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炎
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季節は移り、グロリア帝国にも冬の足音が近付いていた。
皇宮内は魔導具である空気調整装置によって適温が保たれており、寒さを感じることはない。
しかし、枯葉を運ぶ木枯らしのように、ローゼの心には冷たい風が吹き込んでいた。
――ユリアン様は、どうしていらっしゃるだろうか。私がいなくなって、寂しい思いをされているのだろうか……
ローゼがユリアンのことを思わぬ日はなかった。
傍目には堂々とした自信家に見えても、ユリアンが本来は繊細な人物であることを知ったローゼは、彼の心が気掛かりだった。
――ユリアン様にも、他に好きな方ができたなら、寂しくなくなるのではないだろうか……私がフランメに戻れない以上、ユリアン様が独り身を貫く必要もないのだから――
しかし、彼が他の女性と親しくしているところを想像すると、ひどく不快な気持ちになってしまうのも事実だった。
――私がルキウス様を愛することができて、ユリアン様にも新たに愛する人が現れれば丸く収まる……けれど……
人の心はままならないものだと溜め息をつき、自室の窓を見上げたローゼは、窓掛けの隙間から、ちらほらと雪が舞っているのを見た。
――本で読んだことはあるけれど、本物の雪は綺麗……ユリアン様と見ることができたなら。
ローゼが窓に近寄り、雪の降る様に見入っていると、扉を叩く音が聞こえた。
どうぞ、とローゼが答えると、部屋に入ってきたのは一人の女官だった。
「皇后陛下がお呼びです」
そう女官に言われたローゼは、彼女の案内で、皇后の部屋へと向かった。
ルキウスの母親である皇后ドロテアと直接話したのは数回程度で、ローゼにとっては、息子によく似た、優雅で美しい女性であるという印象しかなかった。
皇后の部屋は、高貴な女性の部屋らしく、優雅で落ち着いた雰囲気だった。
「そなたとは、まだ、ゆっくりと話したことがなかったと思って。いずれは親子となる間柄、互いのことを、もっとよく知っておくべきかと」
ドロテアは、ローゼに、赤々と燃える暖炉の近くに配置された長椅子へ掛けるよう勧めた。
「私は、この国でも暖かい地方の育ちで、冬の城内は空調のみでは寒く感じるのですよ」
そう言って微笑むドロテアは、やはり美しかった。
実年齢は四十を過ぎている筈であるが、つややかな肌と、白髪一本混じることのない黒々とした髪、潤った唇などを見れば、知らない者は、せいぜい三十歳程度だと思うだろう。
ローゼが長椅子に腰を下ろすと、ドロテアは卓子を挟んで、彼女と向かい合うように座った。
ドロテアは、紅茶と焼き菓子を運んできた女官たちに、用が済んだら下がっているよう言いつけた。
女官たちが部屋を出て行くのを確認してから、ドロテアが口を開いた。
「そなた、ルキウスのことを、どう思っているのです」
彼女は、その黒真珠を思わせる瞳でローゼを見つめた。
「……とても、善い方だと存じております」
ローゼは、身を強張らせながら答えた。
それが、相手の求めている答えではないと半ば分かってはいたものの、それ以外に答えようがなかった。
「そうですね。あの子は見目も良いし、兄に劣らぬ文武両道で、心根も優しく、身贔屓を差し引いても、あれほどの男子は、そうそういないと思いますよ」
言って、ドロテアは艶然と微笑んだ。
次に何を言われるのかと、ローゼは無意識に身構えていた。
「そなた、息子のどこが気に入らないというのです」
「気に入らないだなんて、そんな……」
口籠るローゼを前にしたドロテアの顏から、すっと笑みが消えた。
「ルキウスに求められたのに、そなたは拒んだのでしょう?」
――自分とルキウス様の間に何があったかを、皇后陛下は御存知なのだ――
ローゼは、自分の顏から血の気が引くのを感じた。
「あの子は、子供の頃から許嫁のそなたを想ってきたというのに……そなたは何も覚えていないなどと……剰え、別の男と情を交わしていたなどと……ルキウスが、どれほど傷ついているかと思うと私は……」
重厚なドレスの端を握りしめながら、ドロテアが絞り出すように言った。
「……本当は、そなたの如き傷ものなど、息子には相応しくないのですよ」
「そ……それでしたら……わ、私は、フランメに帰りたく存じます」
自分がルキウスに相応しくないというのであれば、帝国にいる理由がない――ローゼは思った。
「そのようなこと……許されるとお思いですか」
ドロテアが、柳眉を逆立てて言った。
「そなたはフランメに帰ったなら、『前の婚約者』と縒りを戻すに決まっています。ルキウスを捨てて、自分だけが幸せになろうなどと……何と浅ましい」
「わ、私は、どうすればよろしいのでしょうか」
震える声でローゼは問うたものの、もはや自分が何をしても、ドロテアが満足することはないのだろうと思った。
「そなたの母は皇帝陛下を惑わし、そなたは息子のルキウスの心を弄んで……私は、そなたが幸せになるのだけは、許せない……」
美しい顔を歪めるドロテアを見て、ローゼは、あのベルタ・マウアーを思い出した。
――この方は、夫である皇帝陛下と、息子であるルキウス様を愛して……とても愛しているのだ……私がいる所為で、皇后陛下は苦しんでいる……
と、ローゼの目に、暖炉の中に差し込まれたままの火かき棒が映った。
ローゼは立ち上がると、暖炉に近付いて火かき棒を手にした。
「な、何のつもりです?!」
ドロテアも、慌てて立ち上がり、ローゼから離れた。
ローゼが手にしている火かき棒の先端は、火に晒されていた為に熱を持って赤味が差している。
彼女は、火かき棒の先端が自分の右肩の後ろに当たるよう持ち替え、一気に押し当てた。
じゅう、という音と、肉の焦げる匂い、そして例えようのない痛み――
ドロテアの悲鳴を聞きながら、ローゼは火かき棒を取り落として、意識を失った。
皇宮内は魔導具である空気調整装置によって適温が保たれており、寒さを感じることはない。
しかし、枯葉を運ぶ木枯らしのように、ローゼの心には冷たい風が吹き込んでいた。
――ユリアン様は、どうしていらっしゃるだろうか。私がいなくなって、寂しい思いをされているのだろうか……
ローゼがユリアンのことを思わぬ日はなかった。
傍目には堂々とした自信家に見えても、ユリアンが本来は繊細な人物であることを知ったローゼは、彼の心が気掛かりだった。
――ユリアン様にも、他に好きな方ができたなら、寂しくなくなるのではないだろうか……私がフランメに戻れない以上、ユリアン様が独り身を貫く必要もないのだから――
しかし、彼が他の女性と親しくしているところを想像すると、ひどく不快な気持ちになってしまうのも事実だった。
――私がルキウス様を愛することができて、ユリアン様にも新たに愛する人が現れれば丸く収まる……けれど……
人の心はままならないものだと溜め息をつき、自室の窓を見上げたローゼは、窓掛けの隙間から、ちらほらと雪が舞っているのを見た。
――本で読んだことはあるけれど、本物の雪は綺麗……ユリアン様と見ることができたなら。
ローゼが窓に近寄り、雪の降る様に見入っていると、扉を叩く音が聞こえた。
どうぞ、とローゼが答えると、部屋に入ってきたのは一人の女官だった。
「皇后陛下がお呼びです」
そう女官に言われたローゼは、彼女の案内で、皇后の部屋へと向かった。
ルキウスの母親である皇后ドロテアと直接話したのは数回程度で、ローゼにとっては、息子によく似た、優雅で美しい女性であるという印象しかなかった。
皇后の部屋は、高貴な女性の部屋らしく、優雅で落ち着いた雰囲気だった。
「そなたとは、まだ、ゆっくりと話したことがなかったと思って。いずれは親子となる間柄、互いのことを、もっとよく知っておくべきかと」
