桜の舞う時

唯川さくら

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落園

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それから数日後、奈々は鞄を手に映画館へと足を運んでいた。

“奈々ちゃんがもし、物語を書く事があったら…いつか、それを僕が活動写真にしたいものだよ。”

“将来は、監督になりたいと思っているんだ。初の作品が奈々ちゃんの作品なら、これほど光栄な事はないよ。”

映画監督を夢見る龍二の、そんな微かな希望を形に出来るとすれば、確実に自分しかいない。強大な歴史の渦に飲まれていく望みを、ほんの1秒でも繋ぎ止めておける可能性が1%でもあるのなら、奈々の踏み出す小さな1歩は大きな意味がある。そうは思っても、奈々は物語を書いた経験もなければ、作り話さえした事がない。文を書いた経験と言えば、夏休みの作文程度だ。数日間アトリエで1人頭を抱えていても、まるで何も浮かんではこない。小説を書く人というのは、一体どこから独特の発想を呼び起こすのか…それは全く謎のままだった。
鞄の中に入っていたルーズリーフに一文字も書けないまま数日が過ぎて、このままではラチがあかないと思った奈々は、思い切って龍二にヒントをもらいに出かけたのだった。

いつも龍二に会う関係者入口のドアを叩くと、すぐにドアが開いて中から龍二が姿を現したのだが、目を疑うような異様な形相に奈々は一瞬言葉を失った。
爽やかな好青年だったはずの龍二の目元には黒いクマが出来、頬も若干こけている。やつれきった顔なのは一目瞭然だ。しかし龍二は精一杯いつも通りを装って、

『いらっしゃい。どうぞ。』

そう言って、奈々を迎えた。しかし、声は弱々しくて覇気が全くなく、喉から振り絞っているのがよく分かる。
奈々は戸惑って暴れだしそうな心臓を落ち着かせて、控え室へと入って行った。相変わらず散らかっていて埃っぽくはあるが、何だかその散らかり具合も違和感を感じる。

『…龍兄、大丈夫?すごいやつれてない?』

奈々は恐る恐る龍二にそう尋ねた。龍二はやっとの思いで、テーブルを挟んだ奈々の向かいに腰かけて大きく息を吐くと、うつろな目を奈々に向けて今にも消え入りそうなか細い声で言った。

『…心配かけてごめんね。まだ、体調が戻ってないんだ。』

そう言葉を紡ぐ口元は、不自然なほどに震えていて、呂律も回らないまま朦朧としているように思える。

『寒いの?』

『…少し、寒気がするけど大丈夫。』

今日は、いよいよ夏を思わせるような暑い日だ。窓から差し込む日差しも強く、室内は少し蒸し暑い。半袖でも暑いぐらいなのに寒いとは、よほど体調が悪いのだろう。青ざめた顔で震える龍二を見ていると、ますます心配になってしまった。

『ってか、ご飯食べてる?超痩せたよね?』

『食欲がなくてね。でも、配給の食料も少なくなってきているし…。丁度いいよ。食べないぐらいが。』

『えっ…?』

違和感を感じる、破滅的なポジティブさだ…奈々はそう感じて、何だか得体の知れない嫌な予感が頭の中に広がっていった。目の下のクマといい、ろくに寝てもいないし食べてもいない生活をしている事は明白だ。それなのに、やけに龍二はふわふわと気分が良さそうで、笑う顔も柔らかい。第二乙種合格のショックで眠れないにしても、本当にただの体調不良なのだろうか…?訝し気に龍二を見つめる奈々の想いをよそに龍二は突然立ち上がって、部屋の中にある物を片っ端から手に取って眺めながらうろうろと歩き回り、呂律の回らないまま言葉を零した。

『今日は、一体どうしたんだい?』

『…あぁ…いや、龍兄に聞きたい事があって…。』

奈々は戸惑いを隠せないまま、鞄からルーズリーフの袋とボールペンを取り出して机の上に置くと、袋から1枚紙を取り出した。その時、ちょうど間に挟まっていたらしいわら半紙が一緒に袋から飛び出してきたのだが、おそらく授業で使ったものをそのまま入れっぱなしにしていたのだろうと、奈々はそれを気にも止めずにまた袋の中に戻して、龍二に問いかけた。

『龍兄の1番好きなものって、何?』

『…1番好きな物?』

『うん。ちょっと…参考にね。聞こうかなって思って。』

奈々はボールペンを握ってメモを取る姿勢を取って、龍二を見つめていた。なぜか、龍二は部屋の中を落ち着きなくウロウロと歩き回りながら、時々考え込むように俯いている。奈々はそんな龍二の姿を目で追いながら、訝しげな表情を浮かべた。
こんな事は、今までなかった。座ればいいのに、なぜずっと落ち着きなく歩き回っているのだろう?そうは思っても、得に気にする事もないかもしれないという思いも相まって、奈々は気にしないように極めて自然に努めた。

