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6.虚構のサイン
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6.虚構のサイン
〝We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.〟 William Shakespeare
「私たちは夢と同じもので作られている。その儚い生命は眠りとともに消える」WS
激痛で、わたしは目を開けた。
……儚(はかな)い生命(いのち)。もう少し生きろってか?
BGMはエロール・ガーナーの『ミスティ』だった。霧(ミスティ)か……。
痛みは現実だった。口座の残高も。
痛みがあるうちは死んでいない。生きている。現実だ。だが、ほとんどの人間は夢の中に生きている。現実を見ていない。時間制限がある。夢と同じものでできているとしても、だ。
与えられた虚構のうちに生きれば、待っているのは静かな死だけだ。現実の恐怖は混沌(こんとん)から這(は)い寄り、その口中の胃色に染める。
赤ワインに廃棄物をいれれば、ゴミでしかない。二千年も前から銀貨三十枚で売っている。ごいっしょに短刀と毒薬はいかがですか?
人生はゲームではない。ゲームオーバーは一度きり。クリア(ミッション・コンプリート)するためには、血の代償――生命・金・時間――がいる。賭けるだけの価値は、自分で見つけなければならない。そして血の代償に、自己の血を賭けたものだけが、歓喜に煮沸された勝利の杯を飲み干すことができる。ほかの血を賭けたものは、沸き立つ血煙のうちに己を見ることだろう。体躯(たいく)は馘(くび)を、首級(しゅきゅう)はその骸(むくろ)を。
抜け出る方法は一つある。虚構の徴候(サイン)を見つけることだ。
そのサインを見つけられれば、創造主にユーモアの才能があると笑えるだろう。人間とはまったく異質なブラックジョークだが。
ソファーに横になって天井を見るのは何回目だろう。
仕事。わたしは、ガラパゴス携帯でランドマーク兵庫警備会社の成原を表示させた。
深呼吸をして、電話をした。
いきなりつながる。え!?
「わたくし長藻と申しますが――」
『――うっはっはっはっはぁ……長藻さん大丈夫ですか?』
成原が、むこうで笑っている。
「はい?」
不思議そうにガラパゴス携帯の表示を見た。
〈LM_Narihira,_Mr.〉
あっている、よ?
「成原さんですよね?」
『そうですけど……。かけていきなりそれはないでしょう?」
まだ笑っている。理解できない。
「ふつう、かけたらそう言いませんか?」
『私が、かけてるんですよ?』
「えっ!? いま私がかけたんですけど?」
『大丈夫ですか?』
そう言われると……。
「ちょっと自信がありません」
『正直なのは何より。でもジョークのセンスがイマイチです」
「すみません」
きょう何回目かの謝罪だった。
もう一度表示を見た。
〈LM_Narihira,_Mr.〉
あっている。
『――長藻さん?』
「はい?」
『God bless you.』
あなたに神の御加護がありますように。
直訳では、たしかそうなる。符牒での意味は……。
電話を切った瞬間に、急激な快感が全身を襲った。
琴線に触れたそれが、目の前にいた。
美少年だった。
金髪碧眼。映画のなかから出てきたような麗しい少年だった。
目があうと少年がウインクをした。
問題は、その少年が、わたしの特殊ポリウレタン製品を使っていることだった。生体適合性の高いポリウレタン素材で、ゴム(ラテックス)特有のにおいもしない、熱伝導性に優れ肌のぬくもりを瞬時に伝え、表面がなめらかで自然な使用感が得られる〇・〇二ミリ。つまりコンドームを。
ウインクと同時に少年が、前立腺を刺激した。わたしの意識とはまったく別に射精された。
緊張と弛緩(しかん)。身体は正直だった。
少年は口を開くと〝いつものように〟ゴムを結び、テーブルの上のティッシュでつつんだ。ウェットティッシュでぬぐうと、わたしを着せた。自分が着るよりも手慣れた調子で。主人のネクタイを結ぶメイドのように。
快感の波がまだ全身をつつんでいた。
少年は、キッチンでティッシュを捨て、手を洗うと、笑顔で手を振りながら出ていった。もう一度ウインクをして。
なんなんだ? あれは?
痛みで動けなかったわたしは、ソファーに座り直した。
目の前に紳士が座っていた。
ほへ?
ふぅ……。もう何があっても驚かない。溜息を深呼吸にかえた。
「契約する前にひとつ聞いておきたいんだが、いつもこんな目覚め方を?」
少年とは知り合いではないようだ。年齢は三十代前半。オーダースーツ。ピカピカの靴。財布は分厚そうだ。
「試してみますか?」
わたしは、紳士の瞳の奥の闇に、静かに言った。
少年愛の起源は古い。古代ギリシアのソクラテスやプラトン、邦国では空海や足利義満も名を連ねている。空海の真偽のほどは不明とはいえ、義満は世阿弥を愛していた。愛の結晶が、今に伝えられる「風姿花伝(ふうしかでん)」(古くは「花伝書(かでんしょ)」とも)だ。
ちなみに少年の価格は、女性(R18+)の十倍はする。毎朝頼むには高価すぎた。
「遠慮しておこう」
賢明な紳士が答えた。効果的だったらしい。
「たまにはお茶でもどうです? 冷(レイ)コーはあきたでしょう? 凍頂(とうちょう)烏龍茶の逸品があります」
「いただこうか……淹(い)れようか?」
紳士が、満身創痍のわたしを見て言った。
「そうしていただけるとありがたいです」
動けないのが、正直なところだった。朝から一滴の水すら飲んでいない。
紳士が、キッチンに立った。こちらからは見えないが、動作音でわかる丁寧な仕事だった。
キッチンを見れば、家人がどんな人か知れる。ブリア=サヴァランも言っている。「普段、何を食べているのか教えてごらん、君がどんな人間だか当てて見せよう」と。まぁ、本棚を見ても同じようなことが言えるが。
どこに何があるかすぐに分かったのだろう。問いかけもせずに、お茶が出来上がった。ご丁寧に茶托(ちゃたく)もあった。やるぅ。
透きとおる色。大陸のするどい香りではなく、やわらかで充実した夢見心地の味わい、それが……。
「久しぶりに飲んだ。十七本(セブンティーン)か?」
「正解」
台湾凍頂山にあるオリジナルの十七本(セブンティーン)から採れた正真正銘の凍頂烏龍茶だった。中国の「お茶で身代を潰す」話は本当だ。高級茶はグラム百万する。一般に売られている凍頂烏龍茶は、コピーのコピーの――以下ふじこ。
「彼とは長いんですか?」
わたしは下を指差して聞いた。こんな紳士が一人で出歩いているはずがない。下に車を待たせてあるだろう。
紳士が顔を上げた。
「三年になる……」
「どうして〝わかる〟のか聞かないんですね?」
「それが仕事なのだろう? 長藻秋詠(ながもときなが)くん」
紳士は、年上のわたしの本名を君づけで言った。
「ご紹介者はどなたです?」
「ミスター・レイ・クックマン」
小山田由子の紹介者といっしょだった。本名は、蒲沼励(かばぬまれい)。灘の生一本、金雨酒造株式会社専務取締役。関西の財界人でも特に著名な人物。
「どうやってミスター・レイと知り合ったんだ?」
「ただの飲み友達です。失礼ですが……」
「記録の類(たぐい)があれば止めてくれ」
MacBook Pro Retinaで、事務所のセキュリティを確認した。止められていた。たぶんあの少年だろう。
事務所のクラウドにあった画像は、訪れた六里を少年がドアを開いて案内するところで止まっていた。少年の顔は写っていない。半ズボンの白い足がぬけるほどまぶしい。
「どうぞ」
紳士は冷たい目をして、名刺を出した。
「私は六里周(りくりあまね)。西川衞(にしかわまもる)の秘書をしている」
代議士の四番目の私設秘書。つまり完全裏方。公設秘書が責任を取って首を吊るのを黙って手配する仕事師の類だ。
六里は見せた名刺をなおした。
「丹棟澪(にむねみお)を探している」
わたしは口頭で、MacBook Pro Retinaからインターネットで「にむねみお」を検索した。
表示されたのは、東春出版の『週間ザ・リアル』だった。特集は「茶泉財閥(コンツェルン)の黒い霧」、ライターは八犬穣訓(やいぬまさくに)と丹棟澪。