ドロテアは、ローゼに、赤々と燃える暖炉の近くに配置された長椅子へ掛けるよう勧めた。
「私は、この国でも暖かい地方の育ちで、冬の城内は空調のみでは寒く感じるのですよ」
そう言って微笑むドロテアは、やはり美しかった。
実年齢は四十を過ぎている筈であるが、つややかな肌と、白髪一本混じることのない黒々とした髪、潤った唇などを見れば、知らない者は、せいぜい三十歳程度だと思うだろう。
ローゼが長椅子に腰を下ろすと、ドロテアは卓子を挟んで、彼女と向かい合うように座った。
ドロテアは、紅茶と焼き菓子を運んできた女官たちに、用が済んだら下がっているよう言いつけた。
女官たちが部屋を出て行くのを確認してから、ドロテアが口を開いた。
「そなた、ルキウスのことを、どう思っているのです」
彼女は、その黒真珠を思わせる瞳でローゼを見つめた。
「……とても、善い方だと存じております」
ローゼは、身を強張らせながら答えた。
それが、相手の求めている答えではないと半ば分かってはいたものの、それ以外に答えようがなかった。
「そうですね。あの子は見目も良いし、兄に劣らぬ文武両道で、心根も優しく、身贔屓を差し引いても、あれほどの男子は、そうそういないと思いますよ」
言って、ドロテアは艶然と微笑んだ。
次に何を言われるのかと、ローゼは無意識に身構えていた。
「そなた、息子のどこが気に入らないというのです」
「気に入らないだなんて、そんな……」
口籠るローゼを前にしたドロテアの顏から、すっと笑みが消えた。
「ルキウスに求められたのに、そなたは拒んだのでしょう?」
――自分とルキウス様の間に何があったかを、皇后陛下は御存知なのだ――
ローゼは、自分の顏から血の気が引くのを感じた。
「あの子は、子供の頃から許嫁のそなたを想ってきたというのに……そなたは何も覚えていないなどと……剰え、別の男と情を交わしていたなどと……ルキウスが、どれほど傷ついているかと思うと私は……」
重厚なドレスの端を握りしめながら、ドロテアが絞り出すように言った。
「……本当は、そなたの如き傷ものなど、息子には相応しくないのですよ」
「そ……それでしたら……わ、私は、フランメに帰りたく存じます」
自分がルキウスに相応しくないというのであれば、帝国にいる理由がない――ローゼは思った。
「そのようなこと……許されるとお思いですか」
ドロテアが、柳眉を逆立てて言った。
「そなたはフランメに帰ったなら、『前の婚約者』と縒りを戻すに決まっています。ルキウスを捨てて、自分だけが幸せになろうなどと……何と浅ましい」
「わ、私は、どうすればよろしいのでしょうか」
震える声でローゼは問うたものの、もはや自分が何をしても、ドロテアが満足することはないのだろうと思った。
「そなたの母は皇帝陛下を惑わし、そなたは息子のルキウスの心を弄んで……私は、そなたが幸せになるのだけは、許せない……」
美しい顔を歪めるドロテアを見て、ローゼは、あのベルタ・マウアーを思い出した。
――この方は、夫である皇帝陛下と、息子であるルキウス様を愛して……とても愛しているのだ……私がいる所為で、皇后陛下は苦しんでいる……
と、ローゼの目に、暖炉の中に差し込まれたままの火かき棒が映った。
ローゼは立ち上がると、暖炉に近付いて火かき棒を手にした。
「な、何のつもりです?!」
ドロテアも、慌てて立ち上がり、ローゼから離れた。
ローゼが手にしている火かき棒の先端は、火に晒されていた為に熱を持って赤味が差している。
彼女は、火かき棒の先端が自分の右肩の後ろに当たるよう持ち替え、一気に押し当てた。
じゅう、という音と、肉の焦げる匂い、そして例えようのない痛み――
ドロテアの悲鳴を聞きながら、ローゼは火かき棒を取り落として、意識を失った。
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