10 / 12
美術館にて
しおりを挟む
「お城みたいな建物があるとは思っていたけど、美術館だなんて知らなかったよ」
周囲の壁一面に展示された絵画たちを見回して、サシャが言った。
興奮気味なのか、その頬には赤みが差している。
金銭を出して芸術を鑑賞する余裕があるのは貴族その他の富裕層に限られており、一般庶民からすれば遠い世界なのだろう。
そんなサシャの様子に、オディールも口元を綻ばせた。
この日、二人は王都にある王立美術館を訪れていた。
「ここには、古今の有名な画家の作品が展示されているから、絵を描く上で参考になると思うわ」
「色々な描き方があるんだな……この絵なんか、空が緑色に塗られてる。現物とは違うけど、これはこれで綺麗だ」
「そうね。実物をそのまま描くのも技法の一つだけど、自分の想像の世界を描いてもいいのよ」
展示されている作品一つ一つの前で立ち止まって、オディールとサシャは絵の技法や解釈について語り合った。
「おや、ヴァランタン女伯爵閣下ではありませんか」
突然、背後から聞こえた男の声に、オディールは、びくりと肩を震わせた。
振り向いた彼女の前に立っていたのは、年の頃は三十歳前後、肩まで伸ばした濃い金髪の巻き毛と緑色の瞳が印象的な、貴族風の格好をした長身の美丈夫だった。
オディールは、その男に見覚えがあった。
「これは、クレメント様……お久しぶりです」
「ご主人の葬儀以来ですね。社交界にも顔を出さず引きこもっているとお聞きしましたが、このようなところでお会いできるとは、何という幸運でしょうか」
クレメントと呼ばれた男は、穏やかな微笑みを浮かべた。
「この人、知り合いなのか?」
サシャが、オディールの耳元で囁いた。
「この方は、シャルル・クレメント伯爵閣下……亡くなった主人の知人だったの」
「おや、私はオディール殿の知己でもあるつもりですが」
オディールの言葉に、クレメントは少し皮肉な表情をのぞかせた。
「今日は、私が後援している画家の作品が展示されるので、それを見に来たのですよ。ところで、そちらの男性は……どこかで、お会いしましたかね?」
クレメントが、サシャに目をやり、言った。
「あんた……あなたと会うのは初めてだ……です」
少し緊張した面持ちで、サシャが答えた。相手が貴族であると分かり、粗相があればオディールにも迷惑がかかると考えたのだろう。
まるで品定めするかの如く、クレメントはサシャのことを眺め回すと、口を開いた。
「オディール殿も、まだお若いですからね。新たに恋人を作っても、何か言う者もいないでしょう」
意味ありげに頷くクレメントを見て、オディールは頬が熱くなるのを感じた。
サシャは見目も美しく、きちんとした身なりをしていれば貴族と言っても疑われることはないだろう。
それゆえ、オディールと連れ立っているサシャを見て、クレメントが二人を恋人同士だと判断することも、ありえなくはない。
「彼は、サシャ・アブリル……新進気鋭の画家で、私は、その後援者ということになります」
オディールが言うと、クレメントは、ほう、と興味深げにサシャを見つめた。
「サシャくんは、何か受賞歴などはあるのでしょうか?」
「いえ、まだ競技会などへ出品したことはありませんので。でも、世に出れば、必ず認められる才能を、彼は持っています」
「それは楽しみですね。作品を発表される際には、是非拝見したいものです。では、失礼」
クレメントはオディールの言葉に頷いて、付き人と共に美術館の奥へと歩いていった。
「……『新進気鋭の画家』って、俺、そんなのじゃ……」
サシャは戸惑った様子で、オディールを見た。
「あら、何も嘘は言っていないわ。何かの競技会で実績を作れば、あなたは『ただの居候』ではなく、世間から『画家』として認められるだろうし」
「俺の絵を、競技会に?」
「ええ。あなたが満足のいく作品を描けたなら、出品してもらうつもりよ。今日、ここに来たのも、あなたの表現を広げる切っ掛けになればと思ったからだし」
そう言いながら、ふとサシャを見たオディールは、彼が何か考えている様子で俯いているのに気付いた。
「――少し、せっかちだったかしら。あなたの才能を見て、腐らせるのは勿体ないと思ったけれど……考えてみれば、あなたの気持ちを聞いてなかったわね」
オディールは、ようやく至極当然な筈のことに思い至って、おずおずとサシャの顔を見上げた。
「いや、俺、絵を描くのは楽しいよ。描いたものをオディールさんが見て喜んでくれるのも嬉しいし」
サシャは、そう言って微笑んだ。
「ただ、自分の描いたものが、たとえば、ここに飾られている絵と並ぶようなものかと考えると……でも、今のままでは、ただ世話になっているだけの居候でしかないよな。だったら、『画家』って肩書をもらえるように努力してみるよ」
「そう言ってくれるのは心強いわ。でも、無理しているんじゃなくて?」