『…タンポポかな。』

『タンポポ?』

『うん。奈々ちゃんは知っているかい?あの桜山の頂上には、もう1つの顔があってね。街を見下ろす反対側に、綺麗なタンポポの丘が広がる季節があるんだよ。』

龍二はそう言って、どこか遠くを見つめるかのような目をしながら、奈々の目の前に腰かけた。それでも、何か焦躁感に襲われているかのように、足元は落ち着きなく貧乏揺すりを繰り返している。

『あぁ…一面が黄色い絨毯を敷いたみたいに、タンポポだらけになるよね。』

『そう。僕はあの場所がすごく好きなんだ。』

『なるほどね。何で、タンポポが好きなの?』

奈々のその問いかけに、龍二はしばらく考え込んだ。不自然な沈黙が辺りを包んで、どこか気まずくさえ思える。こんな風に妙な間が空いた事なんて、今まではなかったはずだ。もしかして、自分の気にしすぎなんだろうか?それとも、龍二は体調不良のせいで、頭がぼんやりしているのだろうか?そんな風に思った。

『奈々ちゃんは、“桜は空に憧れたんだ”と言っていたね。』

『あぁ…うん…。』

『僕は、あの発想が好きでね。』

『あははっ…。あんなの、偶然の産物だよ。』

『偶然そんな発想が浮かぶなんて、僕はすごいと思うけどな。才能が生み出した“必然”なのかもしれないだろう?』

龍二はどこか恍惚な表情を浮かべながら、うつろな視線を宙に向けてそう言った。その姿は、どこか“ここにいる”のではなく、“この空間に漂っている”と言っても過言ではないような、ひどくぼんやりとしていて曖昧なものに感じた。
そんな奈々の気も知らず、龍二は呂律が回らないまま話を続けた。

『タンポポは、雲に憧れたのかもしれないなってね…思ったんだよ。』

『…あぁ~。白くてふわふわ飛んでるもんね。』

『そう。地面に根っこを張っているんじゃなくて、自由に空に浮かんでみたかったのかもしれない。…1番好きな場所に咲くタンポポを見て、僕はそう思ったんだ。』

『そっか…。龍兄は、桜山のもう1つの顔が好きなんだね。』

『うん。…あそこは、“約束の場所”なんだ。』

『約束って?』

『…1番大切な人と、あの場所で約束をしたんだ。』

『…伊吹さんと?』

奈々は、心にチクリと棘が刺さったような気がした。どこか幸せそうにも見える龍二の、その深い想いの果てを知っているからなのだと思った。自分が存在する限り、龍二の想いが実らないという悲恋の結末は変わらない。これほどの皮肉は他にあるだろうか?本当に神様がいるのなら、どこまで運命に翻弄させれば気が済むのだろうか?そう苦々しく思って、奈々は少し俯いて目を伏せた。

『…僕が好きなタンポポの、そういう発想の話を書いてくれたら、嬉しいなって思うけど。この時代に、そういう物語はないからね。』

『…なるほどね。』

『あくまでも僕個人の意見だから、奈々ちゃんの発想に任せるよ。』

『分かった。ちょっと考えてみるね。』

雪斗の言う通り、これから先の事を案じていても、きっと何も変わらないのだろう。自分は映画のヒーローのように、未来を変える力もなければ国を動かす力もない。そんな事は、ここにきて嫌になるほど身にしみている。それならば…結末を変える事が出来ないのならば、それまでの道のりを少しでも鮮やかに彩るのが、この時代に来てしまった自分のやるべき事なのかもしれない。奈々はそう思って、強く頷いた。

『龍兄、ありがとう。仕事中にごめんね。』

『いいよ。店番みたいなものだから。いつでも遊びにおいで。』

『うん…。』

奈々はそう言うと、メモを取ったルーズリーフを鞄にしまって椅子から立ち上がった。それだけで足元の埃はふわふわと宙を舞い、部屋の中が白くもやがかかったようになる気がして、くしゃみが出そうになる。至る所に転がっている小さな部品を踏まないように慎重に部屋を出ると、傾きかけた太陽が急に奈々の顔を照らして、奈々は思わずしかめっ面をして目を細めた。その後ろで、龍二は棚につかまりながら立ち上がり、壁に手を付きながら奈々を見送ろうと出入り口の所まで出てきていた。

『あたし、頑張るからさ…龍兄、体大事にしてね?無理しちゃダメだよ?』

『うん。ありがとう。』

『じゃあ、またね。お大事にね。』

奈々はそう言って手を振ると、龍二に背を向けてとぼとぼと歩き出した。何だか物語にするには難しそうなお題を出されてはしまったが、テーマが絞れただけでも良かったのかもしれない。せっかくなら、龍二が好きなものを題材にしたいと思ったのは、奈々にとってそんな事ぐらいしか出来ないからだ。それでも、龍二の希望になれるなら…そう思って、奈々が前を向いて意気込んだ瞬間だった。
一瞬、何かが爆発したのかと思った。耳をつんざくような破壊的な音が、今しがた後にしたはずの控え室から聞こえてきて、奈々は驚いて足を止めた。恐る恐る振り返って、龍二が閉めたドアを凝視してみる。間違いなく、音はあの中から聞こえてきたはずだ。先程から頭の中にへばりついたままの嫌な予感が一気に増大して、奈々は慌てて控え室に走った。

