5 / 61
1.ミス・クレマン
3
しおりを挟む
アンヌは、新大陸に渡って来てからの数年間を振り返りながら、アンダーソン邸の西側の、少し離れた場所に茂る木々に沿って、ゆっくりと散歩をしていた。
アンダーソン邸を離れて、十分以上が過ぎ、身体から熱気が冷めて来たのか、アンヌは、身震いをした。
四月初旬のまだ冷たい夜風が、上着を羽織っていない肩や首元を、刺した。
そろそろ、邸宅に戻った方がよさそうだと、来た道を戻ろうとした時、くぐもった声が、微かにアンヌの耳に入った。
こんな人気のない場所に、人の声がするはずがなく、アンヌは最初、聞き違えかと思った。
そうこうするうちに、今度ははっきりと、聞こえた。
若い女の、泣き声が。
アンヌは、すぐさま、その声のする方へと足を向けた。
「静かにしろ、このアマ」
「なにぐずぐずしてんだ、さっさとやっちまえよ」
男たちの話し声が、アンヌの耳に入って来た。
さらに歩みを進めると、木々の茂みに、人の姿が目に入った。
「そこで、何をしているのですか」
アンヌの厳しい声が、響き渡った。
地面に這いつくばる様にしていた男と、膝立ちになっていた男は、はっ、とアンヌの方を振り返った。
地面に這いつくばる様にしていた男の、身体の下には、胸元をはだかれて、すすり泣く若い女の姿があった。
アンヌは、それが奴隷の女だということ、そして、何が行われようとしていたのか、すぐに理解した。
男の身体の傍にあった小さな灯りが、その様子を、まざまざと照らし出していた。
「今すぐ、そこをどきなさい」
怒りの籠った声で、アンヌは男たちに命令した。
その威厳の籠る声に、男たちは、従わざるを得なかった。
アンヌは、奴隷の女に近寄ると、はだけた胸を合わせて、立ち上がらせ、背中の土を払った。
まだ、何も始まってはなかったことを確信して、安堵すると、行きなさいと、背中を押して、すぐに立ち去らせた。
「恥を知りなさい」
アンヌも、男たちにそう言い捨てて、踵を返した。
「おおっと、ちょっと待てよ」
膝立ちになっていた、年かさの男が、アンヌの背後から、そう声をかけた。
アンヌは、振り返ると、黙って、声をかけた男の眼を見つめた。
「これは、これは・・・、誰かと思えば、アンヌ嬢じゃないか」
アンヌは、名前を呼ばれて、怪訝な面持ちになった。
男の顔に見覚えはなかった。
「ふん、もう、忘れたのか?あんたがクビにした男だよ」
それで、アンヌはようやく思い出した。
それが、かつて、アンヌの農園で働いていた農園監督者、ケネスだということに。
「こんなところで、あんたに会うとは・・・、これもなにかの縁だ」
ケネスは、瞳に、下卑た笑みを浮かべて、アンヌに近づいてきた。
ケネスがここにいるということは、今はアンダーソン家で雇われているに違いなかったが、歳月を経ても、アンヌの農園で働いていた頃と、その性根は変わっていないということが、アンヌには良く分かった。
ケネスは、アンヌの頬に、顔を近づけて、無遠慮に眺めまわした。
酒臭い息が、アンヌの頬にかかった。
「無礼は、許しません」
「無礼は、許さないって?面白れえ。このアマ、二度とそんな傲慢な口を、聞けなくしてやる」
きっぱり言い切るアンヌの腕を、ケネスは、力任せに、ぐいっ、と掴んだ。
「なあ、ケネス。いくら何でも、まずいぜ。その女は、上流階級の女だろ。奴隷の女をやるのとは訳が違う。もしこんなことがばれたら、俺たちは、縛り首だ」
まだ二十代に見える、若い男の声は、明らかに動揺していた。
「へっ、この女は、大丈夫だ。この傲慢な女は、誰からも嫌われてるんだよ。上流階級の方々からは、仲間外れさ。この女をやったところで、庇う奴なんかいやしないぜ。ベアトリス様は、ずいぶん情けをかけてるみたいだが・・・、俺たちが口を割らなけりゃ、どうにでもなる」
