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第8話

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小暑、七夕も過ぎ、夏の暑さはまだまだこれからという時期だった。


明日は午後から市が立つ。

「たまには市を見学したいです」

午後からならば、暑さも和らぐだろうからゆっくりと見て回れる。
千尋は、少し浮足立って保憲にお伺いを立てた。

『少し気がかりなことはあるけれど、千尋の性格上、このまま部屋に閉じ込めておいても、大人しくはしてくれないだろうな…』

保憲は祓の儀式があるので一緒には行けない。

『それにここしばらく、眠っていることや書物に向かっている事が多いから、気晴らしには丁度いいかもしれない』

山吹と左之助が一緒に行くと言っていることもあって、しばらく考えてから許可を出した。


保憲は、嬉しそうにしている千尋の顔に微笑みながら、懐から檜扇を取り出す。

「これをお守り代わりにお持ちください」

取り出した保憲の檜扇には、五色の紐がついていた。

千尋は保憲の扇を受け取る前に、自分の檜扇を取り出すと、

「交換しましょう」

と、にこやかに微笑んで、保憲に手渡した。

千尋の檜扇は、緑と赤の南天竹の意匠が小さく描かれている。
難を転じるという由来から、南天は縁起の良い植物と言われている。

保憲の檜扇の五色の紐にしたって、青、赤、黄、白、黒(紫)と、陰陽五行の色になぞらえて、魔除けの意味がある組み合わせなのだ。

二人は、お互いにお互いを思いやる気持ちを込めて、檜扇を交換した。


そして、翌日の午後―

千尋と山吹、左之助の三人は市の賑わいの中にいた。

市は目移りするほどで、旬の野菜や果物、干魚、布や小物…他にも色々な品が並んでいる。
実は、三人で市に来るのは久しぶりだった。
父がまだ元気だった頃には、たまに、目を盗んでは抜け出して来ていた。

『その度に三人で叱られたっけ』

千尋は昔の思い出に心を馳せてうふふと笑う。

三人で店を冷やかしたり、気に入った品を買ったりして楽しんだ。



そろそろ帰ろうとなった時、どこからともなく甘い香りがしてきた。

「なんだろう?」

三人とも鼻孔をくすぐるような、嗅いだことのない香りに心臓がドキドキとする。
そして、どこの店からこの香りはするのだろうかと、探し始め、よそ見をしてキョロキョロ。


その時、前から来た男に千尋はぶつかってしまった。
千尋の懐から檜扇が落ちる。

「ご、ごめんなさいっ」

山吹が気が付いて檜扇を拾い上げ、千尋に渡そうとした時、男から声をかけられた。

「その扇は、陰陽師の賀茂保憲殿のものですね。ということは…あなたは奥方様ですか?」

一瞬三人とも沈黙した。

『誰だろう?』

千尋が疑問に思っていると、相手から名乗ってきた。

「これは失礼いたしました、私は大江清景と申すもの。保憲殿と同じ陰陽寮の暦生です」

山吹の手の中で五色の紐が揺れる。

甘い香りが広がって来る。

「保憲様と同じ暦生?」

千尋が顔を上げると、清景は二コリと微笑んだ。

「はい、丁度、保憲殿から借りたままになっている書物があるのです、それをお返ししたいのですが…」

書物と聞いて、千尋は何か大切なものであると考えた。

「どうです? 私の屋敷に取りに来ていただけませんか?」

甘い香りが三人を包み込む。

「奥方様は後で私が送り届けましょう」

何かがマヒしているように、誰も不審に思わない…

千尋は清景と歩き出し、山吹も左之助も二人を見送った。
山吹は千尋に保憲の檜扇を手渡すことを忘れてしまった。


「申し訳ございません」

山吹と左之助は保憲を前にひれ伏していた。傍らには、保遠と晴明もいる。
あの後しばらくして、二人とも慌てて賀茂家に戻ってきたのだ。

「これを」

青い顔をして目の前に差し出したのは、保憲の檜扇と文。

二人共気が付いたら、市が終わった道の真ん中にいたのだ。
山吹の手には檜扇と文が握られていた。

「鼻に付くような何とも言えない甘い香り、か…その香りは恐らく幻術だろう」

保憲は檜扇を受け取ると、揺れる五色の紐を見つめながら懐にしまった。
文の方は広げて読む。

『女は預かった、返してほしくば保憲殿御一人で来られよ』

大江清景…保憲と共に暦生として陰陽寮で学んでいた同僚だった。
大江家は、菅家と並ぶ漢学に優れた学者家系で、清景は分家の三男だった。
もちろん保遠も晴明も知っている人物だ。

保憲と同時期に得業生試を受けたが、今は陰陽寮からは除籍されている。

「あいつ、陰陽寮で暦学は優秀だったよ」

保憲は文を広げたまま保遠と晴明に見せる。

「しかし、あの者は兄上と比べて、見鬼の才には恵まれておりませんでした。占いの腕は兄上の方が断然上でした…実践に弱い所が致命的な点だったのでしょうか?」

「いや、あいつはね…得業生試の当日、不正をしたんだよ。袖に縫い付けた紙で…いくら学問で優秀であったとしても、暦道では、私とは一二を争う間柄だったから…私と並んだ時に不安があったのだろうな…」

「兄上のせいでは無くて、自分の実力の無さで落とされたというのに、逆恨みも甚だしい」

「立ち去る時に、家柄の事を指摘されたよ」

「保憲様、では、その恨みの為に奥方様を誘拐したのでしょうか?」

今まで静かに耳を傾けていた晴明が口をはさんだ。

「おそらくな、先程の山吹と左之助の話…甘い香りの幻術といい、既に鬼になっているのかもしれん…」

「……」

「兄上、御一人では危険すぎます」

「鬼に気が付かれないようにしなければならない。この賀茂家で隠形の術が使えるのは…父上と保遠、それと晴明か…」

「私もご一緒に参ります」

「いや、保遠…お前はここにいろ。私に何かあった時、この賀茂家の跡目となる」

「しかし…」

納得がいかない保遠を尻目に、保憲は晴明の方に向き直った。

「晴明、来てくれるか?」

「保憲様、ご一緒致します」


それから、保憲と晴明は、千尋救出の為の準備をした。
相手は鬼とはいえ元同僚。
複雑な思いもある。

保憲は自らの準備を整えた後、晴明の部屋に向かった。
急がなければならない事は分かっている。
しかし、一つだけどうしても確認しておきたい事があった。

「少し、いいか」

保憲は晴明の部屋の御簾をくぐった。
保憲の部屋と比べてこじんまりとした狭い部屋だったが、綺麗に片付けられていてスッキリとしている。
晴明は牛飼い童の水干を身に着けてすぐにも出発できそうだった。

保憲は晴明の傍らに座り込み、晴明も対峙して座り、お互いに目を合わす。

保憲は、晴明には千尋を救出することに特別な感情は無い、と判断した。
凛とした瞳には、迷いのない清々しい眼差しがあった。

「また、お前に山鳥のヒナを助けてもらう事になるとはね」

「保憲様、あのヒナはもう幸せに飛び立ちましたので…」

「そうか…分かった」

保憲が立ち上がると、それに続いて晴明も立ち上がった。

「ただ、ヒナの忘れものをお返しすることだけはお許しください」

保憲はフッと苦笑すると、晴明の心の内を察した。

『ここまで心を静かに整えるのに、どれだけの苦悩があったのだろうな…』

その心の中のモヤモヤを収めてしまった弟弟子の力量は、これから陰陽師となった後に役立っていくだろう。

「私もヒナが無事帰ってくる事を信じているよ」

「では、救出に向かいましょう」
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