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第三章 十一月の受難
浮上1
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──絵美ぃ。
そう。
いつも、こうやって呼ばれてた。
梨奈ちゃんじゃない。
私は何故か、これが梨奈ちゃんの声ではないと分かる。
だって、梨奈ちゃんはまだベビーだもの。
「手間かけさせてんじゃねぇぞ!」
また林がわめいた。
耳を押さえる。
──きゃははっ。
そうよ。
いつもこう、頭の中に直接響いてくる。
喧嘩して、笑って。
いつも傍にあった声。
「何だ、その態度は!」
林が事務机を蹴った。
必要以上に鼓膜が震えて音が爆ぜる。
バチバチ、バラバラ。
今度は条件反射みたいに匂いがよみがえった。
夏の終わりみたいな。
音と、夏。
この組み合わせ、どこかで……。
──絵美ぃ。
まだ崩れたら駄目だ。
あの声が呼んでる。
夏。
昌也が私の部屋から荷物を持ち出したのが夏の終わり。
顳顬の辺りに電流が走った。
「雹……」
林には届かないほどの、小さな呟きが漏れる。
あの日、私は窓を見てた。
天気予報は外れて、快晴から突然雷雨に。
それは、途中で雹に変わった。
窓の外のあらゆる物にぶつかる氷の粒。
部屋の中まで音が聞こえた。
バチバチ、バラバラ。
あの後、私はどうしただろう。
窓を開けた。
どうして?
外に小さな何かがあったからだ。
掌を眺める。
軽いようで重い、ずしんとした感触。
寝息。
もみじみたいな手。
ふわふわのほっぺ。
ミルクの匂い。
もう当たり前すぎて、今ここにあるかのような感覚。
「ルナ」
今度こそ、腹から声が出た。
「ルナはルナだわ」
林が鬼のような形相で事務机を叩く。
それでも、私は身体の底から笑みが溢れ出てくるのを感じていた。
大喧嘩をしたあの日は、あの服を着ていた。
午後から買い物に出たあの日は、帰り道で雨が降ってきた。
寝坊したあの日は、洗濯物が踊るみたいに風にはためいていた。
忙しない日々の何気ないシーンが、ランダムに切り取られていく。
そこに居たのは、ルナしか有り得ない。
だから私は背筋を伸ばす。
ここがどんなに暗くても。
──まったく。あなたは仕様がない人ですね。
瞼の裏で、佐山が口角をひん曲げている。
本当に仕様がない。
ちょっと脅されたくらいで崩れそうになるなんて。
「小山内さんの取調べで落ちない奴は珍しい。
その根性だけは認めてやる」
林が舌打ちして嫌味を吐く。
腹が立つ言い様だが、ここは冷静に「ルナはルナである」ことを理解してもらわねばならない。
「あの人、そんなに凄いの」
「あぁ。小山内さんはマジおっかねぇ」
冷静に話を進めたいのは山々だが、やっぱ腹立つ。
私は足を伸ばし、事務机を下から思い切り蹴り上げた。
ガンッと鈍い音が取調室に響く。
「ぴゃぅっ」
……何、今の?
不審な思いで正面を見つめれば、林が口を押さえている。
そして、その指は小刻みに震えていた。
こいつ、ビビリか?
「な、何す……」
「落ちる落ちないの問題じゃないじゃん?」
林を遮り、私は腕を組んだ。
「無理やり落として間違ってたらどうすんの」
「おま、まだ言い逃れるつもりか!」
林は態勢を立て直したかに見える。
しかし、私は既に思い出していた。
自分の手の内に、まだ多くの切り札が残っていることを。
目の前の刑事が、えらく愚鈍に思えてきた。
──例え疑われたとしても、あなたには強力な証人がいるということです。
分かってる。
佐山には、いつも助けられてばかりだ。
「私はやってない」
改めて容疑を否認する。
特に目の前にいる脳筋には、猿でも理解可能な解り易さが求められるだろう。
「あの人は何て言ってんの?
岩崎さんだっけ」
低脳が吠える前に質問を投げる。
ここで、林は何故か返答にまごついた。
「怪しいわね」
「こ、個人の情報は教えない」
本当にそうだろうか。
普通、言うんじゃないか?
保護したベビーについて、「岩崎家側が間違いなく梨奈ちゃんだと言っている」と。
岩崎家がそれを認めていれば、私が何を言い訳しようと容疑は固まるはずだ。
DNA鑑定等の方法もある。
何故、わざわざ時間をかけて私を揺さぶるような真似を?