『龍兄!どうしたの!?』

この胸騒ぎは、忌々しい空襲の日、防空壕で光がいない事に気がついた時のものに良く似ている…。直感、奈々はドアを開けるのが怖かった。ノブを持つ手が震えている。でも、何かあったのだとしたら…。現に、呼びかけても龍二の返事が聞こえてこない。奈々は唇を噛みしめて、思い切りドアを開けた。

『…龍兄…?』

奈々の目の前に広がった光景は、異様すぎるものだった。
埃が舞ってもやがかかったような空間の中、棚はなぎ倒され、テーブルは先程あった位置から大きくずれて、壁際に横倒しになっている。ありとあらゆるものが散乱している中で、龍二は肩で呼吸をしながら奈々に背を向けた状態で、控え室の中心に立ち尽くしていた。
一体何が起きたのか分からなくて、奈々は言葉が出てこなかった。ただ、その光景を前に愕然とするしか出来なかった。何分にも思えるようなしばしの沈黙の後、龍二はまるで体内から魂が抜けるようにゆらゆらと揺らめきながら、足元からその場に崩れ落ちた。

『龍兄!!』

奈々は思わず駆け寄って、仰向けになった龍二の体を両腕で起こして必死に声をかけた。震える唇からは、微かに泡を吹いているように見える。

『何!?どうしたの龍兄!!ねぇっ!!』

意識が混濁している龍二に、奈々は泣き叫ぶように声をかけた。何度体を揺すっても、龍二はぐったりとして動かない。
奈々は咄嗟に鞄から携帯電話を取り出して、震える手で開いてボタンに手をかけた。

『…救急車…。…あっ…。』

119番を押そうと手をかけた瞬間、現実が蘇る。この時代に、救急車なんてものは存在しない。まして、この携帯電話はこの時代では使えない。公衆電話もあるはずがないし、どうしたら電話がかけられるのかも、どこに電話をしていいのかも分からない。急病人が出た時、この時代ではどうしていたのか…そんな事は、知るはずがなかった。

『龍兄!しっかりして!』

涙目になりながら、奈々は龍二の頬を何度も叩いた。最悪の事態が脳裏に浮かぶ。あぁ、また自分は、目の前で時代の犠牲になる人を守れなかった…そんな悪魔のささやきが、すぐ耳元で聞こえる気がする。奈々の悲痛な叫びは、またも天には届かないのか…そう思って、奈々が涙に顔を歪めたその時、龍二の瞼が開いて、うつろな瞳が天を仰いだ。瞳孔が開き、呼吸は荒い。先程まで寒いと言っていたはずなのに、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

『…龍兄…?大丈夫?』

奈々のその問いかけは、時間を置いて龍二に届いたようだった。首を少し傾けて、微かに唇を動かして何かを言っているようではあるが、その言葉は全く聞きとる事が出来ない。

『龍兄!分かる?あたしだよ?』

『…ちゃん…ごめ…ね…。』

しばらく、奈々は何も言わずにそのまま龍二の体を抱えるようにして、物が散乱した部屋の中に座りこんでいた。龍二の呼吸も、徐々に落ち着いてきている。だんだんと意識も戻ってきているようだ。瞳孔の開いた目で天井を見つめたまま、ごそごそを手を動かして、ポケットにあった緑色の小瓶を取り出すと、錠剤を2つほど出して口に放り込んだ。おそらく、風邪薬か何かなのだろう。奈々はそう思って、たまたま倒れずに置いてあったやかんに手を伸ばし、やかんの口を龍二の口元に当てた。龍二は中に入っていた水で錠剤を飲み込むと、妙に安堵した表情を浮かべて大きく息を吐いて起き上がった。

『…大丈夫?何があったの?』

『ごめんね…。ふらついた拍子に、色々倒しちゃったみたいで…。』

その言葉に、奈々は強い違和感を感じた。ふらついただけで、棚まで倒れるだろうか?仮に倒れてしまったのだとしても、龍二が棚と一緒に倒れるでもなく立ち尽くしていた説明がつかない。
それに、必要以上にものが散乱しすぎている。なぎ倒されたかのようなテーブルに、壁に空いた大きな穴。そして叩き割ったかのような湯のみの破片を見て、奈々はこの部屋に入った瞬間に感じた違和感にも納得がいくような気がした。きっと、これが初めてではないのだろう。以前にもこういう事があったせいで、片付けきれていない壊れた物の破片や部品までもが落ちていたのだ。

