桜の舞う時

唯川さくら

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さくらフワリ

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『奈々ちゃん、血液型は何型?』

『…A型だけど…。』

『そう。ありがとうね。』

その日、珍しく絵を描かずに裁縫に精を出していた伊吹は、のんびりとした表情で裁縫をしながらふとそんな事を聞いてきた。着慣れた制服に身を包んだ奈々は、伊吹が自分に貸してくれていたもんぺに何かを縫い付けているのを真剣に見つめていた。
そういえば、祖母が何か裁縫をしている姿は、若ければ伊吹そのものだ。制服のボタンが取れてしまった時、どこかうっすら笑みを浮かべたかのような、仏のような顔をして、1針1針丁寧に思いを込めるように縫ってくれていたのを覚えている。奈々はどこか現代とシンクロさせながら、伊吹が裁縫をしている姿を見つめていた。

『奈々ちゃん、今日は桜を見に行かないの?』

『…うん。今日は行かない。』

春の日は時折、いたずらに強い風を吹かせる時がある。今日は日差しも穏やかで天気が良い割に、とても風が強い日だった。米印の紙で補強されている窓から外を覗くと、この葉やチラシなどが勢いよく通り過ぎていく。大きな池もさざ波が立っていて、鯉も不安そうだ。こんな日は、あまり外には出たくない。
奈々は雨よりも風が嫌いだった。せっかくセットした髪型は崩れるし、砂埃は目に入って痛いし、それに何より、この季節の強風は桜を散らかしてしまう。ほっこりと花開いた桜を容赦なくもぎ取って、地面に叩きつけて通り過ぎる。春が来るのを待ちわびてやっと咲いた桜が何だか可哀想で、奈々はよく地面でしゅんとしている桜を拾い上げては、自宅に飾っていたものだった。

『…この季節の強風は、大嫌いだよ。』

『桜が散ってしまうものね。』

『うん…。伊吹さん…』

『ん?なあに?』

『…一生散らない桜を描いてよ。』

『あら、画家として嬉しい依頼ね。』

伊吹は嬉しそうに微笑んで、少しだけ針を動かす手が速くなったような気がした。慣れた手つきでさっさと縫ってしまって、器用に玉止めをすると、もんぺの上着を引っ張ってよれているのを直しているようだった。自分も祖母に似れば、きっと裁縫だって得意だったかもしれないと、奈々はふっと思った。

『でも、奈々ちゃんはきっと散らない桜を好きにはならないと思うわ。』

『…えっ?』

『きっとね、それじゃあ満足しないと思うのよ。』

『…何で?』

『さあ、何でかしらね。』

伊吹は意味ありげにクスクスと笑って、今まで縫っていたもんぺを横に置いて、やれやれと言うように小さく息を吐いた。朝から縫物を初めて、もう2つ縫い終わっている。ミシンもないのに早いものだと、奈々は感心してしまった。自分だったら、軽く一週間はかかりそうだ。まあ、自分が裁縫が苦手な理由なんて「目が悪いせいだ」という事で片付けてしまっているのだが。

『…何を縫ってくれたの?』

『防空頭巾と、名札のようなものよ。』

『防空頭巾?名札?』

『そう。これから何があるか分からないから、常にこれを持ち歩いてね。』

伊吹はそういうと、座布団のようなふかふかしたものを手渡してくれた。古い着物か何かで作ってくれたのだろう。地味で可愛さのかけらもない紺色の座布団ではあったが、かすかに桜の柄が見え隠れしていて、何となく悪くはないかもしれないと思った。

『何かあったら、それをかぶって防空壕に避難してね。』

『はーい。』

珍しく素直に、奈々はそう返事をしながら、防空頭巾を開いてかぶってみた。そういえば、小学生の頃に座布団代わりにこれを椅子にひいていたかもしれない。避難訓練の時以外は、完全に座布団として扱っていた。避難訓練の時だけ、とりあえずかぶって逃げてはいたものの、これが本当に役に立った試しがない。まして、高校生になってからは学校に持っていく事すらもしなくなって、縁遠くなってしまったアイテムだ。本当にこれが役に立つのかは疑問ではあったが、とりあえず持ち歩いておいた方がいいのだろう。

『名札って何?そんなのいいよ~。』

『だめよ。ちゃんと付けておかないと。いざという時に困るもの。』

奈々はもんぺにしっかりと縫い付けられてしまった名札を恨めしそうに見ていた。制服に付けないといけないと言われている校章や名札だって、付けた事はないというのに、もんぺに付いている名札にはご丁寧にフルネームと血液型、住所まで書いてある。まるで個人情報をばら撒いているようなものだ。

『名前はいいとしても、住所とか血液型なんていらなくない?』

『…もしもの事があった時に、どこの誰か分かるようにしておかないといけないのよ。』

『…死んだ時って事!?』

『それだけじゃないわ。大怪我をしてしまった時に、すぐに輸血が出来るようにって、血液型も書かないといけないの。』

『…超縁起でもないね…。』

奈々が知っている名札とは、どうやら訳が違うらしい。その事実に、奈々はしぶしぶ了解せざるを得なかった。そして、そんな“もしも”の事が起きない事を願いながら、奈々はもんぺをたたんで鞄が置いてある横に置いた。いつ何が起きて、いつ誰が死ぬか分からない…そんな切羽詰まった時代なのだと、改めて感じた瞬間だった。

『あら、お客さんだわ。』

ずっと窓の外の強風の様子を伺っていた伊吹が、ふいに嬉しそうな声をあげた。窓の外を通らないと玄関にはたどり着けないため、誰かが来るとすぐに分かる。伊吹の声からして、おそらく龍二が来たのだろう。奈々はぼんやりと玄関の方を向いた。大嫌いな奴ではない事は一安心だ。

『やあ。今日は風が強いね。』

そう言って、鳥の巣のようになってしまった髪を整えながら入ってきた龍二は、奈々の姿を見ると微笑みながら軽く会釈をした。本当に、こうして見ると稀に見る好青年だ。伊吹ともお似合いなわけだし、もしこの人が祖父だったら、さぞかし優しいおじいちゃんになってくれただろう。それに、自分もこんなに勝気な性格ではなかったかもしれない。奈々はそう思いながら、伊吹と龍二が仲むつまじく話すのを見ていた。何となく、自分は邪魔者なのかもしれないという申し訳ない気持ちがふつふつと浮かんで、居場所がないような思いがした。

『ちょっと待ってね。今、お茶を入れるわ。』

伊吹はそう言って、部屋を出ていってしまった。伊吹が立ち去った後で、「お邪魔虫の自分がするべきだったかもしれない」と奈々は気付いた。なぜこうも空気が読めないのだろう?ちょっと前までは「あえて空気を読まないんだ」と豪語していたものだったが、それもどうなんだろうかと疑問に思ってしまう。そんな奈々の慌てようを見ていた龍二は優しく笑って、まるで子犬にでも話しかけるかのようにゆっくりと言った。

『そんなに気を使わないでいいからね。』

『あ…あはは…。何かすいません…。』

『僕の事、覚えているかい?』

『うん。龍二さんでしょ?活動写真の仕事してるっていう。』

『覚えててくれたんだ。嬉しいな。』

龍二の雰囲気は、春の木漏れ日に似ている。奈々はそう思った。ゆったりと話す口調も、時々零れる爽やかな笑顔も、落ち着いた柔らかい声も、のどかな春の窓辺のようだ。今まで奈々の周りに、こんなタイプの人はいた事がない。きっと龍二が学校で授業をしたら、あまりのうららかさに全員寝てしまうのではないか…そんな風にさえ思う。

『友達は出来たかい?』

『あぁ…まあ一応。』

『そう。良かったね。』

奈々は先日、光から受け取った空飛ぶ手紙の事を思い出して、ふっと嬉しそうな笑顔を浮かべた。光だけは、この時代に出来た唯一の友達だ。いつも機嫌が悪そうで人に馴染もうとしない奈々にとって、かけ離れた時代で出来た友達である光の存在は奇跡としか言いようがなかった。現代で馴染めないものを、常識も時代背景も違うこの時代で馴染めるなんて、考えてもいなかったからだ。

『奈々ちゃんの笑った顔は、どこか伊吹に似ているね。』

突然、龍二が核心をついた事を言ったせいで、奈々は思わずびくっと体を震わせてしまった。優しい顔をしてとんでもなく鋭い事を言う人だ…そう思った瞬間、お盆を持った伊吹が部屋に入ってきて、笑いながら言った。

『あら、似ていて当然だわ。』

伊吹がそう言うという事は、もう龍二にはすべてを話してしまっても大丈夫だという事なのだろう。奈々は、本当の事を事細かに龍二に説明した。少しトラウマになってしまっている、あの侍気取りの男のように、菩薩のような顔が突然般若の顔に変わる事がありませんようにと願いながら…。

『そう。それは伊吹に似ていても無理はないね。』

龍二は意外にも、すんなりと受け入れてくれたようだった。ただ、奈々にはもう1つ不安な事があった。自分が龍二に似ているはずがない事実を聞かれたら、一体なんて言えばいいのだろう?お願いだから、2人の関係が今後どうなるのかという質問だけは避けてくれと願った。

『…龍二さん、疑わないんだね。あたしの事。』

『あり得ないような話を否定してしまったら、この仕事は出来ないからね。』

龍二はそう言ってにっこりと笑った。それもそうだ。映画のように非現実的な話を忌み嫌っていたら、仕事になんかならない。龍二の仕事は、映画というフィクションの中に観客を取り込んで、あたかもノンフィクションのように思わせる事なのだから…。そう考えると、龍二の仕事はどこか人々に夢を提供する仕事のように思えてきた。映画館は映像型のテーマパークのようなものだからだ。
自分の頭の中のイメージを形にする画家の伊吹と、人々に夢を与え続ける映写技師の龍二と…どこから見てもお似合いだった。それに、結構な美男美女だ。奈々は自分の存在を否定する事になるとは分かってはいても、この2人を応援したくて仕方がなかった。この2人がうまくいったら、自分は存在しなくなる…それは分かっている。なるほど、未来を知っているという事は、つらい事でもあるのかもしれない。
でも、こんなに仲睦まじくてお似合いの2人が、何だって別れなければいけないのだろう?奈々はふと疑問に思った。親の決めた相手としか結婚してはいけないとはいえ、いざとなったらかけ落ちという手荒な方法もあるはずだ。それなのに、この2人が結ばれる事はなかった理由は何なのか…。これだけは、いくら未来を知っているとはいえ知る由もない。

『おや、奈々ちゃんにお客さんが来たようだよ。』

龍二は窓の外を見て、ふと気付いたようにそう言った。外で大暴れしている春の嵐は、窓を打ちつけながらガタガタとうるさい音を奏でていて、先ほどから耳触りな程だった。奈々は我に返って、窓に目をやった。そこには誰の姿もなかったものの、すぐに玄関の扉が開く音がして元気のいい声が嵐を吹き飛ばすかのように耳に届いた。

『さくらー、お届け物やでー!』

『光ちゃん…どしたの?』

光は春の嵐をものともしないような笑顔で、乱れた着衣を直すそぶりもみせずに勢いよく扉から中に入ってきた。乱気流のような旋風が玄関から入りこんで、奈々を巻き込むように吹きつけている。奈々は大嫌いな強風に少しムッとしながら、慌てて扉を閉めた。光を見ると、何やら大きな風呂敷を大切そうに抱えている。がっしりと抱えるわけにもいかなかったのか、そっと包み込むように抱えているのを見て、奈々は不思議に思った。潰れたら困るものでも入っているのだろうか?

『それ、何?』

『おう!学校の帰りに、雪斗と山に行ってんけどな、あの桜の木の下にめっちゃ落ちててん。桜の枝折るんはあかんけど、これなら桜を持って帰れるやろ?』

光はそう言うと、嬉しそうににっこりと笑って、優しく大事そうに持っていた風呂敷をそっと地面に置いてゆっくりと広げた。風呂敷が開いたその瞬間、いつも桜山で見ていたあの桜景色が目の前に広がるように、視界が幼い桃色一色に染まった。ふわっと桜が舞い上がって、春の残り香が鼻をくすぐる。

『あ…。』

『好きなんやろ?桜。』

『うん…すっごいキレイだね…。』

『めっちゃすごい強風やからな。気の毒に、落ちてもぉたんやろ。』

いつも奈々が拾い上げていた、強風にもぎ取られてしまった桜の花たちだ。溶けてしまいたくなるほどに儚くて、永遠にしてしまいたいと願ったあの桜山の桃色景色が、小さなジオラマのように目の前に広がっている。
奈々はしばらく、風呂敷の中の小さな桜景色を見た後で、流しの所から大き目のたらいを持って来た。風呂敷にそっと包まれていた桜に手を伸ばして優しく拾い上げると、その桜をたらいに張った水にぷかぷかと浮かべた。

『…長い間春を待って…やっと咲いたのに強風で散るなんてね…。可哀想じゃん。』

『せやから、水につけておくん?』

『そうだよ…。』

奈々はあの桜山で見せる穏やかな表情で、1つ1つ丁寧に桜を水に浮かべた。そのほとんどが、花の形を留めたままで強風にあおられた桜ばかりだ。しゅんとしていた桜は、どこか救われたかのように凛としたように思える。

『花ごと落ちてもぉたんやなぁ。』

『うん。…きっとね…』

『…きっと?』

『1人ぼっちになるのが嫌だったんだよ…。』

『…そっか…。』

『ばらばらになりたくなかったんだよ。』

伊吹も龍二も、囁くようにそう言う奈々をじっと見守っていた。春を惜しむその姿が、残り香を運んだ桜に重なって切なく見えたからなのだろうか?

