、逢瀬を重ねているということを、すでに知っていた。
毎週、金曜日の夜になると、アンソニーが人目につかないように、そっと出かける姿に気づくと、なにかある、ということはすぐに分かった。
ランドルフが問うと、アンソニーは、ランドルフに黙って、馬を私事に使ったことを謝罪しつつ、エマに会いに行っていることを、認めた。
ランドルフは、別段、何も咎める気はなかった。
むしろ、よかったな、と声をかけ、アンソニーを励ました。
ランドルフはアンソニーの恋が実ったことを、素直に喜んでいた。
ただ、厄介なことは、それを、マーガレットに気づかれてしまったということだった。
アンソニーは、モーガン家の経理を任されていた。
アンソニーの叔父が、長く、誠実に、モーガン家に仕えたこともあって、モーガン家の人々と、アンソニーの信頼関係は深く、本人も、モーガン家の人々も、これからもずっと、アンソニーが、モーガン家で働くことを望んでいた。
だから、モーガン家では、アンソニーという使用人を大切に扱い、他の使用人に比べて、ずいぶんと待遇が良かった。
使用人の住まいとなる建物に、小さな部屋をひとつ与えられる他の使用人に比べ、アンソニーの叔父は、モーガン家の農園内に一軒家を与えられ、アンソニーが、モーガン家で働くようになってからは、その一軒家で叔父と一緒に暮らした。
叔父が亡くなってからは、その一軒家にひとりで暮らしていたため、アンソニーが妻を娶るということになれば、今住んでいる家に、妻を迎えることになった。
つまり、アンソニーが結婚したならば、夫婦で、モーガン家に仕える必要があった。
そして、アンソニーが、モーガン家の資金を扱う仕事柄、その妻となる女も、信頼に足る人物でなければいけなかった。
故に、アンソニーの結婚相手は、誰でもいいと言う訳に行かず、主人であるモーガン家が、認めなければならなかった。
金曜日の夜の外出の目的を知ったマーガレットは、当然、その相手が誰なのかを知りたがった。
アンソニーから、相手が、アンヌの農園の使用人、エマだと告げられた時、マーガレットは、あからさまに難色を示した。
よりにもよって、アウラの社交界で疎んじられている、アンヌの農園の使用人とは、と。
助け船を出したのは、ランドルフだった。
エマが、真面目で、働き者だということ。
アンソニーと夫婦になれば、モーガン家の農園にとって、頼もしい働き手になるであろうことを、説いた。
アンソニーの熱意とランドルフの援護で、渋々ながらも、マーガレットは、二人の交際、そして、結婚を認めた。
ただし、それには条件があった。
それは、エマが、近々、アンヌの農園を出て、モーガン家に仕える、ということだった。
マーガレットは、アンヌの農園と関わりを持ちたくなかった。
だから、少しでも早いうちに、エマをアンヌの農園と切り離して、モーガン家の使用人として働かせたかった。
それに、モーガン家の経理を担当する、アンソニーの妻になるのだから、その人柄が、その立場に相応しいかどうか、マーガレットは、自分の眼で確かめようとしていた。
「随分、急な話ではあると思うんだが・・・」
ランドルフからの話を聞いて、アンヌは、そんな話になっていようとは、と、少々驚いた。
けれども、これは、いい機会なのだと、思った。
エマにとって、普通の、ごくありきたりの、女としての幸せをつかむ、最後のチャンスかもしれない。
エマの背を押してやるのも、わたくしの役目なのだ、と思った。
「話は、わかりました。すぐに、エマを、連れて行ってください」
「今日?これから?」
驚いたのは、ランドルフの方だった。
「こういったことは、少しでも早い方がいいのです。迷い始めると、歩み出せなくなってしまいます。あれこれ考えて、決心が、鈍ってはいけません」
ランドルフは、それは、エマの決心か、君の決心か、どちらかと尋ねようとして、止めた。
ユースティティアから、一緒に海を渡ったエマの新たな旅立ちに、アンヌが何の感慨も抱かないはずはない、と思ったからだった。
アンヌとランドルフは、屋敷に戻ると、応接間にエマを呼び、事情を話した。
そして、アンヌは、荷物をまとめなさいと、静かに告げた。
「アンヌ様・・・、私、アンヌ様のお傍を離れません。アンソニーとは・・・、別れます。もう二度と、会ったりしません。お約束します」
エマの頬は、蒼白で、唇はかすかに震えていた。