『…龍兄…本当にただの体調不良?』

『…本当だよ…。』

『あたしにだけは、ちゃんと話して。』

『…本当だって。もう大丈夫。』

『だって、おかしいじゃん。ただの体調不良にしちゃあ…』

『伊吹には言わないでおいてくれるかい?心配をかけたくないんだ。』

奈々の言葉を遮って龍二が何かを言うなんて事は初めてだった。それだけではなく、会話のつじつまが合っていない。何かがおかしい…奈々の脳内にへばりついた嫌な予感は、許容量を遥かに超えて脳内に浸食していく。

『…龍兄…あたしの話、聞いてる?』

『伊吹にだけは言わないと、約束してくれないかい?』

『ねぇ…龍兄?』

『頼むから…お願いだから…。』

こんなに会話が噛みあわないのが、体調不良のせいなのだろうか?少なくとも、奈々はそうは思えなかった。でも、龍二が奈々の話さえも遮って伝えたい事なら…。

『…分かった…。絶対言わない。』

『…ありがとう…。』

奈々のその言葉に、龍二は安心しきったように微笑んで、側の壁にもたれたままがっくりと俯いて、そのまま全てを忘れるかのように目を閉じた。その姿を見つめていた奈々には、龍二がどこか…手の届かない遠くへ行ってしまう気がして、それを止める術もないもどかしさにうなだれるしか出来なかった。


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奈々が映画館を後にしたのは、龍二が正気に戻ってからの事だった。突然目を開いて勢いよく立ち上がり、まるで何事もなかったかのように部屋を片付けだしている。そんなに長い時間眠っていたわけでもなかったからか、映画の上映には支障はなかったらしいが、そのあまりの容態の急変さに、奈々は胸の中に抱えた違和感がますます強くなったような気がした。

『心配かけてごめんね。もう、大丈夫だから。』

明るい笑顔でそう言う龍二のからは、先程の体調不良の影は微塵も感じない。まるで狐につままれたような気分だ。壁につかまってしか歩けなかったはずなのに、今はテキパキと動いていて、いつもの龍二の姿と変わらない。一体、あの騒ぎは何だったのだろう?奈々の頭の中は、煙に巻かれたようにもやもやとしたままだった。
それでも、何とか回復した龍二の姿に少し安心して、奈々は映画館を後にしたのだった。もちろん、今でも違和感が脳内を支配しているのは変わらない。倒れた時に飲んだ薬が即効性があるからなのか、それとも何か別の理由があるのか…。何にしても、龍二のあの変貌ぶりは信じがたい事であった。
釈然としない現実に悩みながら、ぼんやりと帰り道を歩いていると、いつも光のお見舞いに来る病院の前に差し掛かった。立ち止まって、灰色の重々しい建物を恨めしそうに眺めてみる。光に聞いたら、何か手掛かりがつかめるだろうか?もしかしたら、自分がまだ知らないこの時代の常識が眠っているかもしれない。そう思って、奈々は監獄のような病院内に足を踏み入れた。

コンクリート作りの建物内には、エアコンなどという気の利いたものはないものの、どこかひんやりとしていて心地よかった。この時代は、エアコンなどなくても快適に過ごせたのだろう。現代を微かに思いだしては、そう思う。ただ、白衣の天使である看護師さんの服装が給食当番のようにしか見えないのには、未だに慣れないのだが。
そう思った時、奈々はふとある事を思いついた。病気については一般人よりも専門家の方が詳しいに決まっている。龍二の事を看護師さんに聞いてみれば、何か分かるかもしれない。奈々はそう思って、たまたますれ違った看護師さんに声をかけた。

『あっ、すいません。ちょっと聞きたいんですけど…。』

穏やかに振り返った看護師さんは、やはりどこか大和撫子の雰囲気を漂わせるような、落ち着いた物腰の女性だった。彼女はにこやかな笑顔を浮かべながら立ち止り、奈々の方を向いた。

『何かこう…いきなり泡吹いて倒れる病気って、ありますか?』

『泡を吹いて倒れる…ですか?』

『そうです。少しの間、意識を失っちゃうみたいな…。』

今の言葉遣いは、ちょっとまずかったかもしれない…。奈々は少しヒヤッとして看護師さんの表情を伺った。“みたいな。”などという言葉は、きっとこの時代の人は使わないだろうと思ったからだ。しかし彼女はそんな事は気にもしていない様子で、天井を仰ぎながら少し考えて言った。

『“癲癇”ではないですか?』

『てんかん…?』

『“癲癇”は、ひどい時には泡を吹いて倒れる事もありますし、痙攣を起こしたりもしますから。』

『あっ…そうなんですか。ありがとうございました。』

奈々がそう言ってぺこりと頭を下げると、看護師さんは笑顔を残してその場を立ち去って行った。
“癲癇”…奈々にとっては聞き慣れない病気だ。詳しい事などは、よく分からない。ただ、精神的な疾患とも呼べるらしいという事と、死に至る事は可能性としては低いという、何となくの知識しかない程度だ。それでも、看護師さんの言う事が確かならば、龍二の症状には当てはまる。

