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第一部
episode27 「誰だ」
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盾の男が今一度無力化されたことで、状況を打破する方法がなくなり抵抗する気力が失せてしまったのだろう。なので、これ以上私も彼らを攻撃する必要もない。放置しても、盾の男が覚醒すれば勝手に解放して消えてくれるはずだ。
思って、泉で剣を濯ぎ始める。念のため彼らからは少し離れた場所で。次いで肌着を脱いで体を洗う。裸になって泉に入ると、そこにゆっくりと体を沈めていく。ひんやりと冷たい質感。水中は割合明るく、硝子のように厚みを持ち、陰気でも陽気でもない軟柔な感触に包まれる。
水中には川魚が泳いでいた。到底彼らの追い付くことは叶わず、近寄って来ては逃げていくを繰り返す。まるで遊ばれているような感覚だった。
そうしてしばらく泉に体を沈めた後、水中を出る。今まで纏っていた水流が、渦巻いて全身を抜けて泉へと帰っていく。
振り返ると、既に彼らの姿はなかった。水浴びをしている間に覚醒し、去ったのだろう。確かにこれ以上の関りは互いに無意味で、もう一度交戦となっていたとしたら死を覚悟してもらわなければならない。なので、その判断は正しい。水浴び後の森の中は、青い氷のように空気が流れていて、清々しい気持ちになった。
昨夜は雨に打たれて、乾いたとはいえそのままの身だった。湿気を纏い、お世辞にも清い体とは言えない。そもそも兵士であったときも毎日湯浴み出来たわけではないし、私だけ五分という制限もあった。制限なく体を洗うことなど、恐らくは初めてのことだ。そう考えると、もう少し長く身を沈めていても良かったのではとも思う。
だが、その思いは武具や肌着を置いてきた地上を見た途端吹き飛んでしまった。
大きさは馬の程。白い羽毛に包まれた強靭な獣の四肢に猛禽類の頭を持って、魔獣と呼称されるグリフォンが、そこにいたからだ。まるで幾重もの刃を突き付けられているような眼光の威圧感に、腹部を捩じられているような鈍痛を感じる。
どうして、ここに。
まず初めに浮かんだ言葉はそれだった。
グリフォンについて私が知ることはほとんどないが、おいそれと姿を現す存在ではないはずである。それが今、私を咎めるような鋭い目つきで見ている。言葉のない、窮屈な詰問とすら感じた。
一陣の風がさっと吹く。
目の前の刃物のような目線と、暖かい季節とはいえ決して濡れ鼠で居続けるには難しい微風。その場の冷たい空気が私の肺を押し広げて、皮下では血液が針のようにちくちくと刺してくる。
雰囲気が、水中の同等の冷たさを以て私を襲う。
冷える。
泉の中心で魚が跳ねたとき、そう感じた。
……。
体を纏う冷気に耐えながら、目の前のグリフォンと対峙する。視線を外すわけにはいかない。なぜなら視線を外した途端、襲い掛かってきてもおかしくはないからだ。魔獣と称されるその相手、超常的な能力を行使してきてもなんら不思議ではない。
例えば超速の移動。例えば風の使役。
そのどちらも、今の私には致命的に状況が良くない。それに装備も全て解除してしまっていて、対抗する術は身一つだけだ。まさに、最悪のタイミングと言える。いま私に出来ることは、目の前の敵をしっかりと見据えておくことだけ。
悪寒という無数の針が、体中いたるとこを突き立ててくる。グリフォンは私を真っすぐに捉え、動かない。私という外敵を見定めようかという鋭い目つきで、見据えている。