「今更、何を言っているのです。あなたは、アンソニーと結婚し、これからはモーガン家に仕えるのです」
「アンヌ様!」
「エマ、これは、主人たる、わたくしの命令です。荷物をまとめなさい。運びきれないものは、後日、改めて届けさせます」
「アンヌ様、どうか・・・」
「いいえ、もう決まったことです。もう一度だけ、言います。エマ、馬車を出しますから、荷物をまとめて、ランドルフ様と一緒にモーガン家へ行きなさい。これは、わたくしの命令です」
アンヌは、きっぱりと、そう告げた。
エマは、どう嘆願したところで、アンヌの気持ちが変わることはないのだと知って、絶望に追いやられた。
モーガン家へ行き、アンソニーとの幸せな将来を思い描くことは、できなかった。
明るい未来より、見知らぬ場所で、見知らぬ人々に仕える不安の方が、格段に大きかった。
けれども、もうここには、自分の居場所がないということ、それだけは、確かだった。
エマは、蒼白なまま、馬車に乗り込んだ。
傍らには、馬上のランドルフがいた。
「あちらでも、あなたがこれまでわたくしに尽くしてくれたように、誠心誠意、奉公しなさい。あなたなら、きっと、できます。それに、あなたは、もうひとりではないのですから。アンソニーという伴侶を持つのです。わたくしは、いつもあなたの幸せを、願っています。結婚式の日取りが決まったら、知らせなさい。必ず出席しますから」
アンヌは、そう言って、馬車に乗り込んだエマを、励ました。
本当なら、ここをあなたの実家だと思って、どうしても辛抱できないことがあったときは、帰って来なさい、と言ってやりたかった。
けれども、それは、エマの門出にふさわしくない言葉だと思って、のみ込んだ。
自分には帰る場所があると思うと、エマはそれに甘えてしまうかもしれない。
かつて自分がユースティティアを離れた時のように、退路を断てば、苦しいことも、辛いことも、逃げずに乗り越えていくしかないと、前をむくはず。
それは、アンヌらしい思いやりだった。
初めて会った時から、十二年、良い時も悪い時も、エマは、アンヌに尽くし続けた。
そのエマが、花嫁となるために、自分の傍を離れていくのだと思えば、万感の想いがあった。
「エマ、幸せになりなさい。きっと幸せになるのですよ。わたくしとの約束です」
「アンヌ様・・・」
アンヌは、潤む瞳のエマの手に、励ますように手を重ねた後、行きなさい、と、馬車の手綱を握る奴隷に、命じた。
アンヌは、ランドルフに伴われたエマの馬車が、視界から見えなくなるまで、ずっと、見守り続けた。
その夜、アンヌは中々寝付けなかった。
十二年間、アンヌに尽くし続けたエマとの思い出が、繰り返し心によみがえった。
ミラージュ、そして父ラングラン公爵の存在故に、アンヌは、母フランセットや、姉クリスティーヌに、家族らしい親愛の情を抱くことは出来なかった。
けれども、長くアンヌに仕え、尽くしてくれたエマとは、家族のような・・・、家族以上の絆があった。
そのエマが、幸せになるために、今日、自分の元を旅立った。
どこかほっとする気持ちと、そして、寂しさが、アンヌの心に沸き上がっていた。
と、その時、アンヌの耳に、小さな話し声が届いた。
アンヌは、ベッドから身体を起こした。
こんな時間に、一体、誰が・・・。
屋敷の中には、アンヌと、エマが使っていた使用人部屋を、今晩から使うことになった、ハウスメイドのポリーがいるだけだった。
暗闇の中、目を凝らして時刻を確認すると、夜中の一時だった。
アンヌは、枕もとのキャビネットから、ピストルを取り出し、弾を詰めた。
万一の時は、身を守る必要があった。
アンヌは、そっと寝室を抜け出して、階下へ降りた。
ポリーは眠っていて、不審者に気づいていないのか、部屋から出て来なかった。
アンヌは、ピストルを手に、玄関へと向かう。
扉に耳を寄せると、土を踏みしめる足音が聞こえた。
アンヌは、玄関のドアに向けて、ピストルを構えると、
「今すぐ、立ち去りなさい!立ち去らなければ、撃ちます!」
外にいる不審者に向けて、大声で怒鳴った。
一瞬の後、
「アンヌ様・・・」
聞き覚えのある声が、ドアの向こうから聞こえた。
まさか、と思いつつ、アンヌは、かんぬきを外した。
灯りと、小さな荷物を抱えたエマが、立っていた。