『てんかん…なのかなぁ…?』

奈々は、何だか釈然としない表情を浮かべながら、無意識に鞄の中に手を入れて冷たく小さな携帯電話を取り出そうとした。分からない事があれば、この機械の中に張り巡らされたウェブの中から情報を探りだせばいい…いつの間にか脳の奥底に沁み込んだ概念がそうさせたのだろう。しかし、ハッと我に返って、それは不可能である事を思い出して、奈々は鞄から手を出してぐっと拳を握りしめた。この無意識に取る言動が、今の奈々にとっては恐ろしいものに思えた。光が守ろうとしたこの小さな機械を無意識に手に取るたびに、何もかもがこの中にありすぎて、頼りすぎてしまっていると自覚する。こんなものにすがらないと、自分1人では何も出来やしないと思い知らされている気がする。簡単に手に出来る膨大にありすぎる情報が、自分の全ての可能性を削っていっている気がしてならない。
奈々は、そんな思いを振り切るようにして光の病室に急いだ。自分の中にある現代社会の性を振り切るようにして病室に飛び込むと、光のベッドの周りには他のお見舞いの子が3人ほど来ているようだった。

『あっ、さくらー!』

光のその声に、ベッドの周りにいる子たちも奈々の方に顔を向けた。奈々と同じ年ぐらいの女学生が1人と、まだ小学校低学年ぐらいの男の子が1人、それと、現代なら幼稚園に通っているであろう小さな女の子が1人だ。見慣れない顔に少し動揺して、自分が人見知りだった事を思い出してはしまったが、奈々は軽く頭を下げて挨拶をすると、彼女たちは少し驚いたような顔をした後で、人懐っこい笑顔を浮かべて頭を下げた。

『あれが噂の、気ぃ強い姉ちゃんやで。』

『ちょっと、あたしの印象悪くなるような事言うの、やめてよね。初対面なんだから。』

いつも通りの光の冗談に、奈々は笑いながら軽く肩を叩いて笑いを誘った。警戒心を全く見せずに純真無垢な笑顔を浮かべる彼女たちを見る限り、奈々の苦手とするタイプの人間ではなさそうだ。
1番年上の少女は、ボブの黒髪…この時代の言い方をするなら“おかっぱ”とでも言うのかもしれないが、活発そうな印象のある少女だった。明朗な笑顔を浮かべると、左の頬に可愛らしいえくぼが出来るのが特徴だ。

『あたし、松下 奈々。よろしくね。』

『はじめまして。私は与那嶺空澄よなみねあずみ。弟の徹也と、妹のうみ。』

『…何か、すごい名前だね。“よなみね”さんって言うんだ?』

『うん。沖縄出身だからさ。名前は、沖縄の澄んだ空っていう意味の名前でね。』

『沖縄かぁ!なるほどね。いい所だよね。』

『…沖縄、来た事あるの?』

『…えっ…。』

ふとした瞬間につい油断した発言をしてしまうのは、いつまでたっても慣れない。この時代、簡単に沖縄になど行けなかったはずだ。まして“旅行で行った”だとか“写真で見た”などという事も通用するはずがない。テレビすらもない時代に、“テレビで見た”というのもおかしな話だ。何て言い訳をしていいのか分からなくて、奈々は顔色を変えて助けを求めるように光を見た。その表情が、あまりに鬼気迫るものだったからだろうか…光は突然大笑いしてベッドの上でばたばたと足をばたつかせて言った。

『なんちゅう顔してんねん!…大丈夫や。さくらの話は、もうしてあるから。』

『…マジで!?』

『おう。安心せぇ。』

『良かった~。どうしようかと思った~。』

『お前、気ぃつけなあかんで?俺らやから信じるようなもんやねんから。』

『…はぁ~い…。』

確かに、この時代で奈々の身に起きたとんでもない時空の旅を、すんなり信じてくれる存在など、ほとんどいないのだろうと思う。それこそ、饒舌な光の存在あってこそ、初めて納得させられるような規模の話だ。気を抜いた瞬間についつい現代が顔を出してしまうのだけは、気を付けないといけないと改めて思った。それが大人相手なら尚更だ。
そんな2人の事を笑いながら見つめる空澄の横で、徹也はきょとんと奈々の事を見ていた。坊主頭でくりっとした目が特徴の腕白坊主かと思ったが、どうやらおとなしいタイプの少年のようだ。その傍らにいる海は、人見知りなのか兄の徹也にしがみつくようにして後ろに隠れている。おそらく、お兄ちゃん子なのだろう。そんな妹の面倒をよく見るお兄ちゃんなら、きっと光のような腕白なタイプとは正反対のはずだ。