そうしてどれほど経ったか、ふいにグリフォンは私に背を向けて歩き出す。飛翔し、超速度で空を駆けることが出来るにも関わらず。つまり、ついて来いということなのだろう。それにどういった意味があるかは不明だが、私は泉から上がり濡れた体の上から肌着を着ると、まだ冷たい鎧を急いで装備した。
グリフォンはゆっくりと歩いており、そしてそれは恐らく私の着衣に合わせての移動速度だ。大きな猛禽類の足跡を辿って森の中を進むと、グリフォンはいた。散歩でもするかのようなゆったりとした足取りで。私が真後ろに追いついたかと思うと、その足取りは少しだけ早くなる。
鎧はともかく肌着も濡れており、しっとりと張り付いている感覚が気持ち悪い。先ほど水浴びをしていたことも相まって、風邪をひく可能性も否めない。その場合は責務に支障が出るため、遠慮したいところではある。
そんなことはお構いなしに、グリフォンは緑の海を進んでいく。森のさらに奥深く。無言のまま。濡れた肌着が鎧の中で滴り、びちゃびちゃと水と水がぶつかり合う音だけが森に響く。
グリフォンが私をどこに連れて行くつもりなのかは、見当もつかない。もしかしたら何かの元へ連れて行くのかもしれないし、或いは逃げ場のない場所に導こうとしているのかもしれない。目的が分からないため、ただ着いて行くことしか出来ない。だが、あの場面で私は武器はおろか衣服すら身に着けておらず、抵抗の余地などなかった。しかし今は濡れ鼠とはいえ武具も装備している。不穏な雰囲気を察したら、そのときに考えればいい。
ひんやりとした風が流れる。村を出た時間からして、そろそろ夕刻も近いだろう。木々の密生度が変わったわけでもないにも関わらず、森が暗鬱な雰囲気を内包し始める。もし帰投が夜ないし朝になってしまったとしたら、またロラに小言を言われるのだろうか。それは少し、面倒くさい。さらに風邪なんてひいてしまった日にはもう。
寒気に歩を早めながら腐葉土を踏みしめる。徐々に水気が増えていき、土を踏む音が段々と大きくなっていく。そうして進んだ先、木々の深海。
そこへ唐突に、円形に拓けた地が現れた。
大きさにして先ほどの泉ほど。溜め池のような風貌で、しかしてそこには何もない。そこに水はなく、ただただ円形の緑色の空間だけが在った。異質な、森の中に空いた緑色の穴。じっと見ていると、何故か吸い込まれていきそうな感覚に陥る。
幾度考え直しても、それは魔的な何かだ。
円形の境に立ち、グリフォンが私を見つめる。まるでこの領域に足を踏み入れろと言っているように。その円に侵入して、何が起こるのか分からない。だが少なくとも、良い事は起こらないだろう。
そうやってしばらく目の前の円を見つめていた。するとおもむろにグリフォンは歩を進めて、緑色の領域内へ足を踏み入れる。円の中に入った前足は水面みたいに波紋を落とした。草花も何もないその領域に、輪だけが広く拡散していく。ただ水面のようで、しかし水中に沈んでいく様子はない。どうやらとても水深が浅いというわけでもないらしい。
一歩、踏み入れる。
水の中に入ったという感触はない。どちらかと言えば固い地面を踏みしめた感覚、というのが所感だ。
何故この場所に私を連れて来たのか。そしてここは何なのか。その二つが螺旋に絡み合い、無限に私の脳内を廻っている。これは本当に、カルムの守護になるのだろうかと。緑を一歩、また一歩と踏みしめながら行く。
「誰だ」
そうして中央に近づいたとき、唐突に声がした。鈴のように澄みとおった女性の声。すぐさま周囲を見渡すが、しかしそこにあるのは囲むようにそびえ立つ木々と、私の他にグリフォンがいるだけ。何か特別変わったところは見受けられない。そうなると、やはりこの緑の領域が関わっていると考えるのが自然だ。
間違えなく魔的な存在であるのに、何事もない。陥穴にでも嵌められたかのような不安感。ここまで私を連れて来たグリフォンの方を見るが、しかしその双眸は私を見つめ返すだけだ。