丹棟澪の画像を見る六里の表情から、ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ」を思い出していた。黒い霧ではなく。
「探す、までですね?」
わたしは確認した。
「そうだ」
六里がアタッシェケースから封筒を出した。金だ。
封筒の中身を確かめた。古札だ。用意された領収書は「鰭﨑音響事務所」宛で、内容は「音響環境の調査費用として」とある。確かにそんな仕事もした覚えがあった。まぁこれからするのだが。どうも時間の感覚がゆるい。ディスレクシアだからか。
黒い霧の奥に、誰がいようとわたしには関係なかった。この丹棟澪も雑誌に載せるぐらいだ。高い報酬と交換する代償は承知しているプロフェッショナルだ。だからこそ、出版社は作家(ライター)を保護している。電話をしても住所を教えてくれたりはしない。テロリストがピンポンしに来た日には、おちおち文章は書けない。丹棟澪もペンネームかもしれなかった。たぶん、そうだろう。
写真の丹棟澪は若い女性だった。二十一歳ということだったが、わたしにはもっと上に感じられた。二十五・六? 暗い幼少期、騙し騙された過去……そうした罪過が渦となって、わたしの脳裏に刻まれた。
「マグダラのマリアっぽいな」
画像から〝みえる〟のだ。だからわたしは自分の写真を残さないようにしていた。
「君の感想は不要だ」
黙れという万国共通のサインをした。六里を無視して、深く入る。
熱い抱擁。毎回ちがう男とのいつもと同じ行為……。飲酒・ドラッグ……。タトゥー……、いやこれはピアスだ。ラビア(陰唇)にしてやがる。好き者だな……。
腹部に違和感。胃炎? ちがう、もっと下だ。十二指腸よりもっと下の……。なんだこれは? 膵臓? あぁ……子宮だ。ということはこの異物感は……。
「妊娠している」
顔を上げて、六里を見た。
「何か月だ?」
「私に聞かないでくれ。ディスレクシアなんだ。数字は読めない」
A4のコピー用紙に、カリグラフィーペンを使って絵を描いた。
「プラチナのピアスをしている。二つか三つ。アンダーに。特注だから業者は少ない。すぐに探し出せるだろう」
六里が持ってきた領収書に、事務所のスタンプを押した。自署と印鑑。
毎度ありがとうございます。
六里が用紙といっしょにアタッシェに収納した。立って、服を正した。エリートだな。あんた。
「私がここに来たという記録は消去しておいてくれ」
「了解です」
記憶も含んでいる。
「失礼する」
「あぁ、六里さん」
踵を返した六里に、わたしは声をかけた。不快そうな六里だった。
「なんだね?」
「探すのはムダだと思います」
「それは君には関係がない」
粗野な手下がいれば、わたしは殴られていただろう。あぁそんなことはしないな。金でカタをつけるタイプだ。
「だって彼女、もうなくなっています」
「何? 何故(なぜ)? いつ?」
「ですから時間はわかりません。まだ生きているのかも」
シュレーディンガーの猫か。
「どういうことだ?」
いつものように通じていない。どう説明したものか……。
「探しても結果には結びつかないということです。記事は関西支社です。東京から話すほうがベターかと」
それができれば苦労はしないと言いたげな六里に、わたしは言葉をつなげた。
「別の案件があるようです。それで止まります。〝やわらかく話せば〟通じます」
「理由は?」
「さぁ……なぜなんでしょうね? でも結果オーライでしょう?」
「正直、私は君の能力に疑問をいだいている」
「六里さん。お姉さんがいるんですね……」
わたしはとても哀しい声をしていた。
「……八犬穣訓さんとも関係があったのか……それで子供ができずに……。よく私情に流されずにお仕事ができますね?」
「君もそうだろう?」
六里が、わたしを見た。ソファーにいるのは、死体あるいはそれに近いものだったろう。