『光ちゃん知ってる?桜はね、枯れない花なの。…枯れずに散るの。』

『…あっという間に散ってまう…一瞬の花…て事やんな。』

『うん…。でもね、永遠だって信じて咲いてんだよ。』

『…せやな。』

『永遠を信じて目一杯咲き誇って、一瞬で散るから、桜はキレイなんだよ。』

その言葉は、光がかつて聞いたある言葉に似ていた。光の記憶が確かならば、同じような事を言って桜を愛した人がいたのだ。

“桜はね、枯れる事なく、空に溶けるように散るの。だから私は、桜が好きなの―――。”

そう言って遠い目をした少女の元にも、今頃友人はこの小さな桜景色を届けているのだろうか?愛したあの桜山の頂上の1本桜を、もう自分の目で見られなくなった彼女の元に、届けてくれたんだろうか?光はふと、そんな神妙な思いで言葉をなくしてしまったようだった。

『本物の桜に勝る桜はないわ。』

ずっと微笑ましく奈々と光を見つめていた伊吹は、突然そう言って全員の視線を集めた。伊吹はゆっくりと湯のみを両手で持ってお茶をすすると、柔らかく息を吐きながら穏やかな顔で、色白の頬に映える薄紅色の唇を動かした。

『私には、桜は描けないわ。散り際までも美しい一瞬の花を、キャンバスに閉じ込めたら…それは桜の美しさを奪ってしまうもの。』

『…そっか…。』

『だから、私は桜だけは描けないのよ。それに…永遠になった桜を、奈々ちゃんは好きにはならないでしょうね。』

桜は空に憧れたのだ――――奈々はずっとそう思っている。花の中で唯一、枯れて朽ち果てる事を選ばずに、空に舞う事を選んだ花だ。もし、あの一瞬だけ咲き誇る桜を永遠にしてしまったら…桜は二度と空に憧れる事なく、咲き誇る意味さえも失ってしまうのだろう。
それをどこか深層意識の中で感じていたからだろうか…奈々は桜の写真などは心から好きにはなれない。どんなに名カメラマンが撮った写真でも、名のある画家が描いた絵でも、桜が抱く儚く切ない夢を表す事など出来ないからだ。空に憧れて孤独になる事を選んだ、ピアノのオクターブ鍵盤の連弾にも似た花びらの寂しさを、表せるものなどないからだ。

『…短い命だからこそ、その一瞬に全てをかけて精一杯咲き誇る…か。それが桜の美しさだなんて、奈々ちゃんは詩人だね。桜の詩を書いたら、きっと素敵なものが出来上がると思うよ。』

龍二はそう言って笑った。どこか影があるような、儚げな笑顔だと思った。
遠い遠い現代で、奈々は偶然作文で県内2位の賞を取った事があった。どの教科も落第点なのにも関わらず、作文関係だけは嫌いなのになぜか得意だったのを覚えている。それでも、自分に文才があるなんてこれっぽっちも思った事はない。まして、賞を取ったのだって偶然の産物だ。夏休みの最終日、面倒くさくて先延ばしにしていた作文の宿題を、渋々手に取って適当に終わらせて提出しただけ。それがたまたま、勝手にコンクールに送られてしまい、たまたま賞を取っただけだった。放送で職員室に呼ばれるなんて、今までの経験からしてけしていい意味ではなかったし、行ってみれば校長から教頭から偉い先生が雁首を揃えていて、さすがに怖気づいたのを鮮明に覚えている。それが実は、知らぬ間に賞を取ったという話だったものだから驚きだ。
それがきっかけで、文学に目覚めた…と言うならばまだいい話で済んだのかもしれないが、奈々は相変わらず作文は嫌いだった。原稿用紙を見るだけでうんざりするし、文を考えるのが面倒くさい。他の宿題とは違って、友達に写させてもらうという荒技も使えない、厄介な物だという認識は拭えない。

『…あたし、文書くの嫌いなんだもん…。』

『結構向いてると思うけどな。僕は。』

『気が向いたら、やってみればいいわ。』

伊吹は相変わらず、マイペースな口ぶりでそう言って微笑んだ。今でもそれは変わっていない。適当に書いただけの作文で賞を取って、寝る事すらも出来なさそうな雰囲気の仰々しい式典に出て、有り難味の分からない賞状と盾を手に帰ってきた奈々にも、大袈裟に感激して喜ぶなんていう野暮な事はしなかった。

“小さい頃から本ばかり読んでいたから、いつの間にか得意になってしまったのかもしれないわね。”

そう言って微笑んでくれたものだ。
確かに、小さい頃から本ばかり読んでいたり、絵本を描くのが好きではあった。子供なのにも関わらず、お人形遊びをしながら小難しくて壮大なテーマの物語を即興で考えたりしては、親や祖母に関心されていたものだ。文を書く手間は嫌いではあるが、想像力を駆使して自分のイメージを表現するのは好きな方なのだと思う。

『奈々ちゃんがもし、物語を書く事があったら…いつか、それを僕が活動写真にしたいものだよ。』

『それ、めっちゃすごいやん!さくら、やってみたらえぇんちゃう?』

『物語って言ったって、どんな話にすんの?』

『せやなぁ…。今までにないような、おもろい話がえぇな!』

いっその事、現代で人気の作品をあたかも自分が作りましたみたいにして、この時代で流行らせてしまえば面白いかもしれない…と、一瞬奈々は考えたが、外来語が禁止されていて、尚且つ風紀にも厳しいこの時代では難しいのだろうとすぐに考え直した。恋愛物の話でさえも、風紀を乱すものとして扱われるのは目に見えている。現代を知らないこの時代でも、現代をパクるのは不可能なようだ。

『…桜の話かぁ…。気が向いたら考えてみるよ。』

奈々はぼんやりと、伊吹が書いたゴーギャンの模写を見つめながらそんな返事を返した。
植物が主体の話なんてものは書ける気もしないし、物語自体書く気があると言ったら嘘になる。小さい子が可愛らしい童話を書くのとは訳が違う。
それでも、何もしないよりはましなのかもしれない…伊吹の絵を見ていると、ついそんな気になる。幼い頃から何年もかけてここまで描けるようになった伊吹の絵には、それ相応の説得力がある気がした。“出来ない”のではなく、“しないだけ”だと教えられている気さえした。文才の原石があるのにも関わらず、面倒くさいからと磨こうとしない…【宝の持ち腐れ】とはよく言ったものだ。
奈々には他にそれといって得意分野なんてものはなかった。ずば抜けて特技だと言えるものなんてない。伊吹のように絵が描けたり、龍二のように自分がやりたい映写技師という生きがいがあるわけでもない。それならいっそ…自分にあるかも分からない可能性に賭けてみてもいいのかもしれない。

『…あたしが何か書いたらさ…本当に龍二さんが活動写真にしてくれるの?』

『もちろんだよ。将来は、監督になりたいと思っているんだ。初の作品が奈々ちゃんの作品なら、これほど光栄な事はないよ。』

『そっか…。目標があるってさ…すっごいいいね…。』

『何がしたいか分からないなら、手当たり次第にやってみるのも悪くはないと思うわ。』

『そっか…。』

『よしっ!俺、決めたわ!』

ずっとごそごそと小さな紙に何かを書いていた光は、また唐突に大きな声でそう言って立ち上がった。この突然の空気の変え方にも、だいぶ慣れたような気がする。

『…何?どうしたの?』

『龍二兄ちゃん、俺、その活動写真絶対見に行くから、1番いい席取っといてや!』

『うん。分かったよ。』

『えぇか、さくら。お客さん待たせたらあかんで!』

光はそう言うと、小さな紙飛行機を奈々に投げつけて手を振って走り去っていった。光はどこか、風向きも定まらぬまま急に叩きつける春の嵐に似ているのかもしれない。奈々はそう思って、その場で手を振って光を見送った。窓の外で大暴れしていた突風は、いつの間にかやんでいた。窓に叩きつける強い風が通り過ぎた後は、夕闇が迫る静けさだけが余韻のように残って、だんだんと夜を誘導してくるものだ。

『光くんは、本当にいつも面白い子だね。』

龍二もそう言って、伊吹と顔を見合わせて笑っていた。奈々は納得しながらつられて笑って、投げつけられた紙飛行機を開いてみた。今日の小さな紙飛行機は大急ぎで折られたからなのか、飛び方も不安定でいびつな孤を描いて滑空をしていた。

「(*^_^*)」

『…絵文字だけで送ってくるなし…。』

そう呟いて、奈々は笑いを漏らした。目を移した先には、たらいの中でぷかぷかと嬉しそうに花開いた桜がある。春がくれた、最後の贈り物―――それは、春の嵐がもたらした、あの1本桜の1ヶ所を切り取ったかのような、小さなジオラマの桜山なのかもしれない…。そう、奈々は思った。
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