桜の舞う時

唯川さくら

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さくらフワリ

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細長い紙が米印に貼られた窓から射しこむ朝日が眩しくて、奈々は訝しげに目を覚ました。ぼんやりと目に映った天井は、古ぼけて黒ずんだ木製の作りをしている。だんだんとハッキリしてくる意識の中に、石油に似た香りがふわっと飛びこんできて、奈々はふと香りが漂ってくる方を見た。
様々な角度から書かれた能面が3つ、バランス良く描かれている絵。まだ仕上がっているわけではないらしく、どこか暗い色合いはキャンバスの上で右往左往している。そのキャンバスの上で絵筆を躍らせている伊吹は、ごそごそという布団の音に気がついて、手を止めて振り返った。

『…あら、目が覚めた?』

良く通る、優しくて穏やかな声は、遠い日に聞き覚えがある気がする。あぁ…もう“遠い日”になってしまったのだ。無意識のうちに、自分の中でそう解釈してしまっているのだ。

『…お腹空いてるでしょ?今ご飯持ってくるわ。』

伊吹はそう言って、ペトロールの香りを掻き分けて部屋を出て行った。奈々はしばらく横になったまま、ぼんやりとしていた。何かを考えていたわけじゃない。何も考えないようにしていた。

『…やっぱり…夢じゃなかったんだ…。』

そう、言葉に出して言ってみる。記憶と現実がぐるぐると回る思考回路を止めるためのブレーキのような一言だった。そう思い込むしかない、現実なのだと受け止めるしかない。
でも、現実だとしたら一体なぜここに来てしまったのか?
元の場所に帰る方法はあるのか?
そして、こんな事が現実にありうるのか?
どこを探しても答えなんてみつからなさそうな疑問ばかりが浮かぶ。何を調べていいのかもわからない。絶望的な気持ちで目を移した先にある、壁にかけられたばかりの日めくりカレンダーは、4月9日のページに変わっていた。
どんどん歴史は動いている。こうしている間にも、おそらく知らない場所で戦争とやらは激しさを増して、やがて止められない速度で誤った方向に加速してくのだろう。

『奈々ちゃん、朝ご飯持ってきたわ。』

伊吹はそう言って、お膳にご飯と漬物、そして佃煮を乗せて持ってきた。奈々はのそのそと布団から出て、寝ぼけ半分で用意されたお膳の前に這って行った。

『…えっ…。』

ご飯とは言っても、白米なんてかすかに見える程度で、ほとんど麦ごはんに近いような粗末なもの。漬物は大嫌いなたくあん。そして佃煮はと言うと、何かの茎みたいなものが佃煮になっているだけだった。

「あたし…朝はパン派なんだけどな…。泊めてもらってるのに贅沢は言えないし…。」

奈々はそう思いつつ、麦ごはんをしぶしぶ口に運んだ。ふっくらした白米が恋しくなるほど、歯ごたえは満点で、味も何だか妙な味だ。せめて塩味でもついていればまだ良かったものの、それすらもない。きっと、添えてある漬物で塩分を取れという事なのだろう。

『…伊吹さん…これは何の佃煮なの?』

茶色く煮込まれた、細くて何かの茎が3センチぐらいにカットされた佃煮。日頃からの食わず嫌いのせいか、奈々は見た事もないような食べ物は警戒してしまう。なるべく食べないとと思いつつも、そう言って伊吹に確認をしてみたりした。

『あぁ、芋のつるの佃煮よ。』

『…芋のつる!?』

『そうよ。奈々ちゃんは食べた事ない?』

『…ない…。ってゆぅか…。』

「これ、食べ物じゃなくない?」
そう言いたいのをぐっとこらえて、奈々はしぶしぶ箸でつまんでみた。パッと見ただけなら、お惣菜屋さんでもたまに見かける佃煮に似ている。でもいざこれが芋のつるだと聞いてしまうと、どうにも食べる気になれない。
でも、せっかく出してくれたものを残すのもどうかと思って、奈々は芋のつるという事実を考えないようにして口に無理矢理放りこんだ。噛んでみると、ほんのり甘いようなしょっぱいような…。なるほど、案外いけるかもしれない。味は何度か食べた事のあるきゃらぶきに似ている。きゃらぶきだと思えば食べれない事もなさそうだ。

「…お味噌汁飲みたいな…。ってか、朝は必ずミルクティー飲みたいんだけど…。さすがに置いてないかな?」

奈々にとっては贅沢でも何でもない、ただの日常的な事。毎日当たり前の朝の習慣。それでも、ここではその考えも贅沢になってしまうのだろう。特別贅沢を言っているわけでもないのに、こんなにも不便極まりないとは…。

『…ごちそうさまでした。』

何とか漬物以外を完食して、奈々は手を合わせてそう言った。とは言っても、残してしまったのは少し申し訳なく思って、「漬物は食べれないんだ。」という事を伊吹に伝えて謝ると、伊吹は大して気にもしていないように笑って、絵筆を動かし続けた。

『…桜…まだ咲いてるよね?』

奈々はふと、そう伊吹に問いかけてみた。

『咲いてるわよ。奈々ちゃん、桜が好きなの?』

『うん。…あの山に行ってきてもいい?』

『うん。いいわよ。』

奈々は立ち上がって、伊吹が貸してくれていた寝巻を脱いで自分の制服を着て出かける支度をした。いつ何が起きるか分からない思いから、念のため鞄も持っていく事にする。

「帰る頃にメールするから。」

いつものようにそう言おうとして、奈々はぐっと言葉を飲み込んだ。そうだ…この時代には、携帯電話なんてものは存在しないはず。そもそも、奈々の携帯だって圏外なのだから…。

『…暗くなる前に帰ってくるね。』

奈々は伊吹の後ろ姿にそう声をかけて、小走りで桜山に向かった。
通り過ぎる景色は、どこかの映画のセットにでも迷い込んでしまったかのような、古ぼけた街並み。変わらないのは、眩しい朝日が目に差し込んでくる事ぐらいかもしれない。

『…コンビニ行きたい…。1つぐらいコンビニがあってもいいのに…。』

桜山のふもと、ちょうど大通りに出るか出ないかの所には、いつも立ち寄るコンビニがあるはずなのに、それもなくなってしまっている。そこのコンビニで買ういつものお菓子も飲み物も、当分は買えなくなりそうだ。コンビニを通り過ぎて大通りに出れば、大型チェーンのスーパーやファストフード店、レンタルビデオ屋さんやファミリーレストランが軒を連ねていたはずなのに、それも見当たらない。

『…牛丼かチーズバーガー食べたいな…。』

昨日までは当たり前だったはずの事も、この時代ではワガママ以外の何物でもない。きっと誰にそうボヤいても、贅沢だと怒られるに違いない。

『…マジあり得ないんだけど…。こんなとこ、いたくないなぁ…。』

奈々は大きなため息をついて、足取り重く桜山に登る道に引き返した。
桜は今日も、見事に咲き誇っている。あと何日咲いているだろうか?この季節には毎日、この街に桜の雨が降り注ぐ。頂上に咲く大きな1本桜は、風に吹かれてたくさんの花吹雪を舞いあがらせるんだ。
奈々は、頂上からその光景を見るのが大好きだった。奈々がいた時代も今の時代も変わらないその光景は、少しだけ救いのように思えた。だんだんと急になる山道を抜けて頂上に出ると、一気に視界が開けて、桃色の大きな木が目に飛び込んできた。