「お互い死人(しびと)だ」
「彼を大切に」
「おいしいお茶をありがとう」
六里が苦笑してわたしに言った。感謝など久しぶりに言うに違いない。
「おわったら飲みましょう」
わたしは、別れの言葉を言ったが、彼に届いたかどうかはわからなかった。どうでもいいことだった。
千客万来か……。
南々子が、帰ってきたらしい。あの足音はそうだ。
ドアを軽くノックして入ってくる。
「失礼しまーす。マイクいる?――って、どうしてまだいるのよ!!」
「仕事をしていた」
本当の話をしてもこの女は信じないだろう。小指を立ててお茶を飲む男性がすべてゲイ(同性愛者)だと思っていたらしいからな。
「救急車は?」
「別の娘(こ)を運んでいったよ」
「もう!」
軽く叩こうとする南々子が手を止めた。さすがに三回目は勘弁だぜ。わたしの顔が怯えていたんだろう。
「呼ぶ?」
「数えてくれ」
テーブルの上の封筒だった。
「どうしたの? これ」
「だから仕事をしたんだって、南々子」
疑い深い顔をする南々子だった。数えると領収書の金額と同一だった。
わたしは、金払いの良い人は好きだった。
「どんな仕事をしているのやら……」
ヒールを履き替えたらしい。賢い賢い。
「では行きませう行きませう」
「仕事は?」
「早退したのです。伯父さんが危篤なのです、はい」
「何人いるんだ?」
南々子のホンダS2000で、病院に向かった。
途中、銀行によった。キャッシュは現金で好きだが、持ち歩くには不便だ。カード一枚で入金した。とりあえずしばらくは食える。
茶泉記念病院は野戦病院と化していた。駐車場が付近もいっぱいだった。
「なになになんなのよぉー」
見て分からないものは聞いても分かりません。
さっきのヘリコプターがそうか。どこかで大きな災害があったのだろう。
「南々子、先に帰っていてくれ。この様子じゃ時間が経かる」
「他の病院に行きましょうよ」
どこの救急でもいっしょだろう。
「なにがいい?」
夕食のメニューだ。南々子の笑顔は心やすまる。
「ビーフストロガノフ」
長い時間、食べていない。
「また無体(むたい)な……。自信ないよぉ……」
南々子が鍵(キー)をポケットに入れてくれた。
「Good luck.」
なげく南々子を路上に残し、わたしは病院に入った。振り返らなかった。
携帯の電源を落とそうと確認したが、持っていなかった。PCケースにいれたままだ。ケースは車内。振り返るべきだったか……。どうせ病院では使えない。
悠京(ゆうけい)会茶泉(さいずみ)記念病院は、たしかに野戦病院だった。救急処置室は満員だった。応急処置をされていたわたしも、同一の被害者だと思われたのだろう、トリアージを確認される。
トリアージは、災害医療での識別票だ。票の色と数字で、治療の優先度が分類される。
【黒】Category 0 ―― Black Tag――死亡群――死亡あるいは救急の見込みがないもの。
【赤】Category I ―― Red Tag――最優先治療群――生命に関わる状態で、一刻も早い処置が必要。
【黄】Category II ―― Yellow Tag――待機的治療群――今すぐ生命に関わる状態ではないが、処置が必要。赤に変化する可能性があるものを含む。
【緑】Category III ―― Green Tag――保留群――歩けるが治療が必要。
わたしの症状は【緑】で「歩けるが治療が必要な状態」だった。
看護師長の新庄鼎が新しいトリアージに記入して、わたしの順番を何人か優先させた。レントゲン室に急ぐ。
忘れていた。ナレキだ。ラップを外すと、猛烈な匂いになっていた。かなりキツイ。アルコール消毒を受けた。
たぶんこれが日本での最初のナレキの利用だろう。すまないみんな。そんな顔をするな。わたしだって好きでやっていない。なりゆきだ。ほんとうだって。
予想はしていたが、レントゲンで確認すると、左前腕も折れていた。右よりも重症らしい。どうりで痛いはずだ。
ほんとうに「あーん」状態だな。手伝えないならもっと簡単なメニューにすればよかった。
顔見知りの灘(なだ)医師が、対応してくれる。
「長藻さんもですか? 現場は大変だったでしょう」
「もうお手上げです」
「いつもながら冴えない冗談ですね」
そう言わないでくれ。どこでなにがあったかは、あとで知ればいい。今はギプス優先だった。
「石田さんは?」
「現場ですよ。ヘリで。かわいそうに」
やはりそうか。あのヘリだ。数はあっている。
ベトナムの阮美麗(グェン・ミーレイ)看護師が薬剤を取りに走る。揺れる乳は緊張の場に似合う。
救急処置室で、別の巨乳の看護師にギプスをしてもらった。目のやり場に困るが、本人は一生懸命だった。汗がいい。わたしとしては、もう少し小さめが好みだった。
PCケースを置いてきて正解だった。ぜんぜん動けない。
災害扱いなので、請求はなかった。まぁあとでちゃんと払うが、今日はそれを言っても対応してくれないし、そんなことを今すべきではない。
わたしはギプスをしたまま、病院を出ようとした。
その時、それがいた。
金髪碧眼の美少年だった。服を着替えていたが、間違いない。あんな少年がそうそう二人もいるものか。
美少年を追うが、いない。
というか、患者たちも誰も美少年を見ていなかった。
白昼夢? とうとう頭にきたか。それはそれでいいが、自覚はしたくない。酒を飲みたい気分だったが、くっつかない。まずは治療優先だろう。
帰るか。
痛いので両手を上げたままのわたしは、往年のアニメファンなら喜ぶ格好だが、はたから見たらとてもマヌケだった。自覚している。言うな。
タクシーをおりる時も手間だった。サインがうまくできない。雪舟に学ぶんだった。
南々子のマンションの前で、わたしは考えた。S2000が止まっている。トイレどうするんだ……。できないことはないが、痛いぞ。考えるのは停止して、暗証番号を入力してオートロックを解除した。
南東の角部屋。ボスの趣味は悪いが、金払いは良いらしい。ほんとう金は血だ。生活に直結する。
車で渡された鍵(キー)を使って中に入った。玄関は淡い茶系をコーディネイトしていた。傘立てのシベリアン・ハスキーがこちらを向いていた。不気味の谷のオッドアイ。どうも犬は好きになれない。
調度品も茶系から暖色で統一していた。趣味は好い。
センスの良さは、照明にあらわれる。人間は光の動物だ。蛍光灯のチカチカした光では、人は落ち着かない。
香港の黄琳玲のデザインはその点で優秀だ。心を和(なご)ませる術(すべ)を知っている。そこには一つの形がある。
問題があるとすれば、南々子が全裸だったということだ。ままそれだけなら親しい二人だ。個人の室内で全裸は違法じゃないし、裸エプロンぐらいは知っている。
わたしは静かに溜息をついた。
南々子はリビングの床で眠っていた。
全裸で。
永遠に。
ソファーに沈むわたしは、溜息を深呼吸にかえた。かなしすぎて涙も出ない。
人は死ぬ。これが摂理だ。だが、まだ若い南々子が死ぬのは、どう考えても理不尽だし、第一もったいない。わたしは不謹慎にも、もう一度したかったと思っていた。
そして一番重要なことは、それをしたヤツがいるということだった。しかしこの匂い……。わたしは愕然とした。
自分の匂いだった。
自分の女を犯して殺した?
とするとあの精液(ザーメン)はあの少年が……。
なんのために?
わたしは、ふっと後ろを振り返った。
美しい女が立っていた。
白手袋をした淡い紫のスーツのプラチナブロンドの美女だった。眼鏡をかけたその女も右目がブラウン、左目がグリーンのオッドアイだった。
不気味だが人間だ。生きている。
顔の右半分に薔薇状の感電痕があった。たぶん全身がそうなのだろう。だから白手袋をしているのか?