『…おにぃにぃ…。』

海は少し不安そうに徹也にしがみつきながら、奈々の事を見つめている。そんなに恐ろしい風貌に見えるのかと一瞬困ってしまったが、光はそんな海の頭を優しく撫でて

『大丈夫や。俺の友達やから、悪い人ちゃうで。』

そう言って笑った。
話を聞いてみると、3人は数年前に沖縄からはるばる越してきたのだと言う。光や雪斗、剣とはその頃からの友達で、雪斗の幼なじみである“紫雨”という少女とは親友なのだそうだ。

『雪斗くんから聞いていたけど、本当に紫雨にそっくり。驚いた。』

『そんなに似てるんだ?あたしも会ってみたいな。』

『今度、奈々ちゃんも一緒に紫雨の所に遊びに行かない?きっと、喜ぶと思うさ。』

『うん。伊吹さんちのアトリエに来てくれれば、いつでも一緒に行くよ。』

奈々がそう返すと、空澄は嬉しそうに笑って、必ず迎えに行くからと言って、弟と妹を連れて病室を後にした。正直、奈々は女の子の友達というのが苦手であった。クラスでも、同性の友達を作ろうとはせずに、いつも孤立していたものだ。すぐに群れたがるという性質もさることながら、ありがちな計算高さや陰湿さというのも大嫌いだからだった。しかし、空澄に対してはそんな感情は湧かなかった。奈々から言わせてみれば、古き良き時代の健気な女の子に見えたからだ。

『…良い子だね。空澄ちゃんって。』

『少しは見習いや。』

『うるさいし。あたしはこのままでいいの!いきなり女の子っぽくなったら、変でしょ?』

『それは不気味やな。かなわんわ。』

『…それはそれで失礼じゃね?』

奈々は今まで空澄が座っていた椅子に腰かけて、相変わらずのやり取りを楽しんでいた。少しだけ、奈々の胸につかえていたものが和らいだような気がして、ホッと1つため息をつく。
そんな奈々の様子を、ベッドに横になったまま眺めていた光は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて起き上がって言った。

『そういえば、まだ紫雨ちゃんに会うた事なかったんやな?』

『うん。何か面白いよね。自分にそっくりな人と会うって、どんな感じなんだろう?』

奈々はプレゼントを開ける前の子供のような顔をして、会う時の事を想像して見ていた。自分にそっくりな人になど、今まで会った事がない。紫雨という少女の事を知っている人の話によると、少し似ているどころか瓜二つというほどなのだから、よほど似ているのだろう。ドッペルゲンガーにでも会った気になるのか、はたまた客観的に自分を見ているかのような錯覚に陥るのか、奈々の気持ちは徐々に高ぶっていった。

『びっくりすんで~。鏡があるんかって、勘違いせんとけよ。』

『そんなに似てるんだ。じゃあさ、性格は?似てるの?』

『アホ!紫雨ちゃんに失礼やんか。真逆や、真逆。』

『…それはあたしに失礼でしょ!…じゃあ、とりあえずおとなしい子なんだ?』

『…せやなぁ…。ある意味おとなしいんかもしれんな。』

『…ある意味って?』

奈々が光にそう尋ねると、光は急に黙って俯いてしまった。奈々は一瞬、何か悪い事でも言ってしまったのかと不安に思ったが、どうにも思い当たる事がない。不思議そうに光の横顔を見つめていると、光は急に静かな声で話を始めた。

『…紫雨ちゃんは、“話す”事をやめてもぉたんや。』

『…話すのをやめる…?どういう事?』

自閉症か何か、精神的な事が原因なのかと思った。それだとしたら、自分以上に人付き合いに関しては難しいのかもしれない。そう不安に思った奈々の考えを打破したのは、想像をもしていなかったもっと過酷な現実だった。

『…耳が聞こえへんねん。』

『…えっ?』

『元々、体が弱い子でな。しょっちゅう具合悪くなったりしてたんや。そんである日いきなり、高熱だしてな。それが体の弱い紫雨ちゃんには、普通の人以上にまずかったんやろな。ある日いきなり、耳が聞こえへんようになっとった。』

『…でも、声は出るんだよね?』

『…出る事は出る。でも、耳が聞こえへんから、声の大きさとか発音が分からんようになって、それで周りの人に変な目で見られるのが嫌になったんやろな。それで、話すのをやめたんや。』

『…マジで?』

『おう。ついこの間の事やわ。桜が散るのと同時に、紫雨ちゃんは音を失ってん。』

『…。』

『さくらと同じ、あの山の1本桜が大好きな子でな。体調がえぇ日は、雪斗がよぉ連れてっとった。』

『…そんな大変な病気になっちゃったの?』

『流行性耳下腺炎。“おたふく”や。』

『おたふく!?それで耳が聞こえなくなっちゃったの!?』

おたふく風邪は、奈々でもよく知っている。小さい頃、かかって何日も学校を休む子がいたが、それでも数日休んで元気に回復して登校してきていたものだ。幼い時に予防接種を受ける事もあるし、ワクチンもある。そんな現代に生まれた奈々にとって、おたふくがそんな重症になる病気だなんていう事は思ってもいなかった。

『だって、薬とか…ないの?』

『簡単に薬なんて、手に入らんねん。俺がこうして入院出来んのも、おとんのおかげのようなもんやしな。』

奈々は光のその言葉に、思わず言葉を失ってしまった。
誰でも簡単に病院に行き、適切な処置を受け、薬をもらう事が出来る。保険証さえあれば、料金も手頃で済む。今まで当たり前に思っていた事が、この時代では奇跡に近い事なのだと思い知って、奈々はただ俯くしか出来なかった。

『でも…筆談で話は出来るんだよね?それなら、日常生活に支障はない…よね?』

『出来る。紫雨ちゃんは、書道やっとるからな。それはそれは達筆や。でもな…支障は大アリや。』

『えっ?何で?筆談が出来るなら…。』

『空襲警報が、聞こえへんねん。』

『あっ…。』

『下手したら、命に関わるわ。』

珍しく真剣な顔でそう言った光のセリフは、奈々の頭に刻まれた概念を粉々に砕くには十分すぎるほどだった。
補聴器なども存在しないこの時代、耳が聞こえないという事が、現代よりも遥かに支障をきたしているのは言うまでもない。きっと、現代よりももっと怖い事なのだろう。命の危険を知らせる空襲警報も、彼女の耳には届かない。それが、どんなにこの時代では生きにくい事なのか…あの空襲を経験した今なら、少しだけ分かる気がした。

『…さくらが持っとる、あのちっこいのんが、この時代にもあったらな。』

『…携帯の事…?』

光はどこか切なそうな瞳を宙に向けて、そう呟いた。

『めーるがあったら…どんなに遠くにおっても知らせられんねやろ?“逃げろ”て。話すのも、紙や筆がなくてもめーるで簡単に出来んねやろ?』

『…うん…。』

『…えぇな…。さくらの時代なら、そないに不便な思いせんでえぇやんか。』

もう、何も言う事が出来なかった。自分が生まれ育った時代が、いかに恵まれていたのかを痛感したからだ。現代では、天災の情報さえも耳をつんざくサイレンの音と共に携帯に飛び込んできたり、テレビのニュース画面の下には手話の画面もあるほどだ。それが、この時代には存在しない。
目が見えない、耳が聞こえない人たちが命を守る方法よりも、戦争に勝つか負けるかにこだわるような狂った時代の渦中なのだ。

障害者の不自由をなくす“バリアフリー”という概念が姿を変えたのは、つい最近の事だ。今では、誰もが分け隔てなく使用する事が出来る“ユニバーサルデザイン”というものが主流になり、様々な施設や日用品として活躍している。学校の授業で手話や点字を習う事も多く、身体に障害を持つ人と共に生き、出来うる限り不自由をなくそうというのが現代だ。
でも、この時代にそんな考えなどは微塵もない。今この国は、“勝利”のために動く事はあっても、少数の困った人に手を差し伸べる事などはない。障害があれば弱者となり、差別の対象になる事も珍しくはないのだろう。弱者を切り捨て、いかにして世界に名を轟かすような勝利を収めるか…。そんな時代で生きていくには、あまりに過酷すぎる。
自分が鼻で笑っていた現代は、こんなにも恵まれていたのだ…。それに有難みを感じた事などはなかった。物も情報も環境も、全て整っていてあって当たり前の温室の中で生きてきた。つまりは、“甘んじる”という言葉の意味そのものだ。

『せめて…食い物ぐらいまともにあったらな…。』

『…。』

『あの子の体の弱さぐらい、何とかなるかも分からんのに…。』

近頃、食卓に並ぶ食事が精進料理のように質素になってきたのは、奈々も気付いていた。
肉もない、魚もない、卵もない。あるのは細々とした野菜ばかりだ。白米の量さえも減って、麦や玄米の分量が多くなった。気の利いた調味料もない中で、味などけして良いとは言えなかったし、正直歯ごたえも最悪だった。嫌々ながらもそんな食事に手を付けながら、奈々は文句をぐっとこらえていたのだ。

“…マックかケンタ食べたい…。牛丼とか、お寿司とか…。”

もう、食料さえもろくに手に入らなくなっていた。裕福な伊吹の家は、まだ良い方だ。一般家庭では、野菜などは5人家族でも約2人前ほどの量になり、米は1人1日2合あればいいほどだ。あとはそれぞれの家庭で栽培している野菜などを使って、何とかその日その日をしのいでいるのだろう。
そんな現状を知っていながらも、奈々の偏食は直る兆しなど見せなかった。しかし、必要な栄養すらも取れずに衰弱し、病に倒れる人がいるという現実に、奈々は情けなさすら感じた。“贅沢病”―――奈々が知らない間に侵されたのは、そんな現代病なのだと思う。

『…光ちゃん…。』

『ん?どした?』

『…あたしは…現代に生まれた事を、幸せだと思った事なんてなかった…。』

『…。』

『食べたい物を食べたい時に好きなだけ食べて、好き勝手にやりたい事やって、欲しい物は何でも買えて、空襲に怯える事もなくて…そんな中で生きてたのに、恵まれてると思った事なんか1度もなかった…。当たり前だと思ってた…。』

『…。』

『それを、不自由だって文句ばっかり言ってたんだ…。』

そう呟いた奈々の言葉は、龍二や伊吹や紫雨に対する思いを一気に膨れ上がらせて、大粒の涙となって頬を伝った。俯いて涙を拭おうともしない奈々の事を、光はただ黙って見つめていた。

“未来では好きな人と結婚する事が許されるって事なのね。”
“奈々ちゃんがいた時代のように、自分のやりたいと思った事を出来るのは、とても素晴らしい事だと思うよ。”
“せめて…食い物ぐらいまともにあったらな…。”

『あたし…超バカだよね…。』

『…さくら…。』

『相澤 剣があたしにキレたのは…間違ってなんかないよ…。アイツが正しいんだよ…。』

『…。』

『キレたくもなる…。あたしみたいなの見てたら…。』

奈々はそう言って、しゃくりあげながらがっくりと肩を落とした。
今なら、剣が言いたかった事が分かる気がした。激烈な剣の想いを受け止められる気がした。
狂った時代に縛り付けられながら、それでも必死に生き、命をかけて日本を守ろうとしている今この時代を知る事もなく、その歴史の上に成り立った現代という恵まれた環境に感謝する事もなく、当たり前のようにただ何となく適当に過ごしている奈々の事を、きっと見透かしていたんだろう。それが、どうしても許せなかった…。自分たちが歯を食いしばって生きているからこそ尚更。不器用で口下手な剣が言いたかった本心は、きっとそういう事なのだと思う。
今更そんな事に気がついて、奈々は自分を呪いたくなった。今までの言動も考え方も、全てが恥でしかなく、それに気がつかない事が情けなく思えた。おそらく、剣に対して【謝る】とかの問題ではないのだろう。この時代の上に成り立った現代の中で、自分と同じような人がどれほどいるのかなんて、考えても果てがない。それを知る奈々にとって、自分が謝れば済む問題なんかではない事ぐらい、瞬時に分かった。
光はうなだれたままの奈々を見つめたまま、以前剣が言っていた事を脳裏に蘇らせた。

“俺たちが傷付きながら守ろうとしている70年後で、ただ呼吸をしているだけの女だ。”
“そのために、俺たちは犠牲になろうとしている。…それが真相だろう?”

怒りを秘めた目つきで、剣はあの日そう話していた。でも、その怒りの矛先にいる存在は、今目の前で、この時代のために涙を流しているのも事実だ。奈々が自分の愚かさを痛感し、不甲斐なさに落胆しているのは、光が誰よりも知っている。

「いくら運命が決まってても、変えられるもんもあるのかも分からんな…。」

光はそう思って、微笑みながら奈々に声をかけた。

『そうやな。剣は間違うた事は言うてへん。』

『…うん…。』

『でも、そう思えるさくらも正しい。』

『…えっ?』

『偉いで。十分な。』

奈々は驚いて、涙に濡れた顔を上げて光を見た。いつも、いたずらっ子のような無邪気な笑顔を浮かべる光が、今は見慣れない神仏のような穏やかな笑顔を浮かべて、ベッドに寝そべっている。そのあまりの違和感に、奈々は思わず涙を睫毛の奥に引っ込めてしまった。

『そう思えたなら、何もかも変わる。絶対な。』

『光ちゃん…。』

『流したたった1粒の涙が、いつか大雨になるもんやねん。』

『…そうかな?』

『おう。さくらが気付いた間違いが、俺らの運命も、遠い未来も変えるかも分からん。…そう信じて賭けてみぃ。自分の可能性に。』

『…分かった…。』

どんなに絶望的な状況に陥っても、蟻の巣ほどの小さな穴から見事な突破口を開く光の前向きな姿勢は、今の奈々にとっては有り難いものだった。通用しない常識、知らなすぎる時代背景、忍び寄る歴史の闇、慣れない習慣…。1人で全てを抱えるにはあまりに重すぎる事ばかりが溢れかえっていて、1人でいたのでは気が狂ってしまいそうになる。余裕など持てそうもない奈々に、いつでも手を差し伸べてくれる光は、天から垂れる蜘蛛の糸のようなものだ。
いつか…自分も光のように、わずかな希望からこの狂った歴史を決壊できたなら…奈々はそう思って、羨望にもにた眼差しで光の笑顔を見つめた。そんな奈々の気を知ってか知らずか、光は穏やかな瞳をして天井を仰いで、ふっと1つ…何かが噛みあって安心したかのようなため息を吐いた。
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