『…おばあちゃんは…ずっとこの木を見てたんだなぁ…。』

どこか、その桜の木に祖母の姿が重なるような気がした。ずっと変わらずに、見守り続けている存在…。当たり前だと思っていたけれど、こんな昔からずっと…。
桜の花びらが地面を埋め尽くす中を静かに歩いて、いつものように木の下に寝転んで空を見上げる。枝の隙間からのぞく青く澄み渡った空は、やはり奈々がいた時代と変わらないように思えた。
ぼんやりと空に舞い上がる桜の花びらを見ながら、奈々は無意識に制服のポケットに手を入れて携帯電話を取り出した。やはり、表示は“圏外”。便利すぎる現代社会の産物も、ここでは何の意味もない精密機械の塊だ。

『電話もメールもネットも出来ないとか…ホントありえないんだけど…。』

メールの送信ボックスには、送れないままの隼人宛のメールがぽつんと残っていた。今頃、どうしてるんだろう?いきなり自分がいなくなったとしたら、学校も世間も大騒ぎになってるんじゃないか…。誘拐とか行方不明事件とか、日常的に起こる世の中だ。そう思われても不思議はない。

『マジで…早く帰らしてよ~…。こんなとこいたくないし、大騒ぎになっちゃうじゃん…。』

奈々は大きくため息をついて、ごろんと横に寝返りをうった。青々とした草の香りと、かすかな桜の香りが鼻をかすめて、少しだけくすぐったかった。

『…あっ…。あんたは…。』

ふいに背後で声がして、奈々は勢いよく起き上がって振り返った。その声が、遠くに置き忘れてきた声に良く似ていたからというのもあるのかもしれない。もしかしたら、悪い夢から覚めたのではないか…そんな淡い期待を胸に振り返った奈々の目に映ったのは、昨日会った雪斗という名の青年だった。少し古ぼけたカーキー色の学ラン姿と、深々とかぶった妙な形の帽子が、どこか滑稽に見える。

『…あ…確か雪斗とか言う…。』

奈々は少しがっかりしたように声を落としてそう呟いた。もしかしたら、ずっと送れずにいたメールの送信相手がそこにいるかもしれない…そんなほのかな期待はもろくも崩れさってしまった。

『…昨日は…ごめん。』

『…えっ?』

『…人違いだったみたいだから。』

『…あぁ…別にいいけど…。』

奈々のぼんやりした返事に、雪斗は少し不思議そうな顔をして首をかしげた。そして、桜の花びらが覆う地面に目をやりながら、ゆっくりと奈々の方へと歩いてきて、少し間を開けて隣に座り込んだ。

『…オレの幼なじみに、そっくりだったからさ。』

『…あたしが?』

『そう。だから、てっきりそうかと思い込んで、うちに連れてったりして…。』

『…あぁ…そうだったんだ。』

雪斗は足元に落ちた桜の枝を手にとって、分が悪そうにくるくると回しながらそう言った。
そんな姿に、奈々は見覚えがあった。そう、いつも隼人が謝る時は、こんな風に手悪さしながらぼそぼそと言葉を紡ぐ。隼人に瓜二つなこの青年は、癖までも隼人と同じようだった。それが少しだけ、自分が今置かれた状況を和らげてくれる気がして、奈々は少し気を抜いたように笑った。

『…君もあたしの幼なじみにそっくりなんだ。』

『…えっ…?』

『何か言いにくい事とかあると、必ず手悪さしながら言うんだよね。あたしの目も見ないで。』

『…。』

『良く出来た偶然もあるもんだね。』

そう言って軽く笑った奈々が懐かしそうに仰いだ空は、どこまでも澄み渡っていて、自分がかつていた場所ともつながってると信じたくなった。バラバラに離れてしまった桜の花びらが、一斉に空に舞い上がる見慣れた光景…。スカイブルーのキャンバスに描かれる、桃色の水玉模様…。大好きな光景を見る時だけは、奈々の表情も柔らかくなる。それは、前も今も変わらないままだった。

『オレの幼なじみも、そんな風にここで空を見るんだよ。』

雪斗は笑いながら、後ろに手をついてリラックスしたように空を見上げた。奈々は驚きを滲ませた表情で雪斗を見た。その目は透き通った琥珀色をしていて、いつも自分が捉えていた視線と同じだと思った。

『紫雨って言うんだけどな。』

『…。』

『この季節になると、いつもこの場所で桜を見てる。…飽きもしないでずっと。』

『…そうなんだ…。』

『…何でだと思う?』

そう言って振り向いた雪斗の表情…。あぁ、隼人もこんな、いたずらっぽい笑顔で笑ってたっけ…。奈々は急に振られた問いかけに思い当たる事があった気がして、少しだけ考えるように目をそらせた。…どこかでこんな場面があったような気がした。単なるデジャブだったか…それとも…。

“何で…そんなに桜が好きなの?”

…そうだ。いつかそんな風に隼人に聞かれた事があった。今と同じようにこの場所で、隣同士で座って話してた春の日…。その時、確か自分はこう答えたんだ。

『桜は…枯れること無く…キレイなまま空に舞うから…。』

奈々は思い出した答えを、そのまま声に出して呟いた。会った事もない、自分に瓜二つだという紫雨と言う少女の事を考えて言ったわけではない。あくまでも、自分がかつて答えた事を、もう1度答えただけだ。

『…驚いたな…。』

『…えっ?』

『…紫雨と同じ事言うんだな。』

その時、奈々と雪斗が感じた事は、限りなく似ている感情だっただろう。お互いの瞳は、相手の驚愕した瞳を捉えていた。

『…あんた、名前は?』

『…奈々。松下 奈々。…君は雪斗って言ったね。』

『そう。…奈々は、最近こっちに来たの?』

『…えっ?何で?』

『…あんまり聞かない言葉とか話し方するなって思って。』

『…はぁっ?』

『ほら。聞いた事ない言い方だからさ。…どこから来たんだ?』

その言葉に、奈々は動揺を隠せなかった。「私は未来から来ました。」なんて非現実的なセリフを、どうして言えただろう。そしてその言葉を言ったとしても、きっと誰も信じはしない。パソコンやCDさえもない時代だ…。元にいた世界に当たり前にあったような出来事も文化も何もかもが、ここでは驚異的な事に捉えられてしまうはずだ。それならなおさら、奈々でさえも信じがたい現実を正直に話すわけにはいかなかった。きっと、奈々の想像を絶する驚愕と不審の表情を浮かべるだろう。

『…どこからっていうのは…前に住んでた場所って事?』

『うん。家庭の事情でこっちに来たのか?』

しばらく奈々は考えた。どう説明すれば、納得してもらえるだろう?この時代でも通用するような言い訳…。奈々の頭の中のギアはフル回転して、真実味のあるフィクションを作り上げようとしていた。こういう時に自分の想像力が役に立つなんて…。もっとも、元にいた時代では作文を書く時ぐらいしか役に立たなかったが…。