「あんたがやったのか?」
わたしは震える声を押さえながら静かに聞いた。
「私はヘテロだ。ゲイじゃあない」
ヘテロは異性愛者、ゲイは同性愛者だ。いや聞きたいのはそうじゃない。
「美しい女だな。お前のものか?」
「そう――だった」
わたしは過去形で答えた。
女が歩きながら、わたしの携帯電話の伝言メモを再生した。
『病院に行くな』
マイクだった。
女は携帯を投げ、眼鏡を正した。
「私は、OTANのフランボワーズ・S・ブレル少佐だ」
OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)は、NATO(North Atlantic Treaty Organization ――北大西洋条約機構)のフランス語だ。
携帯を受け取ったわたしは、フランボワーズの顔をよく見た。とても美しかった。
「ベネルクスの?」
「私はベルギー陸上構成部隊に所属している」
旧ベルギー陸軍か……。
ベネルクス(Benelux)は、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの頭文字だ。オランダは、オランダ語で〈Nederland〉だ。
「そのOTANの将校(お偉いさん)が、どうしてこんな場所に?」
「これに見覚えが?」
フランボワーズがiPhoneの画像を見せた。
見る前から分かっていた。ヤツだ。
「なんて名前なんだ?」
「さぁ、それを私も知りたい。知っているのか?」
「昼前にブロウジョブされた」
フランボワーズがとびきりの笑顔をしてみせた。戦慄の女王……。
「そいつはいい。ではBJにしよう」
いま気づいたんだが、この女、流暢な日本語を喋っている。
「BJとOTANとの関係は?」
「知らなくていい。それにどうせお前に拒否権はない」
確かに。プレイの最中の事故だとしても、起訴は免れないだろう。
フランボワーズには容赦ない威圧感があった。構えてはいなかったが右手に銃を持っていた。ほんとうに恐いのは銃ではなく、その意志だ。
美しい銃だった。FNブローニング・ハイパワー。当り前といえば、当り前だ。ファブリックナショナル社はベルギーにある。
「銃を見せてくれないか?」
不意な申し出に女は、弾倉(マガジン)を抜き、わたしに渡した。
きれいな銃だった。日本刀を見るような妖艶な感覚がした。およそ人を殺(あや)める道具は歪んだ美しさがある。
加えて工房で、特注したらしい。丁寧で上品な仕上がりだった。
「ありがとう」
わたしは、銃をハンカチで拭いて返した。
フランボワーズが弾倉(マガジン)を入れ、初弾を装填した。
「なにをすれば良い?」
「まずは死んでもらおうか」
そうきたか。
〝We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.〟 William Shakespeare
「私たちは夢と同じもので作られている。その儚い生命は眠りとともに消える」WS
激痛で、わたしは目を開けた。
……儚(はかな)い生命(いのち)。もう少し生きろってか?
BGMはエロール・ガーナーの『ミスティ』だった。霧(ミスティ)か……。
痛みは現実だった。口座の残高も。
痛みがあるうちは死んでいない。生きている。現実だ。だが、ほとんどの人間は夢の中に生きている。現実を見ていない。時間制限がある。夢と同じものでできているとしても、だ。
与えられた虚構のうちに生きれば、待っているのは静かな死だけだ。現実の恐怖は混沌(こんとん)から這(は)い寄り、その口中の胃色に染める。
赤ワインに廃棄物をいれれば、ゴミでしかない。二千年も前から銀貨三十枚で売っている。ごいっしょに短刀と毒薬はいかがですか?
人生はゲームではない。ゲームオーバーは一度きり。クリア(ミッション・コンプリート)するためには、血の代償――生命・金・時間――がいる。賭けるだけの価値は、自分で見つけなければならない。そして血の代償に、自己の血を賭けたものだけが、歓喜に煮沸された勝利の杯を飲み干すことができる。ほかの血を賭けたものは、沸き立つ血煙のうちに己を見ることだろう。体躯(たいく)は馘(くび)を、首級(しゅきゅう)はその骸(むくろ)を。
抜け出る方法は一つある。虚構の徴候(サイン)を見つけることだ。
そのサインを見つけられれば、創造主にユーモアの才能があると笑えるだろう。人間とはまったく異質なブラックジョークだが。
ソファーに横になって天井を見るのは何回目だろう。
仕事。わたしは、ガラパゴス携帯でランドマーク兵庫警備会社の成原を表示させた。
深呼吸をして、電話をした。
いきなりつながる。え!?
「わたくし長藻と申しますが――」
『――うっはっはっはっはぁ……長藻さん大丈夫ですか?』
成原が、むこうで笑っている。
「はい?」
不思議そうにガラパゴス携帯の表示を見た。
〈LM_Narihira,_Mr.〉
あっている、よ?