と、ケネスが、アンヌのドレスに掴みかかろうとした時だった。
「そこで何をしている?」
低い、男の声がした。
そして、声の主である、ずいぶんと上背のある男は、アンヌとケネスのいる方へ、灯りをかざし、近づいて来た。
「そこで、何をしている?お前は・・・、確か、アンダーソン家の使用人だな」
「ランドルフ様・・・」
やってきた男の顔を見て、ケネスは、そう呟いた。
「お前たち、こんな場所に、若い貴婦人を連れ込んで、ただではすまないぞ」
ケネスと、もうひとり若い男の顔が、明らかに強張った。
「この件については、お前たちの主人に報告する。重い処分があると覚悟しろ。さっさと、歩け」
ランドルフは、そう告げると、ケネスと、若い男の背を押した。
「ランドルフ様、これには訳が・・・」
「訳は、屋敷に戻ってから、お前たちの主人と一緒に聞く。いいから、さっさと歩け」
「訳は、今、わたくしが話します」
男たちの押し問答を遮ったのは、アンヌだった。
「その者たちは、わたくしを、案内してきたのです」
「何だって?」
ランドルフは、怪訝な面持ちで、アンヌを振り返った。
「わたくしは先ほどまで、ベアトリス様の誕生会に出席しておりました。けれども、窓から、ずいぶんと、広大な美しい庭園が眼に入って、少し歩いてみたくなりました。それで、外に出たところ、偶然居合わせたこの者たちに、案内を頼んだのです」
「この男たちを、庇う理由は?」
ランドルフは、最初から、そんな話を信用しなかった。
「今、この場で争いごとは望みません。ベアトリス様の宴に、水を差すことになります」
「あなたは、それで、納得できるのか?」
こういった事態に関わらず、アンヌに全く取り乱した様子が全くないことが、ランドルフには不思議だった。
「わたくしが、それでいいと言っているのです」
それでも、ひと時、ランドルフは躊躇していたが、
「いいだろう、行け」
と、二人の男を、解放した。
男たちは、直ぐに、その場から立ち去った。
ランドルフは、アンヌに灯りをかざすと、その顔を伺った。
そして、それが、アンヌだと気づくと、ああ、と小さな声を上げ、
「君だったのか」
と、少し驚いた様子で言った。
アンヌは、先ほどケネスが、ランドルフ様、と、呟いたとき、その男が、アンヌの農園の隣人で、アンヌと同じく、綿花プランテーションを経営する、モーガン家の長男、ランドルフ・モーガンだと言うことに、気が付いた。
隣人とはいっても、モーガン家は、七百エーカーを所有する大農園主で、アンヌの屋敷からモーガン家の邸宅までは、馬で三十分は、かかるのだったが。
アンヌと、ランドルフは、お互い面識がないわけではなかった。
アンヌが、社交界を倦厭していたとはいえ、綿花の農園を経営する以上、同業者や、商売人たちとの付き合いというものがあったため、上流階級との交流は皆無ではなかった。
現に今夜も、ベアトリスの誕生会に招かれれば、断ることは出来ず、形だけとはいえ、出席をしていた。
そういった折に、ベアトリスと並んで、アウラの社交界の中心人物である、マーガレット・モーガンと一緒に、ランドルフがいるのを、見かけることがあった。
ランドルフは、マーガレット・モーガンの一人息子だった。
モーガン家は、ランドルフとその父、母、そして、父親の弟一家で、七百エーカーの大規模な綿花農園を所有し、七十名に及ぶ奴隷と、四十頭もの家畜を所有する、大農園だった。
ランドルフの父の弟、つまり叔父には、二十代の二人の息子と、娘が一人いて、いずれも、農園内に邸宅を建てて住み、プランテーション経営に携わっていた。
ランドルフと、三人の従兄弟たちは、小さなころから、兄弟同然に育ち、まさしく、家族ぐるみの固い結束力で、プランテーションを経営するモーガン一族にとって、経営の先行きに、何の陰りもなかった。
