圏ガク!!

はなッぱち

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家畜も色々

夢の終わり

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 気が付くと、誰も居なくなっていた。古ぼけた天井と、洗濯された事がなさそうな色合いのカーテンが見える。嫌な夢を見た気がしたが、ぼんやりする頭に残っていたのは、起きて今度こそちゃんと試験を受けなければいけないという思いだけだった。

 布団から体を起こす。体が揺れているみたいで、視線が定まらないのは厄介だが、前みたいに動かせない程じゃあない。これなら行ける。今度はちゃんと時間の余裕を持って、母さんに迷惑かけずに試験を受けられる。

 ベッドから下りると、足の裏にひんやりとした床の感触が確かにある。ふらついているのは頭で、体ではないのが分かり、少しホッとした。外の空気を吸えば、きっと頭も正常に戻るだろう。

 とにかく進もうと、一歩二歩と足を前に出したのだが、途端に膝がガクンと落ちて、床に蹲ってしまう。

 これでは前と同じだ、そう思うと悔しくて、必死に床を掻く。足が全く言う事を聞いてくれず、掻いても掻いても前進している気がしなかった。次第に腕がどんどん重くなって、関節が軋むような痛みを覚えた時、進みたい方向から扉の開く音が聞こえた。

「ややや、こらあかん。どないしたんやぁ」

 サンダルだろうか、パタパタと騒々しい音が近づいて来る。オレの目の前に屈んだその足は、長年履き続けた汚れのせいで真っ黒になっているらしい便所サンダルだった。

「なんやなんや、そんな慌てて小便か、大の方か? 漏れてまいそうなんかぁ? そかぁそれやったら、じいちゃんが連れたるからな」

 聞き取り辛い声の中に、連れて行ってくれるらしい響きを見つけ、オレはこの便所サンダルを頼る事にした。誰でもいい。誰でもいいから、試験会場まで連れて行ってもらわないと。

 体を起こそうとしてくれている腕を掴む。顔を上げるのもしんどいが、ちゃんと場所を伝えないと、違う所に連れて行かれたら取り返しがつかない。

 頭の中にある地図を懸命に説明する。一通り説明し終わると、はあはあと妙な相槌が聞こえた。

 分かってくれたのかと心配になったが、オレの体をしっかり支えてくれる手の持ち主は、穏やかな声で、どうしてそんな所へ行くのかと聞いてきた。

「入試、があるから……試験を受けないと、全部なくなる。だから、行かないと。試験受けないと」

「そらちゃうで。試験はまだ先やぁ。今行ってもなぁ、始まっとらんで? そらボンの勘違いやわぁ」

 今日は試験じゃないの?

「そやでぇ。まだまだ先やからなぁ。今は体エラいしんどいやろ? ゆっくり休もぉ」

 でも、母さんが……行けって言った。オレ、行けなくて全部、無駄になって……なくなって。

「無駄なもんなんかあらへん。大丈夫やぁ、全部ボンは持っとるで。心配せんでもええ」

 母さんにゴメンって言わないと……。また、行けなかった。

「お母ちゃんには、じいちゃんが言うといたるから、安心して寝ぇ」

 温かい手が優しく撫でてくれた。指が短くて太い、母さんのじゃない誰かの手が。その温かさに意識を吸い取られるよう、オレはまた気を失った。

 その日の夜は、寒さで何度も目が覚めた。布団と毛布、真冬の寝具にくるまりながらも、ガタガタと体が震えるくらい寒くて、うなされながら目を覚ますオレを、ずっと校医のじいちゃんが側で看病してくれた。

 眠りに落ちる度、母さんの声が夢うつつに聞こえ、それを振り払うように目を開けると、じいちゃんがすぐに気付いて声をかけてくれる。それをくり返す内に、母さんの声は聞こえなくなり、熱でやられた意識は深く沈んでいった。

 熱で体はフラフラするし、喉は痛いし、頭もぼんやりしていて体調は絶不調なのに、そうやって眠るのはどうしてか心地いい。すぐ隣でパイプ椅子に座りウトウトしながらも、ずっと側に居てくれる人が居るせいなのかもしれないな。

 オレの事を心配してくれているのか、いつもならば一升瓶抱えて眠っているだろう所を晩酌もせずに付き添ってくれる校医のじいちゃんに、現金なもので全力で甘えてしまっていた。

 ちょっと前までは、テキトーな処置しかしない酔っ払いのジジィとしか思ってなかったのに、本来なら『先生』と呼ぶべきなのだろうけど、オレは本人が自分をそう呼ぶせいか『じいちゃん』と馴れ馴れしく呼んでは世話を焼いて貰っている。

「ごっつぅ汗掻きよったなぁ。そのままやと今度は寒なるから、汗拭いて着替えー」

 ビッシャリと汗で濡れた服を脱がされ、思わずブルッと震えた。すると温かなお湯で絞ったタオルで背中を拭いてくれる。ちょっと力が強すぎる気もするが、背中は自分では拭けそうにないので、そのままお願いした。

「同じ部屋の子が清ボンの着替え持って来てくれよったで。はよ、着替え」

 もちろん、この抜かりない気遣いは狭間だろう。寒さが身に染み出した頃、よたよたと慣れない手つきで体を拭き終わり長袖のTシャツに袖を通した。

「じいちゃん、今何時くらい?」

「もう夜中やぁ。んーちょっと待ちや。……はあはあ、二時回った所やね」

 どれくらい寝ていたのか分からないが、随分と時間は経っているらしい。寮長と話していたのが夕食前だったから、八時間以上か。普段ならば十分すぎる睡眠時間だが、今はまだまだ眠れそうだ。

「清ボン、腹減ったんちゃうか? 粥作ってもろとるから温めて来たろか?」

 瞼が重い。オレは首を左右に振るだけで意思表示をし、もう一度ベッドで横になった。布団に手を伸ばすと、じいちゃんが先に掴み丁寧に体へかけてくれる。

「薬、先に飲んだ方がいい?」

 腹が減っているかと言えば、そりゃあ減っているのだろうが、そこに辿り着く前に意識はやられてしまっていて、今はとにかく眠たかったのだが、早くなおす熱を引かせる為に薬を飲むべきか迷った。

 確か飯を食べてからでないと、薬って飲んじゃ駄目なんだよな? そう思って聞いてみたが、じいちゃんは笑って「明日は休みやろ、無理せんでかまへん。ゆっくり休みぃ」と言ってくれたのでオレはすぐに眠りに落ちた。

 瞼を完全に閉じてしまう前に、水で湿らせた口を開く。声にならないかもしれなかったが、オレはじいちゃんに「ありがと」と一言だけ伝えた。返事はない。けれど、頭を優しく撫でられる感覚だけが、眠りに落ちるオレを見送ってくれた。








 また夢を見る。母さんの声は聞こえない。オレが見ているのは、母さんの背中だけ。

 追いかけても追いかけても距離は埋まらず、待って欲しいと声をかけるが、自分の耳にすら声は届かない。

 左手に握りしめているのは、学校で受けた定期考査の答案だった。自分が頑張ってるんだという証拠を見て欲しくて、一生懸命に声を張り上げる。

 喉が焼け付くように痛い。それでも叫び続けていると、ふいに母さんが立ち止まり、僅かにオレの方を振り返った。

「清春、あなた……まだ居たの?」

 無表情だった母さんの顔が、オレを見た途端に嫌悪感をジワリと滲ませる。忌々しそうにため息を吐くと、母さんはオレの手から答案を奪いグシャグシャに丸めて床に投げ捨てた。

「もういいのよ、清春。こんなもの……なんの意味もないんだから」

 冷たい言葉は、不気味なくらい優しい響きを持っていた。その中に一欠片も優しさなんて含まれていないのに。

 捨てられた答案を拾い上げると、母さんの姿は見えなくなっていた。真っ暗な中、一人きりで、自分の事すら分からなくなって、ちゃんと自分がここに居るという事を証明して欲しくて、丸まった答案を広げる。

 しわくちゃになった答案は真っ白だった。

『清春! 六年間ずっと頑張ってきたでしょう? それが無駄になってもいいの? お母さんと約束したじゃない、今度は絶対に頑張るって。今日試験を受けないと、頑張って来た事が全部なくなってしまうのよ! それでもいいの?』

 ああ、そうか……全部なくなったんだった。全部を無駄にしてしまったんだった。母さんがあれだけ必死に言ってくれたのに、オレは頑張れなくて……ぜんぶ、なくしたんだ。

『無駄なもんなんかあらへん。大丈夫やぁ、全部ボンは持っとるで。心配せんでもええ』

 目に見えるものを全てなくしてしまった悲しさが、じいちゃんの声で薄らいでいく。手元に視線をやると、さっきまで真っ白だった答案が元の状態に戻っていた。

「じいちゃん」

 オレの口から、声が自然と転がり出た。今度はちゃんと自分の耳にも聞こえる。けれど、これは夢の中だ。返事は聞こえて来ない。

「じいちゃん、どこ?」

 手にしていた答案を放り出して、オレは手を伸ばした。真っ暗な夢の中から連れ出して欲しくて、思うように動かない手を伸ばし続けた。すると、何も見えない中で、ふいに手のひらが温かな感触に包まれた。

 その体温に心の底から安堵すると、沈むようにオレの意識は浮上した。

「…………あ、れ?」

 ゆっくりと瞼を開ける。顔を少しだけ横へ傾けると、夢の中と同じように自分が手を伸ばしていたのが分かった。それを大きな手のひらが、しっかりと握りしめてくれているのも……。

「じいちゃんが、せんぱいに化けた」

 寝起きのせいか、ぼんやりした視界の中で、オレの手を握りながら、どうしてか泣いているような顔をした先輩が居た。

 喉がカラカラで掠れた声しか出なかったせいか、先輩はオレが起きた事に気付いていないようだ。オレは声を出す事を諦めて、先輩の手を力一杯に握り返す。

 殆ど力は入らなかったけれど、先輩は気付いてくれたようで、すぐにオレの方を見てくれた。

「セイシュン、大丈夫か?」

 声もどこか強ばっていた。だから、オレは少し無理して笑って見せた。

「先輩……オレ、ちゃんと生きてるよ?」

 大丈夫だと伝えたかっただけなのに、大げさな言い方になってしまった。でも、オレの手を握る先輩の雰囲気は、それくらい悲壮な感じがした。オレの答えに、一瞬だけ驚いたような顔をした先輩だったが、すぐにいつものオレの好きな優しい表情を見せてくれた。
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