オディールの言葉に、そんなことないさと笑ったサシャだが、ふと真顔になった。
「オディールさんは、さっきの……クレメント伯爵って人と親しいのか?」
「特別親しいと言う程でもないわ」
不意の質問に、オディールは些か戸惑った。これまでに、サシャは彼女の人間関係など個人的な事情について尋ねることは、殆どなかった。
「さっきも言ったように、彼とは、亡くなった主人からの繋がりで知り合ったというだけよ。クレメント様も、画家たちを後援するだけではなく、ご自分でも絵を描かれるということで、美術について少し話をしたことがある位ね」
「そうなのか。あの人、オディールさんを見る時の目が、何というか上手く言えないけど……他の人に対する時とは違うっていうか」
言って、サシャは少し唇を尖らせて、拗ねたような顔を見せた。
――まるで、飼い主が他の犬を撫でているのを見て拗ねている子犬みたい。
彼の様子を見て、オディールは何とはなしに、そう思った。
「少なくとも、私が、あの方を異性として特別に意識しているということはないわよ」
そう言ってオディールが笑うと、サシャは安堵した様子を見せた。
周囲の壁一面に展示された絵画たちを見回して、サシャが言った。
興奮気味なのか、その頬には赤みが差している。
金銭を出して芸術を鑑賞する余裕があるのは貴族その他の富裕層に限られており、一般庶民からすれば遠い世界なのだろう。
そんなサシャの様子に、オディールも口元を綻ばせた。
この日、二人は王都にある王立美術館を訪れていた。
「ここには、古今の有名な画家の作品が展示されているから、絵を描く上で参考になると思うわ」
「色々な描き方があるんだな……この絵なんか、空が緑色に塗られてる。現物とは違うけど、これはこれで綺麗だ」
「そうね。実物をそのまま描くのも技法の一つだけど、自分の想像の世界を描いてもいいのよ」
展示されている作品一つ一つの前で立ち止まって、オディールとサシャは絵の技法や解釈について語り合った。
「おや、ヴァランタン女伯爵閣下ではありませんか」
突然、背後から聞こえた男の声に、オディールは、びくりと肩を震わせた。
振り向いた彼女の前に立っていたのは、年の頃は三十歳前後、肩まで伸ばした濃い金髪の巻き毛と緑色の瞳が印象的な、貴族風の格好をした長身の美丈夫だった。
オディールは、その男に見覚えがあった。
「これは、クレメント様……お久しぶりです」
「ご主人の葬儀以来ですね。社交界にも顔を出さず引きこもっているとお聞きしましたが、このようなところでお会いできるとは、何という幸運でしょうか」
クレメントと呼ばれた男は、穏やかな微笑みを浮かべた。
「この人、知り合いなのか?」
サシャが、オディールの耳元で囁いた。
「この方は、シャルル・クレメント伯爵閣下……亡くなった主人の知人だったの」
「おや、私はオディール殿の知己でもあるつもりですが」
オディールの言葉に、クレメントは少し皮肉な表情をのぞかせた。
「今日は、私が後援している画家の作品が展示されるので、それを見に来たのですよ。ところで、そちらの男性は……どこかで、お会いしましたかね?」
クレメントが、サシャに目をやり、言った。
「あんた……あなたと会うのは初めてだ……です」
少し緊張した面持ちで、サシャが答えた。相手が貴族であると分かり、粗相があればオディールにも迷惑がかかると考えたのだろう。
まるで品定めするかの如く、クレメントはサシャのことを眺め回すと、口を開いた。
「オディール殿も、まだお若いですからね。新たに恋人を作っても、何か言う者もいないでしょう」
意味ありげに頷くクレメントを見て、オディールは頬が熱くなるのを感じた。
サシャは見目も美しく、きちんとした身なりをしていれば貴族と言っても疑われることはないだろう。
それゆえ、オディールと連れ立っているサシャを見て、クレメントが二人を恋人同士だと判断することも、ありえなくはない。
「彼は、サシャ・アブリル……新進気鋭の画家で、私は、その後援者ということになります」
オディールが言うと、クレメントは、ほう、と興味深げにサシャを見つめた。
「サシャくんは、何か受賞歴などはあるのでしょうか?」
「いえ、まだ競技会などへ出品したことはありませんので。でも、世に出れば、必ず認められる才能を、彼は持っています」
「それは楽しみですね。作品を発表される際には、是非拝見したいものです。では、失礼」
クレメントはオディールの言葉に頷いて、付き人と共に美術館の奥へと歩いていった。
「……『新進気鋭の画家』って、俺、そんなのじゃ……」
サシャは戸惑った様子で、オディールを見た。
「あら、何も嘘は言っていないわ。何かの競技会で実績を作れば、あなたは『ただの居候』ではなく、世間から『画家』として認められるだろうし」
「俺の絵を、競技会に?」
