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🏥お医者さまの章🏥

5.絶対的事実

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 胡桃沢邸。
 万能執事・橋倉巌の居室である。

 くだんのメロドラマは、不倫男の妻が違和感を覚え始めているところであった。

 一度は上手く誤魔化せたと思われたが、意外なところからボロ出て──。

 という展開で、視聴者をハラハラさせている。


 橋倉も心配顔でテレビを消すと、いつものように茶を淹れるべく立ち上がった。




 「うっわぁ。奥さん鋭いねー」

 「ゴフッ! またですか、お嬢様!」

 ヒカリとカゲは、ごくたまに橋倉の部屋でドラマを視聴するのである。

 平日の昼下がり、20分ほどの放送枠でダラダラと続いている。何度か見逃したところで、話の筋が分からなくなるという心配はない。

 「バレるに決まってんだろうが」

 カゲは偉そうにラグに寝そべった。

 「“しばらく会わない”とか言った直後に会いに行ってやがる。意思薄弱か? 欲の塊か?」

 「だって、彼女は独り身で病気なのよ? 行っちゃうでしょ」

 「風邪だろ」

 昼下がりのドラマは、こんな下世話な感想を言い合えるくらいが丁度いい。

 「泥棒が! 当たり前のように寛ぐな!」

 橋倉が雷を落とすも、カゲは薄く笑いながら耳をほじっている。

 使用人たちを束ねる役割も担う橋倉にとっては頭が痛むところだ。

 しかし、楽しそうな令嬢を目の前にすると、「こういうのもアリなのか」と揺らいだりもする。


 「さあさ。そろそろ旦那様がお出かけになる時間です。お嬢様も参られるのでしょう?」


 ♡


 今日は、春平が健康診断を受ける日である。

 ヒカリの提案を快く受けた形だ。

 自分の身体を気遣ってくれてのことだと分かると、春平は目を細めて喜んだ。

 今日の午後は休診で、健康診断だけが行われる。

 ヒカリたちがクリニックに着くと、同じく健康診断を受ける人たちがまばらにソファで待機していた。

 「どうも、胡桃沢様。ヒカリちゃんも来てくれたんだね」

 北白河が待合室の方に出てきた。

 「やあ、若先生。今日はよろしく頼みますぞ」

 「こ、こんにちは」

 「この前は、ご馳走さま」

 彼はヒカリに耳打ちすると、笑顔で診察室に戻っていく。

 全身が痺れたようになった。
 囁かれた左の耳に熱が集中しているのが分かる。

 健康診断が始まれば、北白河は問診などで出てこない。

 それでもよかった。
 ひと目会うだけのために、ここへ来たのだから。




 (はうぅ)

 一方のカゲである。

 尿意を回避したくて、今日は外で待機している。

 しかし、そんな小さな抵抗は何の意味もなさなかった。

 尿意は、容赦なく訪れたのである。

 (くっそ、なんて威力だ! どんな危険が潜んでやがる……)


 正面のガラス扉が開いた。

 「ねえ、カゲ。ヒマぁ」

 春平は検査中だし、北白河はいない。

 思った以上に暇を持て余すヒカリお嬢様である。

 「帰るか?」

 「ううん、おじいちゃん待っとく」

 「まあ、どっかで暇つぶすか」

 カゲとしては、尿意を呼ぶ危険地帯から離れられれば問題ない。

 クリニック前の自販機でサイダーを買い、二人は歩き出した。


 「あ! この前のお姉ちゃんたち!」


 道を挟んだ公園から元気な声がかかった。

 こんもりした緑を背負った公園だ。

 「美亜ちゃん! また会ったわね!」

 ヒカリが手を振り返す。

 「ぎぁっ……!」

 カゲがうめいた。



 細い道を挟んだ、あの公園。

 そこへ行ったら、俺の膀胱は確実にヤバい。いや、既にヤバい。

 原因は美亜ちゃんか?

 カゲの瞼の裏で、危険信号が高速で点滅する。

 「お姉ちゃんたちも一緒にあそぼ!」

 「うん! 今行く!」


 嗚呼。
 さらなる危険地帯へ。


 公園には、美亜ちゃんの他にもたくさん子どもがいた。

 ヒカリは子どもと遊ぶのが嫌いではない。

 最高の暇つぶしだ。


 「ひゅぐっ!」


 カゲが素っ頓狂な声を上げて硬直すると、子どもたちはゲラゲラ笑った。

 カゲの事情知らないヒカリは、

 (ちゃんと子どもを喜ばせてる……意外と面倒見が良いのね。言動が気持ち悪いけど)

 と思っている。
 誰かが言った。

 「ドロケイやろうぜ!」

 お嬢様なヒカリはドロケイが何なのか分からなかったが、美亜ちゃんに教えてもらった。

 「よっしゃ、おまえら。俺様に追いつけるものなら追いついてみやがれ!」

 尿意を紛らすため、カゲは走った。
 まさにコソ泥の走りである。

 これまで、トイレを探して彷徨さまようことで警察から逃げ延びてきたのだ。

 誰にも追いつけるはずがなかった。




 「じゃあ、そろそろ時間だから。また遊びましょうね」

 三十分後、ヒカリとカゲは公園を後にした。

 ようやく危険な公園から離れられる。

 しかし、これから向かう場所も安全ではない。

 カゲは悲壮な思いを胸に、ヒカリに続いた。





 クリニックに入る直前、ヒカリは左の耳にそっと触れる。

 ──この前は、ご馳走さま。

 さっきの感触が、ずっと残っていた。

 耳をくすぐった空気の動きも、イントネーションも。
 



 一方のカゲは、わざわざ壁と天井を伝ってトイレに向かう。

 戻ってきて早々にトイレに直行すると、「近い人」と思われて恥ずかしいからだ。



 「ふー……ぉ、ぉう」

 今日も何とか無事だった──。



 バレないようにトイレから出る。

 ずっと、ここにいましたけど? みたいな顔で太い柱の陰に身を潜める。

 そこでまた震えがきた。

 (あぅ……マジでどーなってんだ、この病院は!)

 その時。
 自動の内扉が開いて、トコトコと小さな影が入ってきた。


 「え? 美亜ちゃん?」


 ヒカリが目を見開く。
 カゲも驚いたが、柱の陰から様子を窺う。

 しかし。

 「あら、美亜ちゃん。久しぶりね」

 「待ちきれずにパパを迎えにきたの?」

 もっと意外だったのは、受付の女性やナースたちが、美亜ちゃんをごく自然に受け入れていることであった。



 「パ……パ?」



 ヒカリが小さく呟いた。

 「うんっ!」

 美亜ちゃんは無邪気にナースたちに答えると、ついと手を上げて一直線に駆け出した。


 「パパぁ!」


 美亜ちゃんを抱き上げたのは、白衣の腕。

 「ごめんごめん。少し遅くなったな」

 「ずっ待ってたんだよぉ」

 「もうすぐ終わるから」

 可愛くてたまらないという様子で美亜ちゃんの頭を撫でるのは、北白河であった。

 (そういうことかよ! 道理で……)

 カゲは、たまらず柱に手をついて内股になった。

 度重なる尿意は、これを伝えるためだったのだ。


 既婚者──。


 北白河医師は、子持ちの既婚者だったのである。




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