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第一部

episode17 「意外だな。騎士様も冗談が言えるのか」

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 山のような輪郭が、徐々に姿を現わす。これほどの獣が棲み着いているなど、いよいよどうして忠告がなかったのか疑問に思う。否、普段は姿を見せないのかもしれない。それを私の運の無さか、それとも群れを殲滅したせいか呼び寄せてしまったのだろうか。
 遠征の際に獣と戦闘した経験があったため、先ほどまではどうにかなっていた。しかし、流石に魔性の類いを目の前にするのは初めての経験だ。象ですら、これほどの体躯はないだろう。そもそも見上げるほどの巨体を誇る獣自体、完全に予想の範囲外である。しかしやって来てしまったものは仕方がない。ここで魔獣を斃さなければ、カルムへ侵攻されてしまう。当たり前の事実から目を逸らすことは出来ない。
 果たしてそれは、狼と言っていいのか。
 姿形は辛うじて狼の形をしているため、便宜上狼と呼称するが、私が知る狼とはあまりにかけ離れた巨体だ。先ほどまで応戦していた巨狼は、大きさこそ牛ほどの巨躯であったが、容姿や習性まで狼の特徴そのものであった。
 しかし目の前のこれはなんだろう。巨大な顎は狼と呼ぶにはあまりに巨大で、鰐のそれに似ている。全身は黒い毛で覆われ、そびえ立つだけで山と向かい合っているような威圧感を感じた。最早災害とも言うべき存在。厄災には、人は塵ひとひらにも及ばない。果たして、私という生物は魔獣にとって障害とすら認知されてはいないだろう。ただその紅眼は、激しく私を見つめている。目の前に立っている何か。恐らくはその程度の存在。
 双剣の彼女はこの魔獣まで予期して、火を勧めたわけではと思う。いくらなんでも、生まれ育っただろう村を蹂躙されてまで、私を追い出さんとするとは考えづらい。
 目の前にいるものは生きているように見える。心臓を貫き、脳天を叩き割れることさえ出来れば斃せる可能性はある。なんにせよ、この先へ通すことは出来ない。
 赤く光る魔獣の眼を、自分の眼で押し返す。眼光を瞳孔の中へとねじ込むように。そのまま魔獣と私は眼を合わせたまま、暫くの間動けなかった。視線を外した瞬間、即座に叩き伏せられるだろう。緊張感からか、空気が今にも罅割れを起こしそうなほど張りつめている。
 時間だけが血液めいて流れていく。
 そして、いつの間にか魔獣の全容がはっきりと視認出来るようになった頃。魔獣はついに動き出した。緊張感からか、剣を握る手のひらが汗ばむ。相手は常識外の存在だ、その巨体による攻撃以外にも何か特殊な攻撃方法を持っていてもおかしくはない。
 しかし慮外なことに、魔獣は転々と横たわる狼の死体を食べ始めた。私など目もくれずに。不意の出来事に、私は茫然と見ていることしか出来ない。
 初めから、私など路傍の石に過ぎなかったのだ。自虐するが、決して嗤う気にはなれない。目の前で行われる魔獣の食事、その中に私が入っていないとは言い切れないからだ。
 極く微妙な、神経的な不調和が、辺り一帯にはびこる。山のような体躯の魔獣をどう相手取るか、それだけを考えていた。野生である以上はその急所は脚となるはずだ。しかし、巨木のようなその逞しさ。果たして切断することが出来るのだろうか。万が一跳ね返され、挙句の果てには食い込んだままになった場合、最早手立てがない。
 そうして5匹を口の中に収め、最後の1匹が斃れる私の前までやってきた。両断された体を草ごと丸呑みにし、咀嚼する。潰れる肉と、骨が砕ける破壊音。口から滴る血液が、地面で雨と混ざり合う。
 次は私の番なのではないかと。淡々と食事をする魔獣の態度には、私を押さえ付けて動かさない或る力が満ちていた。雨なのか汗なのか分からないほど、体中が滲みている。海上から這い上がった海獣のように濡れ、装飾品として取り付けられたスカートは膨らみを無くし腿当てに張り付いていた。
 無言の声が、鋭利な牙として全身に突き刺さる。私の顔を縦横と眺め回し、それにつれて顔の上に暴威の条痕が曳かれるように感じた。
 冷酷で驕慢な紅眼。その眼光に撫でまわされ、時間が重い鎖を引きずるように経過していく。どれほど時間が経ったのか分からないほど、質量のない圧迫感に押さえ付けられていた。一刻も気を緩めることを許されない、拷問にも似た時間。こういう必死な刻が幾何続いたのか、時間という感覚が失われてしまったこの瞬間では少しも分からない。
 いつの間にか、雨は止んでいた。
 あや目も知れない闇の中から、白い焔が空中に現れ出る。空は暁の光をいち早く吸い始め、ある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだす。ようやく、この長い夜は明け離れて行こうとしているのだ。常闇とも思えた夜は空の端のほうへと追いやられて、空には黎明の光が雲を破り始める。
 そうして辺りが夜明けを告げ始めた時、魔獣は唐突に身を返して去って行く。日差しに吸い込まれていくように。その姿はどんどん遠くなっていき、どこへ行ったのか、やがて見えなくなった。
 その様を見届けると、きりきりと私の胃を締め付けていた痛みが、少しずつ遠のいていく。すっかり消え去ったというわけではないが、拭い取ったように和らぐのを感じる。

「おいおい、なんだってんだこれは」

 突然、耳元に言葉の束を投げ込む者がいる。鏽を帯びた、聞き覚えのある太い声だ。その声色から驚いたという風で、交代の者は彼なのかと思いながら振り向く。

「……おはようございます」

 この村に来て三度目となる、巨躯の彼との邂逅。背に背負う巨大な戦斧を見て、確かにそれは村中で揮うには危険だと納得した。

「昨日は雨だったみてぇだが、ところどころ流れきってない血が付いてるな。それに顔のひでぇ傷。何があった」

 順序立てて、なるべく嚙み砕いて説明した。7匹の狼がやってきたこと、内6匹は屠ることが出来たが1匹は逃がしてしまったこと。特に魔獣たる巨大な狼のことは自分でも何かよく分からないため、細かく伝える。

「ランタンの灯りに誘われて来たようです。興奮状態でしたので」
「ランタンの灯りじゃあ普段ならこんなことないんだがな、運が悪いな騎士様は」

 運の無さは自分でも自覚しているので、あまり気にしていない。それよりも気にすべきは、巨躯の彼がいま自分のことを騎士様と呼んだことだろう。運が悪いことへの皮肉の可能性もあるが、それにしてもだ。

「とにかく一度ロラんとこに戻れ。で、寝ろ」

 背の戦斧を地面に下ろしながら、巨躯の彼はそう言った。

「一夜程度でしたら問題なく活動を続けられます」
「いや寝ろ。そんだけ争ったんだ、疲労がないわけないだろ」

 ですが。そう口に出そうとして、やめる。このまま警護を続行出来ることは間違えないのだが、確かに疲労がないとは言えなかった。張ってしまった腕と、擦り切らした精神。それに私が反論することを読んでいたのか、睨めつけられた視線。双剣の彼女は朝もう一人が来るまでと言っていた。従って、これは任務の放棄ではない。

「分かりました」

 二時間ほど休息すれば、問題なく活動出来るはずだ。思いながら、鞘を探すため辺りを見渡す。

「どうした」
「鞘が見当たらないのです」
「鞘か、向こうに落ちてたな」
「感謝致します」

 親指で示してくれた場所に眼をやる。血まみれで落ちていたそれは少しへこんでいて、剣を収めることは出来なくなっていた。恐らく狼の鼻先に叩き込んだ際、もしくは幾度も踏まれたときにへこんでしまったのだろう。
 元々あまり必要のないものだ、さほど未練はない。

「村に鍛冶屋はいらっしゃいますか」
「鍛冶屋? って、あぁ、鞘が潰れちまったのか」

 肯定するように頷いた。

「いるにはいるが。オレは案内出来ねぇからロラに聞くといいぞ」
「分かりました」

 潰れてはしまったが、念のため鞘は拾っておこう。

「それにしても、だ」

 鞘を拾い上げると、巨躯の彼は話題を出すように言う。口の中を奥歯で噛むようにし、どうしてか笑いを堪えているようだった。

「見上げるほどの狼たぁ、意外だな。騎士様も冗談が言えるのか」

 あっけらかんと、彼はそう言った。

「いいえ、冗談は言っておりません」
「分かってるって、疲れてるんだろ。いいから寝ろ」

 決して、嘘をついているようには見えなかった。彼がとんでもなくはぐらかすのが上手いというのなら話は別だが、さっさと話を終わらせようとしている様子はない。
 しかし、私もお伽噺を聞かせているわけではない。先刻実際に遭遇し、睨み合っていたのだ。あの緊張感と時間を夢だったとは思わない。あれほどの存在を知らないとなると、どこに身を隠しているのか分からないが、あの魔獣はよほど人里に姿を現さないのだろう。その「よほど」を、私は引いてしまったらしい。
 そうなると、知っていそうな人物となると村長が有力だろうか。次に会った際にでも聞いてみることにしよう。

「なるほど。それではまた」

 頭を少し下げると、「おう」と短く返された。
 役目を引き継いで、既に私がこの場に残る意味はない。睡眠と往訪、しなくてはならないことが出来てしまったため、立ち去ることにする。この傷を見て、ロラはなんと言うだろう。また口を尖らせて、小言を言うだろうか。
 それにしても、あれほど地鳴りがしていたというのに、村人は誰一人出て来なかった。それは私を信用しているということではないだろう。
夜、外に出てはならない。
 そう、恐らくは徹底されているのだ。

「待て」

 立ち去ろうとして、しかし呼び止められる。

「ずっとフードを被ってて分からなかったが、騎士様。随分と色気のない髪をしてるな」
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