「ええ。あなたが満足のいく作品を描けたなら、出品してもらうつもりよ。今日、ここに来たのも、あなたの表現を広げる切っ掛けになればと思ったからだし」
そう言いながら、ふとサシャを見たオディールは、彼が何か考えている様子で俯いているのに気付いた。
「――少し、せっかちだったかしら。あなたの才能を見て、腐らせるのは勿体ないと思ったけれど……考えてみれば、あなたの気持ちを聞いてなかったわね」
オディールは、ようやく至極当然な筈のことに思い至って、おずおずとサシャの顔を見上げた。
「いや、俺、絵を描くのは楽しいよ。描いたものをオディールさんが見て喜んでくれるのも嬉しいし」
サシャは、そう言って微笑んだ。
「ただ、自分の描いたものが、たとえば、ここに飾られている絵と並ぶようなものかと考えると……でも、今のままでは、ただ世話になっているだけの居候でしかないよな。だったら、『画家』って肩書をもらえるように努力してみるよ」
「そう言ってくれるのは心強いわ。でも、無理しているんじゃなくて?」
オディールの言葉に、そんなことないさと笑ったサシャだが、ふと真顔になった。
「オディールさんは、さっきの……クレメント伯爵って人と親しいのか?」
「特別親しいと言う程でもないわ」
不意の質問に、オディールは些か戸惑った。これまでに、サシャは彼女の人間関係など個人的な事情について尋ねることは、殆どなかった。
「さっきも言ったように、彼とは、亡くなった主人からの繋がりで知り合ったというだけよ。クレメント様も、画家たちを後援するだけではなく、ご自分でも絵を描かれるということで、美術について少し話をしたことがある位ね」
「そうなのか。あの人、オディールさんを見る時の目が、何というか上手く言えないけど……他の人に対する時とは違うっていうか」
言って、サシャは少し唇を尖らせて、拗ねたような顔を見せた。
――まるで、飼い主が他の犬を撫でているのを見て拗ねている子犬みたい。
彼の様子を見て、オディールは何とはなしに、そう思った。
「少なくとも、私が、あの方を異性として特別に意識しているということはないわよ」
そう言ってオディールが笑うと、サシャは安堵した様子を見せた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです
MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。
しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。
フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。
クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。
ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。
番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。
ご感想ありがとうございます!!
誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。
小説家になろう様に掲載済みです。
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
婚約者が実は私を嫌っていたので、全て忘れる事にしました
Kouei
恋愛
私セイシェル・メルハーフェンは、
あこがれていたルパート・プレトリア伯爵令息と婚約できて幸せだった。
ルパート様も私に歩み寄ろうとして下さっている。
けれど私は聞いてしまった。ルパート様の本音を。
『我慢するしかない』
『彼女といると疲れる』
私はルパート様に嫌われていたの?
本当は厭わしく思っていたの?
だから私は決めました。
あなたを忘れようと…
※この作品は、他投稿サイトにも公開しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。
秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚
13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。
歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。
そしてエリーゼは大人へと成長していく。
※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
小説家になろう様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる