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2.エマの縁談
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どうエマに話を切り出したものか、アンヌは一晩考えて、それとなく、一度エマの気持ちを尋ねてみよう、という気になった。
それで、次の日の朝、朝食を終えたアンヌは、ダイニングに朝食の食器を下げに来たエマを、呼び止めた。
「なんでしょう?」
エマは、食器を下げる手を止めて、その灰色の瞳を、アンヌに向けた。
相変わらず、猫の様な瞳だと思った。
警戒心が強く、めったなことでは、心を開かない。
けれども、主人であるアンヌには、いつも知らぬ間にすっと寄り添って、静かに自分の務めを果たした。
小柄で、緩いウエーブのかかった茶色の髪の持ち主は、アンヌへの厚い忠誠心の持ち主でもあった。
「エマ・・・、あなたは、これからのことを、どのように考えているのですか?」
「これからのこと、ですか?」
「例えば、将来的に、わたくしのように農園を経営したいとか、街でお店を持ちたいとか、結婚したいとか・・・」
「なぜ、突然、そのようなことを言われるのですか?」
エマは、心底驚いた様子だった。
「あなたも、もう年齢が年齢ですから、何かを始めたいと思うのなら、のんびりもしていられないでしょう。もちろん、あなたになにかやりたいことがあるのなら、わたくしもできる限り、力になります」
「アンヌ様」
エマは、真剣な面持ちで、アンヌを見つめた。
「アンヌ様、私の望みは、一生涯、アンヌ様にお仕えすることです。それが、私のただひとつの望みです」
「エマ・・・」
「心配はご無用です。私は、アンヌ様のお傍で、十二分に幸せです」
と、主人のアンヌに似たのか、めったなことでは笑わないエマが、本当に嬉しそうに微笑みながらそう言うので、アンヌは、それ以上、何も言うことが出来なくなってしまった。
アンヌは、ランドルフに宛てて、手紙をしたため、届けさせた。
手紙には、エマには、結婚の意思がないようだと言うこと、アンソニーとエマが会う機会を設けたとしても、エマにそういう意志がないのでは、期待をさせるだけ、アンソニーを傷つけるのではないかと、記した。
翌日には、ランドルフから返信があった。
ランドルフによると、アンヌの手紙の内容は、アンソニーに伝えたが、アンソニーはそれでも構わないから、会う機会を設けてほしいとのこと、アンヌの都合さえよければ、次の日曜日の午後、アンソニーを伴って、来訪したい、と記されてあった。
そして、手紙の最後に、想った女性を、このぐらいのことで、簡単に諦めるような男だったら、最初から、君に話を持ち掛けたりしないよ、と、書かれてあった。
次の日曜日は、四日後だった。
ランドルフの手紙に眼を通して、しばらく考えた後、アンヌは、エマには何も告げずに、ランドルフの申し出を、了承することにした。
そして、その旨を、ランドルフへの手紙にしたためた。
日曜日の朝、ダイニングで朝食の用意を整えるエマに、
「昼食が済んだら、外出着に着替えておきなさい」
アンヌは、そう告げた。
エマは、何の疑いもなく、わかりました、と返事をした。
アンヌが、ペンナの街やアンダーソン邸へ赴く際、手綱を握るのは、大抵の場合エマで、そういった場所へ行く時には、当然、エマも、外出用の服装をする必要があった。
だから、午後から着替えておくように命ぜられたエマは、午後からアンヌ様は、お出かけになるのだろう、と思った。
午後になって、着替えて、外出の用意を整えたエマが、奴隷のひとりに頼んでおいた馬車の準備が整ったか、確認するため、裏口から出て、馬小屋へと向かおうとすると、アンヌに呼び止められた。
「エマ、今日は、馬車の必要はありません」
「どちらからか、お迎えがあるのですか?」
アンヌも、ポリーに手伝わせて、着替えていたせいで、エマは今から出かけるのだと言うことを、疑わなかった。
「今日は、来客があるのです」
「来客ですか?」
エマは、戸惑った様子だった。
「今日のお客様は、わたくしではなく、あなたのお客様です」
「私・・・?」
エマの戸惑いは、ますます大きくなるようだった。
ちょうどその時、アンヌとエマの耳に、蹄の音が入った。
アンヌに、行きましょう、と促されて、エマが玄関ポーチに向かうと、ちょうど、馬から降りたばかりのランドルフと、エマの見知らぬ男がいた。
