上 下
70 / 130
第三章 十一月の受難

浮上1

しおりを挟む
 ──絵美ぃ。

 そう。
 いつも、こうやって呼ばれてた。

 梨奈ちゃんじゃない。
 私は何故か、これが梨奈ちゃんの声ではないと分かる。

 だって、梨奈ちゃんはまだベビーだもの。

 「手間かけさせてんじゃねぇぞ!」

 また林がわめいた。
 耳を押さえる。


 ──きゃははっ。


 そうよ。
 いつもこう、頭の中に直接響いてくる。

 喧嘩して、笑って。
 いつも傍にあった声。

 「何だ、その態度は!」

 林が事務机を蹴った。

 必要以上に鼓膜が震えて音が爆ぜる。
 バチバチ、バラバラ。
 今度は条件反射みたいに匂いがよみがえった。
 夏の終わりみたいな。

 音と、夏。
 この組み合わせ、どこかで……。


 ──絵美ぃ。


 まだ崩れたら駄目だ。
 あの声が呼んでる。

 夏。
 昌也が私の部屋から荷物を持ち出したのが夏の終わり。
 顳顬こめかみの辺りに電流が走った。

 「ひょう……」

 林には届かないほどの、小さな呟きが漏れる。

 あの日、私は窓を見てた。
 天気予報は外れて、快晴から突然雷雨に。


 それは、途中で雹に変わった。


 窓の外のあらゆる物にぶつかる氷の粒。
 部屋の中まで音が聞こえた。
 バチバチ、バラバラ。

 あの後、私はどうしただろう。

 窓を開けた。
 どうして? 
 
 外に小さな何かがあったからだ。

 掌を眺める。

 軽いようで重い、ずしんとした感触。
 寝息。
 もみじみたいな手。
 ふわふわのほっぺ。
 ミルクの匂い。

 もう当たり前すぎて、今ここにあるかのような感覚。



 「ルナ」



 今度こそ、腹から声が出た。

 「ルナはルナだわ」

 林が鬼のような形相で事務机を叩く。
 それでも、私は身体の底から笑みが溢れ出てくるのを感じていた。

 大喧嘩をしたあの日は、あの服を着ていた。
 午後から買い物に出たあの日は、帰り道で雨が降ってきた。
 寝坊したあの日は、洗濯物が踊るみたいに風にはためいていた。

 忙しない日々の何気ないシーンが、ランダムに切り取られていく。
 そこに居たのは、ルナしか有り得ない。

 だから私は背筋を伸ばす。
 ここがどんなに暗くても。


 ──まったく。あなたは仕様がない人ですね。


 瞼の裏で、佐山が口角をひん曲げている。

 本当に仕様がない。
 ちょっと脅されたくらいで崩れそうになるなんて。

 「小山内さんの取調べで落ちない奴は珍しい。
 その根性だけは認めてやる」

 林が舌打ちして嫌味を吐く。

 腹が立つ言い様だが、ここは冷静に「ルナはルナである」ことを理解してもらわねばならない。


 「あの人、そんなに凄いの」

 「あぁ。小山内さんはマジおっかねぇ」


 冷静に話を進めたいのは山々だが、やっぱ腹立つ。

 私は足を伸ばし、事務机を下から思い切り蹴り上げた。
 ガンッと鈍い音が取調室に響く。

 「ぴゃぅっ」



 ……何、今の?

 不審な思いで正面を見つめれば、林が口を押さえている。
 そして、その指は小刻みに震えていた。

 こいつ、ビビリか?


 「な、何す……」

 「落ちる落ちないの問題じゃないじゃん?」


 林を遮り、私は腕を組んだ。


 「無理やり落として間違ってたらどうすんの」

 「おま、まだ言い逃れるつもりか!」


 林は態勢を立て直したかに見える。

 しかし、私は既に思い出していた。
 自分の手の内に、まだ多くの切り札が残っていることを。

 目の前の刑事が、えらく愚鈍に思えてきた。


 ──例え疑われたとしても、あなたには強力な証人がいるということです。


 分かってる。
 佐山には、いつも助けられてばかりだ。

 「私はやってない」

 改めて容疑を否認する。
 特に目の前にいる脳筋には、猿でも理解可能な解り易さが求められるだろう。

 「あの人は何て言ってんの?
 岩崎さんだっけ」

 低脳が吠える前に質問を投げる。
 ここで、林は何故か返答にまごついた。


 「怪しいわね」

 「こ、個人の情報は教えない」


 本当にそうだろうか。

 普通、言うんじゃないか? 
 保護したベビーについて、「岩崎家側が間違いなく梨奈ちゃんだと言っている」と。

 岩崎家がそれを認めていれば、私が何を言い訳しようと容疑は固まるはずだ。
 DNA鑑定等の方法もある。
 何故、わざわざ時間をかけて私を揺さぶるような真似を?


 これは、何かある──。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

だってそういうことでしょう?

杜野秋人
恋愛
「そなたがこれほど性根の卑しい女だとは思わなかった!今日この場をもってそなたとの婚約を破棄する!」 夜会の会場に現れた婚約者様の言葉に驚き固まるわたくし。 しかも彼の隣には妹が。 「私はそなたとの婚約を破棄し、新たに彼女と婚約を結ぶ!」 まあ!では、そういうことなのですね! ◆思いつきでサラッと書きました。 一発ネタです。 後悔はしていません。 ◆小説家になろう、カクヨムでも公開しています。あちらは短編で一気読みできます。

時戻りのカノン

臣桜
恋愛
将来有望なピアニストだった花音は、世界的なコンクールを前にして事故に遭い、ピアニストとしての人生を諦めてしまった。地元で平凡な会社員として働いていた彼女は、事故からすれ違ってしまった祖母をも喪ってしまう。後悔にさいなまれる花音のもとに、祖母からの手紙が届く。手紙には、自宅にある練習室室Cのピアノを弾けば、女の子の霊が力を貸してくれるかもしれないとあった。やり直したいと思った花音は、トラウマを克服してピアノを弾き過去に戻る。やり直しの人生で秀真という男性に会い、恋をするが――。 ※ 表紙はニジジャーニーで生成しました

飽きて捨てられた私でも未来の侯爵様には愛されているらしい。

希猫 ゆうみ
恋愛
王立学園の卒業を控えた伯爵令嬢エレノアには婚約者がいる。 同学年で幼馴染の伯爵令息ジュリアンだ。 二人はベストカップル賞を受賞するほど完璧で、卒業後すぐ結婚する予定だった。 しかしジュリアンは新入生の男爵令嬢ティナに心を奪われてエレノアを捨てた。 「もう飽きたよ。お前との婚約は破棄する」 失意の底に沈むエレノアの視界には、校内で仲睦まじく過ごすジュリアンとティナの姿が。 「ねえ、ジュリアン。あの人またこっち見てるわ」 ティナはエレノアを敵視し、陰で嘲笑うようになっていた。 そんな時、エレノアを癒してくれたのはミステリアスなマクダウェル侯爵令息ルークだった。 エレノアの深く傷つき鎖された心は次第にルークに傾いていく。 しかしティナはそれさえ気に食わないようで…… やがてティナの本性に気づいたジュリアンはエレノアに復縁を申し込んでくる。 「君はエレノアに相応しくないだろう」 「黙れ、ルーク。エレノアは俺の女だ」 エレノアは決断する……!

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~

白い黒猫
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある希望が丘駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】。 国会議員の重光幸太郎先生の膝元であるこの土地にある商店街はパワフルで個性的な人が多く明るく元気な街。 その商店街にあるJazzBar『黒猫』にバイトすることになった小野大輔。優しいマスターとママ、シッカリしたマネージャーのいる職場は楽しく快適。しかし……何か色々不思議な場所だった。~透明人間の憂鬱~と同じ店が舞台のお話です。 ※ 鏡野ゆうさんの『政治家の嫁は秘書様』に出てくる商店街が物語を飛び出し、仲良し作家さんの活動スポットとなってしまいました。その為に商店街には他の作家さんが書かれたキャラクターが生活しており、この物語においても様々な形で登場しています。鏡野ゆうさん及び、登場する作家さんの許可を得て創作させて頂いております。 コラボ作品はコチラとなっております。 【政治家の嫁は秘書様】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981 【希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々 】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/274274583/188152339 【日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232 【希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~】  https://ncode.syosetu.com/n7423cb/ 【希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376  【Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 【希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 【希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/813152283

僕の彼女は幽霊少女

津嶋朋靖(つしまともやす)
ライト文芸
男子高校生、水原夢人は、横暴な部活の先輩に絞め技をかけられて落ちてしまう。 そのまま夢人は臨死体験に入るが、その途中で一人の少女と出会った。 少女の名前は辻村珠美。彼女も臨死体験中だったらしい。 二人で霊界を進んでいるうちに夢人は珠美に微かなトキメキを覚えていく。 三途の川まで来たところで、二人は現世に追い返されるのだが、その時に二人は現世に戻ったらもう一度会おうと約束した。 現世に戻った夢人は早速、珠美に教えられた電話番号に電話をかけるのだが……  

【本編完結】転生令嬢は自覚なしに無双する

ベル
ファンタジー
ふと目を開けると、私は7歳くらいの女の子の姿になっていた。 きらびやかな装飾が施された部屋に、ふかふかのベット。忠実な使用人に溺愛する両親と兄。 私は戸惑いながら鏡に映る顔に驚愕することになる。 この顔って、マルスティア伯爵令嬢の幼少期じゃない? 私さっきまで確か映画館にいたはずなんだけど、どうして見ていた映画の中の脇役になってしまっているの?! 映画化された漫画の物語の中に転生してしまった女の子が、実はとてつもない魔力を隠し持った裏ボスキャラであることを自覚しないまま、どんどん怪物を倒して無双していくお話。 設定はゆるいです

【完結】人前で話せない陰キャな僕がVtuberを始めた結果、クラスにいる国民的美少女のアイドルにガチ恋されてた件

中島健一
ライト文芸
織原朔真16歳は人前で話せない。息が詰まり、頭が真っ白になる。そんな悩みを抱えていたある日、妹の織原萌にVチューバーになって喋る練習をしたらどうかと持ち掛けられた。 織原朔真の扮するキャラクター、エドヴァルド・ブレインは次第に人気を博していく。そんな中、チャンネル登録者数が1桁の時から応援してくれていた視聴者が、織原朔真と同じ高校に通う国民的アイドル、椎名町45に属する音咲華多莉だったことに気が付く。 彼女に自分がエドヴァルドだとバレたら落胆させてしまうかもしれない。彼女には勿論、学校の生徒達や視聴者達に自分の正体がバレないよう、Vチューバー活動をするのだが、織原朔真は自分の中に異変を感じる。 ネットの中だけの人格であるエドヴァルドが現実世界にも顔を覗かせ始めたのだ。 学校とアルバイトだけの生活から一変、視聴者や同じVチューバー達との交流、eスポーツを経て変わっていく自分の心情や価値観。 これは織原朔真や彼に関わる者達が成長していく物語である。 カクヨム、小説家になろうにも掲載しております。

処理中です...