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拾いもの
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見上げれば、ところどころに綿雲を浮かべた、優しい天色の空が広がっている。
若葉が茂る林に囲まれた碧い湖の向こうには、今は誰も住んでいない小さな古城が、淡い陽炎に覆われ、その姿を滲ませていた。
美しい風景を前に、持ち運びできる小さな椅子に腰かけた若い女が、膝の上で開いた写生帳に鉛筆を走らせている。
無造作にまとめた栗色の長い髪に榛色の瞳を持つ彼女――オディール・ヴァランタンは、十人のうち九人には美人と言われるであろう恵まれた容姿をしている。しかし、その身に纏っているのは、生地こそ質が良いと分かるものだが飾り気はない、地味なドレスだ。
絵を描いていて汚してしまうかもしれないという理由もあったが、オディール本人の着飾りたい気持ちが薄いことも大きいだろう。
「やはり、実際の風景は違うわね」
真新しい水彩絵の具の鉛管を絞り、絵皿に鮮やかな水色を落としながら、オディールは呟いた。
オディールは、写生帳に柔らかな鉛筆で描いた下描きを、自分の目で見ている風景の色で彩っていく。
油彩のように、じっくりと時間をかけるのも楽しいが、その場で気の向くままに仕上げる描き方も、彼女は好きだった。
――紙も絵の具も好きなだけ使えるのは、本当にありがたい……実家にいた頃は、一枚の紙に隙間がなくなるまで絵を描いていたというのに。
「……奥様」
夢中で色を塗っていたオディールは、背後から声をかけられ、振り向いた。
そこに立っていたのは、五十代後半に見える、きちんとした身なりの、灰色の髪をした実直そうな男――彼女の外出に付き添ってきた、執事のクレモンだった。
「少し風が冷たくなってまいりました。春先とはいえ、夕方から夜にかけては気温も下がります。そろそろ、お帰りの準備をされては如何でしょう」
彼の言葉に、オディールは、ほんの一瞬、小さな子供のように唇を尖らせたものの、分かったわと答えると、周囲に広げてある画材を片付け始めた。
「お手伝いしましょう」
クレモンが画材に伸ばした手を、オディールは制止した。
「大丈夫よ。自分の絵の道具は、できるだけ誰にも触れさせたくないの」
「そうでしたな」
思い出したように、クレモンが頷いた。
愛用の鞄へ画材を収納し終えたオディールに、クレモンは上着を着せかけた。
「クレモンは、まるで私の親みたいね」
オディールは、くすりと笑った。
「くれぐれも奥様を頼むと……旦那様の遺言でしたから」
今は亡き主人を思い出したのか、クレモンは目を伏せた。
「あなたの忠実さには頭が下がるわ。でも、本当に、私の『親』などよりも『親』みたいよ」
二人は話しながら、近くに待たせてあった馬車に乗り込んだ。
「出してくれ」
クレモンが声をかけると、御者は馬に鞭を入れた。
オディールたちを乗せた馬車は、湖から続いている林の中の道を走り、王都の郊外にあるヴァランタン家の屋敷へ向かった。
やがて、馬車が林を抜けようという頃、車窓から景色を眺めていたオディールは、道の脇に何かが落ちているのに気付いた。
遠目には丸めた襤褸切れのようだったが、近付くにつれ、それが人の形をしてるのが見て取れた。
「止めて頂戴」
オディールは御者に声をかけた。
停止した馬車から降りようとするオディールに、クレモンが心配そうな顔で言った。
「どうされましたか。もしや、馬車に酔われたのですか。でしたら……」
「私は大丈夫よ。それより、あれを見て」
オディールは、人の形に見える襤褸切れを指差した。
「誰か倒れているみたいだから、確認しようと思って」
言うと同時に、彼女は馬車から降りた。その後を、クレモンが慌てて追いかける。
人の形に見える襤褸切れの傍にしゃがみ込むと、オディールは、薄汚れた布をめくってみた。
その下にあったのは、意識を失っているらしき若い男の顏だった。
艶のない髪は埃と汚れで灰色に見えるが、元は白に近い金髪なのかもしれない。
疎らに生えた無精髭が、いかにも不摂生に思えた。
これまた薄汚れた粗末な服をまとっているところから見るに、この男は明らかに平民なのだと思われた。寒さを凌ぐのに、上着代わりの襤褸切れを被って歩いていたらしい。
男の半身を抱き起こしたオディールは、彼の身体が、ひどく熱を持っているのを感じた。
「奥様、いけません。そんなものに素手で触っては……」
クレモンが渋い顔をした。
「この人、ひどい熱だわ。きっと病気よ。屋敷に運びましょう」
「この男を、ですか? 後で人を寄越して、街の病院まで運ばせればよろしいのでは」
オディールの言葉に、クレモンは即座に代替え案を出した。
「それでは時間がかかり過ぎるわ」
オディールの意思が固いことを見て取ったのか、クレモンは諦めの表情を浮かべ、御者に手伝わせながら男を馬車の中に運び込んだ。
馬車の座席の上で、オディールは男に膝枕をするような格好になった。
苦し気に浅い呼吸をしている男が目を覚ます様子はない。
「お召し物が汚れてしまいます。私が代わりましょう」
眉根を寄せて、クレモンが言った。
