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① 初恋
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しおりを挟む初めは随分と戸惑ったものです。
青々とした芝生の上で目が覚めました。
ふかふかの芝生の匂いは気持ちが良いけれど、なぜこの場所にいるのか分かりません。
気がつくと、わたしは森を遥か下に見下ろしていました。
流れる川と満開の桜が見えます。
わたしの住む街も、川沿いの桜がきれいでした。
あそこに架かっている橋もよく似ています。
ここは、わたしが住む街でしょうか。
だったら、あの橋を渡れば帰れるかもしれません。
でも、思い出しました。
あの時、街は業火に包まれていたはずなのです。
熱くて、痛くて。
火のない場所を求めて逃げ惑いました。
それでも人でひしめき合う橋には行き場がなくて。
途中ではぐれてしまった母と姉はどうしたでしょう。
俄かに不安に襲われます。
わたしは、祈るような気持ちで母と姉を探して彷徨いました。
橋の向こうに、見慣れない角ばった建物がひしめいています。
そして、天にも届きそうにそびえる異形の塔。
とても人の成せる業とは思えません。
ここは、わたしが知る街ではないようです。
考えないようにしていたことを、認めざるを得ない時が来てしまいました。
わたしはあのとき、業火に呑まれて死んだのだと。
ならば、ここは天国でしょうか。
天国なら、あんな塔がそびえていてもおかしくはなさそうです。
たくさんの人々が行き交っています。
はしゃぐ幼子も見守る人も、みんな幸せそうです。
ここは天国ですから。
母と姉のことを思いました。
そして、遥か遠い戦地へと赴いた、あなたを。
あなたは、ここにいました。
不安に押し潰されそうになりながら、彷徨って彷徨って。
ベンチに腰掛けて本を読む、あなたを見つけました。
声を上げて泣きたくなりました。
喜びそうになってしまう自分を必死で抑えます。
あなたは、大切な人を残して、こちら側へ来てしまったのですね。
あなたから見たわたしは、青くさい子供にすぎません。
あなたは優しくて頼りがいのある、お隣のお兄さん。
遊び相手のお兄さんが憧れの対象に変わったのは、いつのことだったでしょう。
ある日、あなたの家にきれいなお嫁さんがやってきました。
優しそうな女性でした。
わたしの淡い想いは、あぶくのように弾けて消えたのです。
赤紙が届いたのは、それから僅か、ふた月後のことでした。
ふいに、あなたを見失いそうになりました。
あなたは橋を渡ろうとしています。
あの異形の塔の方へ向かって。
待って。
わたしも橋へ踏み出そうとしますが、まるで透明の壁に阻まれているかのように進むことができません。
あなたの背中はどんどん小さくなり、やがては消えてしまいました。
どうして。
ようやく会うことができたのに。
悲しい思いでとぼとぼと彷徨ううち、わたしは木陰に佇む石碑を見つけました。
ここは天国のはずなのに。
この石碑を見ていると、恐ろしいことばかりが蘇ります。
三月。
桜にはまだ早かった、あの夜。
警報、赤い空、爆撃機の影。
怒号、燃える水面。
人形のように積み重なる死体。さっきまで生きていた人の。
落ちない火の粉。
生き物のような、熱。
すがりつきたい、背を向けて逃げたい。
でも、そのどちらもできませんでした。
物言わぬ石は、無言のうちに伝えてきます。
これは、死者を弔う石──。
焼け焦げて、人形のように積み重なっていた人たちの。
それから、わたしの。
わたしが死んだあと、戦争は終わったのです。
ここが天国のように思われるのは、戦争が終わったからなのです。
ようやく得心がいきました。
ここは、天国ではないのだと。
戦争は終わったのに。
川沿いの桜は、あんなに美しいのに。
この穏やかな時の流れの中、わたしだけが死者なのです。
◇
夏になりました。
あなたは、いつものように決まったベンチに腰かけて夕涼みをしています。
あなたは、いつも橋を渡って何処かへ行ってしまうけれど、必ずここへ戻ってきてくれます。
嬉しい気持ちで近づくと、あなたの伸びた前髪が、額の上でハラハラと踊り出しました。
わたしは、風になったのですね。
ずっとおかしいと思っていました。
初めは鳥にでもなったのかしらと思いましたが、水溜まりに姿を映そうと近づいても、さざ波が立つばかりで何も見えません。
それに、ふわりと舞い上がってみても、自分で羽を動かしている感覚がまるで無いのですから。
あなたはふと顔を上げると、心地良さそうに微笑みました。
無事に帰ってこられて、本当に良かった。
生きて「おかえりなさい」を伝えたかったけれど、こればかりは仕方がありませんね。
この頃、あなたの気持ちが手に取るように分かるようになってきました。
あなたが橋の向こうにいる時にも、それは伝わってきます。
ここにいるあなたはとても穏やかなのに、橋の向こうでは疲れ切っていて、とても辛そうです。
戦争はもう終わったというのに、あなたの身に何が起こっているのでしょう。
とても気がかりで、橋を渡って追いかけたくなります。
でも何度試しても、何かに阻まれるように、わたしは橋を渡れません。
そこには何があるの。
なぜ、わたしの大切な人を苦しめるの。
橋の向こうにそびえる異形の塔に語りかけても、何の答えもありません。
その大きさ故に、小さな者の呟きなど耳に入らないかのようです。
塔はただ、澄ました顔で夕陽に染まっているのでした。
◇
秋。
あなたは今日も、決まったベンチで本を読んでいます。
近頃のあなたは、いつも心が穏やかなようですね。
橋の向こうにいる時も、以前のようにギスギスしていないようです。
あなたは今日も空を仰ぐと、心地良さそうに微笑みました。
近くを走り回る子供たちに優しい目を向け、途方に暮れたような顔の人には自ら声をかける。
ちっとも変わりませんね。
子供が大好きで、困った人は放っておけない。
あなたは、本当に優しい人です。
ある日のこと。
あなたは、いつものようにやって来ました。
でも、一人ではありません。
並んで歩いているのは、きれいな女の人。
優しそうな女性でした。
わたしは、お嫁さんの顔をはっきりとは覚えていません。
正面から見ることができませんでした。
悔しかったのです。
あなたを取られてしまったようで。
ここがとても素敵な場所だから、お嫁さんに見せてあげたくなったのでしょうか。
つい、意地悪したくなってきました。
あなたと二人だけの場所が、なくなるような気がしたのです。
わたしはちょっとだけ強めに、お嫁さんにぶつかりました。
近寄った時、甘い香りがしました。
薄桃色のスカーフが、お嫁さんの首から外れて飛ばされていきます。
あなたはそれを追いかけて拾い上げると、大事そうに埃を払いました。
わたしには、あなたの気持ちが手に取るように分かります。
彼女は、あなたの大切な人。
分かっていたくせに。
いたたまれない気持ちになりました。
やっぱり、わたしはまだ青くさい子供ですね。
あなたは、お嫁さんと再び連れ立って歩き出しました。
誰から見ても、お似合いの二人でした。
あなたはまた、橋の向こうへ行こうとしています。
お嫁さんと一緒に。
わたしは、あなたを見送ることしかできません。
橋の向こうの異形の塔は、秋の空を割いてもなお、上へ上へと伸びようとしているようでした。
◇
冬。
柔らかな日差しの下、あなたは今日も、決まったベンチで本を読んでいます。
いつの間にか虫の音を聞かなくなり、あなたがここを訪れる頻度もめっきり減りました。
それでも、あなたは思い出したようにここを訪れてくれます。
今日のようにのんびり読書をしたり、お嫁さんと散歩をしたり。
お嫁さんはいつも甘い香りがします。
それは、大人の女の人の匂い。
以前は、あなたがここを訪れる時をただ待ちわびてていました。
少しでもそばにいたくて、渡れない橋を何度も渡ろうとしました。
でも。
そうすることに何の意味があるのでしょう。
あなたを想えば想うほど、打ちひしがれるのです。
わたしは死者で、もう時は刻めなくて。
甘い香りの大人の女には、どうしたって届きません。
青臭い子供のまま風になって。
生きた証は木陰にひっそり佇む石碑だけで、誰にも思い出してもらえなくて。
あなたには、お嫁さんがいて。
未来があって。
きっと、わたしのことも忘れているでしょう。
わたしは、どうして目覚めてしまったの。
どうして目覚めなければいけなかったの。
何も知りたくはなかった。
あのまま消えていたかった。
でも怖い。
あなたと離れることが。
せめてもう一度だけ、あの川沿いの桜を見たいと願ってしまうのです。
わたしは今日も、橋のそばからあなたを見送るのでした。
異形の塔は、今日も角ばった建物たちを静かに見下ろしています。
