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🏥お医者さまの章🏥
3.いなくならないで
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一方のカゲである。
彼は、やはり尿意と闘っていた。
クリニックに来る度に。
どうもおかしい。
この医者、ゼッタイ秘密があるぞと、カゲは思った。
「ああ、田中くん。紅茶を頼むよ。三人分ね」
北白河がナースに声をかける。
「ごめんなさい。忙しいのに」
「いいんだよ。ヒカリちゃんも一緒に食べよう。護衛さんもどうぞ」
「ひぅ……ど、どうも」
カゲは、ぎこちなくヒカリの隣に腰を下ろしたが気が気でない。
ただでさえ尿意と闘っているというのに、よりによって紅茶だ。
利尿作用……!
「あら、手作りのお菓子ですか? いいなぁ、先生もスミに置けませんねー」
田中と呼ばれたナースがトレイに紙コップを載せてきた。
利便性を考慮しての紙コップだが、そこはセレブ向けのクリニック。厚手でシックな模様が描かれた高価なもので、もちろん紅茶も高級品だ。
「良かったら皆さんでどうぞ」
「やったー、いただきます! んー、美味しい!」
「ありがとうございます。お恥ずかしいわ……このお紅茶、とてもいい香りですね」
ヒカリたちが談笑する横で、カゲは一気に紅茶を飲み干した。
「お、俺は、外で、待って、ますんで」
カゲは、診察室を飛び出すとトイレへ駆け込んだ。
診療が始まる前で、人がいなくて丁度いい。
事なきを得たものの、手を洗っている最中にまたブルリと震えが来た。トイレへ逆戻りだ。
(紅茶のせい? 恐るべし、北白河クリニック──!)
紅茶くらい手をつけなくても問題なかろうに、出されたものを律儀に平らげるからこうなる。
(誠先生、普段はこんなに気さくなのね)
カゲと対照的に、ヒカリの胸の中はポカポカと暖かかった。
また会えた。
仕事中とは違う、オフの先生だ。
自分を迎え入れてくれた。
手作りのお菓子を食べてくれた。
それだけのことが、たまらなく嬉しいのだった。
「ったく。礼なんか必要だったのかよ」
クリニックを辞すと、カゲは恨みがましく言った。
紅茶の作用も手伝って、尿意がえらいことになってしまったからだ。
時刻は十七時前。間もなく夕方の診療が始まるところである。
「予約外でお世話になったんだから当然でしょ」
「これからどんどん弱っていくんだ。いちいち礼なんかしてたらキリがねえだろが」
ヒカリがピタリと足を止めた。
クリニックの駐車場である。
「なに言ってるの、カゲ」
「あ?」
「おじいちゃんは財界の鉄人だよ」
「今はな。けど歳は取るだろ。順番でいったら先に逝くのはジジイだ」
「どうしてそんなこと言うの? おじいちゃんは、死なないよ」
ヒカリの口調がガラリと変わった。
カゲが振り向くと、彼女は表情を失くしてどこか遠くを見ていた。
「おい、どうしたんだよ?」
「パパとママが事故で死んで、おばあちゃんもすぐ病気で死んじゃって……でも、おじいちゃん言ったもん。これ以上、誰もいなくならないって」
「おまえ……」
「言ったもん! おじいちゃんも、橋倉も。絶対にいなくならないって、言ったもんっ!」
ヒカリが悲鳴のような声を上げると、カゲは苦い顔でポケットに手を突っ込んだ。
「……そうかよ。悪かったな。けど」
言葉を継ごうとしたとき、物音がした。
北白河であった。
北白河が、クリニックのガラス扉の前に立っていた。
「あ……ごめんなさい。こんなところで騒いで……」
見られた。
頬がカッと熱くなる。
ヒカリは慌てて涙を拭った。
「どうした?」
カゲが北白河へ問う。
「うん。健康診断をおすすめしようと思ってね。おじいちゃんがいいと言えばだけど」
「健康診断?」
北白河は頷いて歩を進めた。
「おじいちゃんは毎年人間ドッグを受けているけど、今年はまだ先だね。でも、昨日のようなことがあってヒカリちゃんが心配するのもよく分かる。うちの健康診断でも、おじいちゃんの体に不調がないかチェックすることはできるから……ねえ、ヒカリちゃん」
北白河は中腰になり、言い聞かせるようにヒカリの顔を覗き込む。
「人は歳をとる。それは避けることができない。でもね、その前にやれることはたくさんあるんだよ」
「誠先生……」
ヒカリは、目を潤ませて北白河を見つめ返した。
「ありがとう! 帰ったら、おじいちゃんに訊いてみます」
「よし!」
大きな手でヒカリの頭を撫でると、北白河はクリニックに戻って行った。
夕方の診療が始まるのだ。
春平の健康診断には付き添うつもりだった。
また、先生に会えるから。
今さっき、撫でられた頭にそっと手を添える。
カッコいい誠先生。
冬子と一緒になって、きゃあきゃあ言えればそれで楽しかった。
姫華に抜け駆けされなければ、それで良かった。
でも。
もう誤魔化せないだろうと、ヒカリは自覚した。
誠先生のことが大好き。
朱と金に染まった空に向かって。
止まらない思いは、高く高く昇ってゆくのだった。
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