ただ、モーガン家の嫡男、ランドルフに関して言うならば、五年ほど前に、結婚して二年にしかならない妻と死別したと、アンヌは聞いたことがあった。
最も、アンヌにとって、そういったことは関心のない話で、今、ランドルフの顔を見て、思い出したくらいのことだった。
ランドルフの持つ灯りひとつの暗がりの中で、その顔を伺ったかぎりでは、三十歳くらいに見えたが、実際は、それより若いのか、年上なのか、アンヌは知らなかった。
アンヌと同様、ランドルフも、社交的な方ではないのか、パーティーなどで、見かけることは少なく、出席していたとしても、ランドルフの方からアンヌに話しかけてくることもなかった。
アンヌの記憶にある限り、ランドルフもアンヌほどではないにせよ、そういう華やかな社交の場にいても、静かに佇んでいることが多いような気がした。
「なぜここへ来たのです?」
「窓から、邸宅を離れて歩く人影が見えた。男なら放っておいたが、どうも、婦人のような気がした。もし、逢引きだったら、無粋な真似はしたくなかったんだが、どうも、気になって、後を追ってみたんだ。後を追ってみて、良かったよ」
「身に危険が及ぶところを助けていただいて、感謝します」
アンヌは、静かにそう告げると、会釈をして、ランドルフの前を行き過ぎた。
ランドルフと一緒に、アンダーソン邸に戻るつもりは、なかった。
社交界の中心人物、マーガレット・モーガンの息子と一緒にいたところが、誰かの眼についたら、何を噂されるか、知れなかった。
「君は、怖くなかったの?」
「怖い?」
アンヌは、歩みを止めて、振り返った。
「さっきの男たちだよ。今、君は、襲われかけたんだ。僕が来なかったら、君は確実に襲われていた。それが、婦人にとって、どれほど酷くて、屈辱的な事態か、わからないのか?僕が、君の父親か兄だったら、君の軽率な行動を、厳しく叱るよ」
「覚悟はできています」
「覚悟?」
「もし、そのようなことがあれば、自害します」
「・・・本気?」
驚いて、ランドルフが思わずそう問い返した時、突如、雲の切れ間から、月明かりが届いた。
満ちた月は、眩いほど明るく輝き、幻想的な光に、アンヌの姿が、浮かび上がった。
その高い背丈で、すらりと引き締まった体つきに、女性らしい柔らかさはなかった。
ランドルフをじっと見つめる、深い緑色の瞳は、女性が持つ穏やかさとは無縁で、一縷の隙もなく、聡明で、理知的で、そして、強い意志が込められていた。
夜会風にまとめた、豊かな黒みがかった茶色の髪は、月の光を浴びて、艶やかに輝き、 瞳と同じ色のドレスをまとった、誇り高い姿は、神秘的ですらあった。
ランドルフは、そのアンヌの姿に、眼を奪われた。
少なくとも、ランドルフは、これまで、アンヌのような女性に出会ったことはなかった。
「偽りは言いません。もしも、あの者たちの手にかかっていたなら、わたくしは、即刻、自害します」
「君には・・・、返す言葉がない」
それは、アンヌの物言いに対しての言葉ではなかった。
今、そう話す瞬間も、ランドルフは、アンヌの姿に心奪われたままだったのだから。
が、再び、月が雲に閉ざされて、アンヌを照らすのは、ランドルフの持つ、小さな灯りだけとなった。
「アンダーソン邸へ戻ります」
「一緒に戻るよ」
「いいえ、わたくしはひとりで帰ります。失礼します、ランドルフ様」
アンヌは、そう答えると、ランドルフの返事は待たずに、踵を返した。
暗闇の中、ランドルフは、アンヌの地面を踏みしめて歩く足音を、聞いていた。
風向きが変わったのか、ふいに、甘い香りがランドルフの鼻をついた。
その甘い香りに、ランドルフは覚えがあった。
初夏に咲くガーデニアの花の香だった。
なぜ、この時分に、この香りが・・・。
一瞬、ランドルフは、そう思った。
けれども、すぐに、気づいた。
それが、アンヌの残り香だということに。