アンヌは、ランドルフと挨拶を交わし、初対面となるアンソニーとも挨拶を交わしてから、アンソニーにエマを紹介した。
アンソニーはエマに、礼儀正しく名乗ってから、
「お会いできて、本当に、光栄です、エマさん。街で見かけた時から、どうしても、もう一度、会いたいと思っていました。会っていただけて、感謝します」
と、挨拶をした。
エマと会えたせいか、アンソニーの頬は赤く紅潮し、期待と喜びで、瞳がきらきらと、輝いていた。
アンソニー・ヒューズは、中肉中背の、実直そうな青年だった。
仕事で気慣れているせいか、スーツが馴染んで見えた。
丸顔の、少々幼い顔立ちのせいか、二十六歳と聞いてはいたが、アンヌと同じ年といっても、おかしくはなかった。
「アンヌ様、これは、一体・・・?」
エマも、とうとう、事態を察し始めたようで、強張った表情になり、アンヌを見上げた。
「エマ、あなたのお客様です。せっかくいらしたのですから、中で、ゆっくりお話するといいでしょう。お茶の支度は、ポリーに言ってあります」
そう言うと、アンヌは、屋敷の中へみなを誘った。
明るい表情の来訪者たちに比べ、エマはただ、青ざめ、無言で、三人の後について、中へ入った。
ランドルフとアンソニーを招待してのお茶会は、お世辞にも、和気藹々とは言えなかった。
アンヌと、ランドルフとアンソニーは、当たり障りのない範囲で、互いの生い立ち、仕事、趣味、好みや、性格のことを、尋ね合い、少しでも、アンソニーとエマが打ち解けられるように、会話がはずむ努力をした。
が、エマは、強張った表情のまま、会話には加わろうとしなかった。
気を回したアンヌが、時折、エマに問いかけてはみるものの、俯き加減のまま、小さな声で、はいとか、いいえとか答えるばかりだった。
周りがどう気を配っても、エマにうちとける気配はなく、なんとも気づまりな事態の打開には、繋がらなかった。
それで、一時間が過ぎた頃、ランドルフが、
「ふたりには、悪いんだが、アンヌと少し仕事の話をさせてくれないか。農園のことで、少し話し合いたいことがあってね。一時間もあれば、十分だろう。天気もいいし、その間、向こうにある木立まで、ふたりで散歩でもしてきたらどうかな」
と、切り出した。
それが、アンソニーとエマを二人きりにするための口実だということは、当然エマにもすぐ分かったが、立場上、ランドルフの言うことに、異を唱えることは出来なかった。
木立に向かって、歩いて行くふたりの後ろ姿を、応接間の窓から眺めながら、
「わたくしの言った通りでしょう。エマに、そういった気持ちはないと」
アンヌは、傍らに立つランドルフにそう言った。
「今はね」
「エマの気が、変わると言うのですか?」
アンヌには、到底そんなことはあり得ないような気がした。
「それは、わからない。僕の見たところ、彼女は、まだ、恋を知らない純粋な娘だ。恋を知ったら、案外、一途になるかもしれないよ。・・・信用していない顔つきだね」
ランドルフは、くすっと笑った。
そして、
「君は?」
と、その鳶色の瞳を、アンヌに向けた。
「わたくし?」
「君は、恋を知っている?」
「今は、アンソニーとエマの話をしているのです。わたくしのことは、関係ないでしょう。その質問に答える必要は、ありません」
アンヌの眉が、きゅきゅっ、と吊り上がった。
「怒らせたみたいだ」
「当然です。お互いの立場を、わきまえて、話をするべきです」
「君の考える、お互いの立場というのは?」
「必要に応じて協力のできる、良き隣人です」
「良き隣人、か・・・」
ランドルフは、いささか複雑な気分で、その言葉を受け止めた。
一時間ほどして、散歩から戻ったアンソニーとエマだったが、話が弾んだとは思えなかった。
エマは、硬い表情のまま俯き、アンソニーはそんなエマを気づかわし気に、心配そうに見守っていた。
ランドルフとアンソニーが帰ると、エマは、すぐに普段着に着替え、いつものように、家の中の仕事に取り掛かった。
けれども、その表情は硬いままで、ずっと無言だった。
夕食を終えて、アンヌは、リビングにエマを呼んだ。
一度、じっくり話し合わなければ、行き違ったままになりそうだと、思ったからだった。
お座りなさい、と、アンヌはエマにソファを促し、エマは目を伏せたまま、浅くソファに腰かけた。
「エマ、今日の事は、突然で驚いたと思います。ですが、これは全て、あなたのためを思っての事です」