「私の領域を侵しに来たのか」
もう一度、見えない場所からの声。
そして次の瞬間には、緑の領域から突如水色の細腕が現れて私の足首を掴んだ。
思って、泉で剣を濯ぎ始める。念のため彼らからは少し離れた場所で。次いで肌着を脱いで体を洗う。裸になって泉に入ると、そこにゆっくりと体を沈めていく。ひんやりと冷たい質感。水中は割合明るく、硝子のように厚みを持ち、陰気でも陽気でもない軟柔な感触に包まれる。
水中には川魚が泳いでいた。到底彼らの追い付くことは叶わず、近寄って来ては逃げていくを繰り返す。まるで遊ばれているような感覚だった。
そうしてしばらく泉に体を沈めた後、水中を出る。今まで纏っていた水流が、渦巻いて全身を抜けて泉へと帰っていく。
振り返ると、既に彼らの姿はなかった。水浴びをしている間に覚醒し、去ったのだろう。確かにこれ以上の関りは互いに無意味で、もう一度交戦となっていたとしたら死を覚悟してもらわなければならない。なので、その判断は正しい。水浴び後の森の中は、青い氷のように空気が流れていて、清々しい気持ちになった。
昨夜は雨に打たれて、乾いたとはいえそのままの身だった。湿気を纏い、お世辞にも清い体とは言えない。そもそも兵士であったときも毎日湯浴み出来たわけではないし、私だけ五分という制限もあった。制限なく体を洗うことなど、恐らくは初めてのことだ。そう考えると、もう少し長く身を沈めていても良かったのではとも思う。
だが、その思いは武具や肌着を置いてきた地上を見た途端吹き飛んでしまった。
大きさは馬の程。白い羽毛に包まれた強靭な獣の四肢に猛禽類の頭を持って、魔獣と呼称されるグリフォンが、そこにいたからだ。まるで幾重もの刃を突き付けられているような眼光の威圧感に、腹部を捩じられているような鈍痛を感じる。
どうして、ここに。
まず初めに浮かんだ言葉はそれだった。
グリフォンについて私が知ることはほとんどないが、おいそれと姿を現す存在ではないはずである。それが今、私を咎めるような鋭い目つきで見ている。言葉のない、窮屈な詰問とすら感じた。
一陣の風がさっと吹く。
目の前の刃物のような目線と、暖かい季節とはいえ決して濡れ鼠で居続けるには難しい微風。その場の冷たい空気が私の肺を押し広げて、皮下では血液が針のようにちくちくと刺してくる。
雰囲気が、水中の同等の冷たさを以て私を襲う。
冷える。
泉の中心で魚が跳ねたとき、そう感じた。
……。
体を纏う冷気に耐えながら、目の前のグリフォンと対峙する。視線を外すわけにはいかない。なぜなら視線を外した途端、襲い掛かってきてもおかしくはないからだ。魔獣と称されるその相手、超常的な能力を行使してきてもなんら不思議ではない。
例えば超速の移動。例えば風の使役。
そのどちらも、今の私には致命的に状況が良くない。それに装備も全て解除してしまっていて、対抗する術は身一つだけだ。まさに、最悪のタイミングと言える。いま私に出来ることは、目の前の敵をしっかりと見据えておくことだけ。
悪寒という無数の針が、体中いたるとこを突き立ててくる。グリフォンは私を真っすぐに捉え、動かない。私という外敵を見定めようかという鋭い目つきで、見据えている。
そうしてどれほど経ったか、ふいにグリフォンは私に背を向けて歩き出す。飛翔し、超速度で空を駆けることが出来るにも関わらず。つまり、ついて来いということなのだろう。それにどういった意味があるかは不明だが、私は泉から上がり濡れた体の上から肌着を着ると、まだ冷たい鎧を急いで装備した。
グリフォンはゆっくりと歩いており、そしてそれは恐らく私の着衣に合わせての移動速度だ。大きな猛禽類の足跡を辿って森の中を進むと、グリフォンはいた。散歩でもするかのようなゆったりとした足取りで。私が真後ろに追いついたかと思うと、その足取りは少しだけ早くなる。
鎧はともかく肌着も濡れており、しっとりと張り付いている感覚が気持ち悪い。先ほど水浴びをしていたことも相まって、風邪をひく可能性も否めない。その場合は責務に支障が出るため、遠慮したいところではある。
そんなことはお構いなしに、グリフォンは緑の海を進んでいく。森のさらに奥深く。無言のまま。濡れた肌着が鎧の中で滴り、びちゃびちゃと水と水がぶつかり合う音だけが森に響く。
グリフォンが私をどこに連れて行くつもりなのかは、見当もつかない。もしかしたら何かの元へ連れて行くのかもしれないし、或いは逃げ場のない場所に導こうとしているのかもしれない。目的が分からないため、ただ着いて行くことしか出来ない。だが、あの場面で私は武器はおろか衣服すら身に着けておらず、抵抗の余地などなかった。しかし今は濡れ鼠とはいえ武具も装備している。不穏な雰囲気を察したら、そのときに考えればいい。
ひんやりとした風が流れる。村を出た時間からして、そろそろ夕刻も近いだろう。木々の密生度が変わったわけでもないにも関わらず、森が暗鬱な雰囲気を内包し始める。もし帰投が夜ないし朝になってしまったとしたら、またロラに小言を言われるのだろうか。それは少し、面倒くさい。さらに風邪なんてひいてしまった日にはもう。
寒気に歩を早めながら腐葉土を踏みしめる。徐々に水気が増えていき、土を踏む音が段々と大きくなっていく。そうして進んだ先、木々の深海。
そこへ唐突に、円形に拓けた地が現れた。
大きさにして先ほどの泉ほど。溜め池のような風貌で、しかしてそこには何もない。そこに水はなく、ただただ円形の緑色の空間だけが在った。異質な、森の中に空いた緑色の穴。じっと見ていると、何故か吸い込まれていきそうな感覚に陥る。
幾度考え直しても、それは魔的な何かだ。
円形の境に立ち、グリフォンが私を見つめる。まるでこの領域に足を踏み入れろと言っているように。その円に侵入して、何が起こるのか分からない。だが少なくとも、良い事は起こらないだろう。
そうやってしばらく目の前の円を見つめていた。するとおもむろにグリフォンは歩を進めて、緑色の領域内へ足を踏み入れる。円の中に入った前足は水面みたいに波紋を落とした。草花も何もないその領域に、輪だけが広く拡散していく。ただ水面のようで、しかし水中に沈んでいく様子はない。どうやらとても水深が浅いというわけでもないらしい。
一歩、踏み入れる。
水の中に入ったという感触はない。どちらかと言えば固い地面を踏みしめた感覚、というのが所感だ。
何故この場所に私を連れて来たのか。そしてここは何なのか。その二つが螺旋に絡み合い、無限に私の脳内を廻っている。これは本当に、カルムの守護になるのだろうかと。緑を一歩、また一歩と踏みしめながら行く。
「誰だ」
そうして中央に近づいたとき、唐突に声がした。鈴のように澄みとおった女性の声。すぐさま周囲を見渡すが、しかしそこにあるのは囲むようにそびえ立つ木々と、私の他にグリフォンがいるだけ。何か特別変わったところは見受けられない。そうなると、やはりこの緑の領域が関わっていると考えるのが自然だ。
間違えなく魔的な存在であるのに、何事もない。陥穴にでも嵌められたかのような不安感。ここまで私を連れて来たグリフォンの方を見るが、しかしその双眸は私を見つめ返すだけだ。
「私の領域を侵しに来たのか」
もう一度、見えない場所からの声。
そして次の瞬間には、緑の領域から突如水色の細腕が現れて私の足首を掴んだ。
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