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第一部

episode25 「あぁ兄弟。だが全部脱ぐまでまて」

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 村の外は変わらずに緑の海だった。昨夜の名残である滴を付けた葉がそこかしこで光り、原を進むたび私の脛当や鉄靴を濡らす。草原は広く、遠くに見える森もどれだけ距離があるのか一行に掴めない。恐らくは森の中に川が通っているのだろうが、その肝心の森がずっと遠くにあるように感じられる。しかし、列車を降りて見た景色よりは遥かにマシに思う。見渡せど見渡せど、カルムへの往路は草原以外何も見えなかったのだから。
 そう考えると、草原に果てに見える濃緑の塊も少しずつ近寄って来ている風に感じた。そういえば、村の男たちはどこに畑を作っているのだろう。見渡しても一面には緑の大地しか見当たらず、まさか見えないぐらい遠い場所で農作業をしているわけではあるまい。この広い平原に畑を隠匿する術があるというのなら、それはそれで魔法と言っていいだろう。
 そうしているうちに、森が近づいてきているのに気が付いた。風が吹き渡り、白く光りながら野原は波を立てる。小鳥の声がしきりに耳をつつくが、姿は見えない。草むらの中に隠れているのだろうが、しきりに風が葉の音を立てるので正確な位置は把握出来ない。把握しようと耳を立てれば、その音は雑多な騒めきによって掻き消されてしまう。野鳥ならば森に姿を隠すものだと思っていたが、どうやらこの辺りの小鳥達は草原に身を寄せるらしい。それとも、何かしらの理由で森にいられない理由があるのか。昨夜、巨狼が荒らしていた森からは梟の鳴き声がしていた。梟は猛禽類だ。だが、巨狼と梟という理由だけでは、小鳥が追い出される理由としては弱い。小鳥を主食とする害獣が住んでいるのか、或いは、もっと別の脅威が存在しているのか。
 考えても仕方がない、散策すれば分かる事だろう。そう至る頃には森は目の前まで迫っていた。ほどなくして草原を抜けると、ひしめき叢がる緑の大海が眼前には広がる。恐らく川が流れているであろう、南方の森へとたどり着いたのだ。永遠に横へ広がっているはずはないため迂回しようと思えば出来るのだが、その果ては見えない。となれば進むには森を行くしかない。
 思って、先ほど商店で購入したペティナイフを取り出す。通った木に印を刻んでいくためだ。どれほど広いか分からないため必要かは不明だが、戻る際迷わないに越したことはないだろう。
 入り口に立つ一本の木に、傷を付ける。目線の高さに、単純な横薙ぎの直線。
 そうして、森へと足を踏み入れる。木々はいたるところに生えているが密生しているというわけではなく、陽の光さえ差し込んでいた。足元からは草原が消え、所々に草花が生えてはいるが大部分は腐葉土へと様変わりしている。
森を行く道は湿っていて、足裏には弾むような感触があった。恐らくは昨夜降った雨の影響だ。風により、木々が付けた葉達が青葉の波濤を作る。
 顧みると、平原や山。湖に城跡と戦闘経験をしてきたが、森で戦争をしたことはない。もし仮に戦闘になった場合、どう立ち回ればいいのだろう。身を隠す場所が多いため、恐らく強襲が効果的な手段となる。先手を取った方が優位だ。しかし、初めてこの森に足を踏み入れる私には一切の優位性がない。獣であれば、結局私に直接攻撃をしなければならないため反応出来る可能性がある。しかし、人であった場合は違う。森を主戦とする者なら、飛び道具や罠などの手を使うはずである。工作員に対し後手に回った時点で、私は相当な不利性を押し付けられるだろう。まあ、森に攻撃を仕掛けてくる者がいるかは不明だが、無警戒よりはずっといい。
 森は意識することが多い。視界は当然、飛び込んでくる音、腐葉土と樹木の匂い。揺れた葉の音に視線を向けると、小さな獣が走った音だった。頭に小さな角を生やした、ウサギ。害獣というほどの脅威的な存在ではないが、見た記憶のない形状だったため恐らくは固有の種であろう。ウサギは私をじっと見つめた後、どこかへ消え去った。
 そのとき強い風が吹いて、森が悲鳴を上げるかのように唸る。明らかに何かが飛行した烈風であったが、しかしそこには何もいない。ざわめく木と落ちてくる木の葉だけがその名残で、私の目ではその何かは分からなかった。猛禽類では、あの速度は出ない。魔獣ないし、害獣に値する存在が生息しているということだろうか。しかし、巨躯の彼が何か注意するようなことを言っていた記憶はない。つまりは、カルムに害を為すものではないのだ。森には幾度も村人が足を踏み入れているだろうに。とはいえ、私に危害を加えないという理由にはならない。眼で観測出来ない速度で襲われたら、それこそ対応など出来ない。
 それにそんな見えない怪物がいるとはいえ、まだ人がいないとは言い切れない。警戒心を、炎のように燃やす。神経を研ぎ澄ませて、視覚、聴覚、嗅覚の全てを働かせる。
 目についた木に傷を付けながら、一つ、また一つと刃を薙いで進んでいく。湿った地面を踏み固めるように。
 先ほどのウサギ以外に生物はあまり多く見られなかった。代わりにあちこちに実を付けた草花が存在している。本来は鳥が食べるようなものだ。平原で身を潜めていた小鳥たちはやはり本来は森で暮らしていたのだろう。しかし、どうして森から出て行ってしまったのかは分からないままである。先ほど過ぎ去っていった謎の存在と、関係があるのかさえ。
 考えても分からない。加えてこれは私の責務ではない。そう至り、一先ず忘れることにした。
 途端。
 前方からそうそうと水の音があった。川音は賑わい、まるで誰かが喋っているようだ。そういえば、足元には背の低い草ばかりが群がっていた。川辺の湿っぽい空気が、それが近くにあることを知らせてくれる。
 川があったことに、思わず吐息を漏らす。敵兵が引き上げていく、そんな安寧に似ていた。
 漫々と湛えた水が、木々を映して下流のほうへ消えていく。上流から底の砂利を削り洗ってきたのか、水は少しだけ濁っていた。飲むためにやって来たわけではないためここで鎧を洗ってもいいのだが、乾かす陽がない。上流なら、もう少し開けた場所があるのだろうか。
 そう思い、川の流れに逆らって進むことにした。
 水源はどこだろう。泉か、それとも海まで繋がっているのか。沢は上流に行くにつれて次第に澄んでいくように感じた。しばらく歩いた頃には、その透明度は今まで見たこともないほどであった。流れは緩やかになり、心なしか徐々に川幅が狭まってきている。ただ、それで泉なのか海なのかという判断が私には出来ない。出来るのはただ道なりに進むだけだ。
 そうして、滑らないよう一歩ずつしっかりと地面を踏みしめながら進むと、突然開けた場所に出た。空を映したような青に、銀を焼き溶かしたように光る水面。
 神秘性すら漂わせる、清冽な泉の色がそこにはあった。おおよそ見た者をそこに足止めしてしまうほどの見事なもので、思わず固唾を飲んだ。魔法にでもかかったかのように、そこで時間が止まってしまったのだ。まるで風景の一部であるかのように。
 そこから再び時間が動き出したのは、泉の中央が泡立ったからに他ならない。時間にして何秒かの事のはずだったが、その気泡の音で私はようやく意識を手繰り寄せた。
 そうだ、私はここに鎧を洗いに来たのだ。
 この泉で、果たして血塗れた鎧を洗っていいものなのか疑問ではあるが、しかしそうしなければここまでやって来た意味がない。思うと、上半身の装備から順々に外していく。いっそのこと体まで洗ってしまおうか。
 そう頭に浮かんだが、止める。
 下半身の装備を解除したところで、草むらから物音がしたためである。装備を全て外すまで待つのは賢い選択だと思う。防御力を自ら破棄したのだから。しかし、内容まで聞こえる音量で密談するには流石に迂闊過ぎではないだろうか。

「なあ、こんなところに女がいるぜ兄貴」
「ああ兄弟。だが全部脱ぐまで待て」

 私を襲ったところで得はないとは思うのだが、守護する村の近くだということは考えると排除せねばならないだろう。
 地面に突き刺した大剣を握り、声のするほうへと歩を進める。どうしてこんなところに人がいるのか。そう疑問に思ったが、すぐに振り払う。そんなことは、捕縛してから聞けばいい。

「なんかこっち来てないか」

 その声を切っ掛けとして、私は地を蹴った。
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