「私のためとおっしゃるのなら・・・、私の望みは、先日、申し上げました。私の望みは、アンヌ様に一生お仕えすることです。結婚したいなどと、一度も思ったことはありません」
「では、これを機会に一度、自分にはそういった道もあるかもしれないと、考えてみてはどうですか」
「・・・どうして、今更、そのようなことを仰るのですか?」
エマの顔が、哀し気に歪んだ。
「今更というわけでは、ありません。以前から、時折、考えていたことです」
アンヌは、じっと、エマの顔を見つめながら、エマも、年を重ねた、と思った。
エマが、アンヌの下で働き始めた時、アンヌは十二歳、エマは十七歳だった。
ラングラン公爵家で、奉公したがために、随分と苦労をさせたものだと、思う。
女性として一番美しく、華やかな時期を、ラングラン家とアンヌに捧げて生きたエマを、アンヌは哀れにも、愛おしくも思った。
「ユースティティアを離れ、このような遠い場所までやって来たのですよ。もうミラージュに怯えることも、ないのです。あなたは、当たり前の、女性としての幸福を、手に入れることが出来るのかもしれないのです」
「アンヌ様!」
「誤解をしてはいけません。何も、わたくしはあなたに、ここを出て行きなさいと、言っているわけではないのです。これまでに、一度も結婚を考えたことがないのなら、一度そういった将来もあるのだということを、考えてみたらどうかと言っているのです。人生の伴侶を見つけて、結婚し、幸せな家庭を築くことができるかもしれないのです。今なら、まだ、望めば、子供を持つこともできるしょう」
エマは、押し黙った。
「エマ、よくお聞きなさい。あなたは、あなたの人生を歩まなくてはなりません。確かに、アンソニーなら、あなたの結婚相手として申し分ないようですが、何が何でも、彼でなければならないとも思いません。それでしたら、あなたに相応しい、そして、あなたが、この方ならと思えるような男性を、わたくしが責任を持って探します」
「アンヌ様は・・・、お分かりになっていません」
「エマ・・・」
「アンヌ様は、少しも、おわかりになっていません、私の気持ちを・・・」
エマは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私は、ここにいたいのです。ただ、アンヌ様のお傍にいて、お仕えしたいのです」
「けれども、それでは・・・」
「私は、ラングラン家に・・・、アンヌ様に仕えるまで、ずっと、虐げられて生きてきました」
それは、アンヌが初めて聞く、エマの生い立ちだった。
「幼いころは継母に、若くして奉公に出てからは、横柄な女中頭に、酷い扱いを受けました。給金は全て、父と継母に取り上げられて・・・、ただ、毎日、身を粉にして働くだけの、生きる希望など、何一つない、誰からも愛情など注がれることのない、人生でした。 縁あって、ラングラン公爵様のお屋敷で奉公することになりましたが、私は、十七歳の時、ラングラン公爵の命を果たせず、その怒りを買い、命を奪われかけました。それを、身を挺して救ってくださったのは、アンヌ様です。私に向かってピストルを向ける、ラングラン公爵の前に立ちはだかって、十二歳のアンヌ様は、毅然と言いました。エマは、わたくしの侍女です、エマの落ち度は主人であるわたくしの落ち度ですから、エマを撃つのでしたら、どうぞ、わたくしをお撃ちください、と」
「もう、十年以上も昔の話です。わたくしは、とうに忘れました」
「私は、昨日のことのように、覚えています」
冷たいようにも見える灰色の眼をしたエマの一体どこに、このような熱い感情を隠し持っているのかと、アンヌは思わずにはいられなかった。
「わたくしに、恩義を持ち続ける必要はないのです。そのことで、あなたの人生を縛ってはいけません。それでは、わたくしも、心苦しいのです」
「私は、縛られてなどいません。十二年前、私は、初めて、人の温かさに触れたのです。 これまでの人生で、身を挺して、私のような者を庇ってくださったのは、アンヌ様だけです。お叱りは承知で申し上げます。十七歳のあの時から、私は心の内で、ずっとアンヌ様を慕っています。歳は私の方が五つも上ですが、母のように、姉のように・・・、アンヌ様のことを、お慕いしております」
それはアンヌが初めて聞く、エマの本心だった。
エマの頬には、涙が伝っていた。
初めて見る、エマの涙だった。
エマの一途な想いに、胸が熱くならないといえば、嘘になった。
アンヌは、椅子から立ち上がってエマの傍によると、
「仕方のない人ですね・・・」
そう言って、その涙を、ハンカチでそっと拭った。
それで、次の日の朝、朝食を終えたアンヌは、ダイニングに朝食の食器を下げに来たエマを、呼び止めた。
「なんでしょう?」
エマは、食器を下げる手を止めて、その灰色の瞳を、アンヌに向けた。
相変わらず、猫の様な瞳だと思った。
警戒心が強く、めったなことでは、心を開かない。
けれども、主人であるアンヌには、いつも知らぬ間にすっと寄り添って、静かに自分の務めを果たした。
小柄で、緩いウエーブのかかった茶色の髪の持ち主は、アンヌへの厚い忠誠心の持ち主でもあった。
「エマ・・・、あなたは、これからのことを、どのように考えているのですか?」
「これからのこと、ですか?」
「例えば、将来的に、わたくしのように農園を経営したいとか、街でお店を持ちたいとか、結婚したいとか・・・」
「なぜ、突然、そのようなことを言われるのですか?」
エマは、心底驚いた様子だった。
「あなたも、もう年齢が年齢ですから、何かを始めたいと思うのなら、のんびりもしていられないでしょう。もちろん、あなたになにかやりたいことがあるのなら、わたくしもできる限り、力になります」
「アンヌ様」
エマは、真剣な面持ちで、アンヌを見つめた。
「アンヌ様、私の望みは、一生涯、アンヌ様にお仕えすることです。それが、私のただひとつの望みです」
「エマ・・・」
「心配はご無用です。私は、アンヌ様のお傍で、十二分に幸せです」
と、主人のアンヌに似たのか、めったなことでは笑わないエマが、本当に嬉しそうに微笑みながらそう言うので、アンヌは、それ以上、何も言うことが出来なくなってしまった。
アンヌは、ランドルフに宛てて、手紙をしたため、届けさせた。
手紙には、エマには、結婚の意思がないようだと言うこと、アンソニーとエマが会う機会を設けたとしても、エマにそういう意志がないのでは、期待をさせるだけ、アンソニーを傷つけるのではないかと、記した。
翌日には、ランドルフから返信があった。
ランドルフによると、アンヌの手紙の内容は、アンソニーに伝えたが、アンソニーはそれでも構わないから、会う機会を設けてほしいとのこと、アンヌの都合さえよければ、次の日曜日の午後、アンソニーを伴って、来訪したい、と記されてあった。
そして、手紙の最後に、想った女性を、このぐらいのことで、簡単に諦めるような男だったら、最初から、君に話を持ち掛けたりしないよ、と、書かれてあった。
次の日曜日は、四日後だった。
ランドルフの手紙に眼を通して、しばらく考えた後、アンヌは、エマには何も告げずに、ランドルフの申し出を、了承することにした。
そして、その旨を、ランドルフへの手紙にしたためた。
日曜日の朝、ダイニングで朝食の用意を整えるエマに、
「昼食が済んだら、外出着に着替えておきなさい」
アンヌは、そう告げた。
エマは、何の疑いもなく、わかりました、と返事をした。
アンヌが、ペンナの街やアンダーソン邸へ赴く際、手綱を握るのは、大抵の場合エマで、そういった場所へ行く時には、当然、エマも、外出用の服装をする必要があった。
だから、午後から着替えておくように命ぜられたエマは、午後からアンヌ様は、お出かけになるのだろう、と思った。
午後になって、着替えて、外出の用意を整えたエマが、奴隷のひとりに頼んでおいた馬車の準備が整ったか、確認するため、裏口から出て、馬小屋へと向かおうとすると、アンヌに呼び止められた。
「エマ、今日は、馬車の必要はありません」
「どちらからか、お迎えがあるのですか?」
アンヌも、ポリーに手伝わせて、着替えていたせいで、エマは今から出かけるのだと言うことを、疑わなかった。
「今日は、来客があるのです」
「来客ですか?」
エマは、戸惑った様子だった。
「今日のお客様は、わたくしではなく、あなたのお客様です」
「私・・・?」
エマの戸惑いは、ますます大きくなるようだった。
ちょうどその時、アンヌとエマの耳に、蹄の音が入った。
アンヌに、行きましょう、と促されて、エマが玄関ポーチに向かうと、ちょうど、馬から降りたばかりのランドルフと、エマの見知らぬ男がいた。
アンヌは、ランドルフと挨拶を交わし、初対面となるアンソニーとも挨拶を交わしてから、アンソニーにエマを紹介した。
アンソニーはエマに、礼儀正しく名乗ってから、
「お会いできて、本当に、光栄です、エマさん。街で見かけた時から、どうしても、もう一度、会いたいと思っていました。会っていただけて、感謝します」
と、挨拶をした。
エマと会えたせいか、アンソニーの頬は赤く紅潮し、期待と喜びで、瞳がきらきらと、輝いていた。
アンソニー・ヒューズは、中肉中背の、実直そうな青年だった。
仕事で気慣れているせいか、スーツが馴染んで見えた。
丸顔の、少々幼い顔立ちのせいか、二十六歳と聞いてはいたが、アンヌと同じ年といっても、おかしくはなかった。
「アンヌ様、これは、一体・・・?」
エマも、とうとう、事態を察し始めたようで、強張った表情になり、アンヌを見上げた。
「エマ、あなたのお客様です。せっかくいらしたのですから、中で、ゆっくりお話するといいでしょう。お茶の支度は、ポリーに言ってあります」
そう言うと、アンヌは、屋敷の中へみなを誘った。
明るい表情の来訪者たちに比べ、エマはただ、青ざめ、無言で、三人の後について、中へ入った。
ランドルフとアンソニーを招待してのお茶会は、お世辞にも、和気藹々とは言えなかった。
アンヌと、ランドルフとアンソニーは、当たり障りのない範囲で、互いの生い立ち、仕事、趣味、好みや、性格のことを、尋ね合い、少しでも、アンソニーとエマが打ち解けられるように、会話がはずむ努力をした。
が、エマは、強張った表情のまま、会話には加わろうとしなかった。
気を回したアンヌが、時折、エマに問いかけてはみるものの、俯き加減のまま、小さな声で、はいとか、いいえとか答えるばかりだった。
周りがどう気を配っても、エマにうちとける気配はなく、なんとも気づまりな事態の打開には、繋がらなかった。
それで、一時間が過ぎた頃、ランドルフが、
「ふたりには、悪いんだが、アンヌと少し仕事の話をさせてくれないか。農園のことで、少し話し合いたいことがあってね。一時間もあれば、十分だろう。天気もいいし、その間、向こうにある木立まで、ふたりで散歩でもしてきたらどうかな」
と、切り出した。
それが、アンソニーとエマを二人きりにするための口実だということは、当然エマにもすぐ分かったが、立場上、ランドルフの言うことに、異を唱えることは出来なかった。
木立に向かって、歩いて行くふたりの後ろ姿を、応接間の窓から眺めながら、
「わたくしの言った通りでしょう。エマに、そういった気持ちはないと」
アンヌは、傍らに立つランドルフにそう言った。
「今はね」
「エマの気が、変わると言うのですか?」
アンヌには、到底そんなことはあり得ないような気がした。
「それは、わからない。僕の見たところ、彼女は、まだ、恋を知らない純粋な娘だ。恋を知ったら、案外、一途になるかもしれないよ。・・・信用していない顔つきだね」
ランドルフは、くすっと笑った。
そして、
「君は?」
と、その鳶色の瞳を、アンヌに向けた。
「わたくし?」
「君は、恋を知っている?」
「今は、アンソニーとエマの話をしているのです。わたくしのことは、関係ないでしょう。その質問に答える必要は、ありません」
アンヌの眉が、きゅきゅっ、と吊り上がった。
「怒らせたみたいだ」
「当然です。お互いの立場を、わきまえて、話をするべきです」
「君の考える、お互いの立場というのは?」
「必要に応じて協力のできる、良き隣人です」
「良き隣人、か・・・」
ランドルフは、いささか複雑な気分で、その言葉を受け止めた。
一時間ほどして、散歩から戻ったアンソニーとエマだったが、話が弾んだとは思えなかった。
エマは、硬い表情のまま俯き、アンソニーはそんなエマを気づかわし気に、心配そうに見守っていた。
ランドルフとアンソニーが帰ると、エマは、すぐに普段着に着替え、いつものように、家の中の仕事に取り掛かった。
けれども、その表情は硬いままで、ずっと無言だった。
夕食を終えて、アンヌは、リビングにエマを呼んだ。
一度、じっくり話し合わなければ、行き違ったままになりそうだと、思ったからだった。
お座りなさい、と、アンヌはエマにソファを促し、エマは目を伏せたまま、浅くソファに腰かけた。
「エマ、今日の事は、突然で驚いたと思います。ですが、これは全て、あなたのためを思っての事です」
「私のためとおっしゃるのなら・・・、私の望みは、先日、申し上げました。私の望みは、アンヌ様に一生お仕えすることです。結婚したいなどと、一度も思ったことはありません」
「では、これを機会に一度、自分にはそういった道もあるかもしれないと、考えてみてはどうですか」
「・・・どうして、今更、そのようなことを仰るのですか?」
エマの顔が、哀し気に歪んだ。
「今更というわけでは、ありません。以前から、時折、考えていたことです」
アンヌは、じっと、エマの顔を見つめながら、エマも、年を重ねた、と思った。
エマが、アンヌの下で働き始めた時、アンヌは十二歳、エマは十七歳だった。
ラングラン公爵家で、奉公したがために、随分と苦労をさせたものだと、思う。
女性として一番美しく、華やかな時期を、ラングラン家とアンヌに捧げて生きたエマを、アンヌは哀れにも、愛おしくも思った。
「ユースティティアを離れ、このような遠い場所までやって来たのですよ。もうミラージュに怯えることも、ないのです。あなたは、当たり前の、女性としての幸福を、手に入れることが出来るのかもしれないのです」
「アンヌ様!」
「誤解をしてはいけません。何も、わたくしはあなたに、ここを出て行きなさいと、言っているわけではないのです。これまでに、一度も結婚を考えたことがないのなら、一度そういった将来もあるのだということを、考えてみたらどうかと言っているのです。人生の伴侶を見つけて、結婚し、幸せな家庭を築くことができるかもしれないのです。今なら、まだ、望めば、子供を持つこともできるしょう」
エマは、押し黙った。
「エマ、よくお聞きなさい。あなたは、あなたの人生を歩まなくてはなりません。確かに、アンソニーなら、あなたの結婚相手として申し分ないようですが、何が何でも、彼でなければならないとも思いません。それでしたら、あなたに相応しい、そして、あなたが、この方ならと思えるような男性を、わたくしが責任を持って探します」
「アンヌ様は・・・、お分かりになっていません」
「エマ・・・」
「アンヌ様は、少しも、おわかりになっていません、私の気持ちを・・・」
エマは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私は、ここにいたいのです。ただ、アンヌ様のお傍にいて、お仕えしたいのです」
「けれども、それでは・・・」
「私は、ラングラン家に・・・、アンヌ様に仕えるまで、ずっと、虐げられて生きてきました」
それは、アンヌが初めて聞く、エマの生い立ちだった。
「幼いころは継母に、若くして奉公に出てからは、横柄な女中頭に、酷い扱いを受けました。給金は全て、父と継母に取り上げられて・・・、ただ、毎日、身を粉にして働くだけの、生きる希望など、何一つない、誰からも愛情など注がれることのない、人生でした。 縁あって、ラングラン公爵様のお屋敷で奉公することになりましたが、私は、十七歳の時、ラングラン公爵の命を果たせず、その怒りを買い、命を奪われかけました。それを、身を挺して救ってくださったのは、アンヌ様です。私に向かってピストルを向ける、ラングラン公爵の前に立ちはだかって、十二歳のアンヌ様は、毅然と言いました。エマは、わたくしの侍女です、エマの落ち度は主人であるわたくしの落ち度ですから、エマを撃つのでしたら、どうぞ、わたくしをお撃ちください、と」
「もう、十年以上も昔の話です。わたくしは、とうに忘れました」
「私は、昨日のことのように、覚えています」
冷たいようにも見える灰色の眼をしたエマの一体どこに、このような熱い感情を隠し持っているのかと、アンヌは思わずにはいられなかった。
「わたくしに、恩義を持ち続ける必要はないのです。そのことで、あなたの人生を縛ってはいけません。それでは、わたくしも、心苦しいのです」
「私は、縛られてなどいません。十二年前、私は、初めて、人の温かさに触れたのです。 これまでの人生で、身を挺して、私のような者を庇ってくださったのは、アンヌ様だけです。お叱りは承知で申し上げます。十七歳のあの時から、私は心の内で、ずっとアンヌ様を慕っています。歳は私の方が五つも上ですが、母のように、姉のように・・・、アンヌ様のことを、お慕いしております」
それはアンヌが初めて聞く、エマの本心だった。
エマの頬には、涙が伝っていた。
初めて見る、エマの涙だった。
エマの一途な想いに、胸が熱くならないといえば、嘘になった。
アンヌは、椅子から立ち上がってエマの傍によると、
「仕方のない人ですね・・・」
そう言って、その涙を、ハンカチでそっと拭った。
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