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秋人

弐  秋人

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 紅葉が燃えるように色付いた朝だった。
 男は岩蕗いわぶき隆人たかひとと名乗り、新しい家に行こうと少年を迎えに来た。
 少年は男の自動車に空虚な目を向け、言われるままに乗り込んだ。エンジン音がうなる中、男の背に名を訊かれる。
 紅葉が織り成す道を自動車が走り抜け、空は透き通るような蒼だ。
 いくら待っても、返事はない。
 男が言葉を繰り返そうとした時、少年はかき消えそうな声で、ないと呟いた。
 男は曲がり角の先を見るふりをして少年をかえりみる。陰りのない表情は遠い秋空のように平坦だ。
 舗装されていない道を不規則に揺れながら進む。

秋人あきひと、なんてどうだ。今日、秋がやってきたように秋人もうちに来るんだ」

 男の背が朗らかに言った。
 颯爽と抜ける風に少年は目を細める。

「あき……ひと」

 やっと拾えるような声に男はそうだ、と笑った。
 自動車を止めたのは見たこともない大きな屋敷の前だ。丘を見下ろす屋敷は流行りの洋館ではなく、先の時代から受け継がれる和風の造り。庭には丸い石が敷き詰められ、要所要所にある苔のむした岩は年月を感じさせる。
 玄関に足を踏み入れると、静かな女が佇んでいた。男に妻だと紹介された女は、これからよろしくねと笑顔で招き入れる。
 少年は風呂で汚れを落とし、伸びっぱなしになっていた髪の色の違う部分だけを切られた。なされるがまま、肌触りのいい着物に着替え、二十畳はありそうな部屋に案内される。枕と間違えそうな分厚い座布団に座るのはためらわれた。何より、ここに座ったら逃げられないような気がする。
 男が遠慮するなと笑う。こんなに優しい笑顔があるなんて少年は知らない。
 直後、悲鳴が上がった。
 少年は体を固くする。
 誰かの名前を呼ぶ声が聞こえ、男は少年に目もくれず部屋を飛び出した。
 部屋に一人残された少年は呆然とするしかない。
 障子ごしの陽気を半身に受けながら少年は掛け軸を見上げた。読めない文字が並んでいる。何も気持ちが上がってこなかった。空っぽの心があるだけだ。
 少年が目に写るものを見ていなかった時間はどれぐらいのものだろうか。
 にわかに廊下が騒がしくなる。足音の隙間からみふゆ、と男の声が聞こえた。

「ともだち!」

 勢いよく障子を開け放たれてからの第一声。まぶしい笑顔を向けられた少年は呆気に取られた。
 恐れ知らずの少女は遠慮なく突き進み、少年の頭を乱暴に撫でた。

「おまえ、お人形みたいね」

 少女から投げられた言葉に少年は顔をしかめた。髪がちりぢりで目が飛び出した人形を思い出す。

「ちがった。人なのね」

 少年の表情が動いたことに気付いた少女は手を離した。

「美冬、失礼なことを言ってはいけないよ」

 横から入ってきた言葉はよくよく聞けば注意である。しかし、男の声色は少年が今まで聞いた中で一番甘かった。
 少年が視線を向けると男は娘の肩に手を置き、笑みを深める。

「この子は美冬、私の娘だ。これから一緒に暮らすから仲良くしてやってくれ。美冬、この子は秋人と言うんだよ」
「秋人ね。よろしく」

 少女が手を差し出す。
 少年は小さな手を見返すだけで身動ぎ一つしない。
 しびれを切らした少女は少年の頭をこぶしで殴った。

⊹ ❅ ⊹

 その日から少女は少年を連れ回した。琴や算盤の稽古にはもちろん、かくれんぼや鬼ごっこ、あやとりと全て付き合わせる。やり方がわからないと少年が言えば、少女が鼻高に教える日々が続いた。
 少女はとにかく正直な子供だ。真っ直ぐな瞳で少年を見つめ、思ったままに言葉が飛び出してくる。

「おまえ、たわしみたい!」

 少年の短く刈った髪をたわしと言って笑い声を上げながら駆けていく。少年が少女を追えば、遅いと怒られた。
 癇癪持ちの少女の相手は手が焼ける。使用人として迎えられた少年だが、少女の相手をするならばとほとんどの仕事を代わってもらえた。
 気分屋の少女が少年を突き放さなかったのは、彼女の相手をしてくれる者がいなかったからだ。仕事に忙しい父も床に伏せがちな母も相手ができず、使用人は困った顔をする。
 逆らわない少年は少女の後を影のようについてまわる。風呂と寝室以外は飽きることなく時間を共にし、屋敷を抜け出す時も一緒だった。
 少年の髪が元の長さに戻り、二人が小学校に入った後も変わらない生活が続く。平穏な生活はお転婆で破天荒な少女とは無縁だ。鯉のぼりが空を泳ぐ頃、二人は男に呼びつけられた。
 少女と少年は渋い顔の男とそれを困った顔で見つめる女の前に座る。

「美冬、その怪我はどうしたんだ」
「言わない」

 開口一番の問いに少女はそっぽを向いた。男の目に頬を覆うガーゼが写る。
 さらに顔に力を込めた男は少年を睨み付けた。般若の形相にも少年は微塵も動揺しない。

「秋人、誰がやったんだ」
「秋人! 言わないでよ!」

 地響きのような声に重ねて少女が吠える。男の拳骨と美冬の癇癪を天平にかけた少年は間を取ることにした。

「帰り道に殴られたので、お嬢様は殴り返していました」
「なんで言うのよ!」
「誰かは言っていません」

 少女は少年の胸倉を掴み、少年はなされるがままに揺さぶられた。
 怒りに震える男のこぶしを白い手が包む。膝の上で震えていたこぶしがぴたりと止まり、男は女の顔を見た。
 女は目を伏せ、わずかに笑んでいる。
 男は一つ咳払いをして、背筋をのばした。二人分の視線が自分に向けられていることを確認して口火を切る。

「もちろん、手を出してきた者が一番悪い。理由があってもまずは話し合いだ」

 少女はそうだろうと大きく頷いた。
 解放された少年は乱れた服のまま耳を傾けている。

「でもなぁ、美冬。相手がいくら悪いと言っても仕返しはいかん。どんなに気に食わなくても我慢してほしい」
「どうして。おかしいわ」

 そうだなぁ、可笑しいなぁと男は眉を下げる。

「ずっとやり続けるのはむなしいからなぁ」

 男の言ったことは少女には理解できなかった。少女はいやよ、と呟く。
 男は身を乗り出して少女の頭を撫でた。抵抗する少女に構わず、白い歯をのぞかせながら言う。

「何度もやるようなら、父様とうさまが相手をしよう。相手といっても稽古をつけるだけ、だけどな」

 男は時を見て自宅で士官の稽古をする。その光景を見たことのある少女は憎い相手がしごかれる姿を想像したのか意地の悪い笑みを浮かべていた。
 少年は何も言わず、じゃれあう親子を眺める。その瞳は曇天のように奥が見えなかった。

⊹ ❅ ⊹

 躑躅つつじがしぼみ、てんとう虫が飛んでいく。
 飽きることを知らない少年は駆け回る少女の背を追った。晴れた日には山に登りわらびやたらの芽を腕いっぱいに集め、母を喜ばせた。田んぼの水がはれば、あめんぼやおたまじゃくしを手ですくい、地主に追いかけられる。
 少女の周りには人が溢れたが、少年には声がかからない。少年の空虚な目や得も言えぬ雰囲気に怖じけつき、近寄らない子供ばかりだ。
 蛙が鳴き始め、入道雲が流れていく。
 微塵も気にしない少年は何も言わず、表情一つ変えない。少女のひと声で顔を上げた。
 変化の乏しい少年の分も補うように、少女の周りは目まぐるしく移り変わる。蝉の声が鈴虫に変わり、誰も少女には歯向かわなくなった。
 少年がため池に落とされたのは夏の終わりだ。口が達者な少女の後ろに恐ろしいおにが控えていると知った同級生が腹いせに起こした事件。少女が忘れ物を取りに行った隙に事は起きた。
 池から這い上がった少年がまずしたことは荷物を広げることだった。濡れた服と鞄はどうにかなるとして、教科書はどうにもならないと少年は道端で途方にくれる。
 鳴き始めたひぐらしの鳴き声を突き破り、少女の声が飛ぶ。

「何してんの、秋人!」
「……濡れました」

 少年は全てを削ぎ落としてから告げた。濡れそぼる服から滴が落ちる。
 要領を得ない少年の胸倉を掴んだ少女は金切り声を上げる。

「どんだけ呆けていても、お前はでくの坊ではない、て知っているんだから! 馬鹿にしないでちょうだい! 誰にやられたの!」
「……仕返しはいけません」

 少年の進言に少女は動きを止めた。至近距離で互いに見返す。一方は熱のない目、一方は闘志が煮えたぎった目。勝敗はつかない。踵を返したのは少女だった。

「お前、本当にばかね」

 唸るように吐き捨て、少女は走り出す。
 少年は少女を追いかけようとしたが、乾かそうと広げた荷物を置いていくわけにもいかない。遅れを取るうちに少女の姿は消えていた。
 影が長くなり、ひぐらしが鳴りを潜める。
 少年は屋敷に入れず、どこに消えたかわからない少女の帰りを待った。門の前でうずくまり、意味もなく小石を見つめる。心の中で震えるそれが、何なのか少年にはわからなかった。穴が空いたような感覚は少ない記憶を辿っても思いあたらない。
 遠くからエンジン音が聞こえてきた。この近辺で車を持つ者は一人だ。
 エンジン音は徐々に大きくなり、少年の手前で止まった。

「どうした、そんな所で」

 ドアの開く音ともに男の声が降ってくる。
 少年は声の主がわかっていたが、身動ぎ一つしなかった。
 顔を上げない少年を見かねた男は膝に手をつき腰を曲げる。

「美冬と何かあったか? 気まずいなら一緒に行ってやるから」

 な?と男が促すも、少年は頑なに顔を上げない。
 男は頭をかきむしり、周りに気を配る。遥か向こうに娘の姿を見留みとめて相好を崩した。

「ほら、噂をしたら帰ってきたぞ」

 男の言葉を皮切りに少年は思い出したように動き出す。緩慢に少女の方へ顔を向けた。
 夕陽を背負しょって歩く姿は勇ましい。それとは逆に少女の足はぎこちなく引きづられていた。

「どうしたんだ、その怪我は!」
敵討かたきうち!」

 駆け寄る男を押し退け、少女は少年の真正面に立つ。色濃く影の落ちた顔に浮かぶ双眸は夕陽よりも燃えていた。

「お前は、私のものなんだから。しゃんとなさい!」

 誰が聞いても無茶苦茶な言である。
 燃えたぎる双眸に射ぬかれ、少年は――秋人は初めて泣いた。少女の――美冬の言葉に心が動いたのか、知らない所で悲しんでいたのか、それとも嬉しかったのか。その理由は本人も含め誰もわからない。
 しかし、秋人は涙を止めることができなかった。



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