これは、何かある──。
そう。
いつも、こうやって呼ばれてた。
梨奈ちゃんじゃない。
私は何故か、これが梨奈ちゃんの声ではないと分かる。
だって、梨奈ちゃんはまだベビーだもの。
「手間かけさせてんじゃねぇぞ!」
また林がわめいた。
耳を押さえる。
──きゃははっ。
そうよ。
いつもこう、頭の中に直接響いてくる。
喧嘩して、笑って。
いつも傍にあった声。
「何だ、その態度は!」
林が事務机を蹴った。
必要以上に鼓膜が震えて音が爆ぜる。
バチバチ、バラバラ。
今度は条件反射みたいに匂いがよみがえった。
夏の終わりみたいな。
音と、夏。
この組み合わせ、どこかで……。
──絵美ぃ。
まだ崩れたら駄目だ。
あの声が呼んでる。
夏。
昌也が私の部屋から荷物を持ち出したのが夏の終わり。
顳顬の辺りに電流が走った。
「雹……」
林には届かないほどの、小さな呟きが漏れる。
あの日、私は窓を見てた。
天気予報は外れて、快晴から突然雷雨に。
それは、途中で雹に変わった。
窓の外のあらゆる物にぶつかる氷の粒。
部屋の中まで音が聞こえた。
バチバチ、バラバラ。
あの後、私はどうしただろう。
窓を開けた。
どうして?
外に小さな何かがあったからだ。
掌を眺める。
軽いようで重い、ずしんとした感触。
寝息。
もみじみたいな手。
ふわふわのほっぺ。
ミルクの匂い。
もう当たり前すぎて、今ここにあるかのような感覚。
「ルナ」
今度こそ、腹から声が出た。
「ルナはルナだわ」
林が鬼のような形相で事務机を叩く。
それでも、私は身体の底から笑みが溢れ出てくるのを感じていた。
大喧嘩をしたあの日は、あの服を着ていた。
午後から買い物に出たあの日は、帰り道で雨が降ってきた。
寝坊したあの日は、洗濯物が踊るみたいに風にはためいていた。
忙しない日々の何気ないシーンが、ランダムに切り取られていく。
そこに居たのは、ルナしか有り得ない。
だから私は背筋を伸ばす。
ここがどんなに暗くても。
──まったく。あなたは仕様がない人ですね。
瞼の裏で、佐山が口角をひん曲げている。
本当に仕様がない。
ちょっと脅されたくらいで崩れそうになるなんて。
「小山内さんの取調べで落ちない奴は珍しい。
その根性だけは認めてやる」
林が舌打ちして嫌味を吐く。
腹が立つ言い様だが、ここは冷静に「ルナはルナである」ことを理解してもらわねばならない。
「あの人、そんなに凄いの」
「あぁ。小山内さんはマジおっかねぇ」
冷静に話を進めたいのは山々だが、やっぱ腹立つ。
私は足を伸ばし、事務机を下から思い切り蹴り上げた。
ガンッと鈍い音が取調室に響く。
「ぴゃぅっ」
……何、今の?
不審な思いで正面を見つめれば、林が口を押さえている。
そして、その指は小刻みに震えていた。
こいつ、ビビリか?
「な、何す……」
「落ちる落ちないの問題じゃないじゃん?」
林を遮り、私は腕を組んだ。
「無理やり落として間違ってたらどうすんの」
「おま、まだ言い逃れるつもりか!」
林は態勢を立て直したかに見える。
しかし、私は既に思い出していた。
自分の手の内に、まだ多くの切り札が残っていることを。
目の前の刑事が、えらく愚鈍に思えてきた。
──例え疑われたとしても、あなたには強力な証人がいるということです。
分かってる。
佐山には、いつも助けられてばかりだ。
「私はやってない」
改めて容疑を否認する。
特に目の前にいる脳筋には、猿でも理解可能な解り易さが求められるだろう。
「あの人は何て言ってんの?
岩崎さんだっけ」
低脳が吠える前に質問を投げる。
ここで、林は何故か返答にまごついた。
「怪しいわね」
「こ、個人の情報は教えない」
本当にそうだろうか。
普通、言うんじゃないか?
保護したベビーについて、「岩崎家側が間違いなく梨奈ちゃんだと言っている」と。
岩崎家がそれを認めていれば、私が何を言い訳しようと容疑は固まるはずだ。
DNA鑑定等の方法もある。
何故、わざわざ時間をかけて私を揺さぶるような真似を?
これは、何かある──。
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