『サル太閤』

篠崎俊樹

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『サル太閤』

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 天文六年二月六日、その男は、尾張国中村で生まれたという。サル。幼名、日吉丸。のちの太閤秀吉だ。ここでは、まず、サルと呼称しておこう。サルは、小さい頃、母親や弟、妹と別れ別れになって、駿河国で、木綿針を売って、生計を立てた。当時、海道の天下は、今川義元が、一手に握っていた。義元は、かの今川了俊の子孫。サルは、義元の部下の松下之綱に仕え、義元が、織田信長によって、桶狭間の戦いで討たれると、信長に仕えて、足軽頭から頭角を現し出す。そして、信長が、長篠合戦を機に、大量の鉄砲隊を組織し始めると、その頭となり、鉄砲隊を率いると同時に、織田軍団の一翼を任されるようになった。
 ここからは、サルなどと言うと、後の太閤に大変失礼なので、秀吉と言っておこう。秀吉は、織田軍団の中で頭角を現し始めたが、後に、中国攻めで、信長が毛利輝元を攻めると、毛利攻めで先鋒を務め、それから、毛利領を次々に切り取り、織田領へと編入していった。秀吉の地位は一気に上がった。その秀吉と、苛烈に対立したのが、同じ織田軍団所属で、北陸方面司令官の柴田勝家である。勝家は、秀吉が、一介の農民から、成り上がったことが気に入らなくて、敵視し、「あのサルめ」などと、織田家中で蔑視していた。
 秀吉は、信長が、本能寺の変で、明智光秀によって討たれ、横死すると、すぐさま、中国街道を往還し、一日で、京都山城に到着。山崎に陣を張り、丹羽長秀、池田恒興らを味方に引き入れて、光秀軍を討ち滅ぼした。これが、かの、山崎の合戦だ。そして、それを機に、秀吉は、柴田勝家と全面的に対立し、織田領のかなりの部分を相続すると、信長の孫で、三法師と呼ばれた織田秀信を擁立し、総見寺にて、信長の大葬儀を行う。その後、北陸の上杉攻めを担当していた勝家を、越前北庄城にて滅ぼし、名実ともに、信長の後継者となった。秀吉の盟友に、蜂須賀正勝、浅野長政などがいる。ただ、ここで特筆しておきたいのは、秀吉は、分裂質、今でいうところの統合失調症だったらしい。それが、彼をして、勝家討滅後、自分の居城大坂城を築城させて後、朝鮮の役へと駆り立てた。まさに、狂気の沙汰だったのだ。朝鮮の姫をもらう、とか、領土を割譲しろ、とか、中国大陸に攻めかかる、とか、とんでもない妄想を抱いていたらしい。それが、家臣たちをして、怖がらせた。
 秀吉は、大坂城築城後、朝廷から、関白宣下を受け、亡き信長が右大臣の官位をもらったように、武家関白となった。だが、それが仇となった。仮に、秀吉が、源氏の系図を買い取って、名前を書き入れ、征夷大将軍宣下を受けて、開幕していれば、豊臣政権は、安定政権となったはずだ。それがなかったので、わずか、二十年足らずで、関ケ原の合戦が起こり、その前夜、豊臣家内は分裂し、家中は北政所と淀殿の派閥に割れ、淀殿を擁する石田三成が西軍を組織し、家康と戦って大敗してから、豊臣家の天下は、転げ落ちるように、あっという間に終わった。サル太閤。言い得て妙である。一代で天下を取り、一代で滅びたのが、秀吉。遺児秀頼も、家康により、関ケ原の合戦後、十四年のちの大坂冬の陣、そして、十五年後の夏の陣において、大坂城を落とされて、最後は、城一角の山里廓にて、淀殿ら一族とともに、皆殺しとされた。ここでも言えるのが、サル太閤、秀吉一代での生き様だ。最後に言っておくと、大坂冬の陣と夏の陣の時、城攻めに、散々苦戦した家康は、城外に、イギリスから購入したカルバリン砲四門を構え、城中に向け、絶えず発砲。天守閣の一角を破却し、淀殿ら一派を、和議へと追い込んだ。そして、城の堀を埋め、裸城とし、あっという間に落城させる。サル太閤秀吉の天下は、こうして、わずか二代で終わったのだった。付記しておくと、秀頼の遺児、国松は、大坂の役後、徳川方に捕らえられ、過酷な市中引き回しの後、京都六条河原にて、斬首された。こうして、豊臣家の係累は、秀吉の娘、東慶尼だけとなり、すべてが絶えた。
 最後に強調しておくと、秀吉は、所詮、サル太閤、今太閤だったのだ。単なる武家関白に過ぎなかった。それが、最大にして、最強の仇となったのだった。それを、執拗なまでに強調して、この短編小説の結びとしておく。ここに、稿を終える。
                                  (了)
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