アンダーソン邸を離れて、十分以上が過ぎ、身体から熱気が冷めて来たのか、アンヌは、身震いをした。
四月初旬のまだ冷たい夜風が、上着を羽織っていない肩や首元を、刺した。
そろそろ、邸宅に戻った方がよさそうだと、来た道を戻ろうとした時、くぐもった声が、微かにアンヌの耳に入った。
こんな人気のない場所に、人の声がするはずがなく、アンヌは最初、聞き違えかと思った。
そうこうするうちに、今度ははっきりと、聞こえた。
若い女の、泣き声が。
アンヌは、すぐさま、その声のする方へと足を向けた。
「静かにしろ、このアマ」
「なにぐずぐずしてんだ、さっさとやっちまえよ」
男たちの話し声が、アンヌの耳に入って来た。
さらに歩みを進めると、木々の茂みに、人の姿が目に入った。
「そこで、何をしているのですか」
アンヌの厳しい声が、響き渡った。
地面に這いつくばる様にしていた男と、膝立ちになっていた男は、はっ、とアンヌの方を振り返った。
地面に這いつくばる様にしていた男の、身体の下には、胸元をはだかれて、すすり泣く若い女の姿があった。
アンヌは、それが奴隷の女だということ、そして、何が行われようとしていたのか、すぐに理解した。
男の身体の傍にあった小さな灯りが、その様子を、まざまざと照らし出していた。
「今すぐ、そこをどきなさい」
怒りの籠った声で、アンヌは男たちに命令した。
その威厳の籠る声に、男たちは、従わざるを得なかった。
アンヌは、奴隷の女に近寄ると、はだけた胸を合わせて、立ち上がらせ、背中の土を払った。
まだ、何も始まってはなかったことを確信して、安堵すると、行きなさいと、背中を押して、すぐに立ち去らせた。
「恥を知りなさい」
アンヌも、男たちにそう言い捨てて、踵を返した。
「おおっと、ちょっと待てよ」
膝立ちになっていた、年かさの男が、アンヌの背後から、そう声をかけた。
アンヌは、振り返ると、黙って、声をかけた男の眼を見つめた。
「これは、これは・・・、誰かと思えば、アンヌ嬢じゃないか」
アンヌは、名前を呼ばれて、怪訝な面持ちになった。
男の顔に見覚えはなかった。
「ふん、もう、忘れたのか?あんたがクビにした男だよ」
それで、アンヌはようやく思い出した。
それが、かつて、アンヌの農園で働いていた農園監督者、ケネスだということに。
「こんなところで、あんたに会うとは・・・、これもなにかの縁だ」
ケネスは、瞳に、下卑た笑みを浮かべて、アンヌに近づいてきた。
ケネスがここにいるということは、今はアンダーソン家で雇われているに違いなかったが、歳月を経ても、アンヌの農園で働いていた頃と、その性根は変わっていないということが、アンヌには良く分かった。
ケネスは、アンヌの頬に、顔を近づけて、無遠慮に眺めまわした。
酒臭い息が、アンヌの頬にかかった。
「無礼は、許しません」
「無礼は、許さないって?面白れえ。このアマ、二度とそんな傲慢な口を、聞けなくしてやる」
きっぱり言い切るアンヌの腕を、ケネスは、力任せに、ぐいっ、と掴んだ。
「なあ、ケネス。いくら何でも、まずいぜ。その女は、上流階級の女だろ。奴隷の女をやるのとは訳が違う。もしこんなことがばれたら、俺たちは、縛り首だ」
まだ二十代に見える、若い男の声は、明らかに動揺していた。
「へっ、この女は、大丈夫だ。この傲慢な女は、誰からも嫌われてるんだよ。上流階級の方々からは、仲間外れさ。この女をやったところで、庇う奴なんかいやしないぜ。ベアトリス様は、ずいぶん情けをかけてるみたいだが・・・、俺たちが口を割らなけりゃ、どうにでもなる」
と、ケネスが、アンヌのドレスに掴みかかろうとした時だった。
「そこで何をしている?」
低い、男の声がした。
そして、声の主である、ずいぶんと上背のある男は、アンヌとケネスのいる方へ、灯りをかざし、近づいて来た。
「そこで、何をしている?お前は・・・、確か、アンダーソン家の使用人だな」
「ランドルフ様・・・」
やってきた男の顔を見て、ケネスは、そう呟いた。
「お前たち、こんな場所に、若い貴婦人を連れ込んで、ただではすまないぞ」
ケネスと、もうひとり若い男の顔が、明らかに強張った。
「この件については、お前たちの主人に報告する。重い処分があると覚悟しろ。さっさと、歩け」
ランドルフは、そう告げると、ケネスと、若い男の背を押した。
「ランドルフ様、これには訳が・・・」
「訳は、屋敷に戻ってから、お前たちの主人と一緒に聞く。いいから、さっさと歩け」
「訳は、今、わたくしが話します」
男たちの押し問答を遮ったのは、アンヌだった。
「その者たちは、わたくしを、案内してきたのです」
「何だって?」
ランドルフは、怪訝な面持ちで、アンヌを振り返った。
「わたくしは先ほどまで、ベアトリス様の誕生会に出席しておりました。けれども、窓から、ずいぶんと、広大な美しい庭園が眼に入って、少し歩いてみたくなりました。それで、外に出たところ、偶然居合わせたこの者たちに、案内を頼んだのです」
「この男たちを、庇う理由は?」
ランドルフは、最初から、そんな話を信用しなかった。
「今、この場で争いごとは望みません。ベアトリス様の宴に、水を差すことになります」
「あなたは、それで、納得できるのか?」
こういった事態に関わらず、アンヌに全く取り乱した様子が全くないことが、ランドルフには不思議だった。
「わたくしが、それでいいと言っているのです」
それでも、ひと時、ランドルフは躊躇していたが、
「いいだろう、行け」
と、二人の男を、解放した。
男たちは、直ぐに、その場から立ち去った。
ランドルフは、アンヌに灯りをかざすと、その顔を伺った。
そして、それが、アンヌだと気づくと、ああ、と小さな声を上げ、
「君だったのか」
と、少し驚いた様子で言った。
アンヌは、先ほどケネスが、ランドルフ様、と、呟いたとき、その男が、アンヌの農園の隣人で、アンヌと同じく、綿花プランテーションを経営する、モーガン家の長男、ランドルフ・モーガンだと言うことに、気が付いた。
隣人とはいっても、モーガン家は、七百エーカーを所有する大農園主で、アンヌの屋敷からモーガン家の邸宅までは、馬で三十分は、かかるのだったが。
アンヌと、ランドルフは、お互い面識がないわけではなかった。
アンヌが、社交界を倦厭していたとはいえ、綿花の農園を経営する以上、同業者や、商売人たちとの付き合いというものがあったため、上流階級との交流は皆無ではなかった。
現に今夜も、ベアトリスの誕生会に招かれれば、断ることは出来ず、形だけとはいえ、出席をしていた。
そういった折に、ベアトリスと並んで、アウラの社交界の中心人物である、マーガレット・モーガンと一緒に、ランドルフがいるのを、見かけることがあった。
ランドルフは、マーガレット・モーガンの一人息子だった。
モーガン家は、ランドルフとその父、母、そして、父親の弟一家で、七百エーカーの大規模な綿花農園を所有し、七十名に及ぶ奴隷と、四十頭もの家畜を所有する、大農園だった。
ランドルフの父の弟、つまり叔父には、二十代の二人の息子と、娘が一人いて、いずれも、農園内に邸宅を建てて住み、プランテーション経営に携わっていた。
ランドルフと、三人の従兄弟たちは、小さなころから、兄弟同然に育ち、まさしく、家族ぐるみの固い結束力で、プランテーションを経営するモーガン一族にとって、経営の先行きに、何の陰りもなかった。
ただ、モーガン家の嫡男、ランドルフに関して言うならば、五年ほど前に、結婚して二年にしかならない妻と死別したと、アンヌは聞いたことがあった。
最も、アンヌにとって、そういったことは関心のない話で、今、ランドルフの顔を見て、思い出したくらいのことだった。
ランドルフの持つ灯りひとつの暗がりの中で、その顔を伺ったかぎりでは、三十歳くらいに見えたが、実際は、それより若いのか、年上なのか、アンヌは知らなかった。
アンヌと同様、ランドルフも、社交的な方ではないのか、パーティーなどで、見かけることは少なく、出席していたとしても、ランドルフの方からアンヌに話しかけてくることもなかった。
アンヌの記憶にある限り、ランドルフもアンヌほどではないにせよ、そういう華やかな社交の場にいても、静かに佇んでいることが多いような気がした。
「なぜここへ来たのです?」
「窓から、邸宅を離れて歩く人影が見えた。男なら放っておいたが、どうも、婦人のような気がした。もし、逢引きだったら、無粋な真似はしたくなかったんだが、どうも、気になって、後を追ってみたんだ。後を追ってみて、良かったよ」
「身に危険が及ぶところを助けていただいて、感謝します」
アンヌは、静かにそう告げると、会釈をして、ランドルフの前を行き過ぎた。
ランドルフと一緒に、アンダーソン邸に戻るつもりは、なかった。
社交界の中心人物、マーガレット・モーガンの息子と一緒にいたところが、誰かの眼についたら、何を噂されるか、知れなかった。
「君は、怖くなかったの?」
「怖い?」
アンヌは、歩みを止めて、振り返った。
「さっきの男たちだよ。今、君は、襲われかけたんだ。僕が来なかったら、君は確実に襲われていた。それが、婦人にとって、どれほど酷くて、屈辱的な事態か、わからないのか?僕が、君の父親か兄だったら、君の軽率な行動を、厳しく叱るよ」
「覚悟はできています」
「覚悟?」
「もし、そのようなことがあれば、自害します」
「・・・本気?」
驚いて、ランドルフが思わずそう問い返した時、突如、雲の切れ間から、月明かりが届いた。
満ちた月は、眩いほど明るく輝き、幻想的な光に、アンヌの姿が、浮かび上がった。
その高い背丈で、すらりと引き締まった体つきに、女性らしい柔らかさはなかった。
ランドルフをじっと見つめる、深い緑色の瞳は、女性が持つ穏やかさとは無縁で、一縷の隙もなく、聡明で、理知的で、そして、強い意志が込められていた。
夜会風にまとめた、豊かな黒みがかった茶色の髪は、月の光を浴びて、艶やかに輝き、 瞳と同じ色のドレスをまとった、誇り高い姿は、神秘的ですらあった。
ランドルフは、そのアンヌの姿に、眼を奪われた。
少なくとも、ランドルフは、これまで、アンヌのような女性に出会ったことはなかった。
「偽りは言いません。もしも、あの者たちの手にかかっていたなら、わたくしは、即刻、自害します」
「君には・・・、返す言葉がない」
それは、アンヌの物言いに対しての言葉ではなかった。
今、そう話す瞬間も、ランドルフは、アンヌの姿に心奪われたままだったのだから。
が、再び、月が雲に閉ざされて、アンヌを照らすのは、ランドルフの持つ、小さな灯りだけとなった。
「アンダーソン邸へ戻ります」
「一緒に戻るよ」
「いいえ、わたくしはひとりで帰ります。失礼します、ランドルフ様」
アンヌは、そう答えると、ランドルフの返事は待たずに、踵を返した。
暗闇の中、ランドルフは、アンヌの地面を踏みしめて歩く足音を、聞いていた。
風向きが変わったのか、ふいに、甘い香りがランドルフの鼻をついた。
その甘い香りに、ランドルフは覚えがあった。
初夏に咲くガーデニアの花の香だった。
なぜ、この時分に、この香りが・・・。
一瞬、ランドルフは、そう思った。
けれども、すぐに、気づいた。
それが、アンヌの残り香だということに。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
マッサージ
えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる