コットンブーケ

海子

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1.ミス・クレマン

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 レナード・キャンベルの農園で火災が起こったのは、アンヌが、モーガン邸を訪れて、二日が過ぎた、五月の最初の夜だった。 
その夜、アンヌの屋敷のキッチンでは、エマと、新入りの奴隷女ポリーが、夕食の後片付けをしていた。 
今、アンヌの屋敷のハウスメイドは、エマと、ポリーだった。 
ハウスメイドとは言うものの、アンヌは手が空いていれば、畑仕事に赴くせいで、家事が片付けば、一緒に農作業に赴くエマとポリーだったので、一般的なハウスメイドよりも、仕事量は多かった。
けれども、エマも、ポリーもその件について、なにひとつアンヌに苦情を申し立てたことはなかった。 
新しいハウスメイドのポリーは、十七歳で、若いだけあって、気のつかないところも多かったが、そのあたりはエマが、細かく指導していて、性格が素直であったため、覚えがよかった。 
ポリーは、例の強姦未遂事件で、アンヌに助けられたと言う感謝があるせいで、最初からアンヌをよく慕って、真面目に働いた。



 農園監督者のオーウェン・スミスから、綿花の収穫まで、どの時期に、何をするべきかを記した計画書を若干手直ししたので、その確認をしておいてほしいと頼まれたアンヌは、夕食を終え、その書類に目を通すため、二階の書斎へと向かった。 
アンヌは、灯りを手に二階に上がり、書斎に入った。 
灯りがなければ、真っ暗な書斎だったが、アンヌは、窓にかかるカーテンの向こう側に、かすかな光を感じた。
通常ならば、そんなところに灯りがあるはずはなかった。
不思議に思って、アンヌがカーテンを開けると、北西の空が、赤く染まっていた。 
火事だ、と、アンヌはすぐに気が付いた。
ランドルフの農園の方向ではなかった。 
その方角には、レナード・キャンベルのプランテーションがあった。 
アンヌは、階段を駆け下りると、エマ、エマ、と呼んだ。 
エマが、すぐにキッチンから顔を出した。 
「エマ、キャンベル氏の農園で火事です。わたくしは、すぐに、向かいます。後のことは、あなたとオーウェンに任せるので、奴隷たちを集めて、手伝いに来させなさい。くれぐれも、慌てて、誰かが、怪我などすることのないように。ポリー、馬を出します、手伝いなさい」 
アンヌはそう言い残すと、馬小屋へと走った。 
その後を、慌てて、ポリーが追った。 



 アンヌは、全速力で、馬を駆った。 
隣家とはいえ、広大なプランテーション農園のこと、火災現場のレナード・キャンベルの屋敷へ着くまでに、十五分はかかった。
レナード・キャンベルの屋敷は、惨状で、修羅場だった。 
火炎は勢いよく空へと吹き上がり、その屋敷を、焼き尽くそうとしていた。 
全てが焼け落ちるまで、もう手の施しようがないことは、すぐにわかった。
それでも、何とか鎮火しようと、奴隷たちが、くみ上げた井戸水を回して、火へとかけたり、主人に命じられた奴隷や使用人たちが、燃え盛る屋敷の中へと駆け込んで、命がけで、数々の宝飾品や骨とう品を、持ち出していた。 
キャンベル夫人と、そのふたりの娘と思われる令嬢は、焼け落ちる屋敷を、茫然と見上げていた。 
「アンヌ」 
名前を呼ばれて振り返ると、ランドルフが馬上にいた。 
アンヌの屋敷から北西に位置するキャンベル氏の屋敷は、モーガン邸からは、北東の場所にあり、アンヌと同様、赤く染まる夜空を見て、ランドルフも、キャンベル邸へと駆け付けたのだった。 
「アンヌ、ここは、もう手の施しようがない。火の粉が飛んできて危ないから、君は、少し、下がっていたほうがいい」
強い風が、火の粉を、辺りにまき散らしていた。 
ランドルフは、馬から降りると、キャンベル夫人に近づき、
「キャンベル夫人、逃げ遅れた人は?」 
そのランドルフの問いに、キャンベル夫人は、力なく、首を振った。 
その時だった。
「奴隷小屋に、飛び火したぞ!」
誰かが、大声で叫んだ。 
「奴隷小屋は、どこですか?」 
アンヌは、そう尋ねると、声の主が指さす方へと、駆けだした。
「アンヌ、アンヌ、待つんだ!」 
ランドルフの声が追いかけて来たが、アンヌは答えずに、奴隷小屋へと走った。 



 アンヌが奴隷小屋へ走りついた時、キャンベル氏の綿花プランテーションで働く、およそ三十人の奴隷の住居である、奴隷小屋に火が移って、燃え広がり始めていた。 
奴隷小屋は、壁続きで、一列に並んでいたため、そのひとつに燃え移れば、火の勢いを止めようがなかった。
ちょうど、奴隷小屋の中央付近に飛んだ火の粉は、あっという間に勢いを増し、両側に広がった。
奴隷たちは、みなキャンベル氏の屋敷の火災を食い止めるため、奔走していて、小屋の中に残っているものはないと思われた。 
が、そこへ、叫び声を上げながら、駆け戻って来る奴隷の女の姿があった。 
「ミリー、ミリー!」 
「中に、誰か残っているのですか?」 
「私の娘が!四歳の・・・、娘が。眠っていたから、そのままにして・・・、ああ、ミリー!神様!」 
奴隷の女は、その場に膝をついた。
「場所を言いなさい!」 
アンヌは、奴隷の女の肩を、強く揺すった。
「奥から二番目の・・・」 
「奥から、二番目・・・、奥から二番目ですね!」 
アンヌは、そう確かめると、激しく燃え盛る奴隷小屋に向かって、駆けだした。 
けれども、その腕を、ぐいっと、強く引っ張られた。 
ランドルフだった。
「取り残された女の子を、助けに行きます。手を放しなさい!」 
一刻の猶予も、ならなかった。 
「奴隷の娘だ。君が行く必要はない」 
「奴隷の娘だから・・・、奴隷の娘だから、助ける必要はない、そう言うのですか!」 
その濃い緑の瞳に、炎が映り、アンヌの怒りが、映った。
「アンヌ・・・」
「あなたがたは、間違っています。間違っているのは、あなたの方です。奴隷であっても、人間です。わたくしたちは、同じ人間なのです。神に与えられた役割が違うだけの、同じ人間なのです。わたくしたちが、奴隷を保有するのならば、わたくしたちには、奴隷たちを貧困や飢えから守り、導く義務があるのです。決して、搾取したり、虐げてはならないのです。それでは・・・、まるで、ミラージュと同じではありませんか!」 
アンヌは、叫ぶようにそう言い、ランドルフの腕を振りきると、そのまま、火の中へと駆け込んで行った。



 アンヌは、すでに火の燃え移った、奥から二番目の奴隷小屋のドアを、引き開けると、中へと駆け込み、
「ミリー、ミリー!」 
その名前を呼んだ。 
中は、さほど、広くはなかった。
直ぐに、女の子の泣き声が耳に入った。 
火に怯える少女が、部屋の片隅にうずくまって、動けなくなっていた。
アンヌは、直ぐに駆け寄って、ミリーを抱き上げると、ドアへ向かった。 
助かる、アンヌがそう思った瞬間、天井の一部が、勢いよく、崩れ落ちて来て、激しい物音を立てた。 
アンヌはミリーを抱きしめて、庇ったが、思わず、その場に膝をついた。 
天井が崩れ落ちると同時に、埃と黒煙が舞い上がり、激しくむせ返った。
アンヌは、立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。 
スカートの裾を、崩れて来た木材に挟み込まれていた。 
アンヌは、スカートの裾を思い切り引っ張ったが、裾は抜けなかった。 
そうこうする間にも、火は、外壁を焼き尽くし、黒煙が一層激しくなる。
肌が、焼けるように熱かった。
その時、
「アンヌ、アンヌ、どこだ!」 
アンヌの名を呼ぶランドルフの声が、耳に届いた。 
そうして、ランドルフは、中央のあたりで、ミリーを抱いたまま、動けなくなっているアンヌを、見つけた。
「アンヌ!」 
ランドルフは、アンヌに駆け寄り、炎の明かりで、スカートの裾が挟まれていることに気が付くと、ぐいっ、と裾を引っ張り上げ、引き千切った。 
そうして、手を貸して、立ち上がらせると、左腕でミリーを抱え、右腕でアンヌの身体を支えて、外へと連れ出した。 
全ては、一瞬の出来事だった。 
表に出た途端、今まで三人がいた小屋の屋根が、全て、崩れ落ちた。 



 三人が、ミリーの母親の座り込む場所まで戻ると、ランドルフの腕の中に、ミリーを見つけた母親は、
「ミリー!ああ・・・、神様、ありがとうございます!」 
顔を涙で、ぐしゃぐしゃにしながら、ミリーに駆け寄って、力いっぱい抱きしめた。 
髪は乱れ、顔もすすで真っ黒に汚れ、スカートの裾が引きちぎられた、いつもの整った身だしなみとは、全く違った姿のアンヌは、母娘の姿を、しばらくじっと見つめ、アンヌの傍らに立つランドルフは、そんなアンヌの姿を黙って見守った。 
アンヌは、やがて、踵を返した。 
「どこへ行くんだ?」 
ランドルフが、アンヌに、声をかけた。
「わたくしの役目は、終わりました。自分の屋敷に、戻ります」
それは、いつもと変わらない静かな声だった。 
そして、いつもと変わらない、凛とした気品に満ちた表情だった。 
ランドルフは、それ以上、かける言葉が見当たらなかった。 
アンヌは、独善的で、高慢で、それでいて、気高く、崇高だった。 
その際立った存在に、ランドルフは、今、どうしようもなく魅了されていた。 
その、心の奥の一番深い部分を鷲掴みにされるような感覚は、ランドルフが、これまで一度も味わったことのないものだった。 

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