◇
初春。
人々は浮き足立っているようです。
桜の季節が近いからでしょうか。
もう一度と、願っていた桜の季節。
でも。それを叶えたらどうなるというのでしょう。
結局、わたしの居場所はどこにもないのです。
あなたに向かって叫びました。
バサバサと音をたてながら、あなたの膝から本が落ちました。
隣に座っているお嫁さんも、驚いて目を丸くしています。
二人は、顔を見合わせてふっと笑いました。
あなたは、理不尽な風に吹かれても優しい顔のままです。
自分のしたことに震えました。
あなたに当たっても詮無いことなのに。
ごめんなさい。
伝わるわけもありません。
わたしにできるのは、あなたのそばを弱々しく漂うことだけ。
あなたを見つけてから、ずっとそうでした。
本当は、あなたにすがりついて思い切り泣きたい。
でも、あなたの温もりを感じることも涙を流すこともできません。
わたしは、ただの風ですから。
◇
珍しく重たげな雲が垂れ込めたある日のこと。
曇天に突き刺さった塔の方から、ただならぬ気配を感じました。
あなたに異変が起きているのです。
あなたの心は、今までにないほど乱れています。
何が起こっているのでしょう。
じっとしていると、だんだんとあなたの心が伝わってきます。
愕然としました。
あなたは、今にも火に呑まれてようとしているのです。
熱い空気と息苦しさが伝わってきます。
もう、時間がありません。
行かなくては。
わたしは走りました。
無我夢中で走って、突然見えない壁にぶつかりました。
こんな時にも、わたしはこの橋を渡れないのでしょうか。
空高く舞い上がってみても、地面を這うようにしても。
どうして。
わたしは、そこら中を駆け回りました。
わたしは風なのに、何故あなたのところへ飛んで行けないのでしょう。
なぜ、こんなに無力なのでしょう。
抑え切れない焦燥の中、ある物に引きつけられました。
いつか見つけた石碑です。
これを見ると恐怖が蘇るから、ずっと離れていました。
石は、あの時と変わらず無言だけれど。
教えてくれるような気がしたのです。
橋を渡る術を。
もう一歩、石に近づいた時。
わたしの中に、雷に貫かれたような衝撃が走りました。
思い切り宙へと舞い上がります。
気がついたら、もう橋を渡り始めていました。
もう誰も、わたしを阻むことはできません。
見えているのは、空を仰いで心地よさそうに微笑む、あなたの横顔だけでした。
わたしは怖かっただけなのです。
生きながら焼かれた恐怖の地へ踏み入ることが。
異形の塔を、初めて間近に見ました。
塔は、その大きさを誇るようにそびえ立っています。
わたしは、そこから街を見下ろしました。
雲の切れ間から見えるのは、懐かしさと異様さが混在する街でした。
四角い建物から黒煙が上がっています。
建物目がけて急降下しました。
建物は、もうその形が分からなくなるほどに黒煙で覆われています。
激しく揺れる炎を目にした途端、わたしの動きは止まりました。
怖い。
纏わりついて離れない熱。
より熱く、より深く、より残酷な。
終わりのない、比べる対象もない、人が生きる世でいちばんの苦しみ。
炎の赤さと、離れた場所にまで襲いくる熱を前に、わたしは竦み上がりました。
もう、いやだ。
あんなに恐ろしく、苦しい思いはもういやです。
恐ろしい考えが、わたしの中に湧きました。
あなたが、こちら側へ来てくれたら──。
でも。
揺らめく炎の間から、苦痛に歪むあなたの顔が確かに見えました。
その胸に懸命にかばう女性も。
わたしには、あなたの気持ちが手に取るように分かります。
彼女は、あなたの大切な人。
二人が顔を寄せて笑い合う姿が蘇ります。
わたしは、心地良さそうに微笑むあなたが好きでした。
あのベンチで。
大きく息を吸い込みました。
少しでも大きくなれるように。少しでも多くの力を込められるように。
何も考えずに建物へ突進しました。
わたし、分かったのです。
なぜ目覚めたのか。
なぜ、今だったのか。
焼かれて死ぬことがわたしの運命で、どう足掻いても、それを変えることができないのなら。
これで良いのです。
何の意味もなく燃え尽きてしまうよりずっと。
それに。
初恋は、実らないと言うでしょう?
これで良いのです。
この先に繋がる、生があるのなら。
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