『あの…あたし、雪村 伊吹さんっていう人の親戚でね…。色々あって、しばらくは伊吹さんの所にお世話になる事になったんだ。』

少し声は震えていたものの、何とかつじつまの合う話は完成した。そう、雪村伊吹の親戚…あながち嘘ではない。真実を少しアレンジしただけの事だ。

『あぁ~。伊吹さんの。じゃあ、山口から来たのか。』

どうやら、雪斗は伊吹の事を知っているようだった。それもそうかもしれない。雪斗の家と伊吹の家はほとんど離れていないし、この時代はきっと町内付き合いみたいなものもあったのだろう。元いた時代のように、近所なのに全く関わりがないなんて事もなかったに違いない。
それに、確か祖母は山口県の萩市出身だったはずだ。

『そうそう!萩の方なんだけどね…。』

『大変だったな。そんな遠くから。』

『…そうだね…。』

奈々は内心ヒヤヒヤしていた。何か小さな矛盾を見つけられでもしたら、もう言い逃れは出来ない。だからと言って、真実を話せばもっと嘘臭くなる。でも何とか納得してもらえたようで、ほっと胸をなでおろした。もっとも、萩市なんて行った事もないし、何が名物だとかどんな場所だとかは分からないのだが…。そこだけは触れて欲しくない思いで、奈々は祈るように雪斗を見た。
雪斗は全く疑惑も抱かなかったようで、のん気に桜の枝を空にかざして見ている。どうやらうまくいったようだ。

『…あ…遅くなったけど、よろしくね。あたし、こっちにはまだ友達とかいなくて…。』

『あぁ。よろしくな。今度、オレの友達も紹介するよ。』

奈々は話題をそらせるように、そんな事を言った。もちろん、心にもない事を言ったわけではないが、そんなセリフを言ったのはほぼ初めてに近い。もともと人見知りで人付き合いも苦手な方だ。自ら進んで友達を作ろうともしない。それを何度か隼人に指摘された事があったのを、奈々はふと思い出した。

“お前、友達ぐらい作れよなぁ。”

“面倒くさいから、結構でーす。”

今は面倒くさいとかそういう事を言っている場合ではなさそうだ。何が面倒くさいって、今置かれているこの状況こそが1番面倒くさい。一瞬目を閉じた瞬間に、時計が百万回以上も逆に回った。そんな非現実的な出来事を納得出来るわけもないし、解決策も何も分からない。今はとにかく、元いた時代に戻れるように何かヒントみたいなものを探すほかないし、知り合いは多い方がいい。勝手の分からない世界だ。人付き合いが苦手なんて悠長な事は言えない。
それに、唯一心を許していた幼なじみの隼人に似ている雪斗なら、なんとなく親近感がわいて仲良くなれそうだ。それだけが救いなような気がした。
奈々は1つ大きく深呼吸をして、心を落ち着かせながら桜空を仰いだ。本当にここだけは変わらない。もしかしたら、これがヒントなのだろうか?現世でもここでも変わらない場所…つながっている場所…。そもそも、奈々がこの世界に来たのだって、ここで桜を眺めていた時だ。もしかしたら何かあるのかもしれない。

『雪斗~。おるんか~?』

その時、突然聞きなれない声が聞こえて、奈々は再び心臓を鷲掴みにされるような緊張感に襲われた。せっかく雪斗を誤魔化してホッとした所なのに、今度は一体誰なんだろう?声がした方に警戒心に満ちた目を向けてじっと見てみる。生い茂った草の道をかき分けて現れたのは、少し色黒でぱっちりした目が印象的の青年だった。年は奈々と変わらないぐらいだろうか?膝のあたりが擦り切れて、あちこちがほつれているカーキー色の学ランを来ている。雪斗と同じ学校の同級生だろうか?

『…あぁーっ!』

突然、彼は大きな声で驚きを表して、足早に奈々に近づいてきた。奈々は予想外の出来事にびっくりしたのと、隠し事がある事で生まれる警戒心からくる驚きとで、軽く混乱していた。しどろもどろしながら少し後ろに後ずさりする。

『ほんまによぉ似てるなぁ!紫雨ちゃんに!なかなかおれへんで!ここまで瓜二つなん!』

奈々はぽかんとした顔で青年の顔を見ていた。彼の表情は、全く悪気のかけらも感じないような、くったくのない笑顔だ。どうやら何か感づいたとか、そういう類の事ではないらしい。おおかた、雪斗から「幼なじみのそっくりさんに会った。」ぐらいの話は聞いていたのだろう。

『…誰…?』

それでも、奈々は警戒心を緩める事なくそう呟いた。自分の素性は何があっても絶対に気付かれてもいけないし、自分が作り上げた精巧なフィクションがはったりだとバレるわけにはいかない。

『…あぁ~いきなりごめんな。俺は“赤羽 光”。雪斗の親友やわ!』

『…悪友の間違いだろ?』

関西弁の青年、光は豪快に大笑いして雪斗にじゃれついている。…あぁ、こういう人、クラスに必ず1人はいるんだよな…お調子者で、腕白なタイプ…。奈々はそう思いながら、訝し気に2人を見つめていた。雪斗はじゃれついてくるお調子者を笑いながら制して、奈々に笑顔を向けて言った.

『こいつ、オレの友達なんだ。悪い奴じゃないから、安心して。』

雪斗はそう言うと、光に奈々の事を軽く説明した。光は落ちている花びらをすくい上げて、ふっと息を吹きかけたりと、聞いているような聞いていないような素振りで適当に相槌を打っている。奈々はそんな2人を見ていて、やっと落ち着きを取り戻した。人を疑ってかかるような人ではなさそうだし、何とかごまかせるだろう…そんな安心感だった。

『あたし、松下 奈々。よろしくね。』

ひと際強い風が吹いて、桜の花びらが風に踊った。思いのほか小さな声だったからか、奈々の声は風に流されてしまいそうになった。しかし、かすかな声を聞き取ったのか、光は子供のように満面な笑顔を浮かべて言った。

『…おう。よろしゅう頼むわ。』


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『そう。私の親戚という事にしたのね。それは名案だわ。』

伊吹はお茶の入った湯のみを2つお盆に乗せて、ゆっくりと部屋に入ってきてそう言った。朝方からずっと描いていた奈々の絵は、もう完成しているのではないかと思えるほど色付けされていて、今にも動き出しそうだ。この色遣いは、祖母に似ている。いつか絵を教えてもらった時に、「色は対角線上に同じ色が来るようにすると、バランスがいいのよ。」と言われた事を思い出した。

『とりあえず、嘘じゃないしいいよね?』

『えぇ。私の親戚で大丈夫よ。』

アトリエに帰ってきてから、奈々は昼間にあった出来事を事細かに伊吹に話した。何せこの時代の事が何一つ分からない。奈々にとって当たり前だった事も些細な話し方も、ここでは異文化でしかない。何か直した方がいい事や知っておいた方がいい事を教えてもらえるのではないかと思ったのだった。

『雪斗くんと光くんは、私もよく会うわ。彼らはとてもいい子たちよ。』

品がある湯のみの持ち方は、さすがお嬢様と言えるものだった。自分は本当にこの人の孫なんだろうか…奈々はそう不思議に思いながらも、もっと雪斗と光の事を知っておいた方がいいだろうと思って話を続けた。