アンヌの顔を見るなり、エマは、耐えていた感情が一気にあふれ出したのか、嗚咽を始めた。
「どうして、ここに・・・」
馬の気配は、なかった。
アンヌは、モーガン邸から馬で三十分の道のりを、一体何時間歩いて、ここまで戻って来だろうと、考えずにはいられなかった。
「アンヌ様、何度も、何度も考えたのですが・・・、私、やっぱりモーガン家には、仕えられません」
小さな子供のように、エマは、何度もしゃくりを上げた。
それは、アンヌが今まで見たことのない、エマの取り乱した姿だった。
「それでは、アンソニーは、どうするのですか?」
そのアンヌの問いかけに、エマは、そっと指さした。
エマの指さした方を見ると、アンソニーが立っていた。
アンソニーは、アンヌに向かって、神妙に頭を下げた。
アンヌは、寝間着姿だったが、今、そんなことを気にしてはいられなかった。
「つまり・・・、あなたがたは、こちらで、暮らしたい、と?」
エマは頷き、アンソニーは、はい、と呟いた。
アンヌは、眼を閉じた。
マーガレット・モーガンの怒りに満ちた顔が、思い浮かんだ。
ここ一カ月のエマの変化に、アンヌが気付かないはずは、なかった。
窓辺から離れて、アンヌは、これからどうしたものかと、息をついた。
ふたりが、愛し合うようになったのは、いいことだと、アンヌは思った。
エマが、満ち足りた時間を過ごしていることを、祝福しているアンヌだった。
けれども、このままで、いいはずがなかった。
夜、人目を忍んで、ふたりきりの時間を過ごしていることで、煩いアウラの人々から、エマがどういった非難を浴びることになるかは、すぐに予想がついた。
だから、早いうちに、アンヌは、エマとアンソニーの関係を、公にしなければならないだろうと思った。
つまりそれは、婚約、結婚と、話を進めていくということだった。
前回、エマに結婚の話を持ち掛けた時、エマは、結婚は嫌だと言った。
一生、アンヌに仕えることが、自分の望みだと言った。
もう一度、アンソニーとの結婚を促したら、今度は、受け入れるだろうか。
早いうちに、エマともう一度、話し合わなくては。
アンヌは、そう考えていた。
すると、翌日の夕刻、ランドルフが、やって来た。
ランドルフは、アンヌを散歩に誘った。
それは、屋敷で話すには、都合の悪い、つまり、エマには聞かれたくない話があるからに、違いなかった。
ふたりは、農園の周りを歩いた。
道端には、濃いピンク色のユウゲショウの花が咲き、ふたりの訪れを歓迎するかのように、風に揺れた。
農園では、五月の初旬に撒いた綿花の種から芽が出た後、間引きをし、肥料を与え、綿花は三十センチほどの背丈にまで伸びて来ていた。
「相談があります」
歩き出してすぐ、アンヌはそう切り出した。
「多分君の相談と、僕の話は、同じだと思う」
「エマの件です」
「予想通りだ」
アンヌは、この一カ月、アンソニーとエマが、金曜日の夜、人目を忍んで会い続けていることを話し、このままこういったことが続くのは、エマにとってはよろしくないし、エマの年齢を考えると、結婚は少しでも早い方がいいと思うので、話を進めていきたいということ、エマには、よく言って聞かせると言うことを、伝えた。
一方、ランドルフの方も、ふたりが、金曜日の夜に、逢瀬を重ねているということを、すでに知っていた。
毎週、金曜日の夜になると、アンソニーが人目につかないように、そっと出かける姿に気づくと、なにかある、ということはすぐに分かった。
ランドルフが問うと、アンソニーは、ランドルフに黙って、馬を私事に使ったことを謝罪しつつ、エマに会いに行っていることを、認めた。
ランドルフは、別段、何も咎める気はなかった。
むしろ、よかったな、と声をかけ、アンソニーを励ました。
ランドルフはアンソニーの恋が実ったことを、素直に喜んでいた。
ただ、厄介なことは、それを、マーガレットに気づかれてしまったということだった。
アンソニーは、モーガン家の経理を任されていた。
アンソニーの叔父が、長く、誠実に、モーガン家に仕えたこともあって、モーガン家の人々と、アンソニーの信頼関係は深く、本人も、モーガン家の人々も、これからもずっと、アンソニーが、モーガン家で働くことを望んでいた。
だから、モーガン家では、アンソニーという使用人を大切に扱い、他の使用人に比べて、ずいぶんと待遇が良かった。