「とっくに、絵の具で汚れているから気にならないけど?」
ため息をつくクレモンを見て、オディールは首を傾げた。
若葉が茂る林に囲まれた碧い湖の向こうには、今は誰も住んでいない小さな古城が、淡い陽炎に覆われ、その姿を滲ませていた。
美しい風景を前に、持ち運びできる小さな椅子に腰かけた若い女が、膝の上で開いた写生帳に鉛筆を走らせている。
無造作にまとめた栗色の長い髪に榛色の瞳を持つ彼女――オディール・ヴァランタンは、十人のうち九人には美人と言われるであろう恵まれた容姿をしている。しかし、その身に纏っているのは、生地こそ質が良いと分かるものだが飾り気はない、地味なドレスだ。
絵を描いていて汚してしまうかもしれないという理由もあったが、オディール本人の着飾りたい気持ちが薄いことも大きいだろう。
「やはり、実際の風景は違うわね」
真新しい水彩絵の具の鉛管を絞り、絵皿に鮮やかな水色を落としながら、オディールは呟いた。
オディールは、写生帳に柔らかな鉛筆で描いた下描きを、自分の目で見ている風景の色で彩っていく。
油彩のように、じっくりと時間をかけるのも楽しいが、その場で気の向くままに仕上げる描き方も、彼女は好きだった。
――紙も絵の具も好きなだけ使えるのは、本当にありがたい……実家にいた頃は、一枚の紙に隙間がなくなるまで絵を描いていたというのに。
「……奥様」
夢中で色を塗っていたオディールは、背後から声をかけられ、振り向いた。
そこに立っていたのは、五十代後半に見える、きちんとした身なりの、灰色の髪をした実直そうな男――彼女の外出に付き添ってきた、執事のクレモンだった。
「少し風が冷たくなってまいりました。春先とはいえ、夕方から夜にかけては気温も下がります。そろそろ、お帰りの準備をされては如何でしょう」
彼の言葉に、オディールは、ほんの一瞬、小さな子供のように唇を尖らせたものの、分かったわと答えると、周囲に広げてある画材を片付け始めた。
「お手伝いしましょう」
クレモンが画材に伸ばした手を、オディールは制止した。
「大丈夫よ。自分の絵の道具は、できるだけ誰にも触れさせたくないの」
「そうでしたな」
思い出したように、クレモンが頷いた。
愛用の鞄へ画材を収納し終えたオディールに、クレモンは上着を着せかけた。
「クレモンは、まるで私の親みたいね」
オディールは、くすりと笑った。
「くれぐれも奥様を頼むと……旦那様の遺言でしたから」
今は亡き主人を思い出したのか、クレモンは目を伏せた。
「あなたの忠実さには頭が下がるわ。でも、本当に、私の『親』などよりも『親』みたいよ」
二人は話しながら、近くに待たせてあった馬車に乗り込んだ。
「出してくれ」
クレモンが声をかけると、御者は馬に鞭を入れた。
オディールたちを乗せた馬車は、湖から続いている林の中の道を走り、王都の郊外にあるヴァランタン家の屋敷へ向かった。
やがて、馬車が林を抜けようという頃、車窓から景色を眺めていたオディールは、道の脇に何かが落ちているのに気付いた。
遠目には丸めた襤褸切れのようだったが、近付くにつれ、それが人の形をしてるのが見て取れた。
「止めて頂戴」
オディールは御者に声をかけた。
停止した馬車から降りようとするオディールに、クレモンが心配そうな顔で言った。
「どうされましたか。もしや、馬車に酔われたのですか。でしたら……」
「私は大丈夫よ。それより、あれを見て」
オディールは、人の形に見える襤褸切れを指差した。
「誰か倒れているみたいだから、確認しようと思って」
言うと同時に、彼女は馬車から降りた。その後を、クレモンが慌てて追いかける。
人の形に見える襤褸切れの傍にしゃがみ込むと、オディールは、薄汚れた布をめくってみた。
その下にあったのは、意識を失っているらしき若い男の顏だった。
艶のない髪は埃と汚れで灰色に見えるが、元は白に近い金髪なのかもしれない。
疎らに生えた無精髭が、いかにも不摂生に思えた。
これまた薄汚れた粗末な服をまとっているところから見るに、この男は明らかに平民なのだと思われた。寒さを凌ぐのに、上着代わりの襤褸切れを被って歩いていたらしい。
男の半身を抱き起こしたオディールは、彼の身体が、ひどく熱を持っているのを感じた。
「奥様、いけません。そんなものに素手で触っては……」
クレモンが渋い顔をした。
「この人、ひどい熱だわ。きっと病気よ。屋敷に運びましょう」
「この男を、ですか? 後で人を寄越して、街の病院まで運ばせればよろしいのでは」
オディールの言葉に、クレモンは即座に代替え案を出した。
「それでは時間がかかり過ぎるわ」
オディールの意思が固いことを見て取ったのか、クレモンは諦めの表情を浮かべ、御者に手伝わせながら男を馬車の中に運び込んだ。
馬車の座席の上で、オディールは男に膝枕をするような格好になった。
苦し気に浅い呼吸をしている男が目を覚ます様子はない。
「お召し物が汚れてしまいます。私が代わりましょう」
眉根を寄せて、クレモンが言った。
「とっくに、絵の具で汚れているから気にならないけど?」
ため息をつくクレモンを見て、オディールは首を傾げた。
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