『何か変にあたしの事を疑うとか、感づいたりする事はないかな?』

『…そうね。雪斗くんと光くんは、たぶん感づく可能性は低いと思うわ。むしろ…』

『…むしろ?』

『彼らと仲のいい子で、“相澤(あいざわ) 剣(つるぎ)”くんという子がいるんだけど、気をつけるとしたら彼かしら?』

『…えっ、何で?』

『彼はすごく警戒心が強くて、根っからの帝国軍人なのよ。』

『…えっ…。』

奈々は分かりやすいぐらいに顔を曇らせた。“帝国軍人”という表現がいまいちよく分からなかったが、なんとなくニュアンスで“ガリ勉で学級委員みたいなタイプ”と考えた。なるほど、奈々が1番苦手とするタイプに間違いはない。

『難しい子だし、彼に会う事があったら…ちょっと注意した方がいいかもしれないわね。』

伊吹も奈々につられたのか、少し顔を曇らせた。そしてお茶を一口飲むと、小さくため息を吐いて、曇りを吹き飛ばすように言った。

『悪い子ではないんだけどね。ただ、彼の前では発言に気をつけた方がいいと思うわ。』


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翌日、伊吹が服を貸してくれるというので、ようやく自分の制服を洗濯する機会が出来た。とは言っても、伊吹が貸してくれた服はどこもかしこも継ぎはぎだらけで、お世辞にも“可愛い”とは言えない。色合いも地味どころか、継ぎはぎの布のせいでとんでもない配色になっている。それに、デザイン的にも、どこか古臭いような…そうだ、確かモンペとか言った気がするが…。
袖を通した瞬間、何だか一気に老けたような気はしたが、家においてくれているだけでも有難いのだ。贅沢は言えない。奈々はそう自分を納得させて、自分の洗濯物を持って伊吹の後をついて行った。なぜか伊吹は家の敷地から出て、そのまま桜山の方に歩いて行った。奈々は訝しげな顔で伊吹の後ろ姿を見つめる。

『…洗濯…するんじゃないの?』

そう不思議に思いながらも、奈々はおとなしく伊吹について歩いた。伊吹が貸してくれたモンペのおかげか、少しだけこの街に馴染めたような気がする。
しばらく古い街並みを通り過ぎて桜山のふもとにたどりつくと、伊吹は山の裏手の方に歩いて行く。そちらの方には行った事がなかったような気がして、奈々は何があるのか予想も出来ずにいた。

『着いたわ。ここよ。』

目の前には、澄み渡った川が清らかな音をたてて流れている。その川の両端には、大きなたらいと妙にギザギザした面の板を持った人たちが数人…その板を川にななめにつけて、その上で洗濯物をこすり洗っている。何だか古い映画か何かで見たような光景だ。

『…まさか…これが洗濯…?』

『そうよ。家の水道を使うのはもったいないからって、みんな川で洗濯しているの。』

奈々は唖然としてその異様な光景を眺めていた。なるほど、洗濯機を発明した人はかなりの偉大な人物だ。奈々はそう確信した。洗濯物を放りこんで洗剤を入れるだけで、あとは自動でキレイに洗ってくれる…まさに素晴らしい発明品なのだと思った。

『洗剤はこれね。これをつけて洗うのよ。それから、洗濯物はこの板に擦りつけて汚れを落としてね。』

奈々は一瞬、言っている事が分からずに唖然としてしまった。さっきから伊吹が抱えていたその板は、洗濯に使うものなのかと目を疑った。そんな奈々をよそに、伊吹は試しに自分がお手本を見せて、『こんな風にするのよ。』と教えてくれた。

『終わったら、帰ってきてね。道はそんなに難しくないから大丈夫だと思うから。』

伊吹はそう言って、その場を後にした。奈々が唖然としている事も分かっていないようだ。
それもそうだろう。伊吹にとっては何でもない、日常の日課のはずだ。しかし、こんなのただの肉体労働ではないか…。そう文句の1つも言いたくなる。

『はぁぁぁぁ…。コインランドリーの1つでもないのかなぁ?これじゃあ桃太郎じゃん…。』

奈々はそう呟いて、ため息混じりに川のへりに腰を下ろした。どうにもやる気が起きない。しばらく川を眺めてぼんやりしていた。こんなにキレイな川を見たのは初めてだなとか、自分にとって当たり前だったはずの事がここでは通じないという事を更に痛感したりしていた。
伊吹が少し手本を見せてやってくれた洗濯の続きに、奈々はしぶしぶ手をつけて面倒くさそうにゴシゴシと擦って洗い始めた。今は春だからいいものの、これが冬だったら完全に酷な作業だ。氷水のような天然の水の冷たさに、洗濯どころではなくなってしまうだろう。

『…痛っっ…!』

板のギザギザに爪が引っ掛かって、奈々はその痛みに手を止めた。クリームを塗ったりやすりで磨いたり、こう見えてもネイルはかなり気を使ってお手入れをしていたのだ。学校が休みの時は、自分で流行りの色のマニキュアを塗ったりして、その季節に合ったネイルシールでデコレーションしたり、至って普通の女子高生のやる事だろう。形もキレイに整えてあった。
その大切な爪の1本が、見るも無残に欠けてしまっていた。前からちょっと、生え際の所にヒビが入っていて、特に丁寧にケアしていた右手の中指の爪が、ちょうどヒビが入っていた所からパキッと折れてしまっていた。

『あぁーっ!!爪折れたし!!』

奈々は悲鳴に似た声を上げると同時に落胆した。せっかくキレイに生えそろった所だったのに…。

『…ありえない…。爪は折れるし手は荒れるし…。』

奈々のやる気は完全になくなってしまっていた。正直なところ、洗濯自体がどうでもよくなっていた。そんな泥まみれになったわけでもないし、軽く洗って軽く流せばいい…それで早く帰って、鞄に入っているハンドクリームでケアをしないと…。そう思って、奈々は自分の爪を折れさせた洗濯板を恨みをこめるように傍らに放って、制服のスカートを川の流れに泳がせるようにすすいだ。
しゃがみこんだ膝に片肘をついて顎を乗せ、もう片方の手でスカートの端をつまむようにしてすすいでぼんやりしていた。ムスッとした表情で、ずっと川面を見つめている。
澄み切った透明な川の水に、上ったばかりの朝日が反射して、少しだけ眩しい。奈々の頭の中にある川のイメージを覆すかのような、ゴミ1つ落ちていないし水も濁ったりしていない、それこそテレビで紹介されてもおかしくはないような美しい川だ。

『確か、近所の川にはこの間壊れた自転車が落ちてたな…。別に驚くような事でもないけど…。』

奈々がそんな日常を思い出した瞬間だった。ぼんやりとしすぎたせいか、爪が折れた右手の力が緩んで、紺色のスカートが奈々の手を離れ、ひらひらと川の流れに乗って流されて行ってしまったのだ。

『…あっ…ちょっ…!』

奈々は重ね重ねの不運に、ただ目を見開いて愕然とするしかなかった。服が川に流される…そんな非日常的な事に即座に対応出来るはずもなく、動揺しながら立ち上がって小走りでスカートを追いかけた。なんて滑稽な光景なんだろう。現代では到底あり得ない光景だ。服が流されたなんて言う話、聞いた事もない。

『…えっ…ちょっと…何なのマジで…!』

さらさらと静かな川の流れに乗って、スカートはしぶきに飲まれながら風になびくように流れて行く。流れに乗って少しずつ岸から離れていくのを、奈々はどうする事も出来ずに平行して走りながら追いかけているしか出来なかった。わざわざ服がずぶ濡れになるのを覚悟で川に入って拾いに行く…なんていう野蛮な事は想像もつかなかったのだ。やがて、もうどうにもならないという諦めが脳裏をよぎって、奈々は足を止めて紺色のスカートが流れて行くのを見送った。爪が折れてしまったのとスカートが流されてしまったのと、立て続けの災難にただ肩を落としてトボトボと元の場所に戻って行った。もともと学校にはあまり行っていないし、辞めようかなんて思っていた所だ。制服が流されてしまったとしても別にいいか…と自分を納得させてはみるものの、折れてしまった爪には納得出来る論理が浮かばない。せいぜい浮かんでも、「元々ヒビが入っていたし、いつか折れてもおかしくなかったかもしれない。」という諦め文句ぐらいだろうか。
奈々は大きくため息をついて、伊吹から借りたたらいの横にしゃがみこんだ。ますます、元にいた現代社会が恋しくなった。時折、大き目の岩にぶつかって白いしぶきをあげる透き通った川面を見つめながら、明らかに不機嫌な表情を浮かべてぼんやりとしてみる。そうだな…今1番恋しいのは洗濯機かもしれない。それさえあれば、爪が折れたりスカートが流されたりしなくてすんだのだ。それから、いつも行くコンビニで立ち読みする雑誌、お菓子にドリンク、小腹が空いたらファストフード店に行って…いつか、隼人と2人で行った時、ポテトのLサイズとドリンクで5時間ぐらいねばった事があったっけ…。それから、安くておいしいチェーン店のレストランや牛丼店、レンタルビデオ屋さんで今週末に新作レンタルが始まる洋画も見たかったのにな…次から次へとそんな事が頭に浮かんで、何だか泣き出したい気持ちになった。

『…意外にどんくさい所あんねんなぁ。洗濯物流されるて。』

背後から急に聞こえたのは、昨日聞いたばかりの関西弁だ。振り返ると、やっぱりそこには光の姿があった。背後から朝日が照らして、少し眩しくてしかめっ面になってしまいそうになる。逆光が射す光の右手に握られた少し長めの木の棒の先にぶら下がるように、紺色のプリーツスカートが水を滴らせている。ひざ下までまくられたズボンの裾は、少しだけ濡れてしまっているようだった。潰れて形が崩れかけた帽子がちょこんと頭に乗っていて、今にも落ちてしまいそうだ。

『…取ってくれたの…?』

奈々は昔からの知り合いと話すように、光にそう言った。なんとなく光は馴染み易くて、ぎこちなさもいつの間にかなくなっていた。とは言っても、光と話したのは昨日少しの時間だけなのだが…。

『目立つねん。川と追いかけっこしとる奴なんて、なかなかおらんからな。』

光は子供のようにくったくなく笑うと、木の枝を奈々の方に差し出してスカートを渡した。奈々はすっかりすすぎも終わったスカートを受け取りながら、小さくお礼を言った。
そしてスカートを力いっぱい絞って水気を取る奈々の横に、光は大あくびをしながら座りこんで、そのまま大の字になって寝転がった。力を込めるのに疲れてふと目をやった光の足は、所々擦り傷だらけで、どうやら根っからのやんちゃ坊主という感じの青年のようだ。服のまま川に入るだとかそういう事は、たぶんそんなに大した事でもないのだろう。

『…その着物…短すぎちゃう?』

『…えっ?』

うたた寝でもするのかと思っていた光がいきなり風紀委員みたいな事を言うものだから、奈々は驚いて光の方を見た。光は訝しげな表情を浮かべて、奈々が必死に絞っているスカートに目をやっている。

『…丈が短すぎるやん。なんや、小さい頃のんをまだ着とるんか?』

『…いや…そういうわけじゃないけど…。』

奈々にとっては、制服のスカートなんかは膝上が当たり前だ。奈々だけじゃなくて、他の女子生徒も同じような事をしている。中にはプリーツの数を多くしてみたりする子もいるし、制服なんてあってないようなもの。鞄も何もかも改造してオシャレを楽しんでいるのだから、ある意味個性を象徴するものだと言っても過言ではないだろう。髪も染めたりパーマをかけたり、ネイルだってお手入れをしているのは奈々だけではない。中にはジェルネイルをしている子もいるし、メイクも当たり前。人それぞれではあるが、中には雑誌のモデルさながらのばっちりアイメイクの子もいる。風紀委員の先生は小うるさい事ばかりを言うが、女子高生だってオシャレを楽しんでもいいはずだ。奈々はそう思っている。ただ学年に数人は、模範生徒のように三つ折り靴下に膝下のスカート、普通の鞄、髪の毛も真っ黒のストレートできちんと結わえていて、学級委員に推薦したくなるような子はいるものだ。もちろん、それが変だとは言わない。その子が良ければいいものなのだが。

『…まぁ、しゃあないわな。今はどこも貧乏やし…。贅沢は敵やからな。』

光はそう言って、大きく1つ伸びをした。結局、“貧乏だから、スカートの丈も直せない。”と解釈されてしまったのは奈々にとっては面白くなかったが、何か気のきく理由も思いつかなかったので、そういう事にしておこうと思った。下手に話を作った所で、それが蛇足となって下手に怪しまれてしまったら元も子もない。とにかく、早く洗濯を終わらせて帰ってハンドクリームを塗らないと…奈々はそう思い直して、絞り終えたスカートを比較的きれいな大きめの石の上に置いた。
そして、ブラウスを軽く洗おうかという時に、光は思い出したかのように急に起き上がって、川のへりに座り込んだ奈々の背中に声をかけた。

『…そういえば、あんた学校は?』

『…あっ…学校…?』

奈々もすっかり忘れていたが、伊吹のアトリエにあった日めくりカレンダーを見た限りでは、今日は平日…。普通なら学校に通う日だった。奈々にとっては学校など気が向いた時に行く場所だったりするし、曜日の感覚すらもなくなっていたのだが、この時代でその自由気ままな生活スタイルが通用するとも思えない。だからと言って下手に学年を答えてしまったら墓穴を掘ってしまうかもしれない。祖母から聞いた話が本当なら、確かこの時代には奈々のいた時代とは学校制度が大きく違うはずだ。「高校2年ですけど。」などと軽々しく答えていいものかどうかも不安になって、奈々は少し困った表情を浮かべた。

『…あの~…ほら、まだこっちに来たばっかりだから、学校とかは…ねぇ?』

曖昧にやり過ごそうと思ったものの、つじつまが合いそうなストーリー設定が浮かばない。それもそうだ。奈々はこの時代の事を何1つ知らない。戦争がどうだとか生活の仕方とか、学校の事についても知らない。全く無知の状態では、嘘の付きようがない。奈々は珍しく、額にじっとりと汗を滲ませた。それでも、光は何も気にしていないかのように

『…そうか。転入やもんな。まあ手続きとか色々大変やけど、伊吹さんおるから大丈夫やろ。』

そう言って、地面から飛び跳ねるように勢いよく立ちあがった。そして、草だらけになって所々ほつれた制服を気にもせずに、眠そうな目をこすってあくび混じりに言った。

『同じ年ぐらいやから、同じ学校になるかも分からんな。ほんなら、俺そろそろ行くわ!またな!』

光はそう言い残して、後ろ手でバイバイと手を振りながら去っていった。奈々も軽く手を振ってはいたものの、それどころではないというような表情を浮かべていた。そうだ…学校はどうしよう?
思いもつかなかった問題が浮上したおかげで、完全に洗濯どころではなくなってしまった。学校に通わなければいけないのなら、奈々の嘘がバレてしまうのは時間の問題だ。元々学校に馴染めなかったのに、この時代の学校に馴染めるとは到底思えないし、大人数の生徒を欺きとおせる自信もない。だからと言って、学校に行かないという方法が果たして可能なのかどうか、それも分からない。ここは伊吹に相談して何とか学校に行かない方法はないものか考えた方がよさそうだ。
奈々は適当にすすいだだけの制服をたらいに投げ込んで、足早に伊吹のアトリエに帰って行った。


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桜山のふもとの川から小走りでまっすぐアトリエに帰ってきた奈々は、息を切らせながら離れに飛び込んだ。その勢いのまま伊吹に話をしようと息まいていたのだが、奥から人の話し声が聞こえて、心臓が縮むような気がして息をひそめた。誰かが来ているのかもしれない…。はたして自分の姿は見られてもいいものなのだろうか…嘘が通用するような、良い意味での単純な人なのだろうか…そんな不安が渦巻いて、ひっそりと気配を消そうと努めてみる。よく聞き耳を立ててみると、どうやら客人は男性のようだった。伊吹が前に話していた、ガリ勉タイプの学級委員だったらどうしようか…そう不安になった。
しばらくして、その場の空気が一転して客人が帰るような気配がした。奈々はたらいを抱えたままオロオロと周りを見渡して、隠れられる場所はないか探してみた。しかし、どこにも隠れられる場所はなく、急いでアトリエから逃げようかなどと思ってドアから出かかった時、その背中に急に声をかけられて、奈々はたらいを落としそうになるぐらいに驚いて立ち止った。

『あぁ、君が伊吹の親戚の子だね。』

予想とは違って、すごく穏やかで優しい声だ。それがせめてもの救いなような気がして、奈々はゆっくりと後ろを振り返った。客人の青年は、伊吹と同じ年ぐらい…奈々よりも3つぐらいは年上かと思うような、落ち着いた雰囲気の青年だった。言葉を味わうようなゆっくりした話し方と、裏表のなさそうな笑顔が印象的な、誰が見ても好青年。…よかった…噂の学級委員タイプの人ではなさそうだ。

『…こんにちは…。』

奈々はその姿に少し安心して、ゆっくりと向き合って軽く頭を下げた。奈々の話は伊吹から聞いているようだし、うまくつじつまの合う状況にはなっているのだろう。青年は疑う事を知らない子供のような微笑みで、「こんにちは。」と紡いだ。

『彼はね、私の友人の影山 龍二さん。活動屋さんをしているのよ。』

伊吹は“大丈夫”と笑顔に含ませて、龍二の後ろで軽く頷きながらそう言った。その笑顔に安心はしたものの、聞きなれない言葉が出てきたせいで奈々は思わず聞き返してしまった。

『…カツ丼屋さん…?』

『活動屋さんよ。彼は映写技師なの。』

思いもよらない聞き返しに笑いながら、伊吹はそう言った。活動屋…何度聞いてもよく分からない職業ではあるが、奈々は分かったふりをして軽く頷いて納得したそぶりを見せてみた。変に聞き返して墓穴を掘るような事はしたくないからだ。でも映写技師という事は、写真か何かの仕事なのだろう。

『奈々ちゃん、今度ぜひ遊びにおいでよ。』

『…あっ…そうですね…。じゃああの…伊吹さんと一緒に…。』

『いつでもいいからね。それじゃあ、僕はこのへんで。』

龍二は振り返って伊吹に軽く手を振ると、奈々にも笑顔で手を振ってその場を後にした。本当に爽やかという言葉がぴったりの青年だ。

『帰ってきてたのに気付かなくてごめんね。さあ上がって。』

伊吹は何だか上機嫌なようで、奈々からたらいを受け取ってアトリエに入っていった。奈々もホッと胸をなで下ろして、アトリエに入るなりそばにあった椅子にため息交じりに座った。

『大丈夫よ。彼、悪い人ではないから。』

『うん。…あっ、映写技師って何なの?』

『あぁ。奈々ちゃんは知らない?大きなスクリーンに映像が映し出されるの。とても面白いのよ。』

『…映画の事?』

大きなスクリーンに映像が映る…言葉だけを聞いたら、映画そのものだ。
奈々はふと、見ようと思っていた映画があった事を思い出した。大好きなハリウッド俳優が主演の映画で、シリーズ4作目になる人気シリーズの映画だ。公開日は来月だとテレビのCMでも宣伝していて、隼人と一緒に見に行く約束をしていた。その約束も、このままだと果たせなくなってしまう…。
何とかこの悪夢から覚める方法を考えないと…そんな決意にも似た思いが心を固めた気がした。

『…映画って言うの?奈々ちゃんの時代には。』

伊吹はアトリエを片づけながら、少し不思議そうな表情を隠して笑顔でそう言った。奈々ははっとしたように、ぼんやりしていた目を伊吹に向けた。

『大きなスクリーンに、映像が映るんだよね?物語の。』

『そうそう。それが活動写真って言うのよ。』

どうやら、映画に間違いはなさそうだ。つまり、活動屋さんというのは映画館で働く人の事らしい。この時代では、たった1つの事柄さえも呼び方が違うんだ…。それなら尚更、学校についても光に詳しく説明しなくて正解だったかもしれない。

『今度、一緒に見に行きましょう。面白いのよ。』

伊吹はそう言うと、心なしか上機嫌になったように見えた。奈々はそんな伊吹の様子が少し嬉しくて、くすぐるような事を言ってみたい気になった。

『…龍二さんて、伊吹さんのカレシ?』

『…えっ?彼氏?』

『恋人なの?』

“カレシ”という言い方では通じないのかもしれないと思って、奈々はあえて言い方を変えて伊吹にそう言ってみた。伊吹は蝋のように白く澄んだ肌をほんのり紅色に染めて、「違うわ。」と笑った。
そして、壁際によけておいたイーゼルを椅子の前まで寄せて、再び作業の続きに取りかかった。

『影山…か…。』

奈々の脳裏に、2年前に他界した祖父の顔がぼんやりと浮かんだ。やたらと厳しくて人嫌いで、プライドが高かった祖父…。“おじいちゃん”という言葉が似合わないほど凛々しく、いつでも冷静沈着だったのを覚えている。でも、その祖父の名字は“影山”ではなかったし、青年時代の写真も龍二とは別人だったはずだ。
そんな事を思って、奈々は何だか切なくなってしまった。目の前で絵筆を巧みに動かす伊吹が本当に奈々の祖母ならば、龍二とは結ばれる事はないという事だ。でも、それが奈々の存在を決定づけている事も事実であり、疑いようのないものだった。運命とはなぜこんなにも皮肉なものなのだろう。

『…あのさ…。』

奈々は切なくなる思いを吹き飛ばしたい一心で、話題を振った。奈々だけが知る“未来”という真実は、心に閉じ込めておこうと決めたのだ。
伊吹はそんな奈々の心情を知ってか知らずか、優しい顔をこちらに向けて軽く首をかしげた。

『…学校って、行かないといけないの?それだとちょっとまずいよね?』

奈々は先ほど、河原で光に会って話をした事を伊吹に話した。伊吹は手を止めて話を神妙な面持ちで聞いた後、少しの時間考えるように斜め上を見つめた。

『…奈々ちゃん、今いくつ?』

『今は16歳。今年17歳になるよ。』

『そう。それなら、うちのお手伝いさんっていう事にしたらいいわ。』

『…えっ、学校は?』

『17歳なら、立派に就職してるっていう事で大丈夫よ。』

『そうなの!?』

奈々は大袈裟なぐらいに驚いて伊吹を見た。初めてこの時代がいいものだと思ったかもしれない。学校にいかなくても何も言われず、問題児扱いもされない。とりあえず働いていれば誰にも怪しまれる事なく毎日を過ごせるのだ。奈々に言わせてみれば、“中卒のフリーター”として大きな顔が出来る。そういう意味では素晴らしい時代なのかもしれないと思った。

『奈々ちゃんは、本当は何年生なの?学校は行ってたのよね?』

伊吹は驚いて目を泳がせる奈々を見てクスリと笑ってそう言った。

『…一応高校2年だけど、ほとんどサボってたから…。もう学校も辞めようかなって…。』

『…高校って、高等学校よね?すごいじゃない。』

『あはは…すごくなんかないよ。だって、バカ校だし、あたしはその中でも落ちこぼれだったから…。』

『奈々ちゃん、趣味とかやりたい事とかはないの?』

奈々はぼんやりと天井を見上げて考えた。そういえば、現代にそんな忘れ物をした覚えはない。それもそうだ。初めからそんなもの持ってはいないんだから。

『…特に…。将来も別に…適当でいっかな~みたいな?』

言われ慣れているセリフに、言い慣れているセリフ。奈々は軽く笑いながらそう言った。いつもの事だ。ただいつもと違うのは、職員室に呼び出されたりするような厳しい雰囲気ではないという事。ただそれだけ。

『先公にもよく言われるんだけどね…。でも、「目標を持て」とか言われたって、やりたい事が分からないんだからしょうがなくない?超うっせーの。先公。だから、学校には行きたくないんだ。』

奈々はそう言いながら、鞄からハンドクリームを取りだして手のひらに広げた。揉み込むように塗り込んで、手に桜の香りのベールをまとう。特に、先ほど折れてしまった爪の部分には入念に塗り込んだ。早く伸びますようにと思いを込めて。
その香りに誘われるように、伊吹は奈々の方を向いて熱心に絵筆を動かしている。時々そばのテーブルに置いてある絵の具をパレットに出して、上手い事調合しているようだ。

『焦らなくても、そのうち見つかるわ。』

赤い絵の具を少しだけパレットに出して、伊吹はそう言った。自由奔放なお嬢様なのは、この頃からなんだなんて奈々は思った。現代でも、そう言っては奈々の味方になってくれるのは祖母だけだったからだ。

『…そういえば、この時代で“高校生”って言ったら、結構すごいものなの?』

『…そうね。高等学校は裕福な人しかいけない所だわ。』

『…えっ、そうなんだ?』

『そうよ。国民学校を卒業したら、男の子は中学校、女の子は高等女学校に通うの。それからは就職する人が多いかしらね。裕福な人や学力の高い人は、そこから高等学校や大学に進むわ。』

『…って事は、みんな“中卒”なんだね…。ってか、高等女学校って?』

『女の子が通う中等学校よ。主に、家事とか…そうね、嫁いでも困らないようにっていう勉強をする所よ。』

『…花嫁学校…って事?』

『あら、面白い表現をするのね。』

伊吹はクスクスと笑った。けして大口を開けて手を叩いて笑うなんて事はしない。そんな伊吹を見ている限り、確かにこれだけ品が良い教育をされていれば、どこに嫁いでも苦労はしないのだろうと思う。奈々にとっては信じられないような教育がこの時代ではされていたようだ。学問ではなく、料理だとか作法だとか、そういうものを教える学校に通わされるなんて…しかも、嫁ぐ事が前提だなんて…。奈々は先ほどまで羨ましいと思っていた気持ちが一気に引いていくのを感じた。そんな、いかにも“女らしく”なんていう学校、絶対に通いたくなんかないからだ。

『えっ、国民学校っていうのは何?』

『…一般的な勉強を教えてくれる学校ね。6年通うの。』

なるほど、この時代の“国民学校”っていうのは、今で言う“小学校”と同じなようだ。そこから、男子は中学校へ、女子は高等女学校へと進学するらしい。奈々はようやくこの時代の学校制度が少し分かった気がした。

『…でもさ、その国民学校っていう学校を出るのに6年で、中学校なり高等女学校行って、卒業したらまだ15歳とかそこらでしょ?それから就職なの?』

『いいえ。中学校も高等女学校も、4年制なのよ。』

伊吹はキャンバスを見ながら、真剣な顔で色合いを考えつつそう言った。そして何か閃いたようにいそいそと手を動かして絵の具を調合している。本格的な画家と言っても過言ではなさそうだ。

『…そうなんだ…。じゃあ、義務教育は…どこまでなの?』

『国民学校が義務教育よ。それ以外は希望して…という形になるわ。中学校も、入学考査とかあってね。誰でも入れるわけではないのよ。』

学校嫌いな奈々にとっては、義務教育が小学校だけというのはかなり羨ましい事ではあった。ただ、高等女学校とやらの仕組みがどうにも受け入れられなくて、結果的に現代の教育制度が1番いいんじゃないかと自分の中で結論づけてみる。まして、伊吹の言葉を奈々なりに解釈すると、この時代の中学は受験で入るようなものだ。中学校からお受験…奈々は頭がくらくらするような気がした。勉強嫌いで人付き合いも苦手な自分はきっと、この時代に生まれていたらまさかの“小卒”になっていたかもしれない。いや、きっとそうだっただろう。

『…何か…大変なんだね…。この時代は色々と。あたしにとってはあり得ないよ。』

『そうね…。』

伊吹は少し切なそうな表情を浮かべて、一瞬だけ絵筆を止めた。その時伊吹が何を思っていたのかは、奈々には分からない。傲慢とも思えるような自分の発言に気を悪くしてしまったのではないかと、内心ヒヤッとした。少し心配そうな目を伊吹に向けていると、伊吹はふと天井を仰いで、先ほどよりもか細い声で呟いた。

『…奈々ちゃんは、恋人はいるの?』

『…えっ、いや…。』

気まずく思える空気を裂いて、唐突に伊吹がそんな事を聞いたからか、奈々は少し声を詰まらせてしまった。それに、脳裏に浮かぶ顔はあるものの、関係性はひどく曖昧なものだからというのも理由の1つかもしれない。

『…カレシ…って訳でもないけど…。まぁ、色々と心配してくれたり、お世話になってる幼なじみって所かな。今は。』

『…そう。素敵じゃない。“気が付いたら、いつも側にいる”関係なんて。羨ましいわ。』

絵筆を動かす伊吹の手が、完全に止まった。一休みでもするかのように絵筆をパレットに置いて、側にあるテーブルで湯気をのぼらせていたお茶に手を伸ばす。そして一口含んで飲み干すと、珍しく俯いてぼんやりと何か考えている。

『…伊吹さんにだって…龍二さんがいるでしょ?』

奈々はそう言いながら、心に微かに突き刺さる棘の痛みを感じていた。そう、伊吹の想いの結末は自分が一番よく分かっている。それどころか、奈々の存在自体がその結末の証明だ。“龍二は自分の祖父ではない。”それを分かっていながら、奈々はそう言った。良心が痛まないはずはない。

『…そうね。今は…ね。』

『…。』

そう言う伊吹の言葉に、奈々は内心ヒヤヒヤしていた。未来を聞かれたらどうしようか…。本当の事を話すべきなのか、ここでもまた架空の話をでっちあげるべきなのか迷っていた。心に刺さったままの棘は、ますます痛みを増して深く突き刺さる。

『…どんなに気持ちがあったとしても、結婚する事は出来ないわ。』

『…えっ…何で?』

『結婚はね、親が決めた人とするものなのよ。特に、うちみたいな家柄なら尚更ね。』

『…えっ…強制お見合いって事!?』

ますます、この時代は自分には合わない…。奈々の常識ではありえない事だ。強制的にお見合いをさせられ、自分の好き嫌いに関わらず親が結婚相手を決める…。自分自身に選択権はないも同然なんて、まっぴらごめんの話だ。そんな、一生一緒にいる相手を自分で決められないなんて…どれだけ拷問なのかと疑ってしまいそうになる。

『…奈々ちゃんがそれだけ驚くっていう事は、未来では好きな人と結婚する事が許されるって事なのね。』

伊吹は、どこか安心したような表情を浮かべて優しく微笑んだ。その瞳に、羨望がこもっていなかったと言ったら嘘になるかもしれない。それでも、奈々が生きていた現代を少しだけ垣間見て、安心感をあらわにしたように笑って、毛先が少しだけ固まってしまった絵筆を水で溶かし始めた。キャンバスの上で絵の具を自在に操る伊吹のその女神のような表情は、先ほどよりも少しだけ柔らかく見えた。
奈々は現代と未来の間に挟まったような気分で、心のもやもやが晴らせないまま立ち上がり、窓の外を眺めた。米印に貼ってある紙の間から、ひと際目立つ大きな朱色の錦鯉が尾をなびかせて悠々と泳ぐのが見える。大きな蓮の葉が浮かぶ池には、何枚か桜の花びらが浮いている。桜山にある1本桜の香りは、風がここまで運んでくれているようだった。
なぜあの1本桜は、自分までもこの時代に運んでしまったのか…それだけは、いくら考えても分からないし、いまだに実感もぼんやりとしか湧いていない。あまりにも違いすぎる生活スタイルや常識…。この時代が自分に合っていないのではなく、自分がこの時代に不適合なのだと思い直した。何か1つ取ってみても、自分が知っている事とは大きく違う。それならば、きっと考え方も違うはずだ。この時代を生きる人にとってみれば、奈々の考えは逸脱していると思われて当然なのだろう。【郷に入ったら郷に従え】ということわざがあるが、奈々はどう考えてもこの時代の常識には従えないような気がした。

『…ここでもあたしは問題児か…。』

現代でも、大人たちの言っている事に納得がいかずに衝突する事は多々あった。自分の気持ちに嘘をつく事が出来ず、妥協という言葉も頭にはなく、いつからか問題児扱いされる事も多くなった。世間体だとか常識だとか、もっと言えば偽善だとか計算高さだとか、そういうものを断固として嫌う奈々は、周りの空気を読まないためか自分勝手というレッテルを貼られる。人付き合いも上手くはない。うわべだけの言葉を言わないと言えば聞こえはいいが、悪く言えば思った事をそのままズバズバと言ってしまう性格は、協調性がないと判断されてしまうのも無理はない。
祖父譲りの、融通が利かない頑固な性格…それは奈々自身が1番良く分かっている。
祖父は、この時代を生きにくく思った事はあるんだろうか?あんなに強気な性格の祖父でも、弱音や泣き事の1つでも吐きたくなる時はあったんだろうか?
奈々はふと、亡くなった祖父の事を思い出していた。“孫”として、可愛がられた記憶はない。いつでも祖父は凛として、幼い奈々を子供としてではなく1人の人間として扱ったものだった。今思えば、どこか軍人気質だったような…そんな気がする。

『…奈々ちゃんは、問題児なの?』

伊吹は真剣な目をキャンバスに向けたまま、口元を和らげてそう言った。奈々ははっと我に返り、振り向いて、窓に寄りかかって皮肉っぽく笑った。

『…そうだよ。…人付き合い苦手だし、協調性ないからね…。』

『…そう。私は人に合わせる必要はないと思うけど。』

伊吹は相変わらず、菩薩のような表情で平然とそんな事を言う。奈々は、自分の性格は祖父譲りなだけじゃなく祖母譲りでもあるのかもしれないとふと思った。そうだとしたら、問題児のサラブレッドだ…2人は似た者同士だったのだろうか…?そう思う奈々の気も知らず、伊吹は奈々に微笑みかけて

『そう言う私も問題児なのかしらね。』

そう言った。

『…かもね。あたしはもう慣れちゃったけどさ。しょっちゅう“KY”って言われるから。』

奈々は軽くそう返しながら、テーブルの上にあるお茶に手を伸ばした。湯気が立たなくなったお茶は、少し冷めていて猫舌の奈々にはちょうどいい。塩梅を見るように1口口に含んだ奈々は、目をちらっと伊吹の方に向けた。急に黙ってしまった伊吹が気になったのだ。何か変な事を言ったのか…たびたびそんな事が気になってしまう。
奈々ははっとした。いつも通りの事を口にしたつもりだったが、現代で話すような略語が伊吹に通じるはずがない。それを瞬時に察して、ごくりとお茶を飲み込んで言いなおした。

『…あぁ、“KY”ってのは、“空気読めない”って意味なんだけど。』

そもそもこの時代には英語なんてあったのだろうかと、素朴な疑問が頭に浮かぶ。そう言えば、どこを見てもアルファベットなんて書いていない。英語を知らなかったら、“KY”なんて言葉を説明した所で分かるはずがないなと、奈々は少し困った顔で伊吹を見た。

『面白い言い方をするのね。奈々ちゃんの時代は。』

『…あはっ、英語知ってるんだ。』

伝わった安堵からか、奈々の表情に穏やかさが戻った。しかしそれもつかの間、伊吹から返された返答は、またもや奈々の常識を覆す歴史の事実だったのだ。

『知ってるわ。…でもね奈々ちゃん、この時代では外来語は禁止なのよ。』
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