使用人の住まいとなる建物に、小さな部屋をひとつ与えられる他の使用人に比べ、アンソニーの叔父は、モーガン家の農園内に一軒家を与えられ、アンソニーが、モーガン家で働くようになってからは、その一軒家で叔父と一緒に暮らした。
叔父が亡くなってからは、その一軒家にひとりで暮らしていたため、アンソニーが妻を娶るということになれば、今住んでいる家に、妻を迎えることになった。
つまり、アンソニーが結婚したならば、夫婦で、モーガン家に仕える必要があった。
そして、アンソニーが、モーガン家の資金を扱う仕事柄、その妻となる女も、信頼に足る人物でなければいけなかった。
故に、アンソニーの結婚相手は、誰でもいいと言う訳に行かず、主人であるモーガン家が、認めなければならなかった。
金曜日の夜の外出の目的を知ったマーガレットは、当然、その相手が誰なのかを知りたがった。
アンソニーから、相手が、アンヌの農園の使用人、エマだと告げられた時、マーガレットは、あからさまに難色を示した。
よりにもよって、アウラの社交界で疎んじられている、アンヌの農園の使用人とは、と。
助け船を出したのは、ランドルフだった。
エマが、真面目で、働き者だということ。
アンソニーと夫婦になれば、モーガン家の農園にとって、頼もしい働き手になるであろうことを、説いた。
アンソニーの熱意とランドルフの援護で、渋々ながらも、マーガレットは、二人の交際、そして、結婚を認めた。
ただし、それには条件があった。
それは、エマが、近々、アンヌの農園を出て、モーガン家に仕える、ということだった。
マーガレットは、アンヌの農園と関わりを持ちたくなかった。
だから、少しでも早いうちに、エマをアンヌの農園と切り離して、モーガン家の使用人として働かせたかった。
それに、モーガン家の経理を担当する、アンソニーの妻になるのだから、その人柄が、その立場に相応しいかどうか、マーガレットは、自分の眼で確かめようとしていた。
「随分、急な話ではあると思うんだが・・・」
ランドルフからの話を聞いて、アンヌは、そんな話になっていようとは、と、少々驚いた。
けれども、これは、いい機会なのだと、思った。
エマにとって、普通の、ごくありきたりの、女としての幸せをつかむ、最後のチャンスかもしれない。
エマの背を押してやるのも、わたくしの役目なのだ、と思った。
「話は、わかりました。すぐに、エマを、連れて行ってください」
「今日?これから?」
驚いたのは、ランドルフの方だった。
「こういったことは、少しでも早い方がいいのです。迷い始めると、歩み出せなくなってしまいます。あれこれ考えて、決心が、鈍ってはいけません」
ランドルフは、それは、エマの決心か、君の決心か、どちらかと尋ねようとして、止めた。
ユースティティアから、一緒に海を渡ったエマの新たな旅立ちに、アンヌが何の感慨も抱かないはずはない、と思ったからだった。
アンヌとランドルフは、屋敷に戻ると、応接間にエマを呼び、事情を話した。
そして、アンヌは、荷物をまとめなさいと、静かに告げた。
「アンヌ様・・・、私、アンヌ様のお傍を離れません。アンソニーとは・・・、別れます。もう二度と、会ったりしません。お約束します」
エマの頬は、蒼白で、唇はかすかに震えていた。
「今更、何を言っているのです。あなたは、アンソニーと結婚し、これからはモーガン家に仕えるのです」
「アンヌ様!」
「エマ、これは、主人たる、わたくしの命令です。荷物をまとめなさい。運びきれないものは、後日、改めて届けさせます」
「アンヌ様、どうか・・・」
「いいえ、もう決まったことです。もう一度だけ、言います。エマ、馬車を出しますから、荷物をまとめて、ランドルフ様と一緒にモーガン家へ行きなさい。これは、わたくしの命令です」
アンヌは、きっぱりと、そう告げた。
エマは、どう嘆願したところで、アンヌの気持ちが変わることはないのだと知って、絶望に追いやられた。
モーガン家へ行き、アンソニーとの幸せな将来を思い描くことは、できなかった。
明るい未来より、見知らぬ場所で、見知らぬ人々に仕える不安の方が、格段に大きかった。
けれども、もうここには、自分の居場所がないということ、それだけは、確かだった。
エマは、蒼白なまま、馬車に乗り込んだ。
傍らには、馬上のランドルフがいた。
「あちらでも、あなたがこれまでわたくしに尽くしてくれたように、誠心誠意、奉公しなさい。あなたなら、きっと、できます。それに、あなたは、もうひとりではないのですから。アンソニーという伴侶を持つのです。わたくしは、いつもあなたの幸せを、願っています。結婚式の日取りが決まったら、知らせなさい。必ず出席しますから」
アンヌは、そう言って、馬車に乗り込んだエマを、励ました。
本当なら、ここをあなたの実家だと思って、どうしても辛抱できないことがあったときは、帰って来なさい、と言ってやりたかった。
けれども、それは、エマの門出にふさわしくない言葉だと思って、のみ込んだ。
自分には帰る場所があると思うと、エマはそれに甘えてしまうかもしれない。
かつて自分がユースティティアを離れた時のように、退路を断てば、苦しいことも、辛いことも、逃げずに乗り越えていくしかないと、前をむくはず。
それは、アンヌらしい思いやりだった。
初めて会った時から、十二年、良い時も悪い時も、エマは、アンヌに尽くし続けた。
そのエマが、花嫁となるために、自分の傍を離れていくのだと思えば、万感の想いがあった。
「エマ、幸せになりなさい。きっと幸せになるのですよ。わたくしとの約束です」
「アンヌ様・・・」
アンヌは、潤む瞳のエマの手に、励ますように手を重ねた後、行きなさい、と、馬車の手綱を握る奴隷に、命じた。
アンヌは、ランドルフに伴われたエマの馬車が、視界から見えなくなるまで、ずっと、見守り続けた。
その夜、アンヌは中々寝付けなかった。
十二年間、アンヌに尽くし続けたエマとの思い出が、繰り返し心によみがえった。
ミラージュ、そして父ラングラン公爵の存在故に、アンヌは、母フランセットや、姉クリスティーヌに、家族らしい親愛の情を抱くことは出来なかった。
けれども、長くアンヌに仕え、尽くしてくれたエマとは、家族のような・・・、家族以上の絆があった。
そのエマが、幸せになるために、今日、自分の元を旅立った。
どこかほっとする気持ちと、そして、寂しさが、アンヌの心に沸き上がっていた。
と、その時、アンヌの耳に、小さな話し声が届いた。
アンヌは、ベッドから身体を起こした。
こんな時間に、一体、誰が・・・。
屋敷の中には、アンヌと、エマが使っていた使用人部屋を、今晩から使うことになった、ハウスメイドのポリーがいるだけだった。
暗闇の中、目を凝らして時刻を確認すると、夜中の一時だった。
アンヌは、枕もとのキャビネットから、ピストルを取り出し、弾を詰めた。
万一の時は、身を守る必要があった。
アンヌは、そっと寝室を抜け出して、階下へ降りた。
ポリーは眠っていて、不審者に気づいていないのか、部屋から出て来なかった。
アンヌは、ピストルを手に、玄関へと向かう。
扉に耳を寄せると、土を踏みしめる足音が聞こえた。
アンヌは、玄関のドアに向けて、ピストルを構えると、
「今すぐ、立ち去りなさい!立ち去らなければ、撃ちます!」
外にいる不審者に向けて、大声で怒鳴った。
一瞬の後、
「アンヌ様・・・」
聞き覚えのある声が、ドアの向こうから聞こえた。
まさか、と思いつつ、アンヌは、かんぬきを外した。
灯りと、小さな荷物を抱えたエマが、立っていた。
アンヌの顔を見るなり、エマは、耐えていた感情が一気にあふれ出したのか、嗚咽を始めた。
「どうして、ここに・・・」
馬の気配は、なかった。
アンヌは、モーガン邸から馬で三十分の道のりを、一体何時間歩いて、ここまで戻って来だろうと、考えずにはいられなかった。
「アンヌ様、何度も、何度も考えたのですが・・・、私、やっぱりモーガン家には、仕えられません」
小さな子供のように、エマは、何度もしゃくりを上げた。
それは、アンヌが今まで見たことのない、エマの取り乱した姿だった。
「それでは、アンソニーは、どうするのですか?」
そのアンヌの問いかけに、エマは、そっと指さした。
エマの指さした方を見ると、アンソニーが立っていた。
アンソニーは、アンヌに向かって、神妙に頭を下げた。
アンヌは、寝間着姿だったが、今、そんなことを気にしてはいられなかった。
「つまり・・・、あなたがたは、こちらで、暮らしたい、と?」
エマは頷き、アンソニーは、はい、と呟いた。
アンヌは、眼を閉じた。
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