「成原さんですよね?」
『そうですけど……。かけていきなりそれはないでしょう?」
まだ笑っている。理解できない。
「ふつう、かけたらそう言いませんか?」
『私が、かけてるんですよ?』
「えっ!? いま私がかけたんですけど?」
『大丈夫ですか?』
そう言われると……。
「ちょっと自信がありません」
『正直なのは何より。でもジョークのセンスがイマイチです」
「すみません」
きょう何回目かの謝罪だった。
もう一度表示を見た。
〈LM_Narihira,_Mr.〉
あっている。
『――長藻さん?』
「はい?」
『God bless you.』
あなたに神の御加護がありますように。
直訳では、たしかそうなる。符牒での意味は……。
電話を切った瞬間に、急激な快感が全身を襲った。
琴線に触れたそれが、目の前にいた。
美少年だった。
金髪碧眼。映画のなかから出てきたような麗しい少年だった。
目があうと少年がウインクをした。
問題は、その少年が、わたしの特殊ポリウレタン製品を使っていることだった。生体適合性の高いポリウレタン素材で、ゴム(ラテックス)特有のにおいもしない、熱伝導性に優れ肌のぬくもりを瞬時に伝え、表面がなめらかで自然な使用感が得られる〇・〇二ミリ。つまりコンドームを。
ウインクと同時に少年が、前立腺を刺激した。わたしの意識とはまったく別に射精された。
緊張と弛緩(しかん)。身体は正直だった。
少年は口を開くと〝いつものように〟ゴムを結び、テーブルの上のティッシュでつつんだ。ウェットティッシュでぬぐうと、わたしを着せた。自分が着るよりも手慣れた調子で。主人のネクタイを結ぶメイドのように。
快感の波がまだ全身をつつんでいた。
少年は、キッチンでティッシュを捨て、手を洗うと、笑顔で手を振りながら出ていった。もう一度ウインクをして。
なんなんだ? あれは?
痛みで動けなかったわたしは、ソファーに座り直した。
目の前に紳士が座っていた。
ほへ?
ふぅ……。もう何があっても驚かない。溜息を深呼吸にかえた。
「契約する前にひとつ聞いておきたいんだが、いつもこんな目覚め方を?」
少年とは知り合いではないようだ。年齢は三十代前半。オーダースーツ。ピカピカの靴。財布は分厚そうだ。
「試してみますか?」
わたしは、紳士の瞳の奥の闇に、静かに言った。
少年愛の起源は古い。古代ギリシアのソクラテスやプラトン、邦国では空海や足利義満も名を連ねている。空海の真偽のほどは不明とはいえ、義満は世阿弥を愛していた。愛の結晶が、今に伝えられる「風姿花伝(ふうしかでん)」(古くは「花伝書(かでんしょ)」とも)だ。
ちなみに少年の価格は、女性(R18+)の十倍はする。毎朝頼むには高価すぎた。
「遠慮しておこう」
賢明な紳士が答えた。効果的だったらしい。
「たまにはお茶でもどうです? 冷(レイ)コーはあきたでしょう? 凍頂(とうちょう)烏龍茶の逸品があります」
「いただこうか……淹(い)れようか?」
紳士が、満身創痍のわたしを見て言った。
「そうしていただけるとありがたいです」
動けないのが、正直なところだった。朝から一滴の水すら飲んでいない。
紳士が、キッチンに立った。こちらからは見えないが、動作音でわかる丁寧な仕事だった。
キッチンを見れば、家人がどんな人か知れる。ブリア=サヴァランも言っている。「普段、何を食べているのか教えてごらん、君がどんな人間だか当てて見せよう」と。まぁ、本棚を見ても同じようなことが言えるが。
どこに何があるかすぐに分かったのだろう。問いかけもせずに、お茶が出来上がった。ご丁寧に茶托(ちゃたく)もあった。やるぅ。
透きとおる色。大陸のするどい香りではなく、やわらかで充実した夢見心地の味わい、それが……。
「久しぶりに飲んだ。十七本(セブンティーン)か?」
「正解」
台湾凍頂山にあるオリジナルの十七本(セブンティーン)から採れた正真正銘の凍頂烏龍茶だった。中国の「お茶で身代を潰す」話は本当だ。高級茶はグラム百万する。一般に売られている凍頂烏龍茶は、コピーのコピーの――以下ふじこ。
「彼とは長いんですか?」
わたしは下を指差して聞いた。こんな紳士が一人で出歩いているはずがない。下に車を待たせてあるだろう。
紳士が顔を上げた。
「三年になる……」
「どうして〝わかる〟のか聞かないんですね?」
「それが仕事なのだろう? 長藻秋詠(ながもときなが)くん」
紳士は、年上のわたしの本名を君づけで言った。
「ご紹介者はどなたです?」
「ミスター・レイ・クックマン」
小山田由子の紹介者といっしょだった。本名は、蒲沼励(かばぬまれい)。灘の生一本、金雨酒造株式会社専務取締役。関西の財界人でも特に著名な人物。
「どうやってミスター・レイと知り合ったんだ?」
「ただの飲み友達です。失礼ですが……」
「記録の類(たぐい)があれば止めてくれ」
MacBook Pro Retinaで、事務所のセキュリティを確認した。止められていた。たぶんあの少年だろう。
事務所のクラウドにあった画像は、訪れた六里を少年がドアを開いて案内するところで止まっていた。少年の顔は写っていない。半ズボンの白い足がぬけるほどまぶしい。
「どうぞ」
紳士は冷たい目をして、名刺を出した。
「私は六里周(りくりあまね)。西川衞(にしかわまもる)の秘書をしている」
代議士の四番目の私設秘書。つまり完全裏方。公設秘書が責任を取って首を吊るのを黙って手配する仕事師の類だ。
六里は見せた名刺をなおした。
「丹棟澪(にむねみお)を探している」
わたしは口頭で、MacBook Pro Retinaからインターネットで「にむねみお」を検索した。
表示されたのは、東春出版の『週間ザ・リアル』だった。特集は「茶泉財閥(コンツェルン)の黒い霧」、ライターは八犬穣訓(やいぬまさくに)と丹棟澪。
丹棟澪の画像を見る六里の表情から、ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ」を思い出していた。黒い霧ではなく。
「探す、までですね?」
わたしは確認した。
「そうだ」
六里がアタッシェケースから封筒を出した。金だ。
封筒の中身を確かめた。古札だ。用意された領収書は「鰭﨑音響事務所」宛で、内容は「音響環境の調査費用として」とある。確かにそんな仕事もした覚えがあった。まぁこれからするのだが。どうも時間の感覚がゆるい。ディスレクシアだからか。
黒い霧の奥に、誰がいようとわたしには関係なかった。この丹棟澪も雑誌に載せるぐらいだ。高い報酬と交換する代償は承知しているプロフェッショナルだ。だからこそ、出版社は作家(ライター)を保護している。電話をしても住所を教えてくれたりはしない。テロリストがピンポンしに来た日には、おちおち文章は書けない。丹棟澪もペンネームかもしれなかった。たぶん、そうだろう。
写真の丹棟澪は若い女性だった。二十一歳ということだったが、わたしにはもっと上に感じられた。二十五・六? 暗い幼少期、騙し騙された過去……そうした罪過が渦となって、わたしの脳裏に刻まれた。
「マグダラのマリアっぽいな」
画像から〝みえる〟のだ。だからわたしは自分の写真を残さないようにしていた。
「君の感想は不要だ」
黙れという万国共通のサインをした。六里を無視して、深く入る。
熱い抱擁。毎回ちがう男とのいつもと同じ行為……。飲酒・ドラッグ……。タトゥー……、いやこれはピアスだ。ラビア(陰唇)にしてやがる。好き者だな……。
腹部に違和感。胃炎? ちがう、もっと下だ。十二指腸よりもっと下の……。なんだこれは? 膵臓? あぁ……子宮だ。ということはこの異物感は……。
「妊娠している」
顔を上げて、六里を見た。
「何か月だ?」
「私に聞かないでくれ。ディスレクシアなんだ。数字は読めない」
A4のコピー用紙に、カリグラフィーペンを使って絵を描いた。
「プラチナのピアスをしている。二つか三つ。アンダーに。特注だから業者は少ない。すぐに探し出せるだろう」
六里が持ってきた領収書に、事務所のスタンプを押した。自署と印鑑。
毎度ありがとうございます。
六里が用紙といっしょにアタッシェに収納した。立って、服を正した。エリートだな。あんた。
「私がここに来たという記録は消去しておいてくれ」
「了解です」
記憶も含んでいる。
「失礼する」
「あぁ、六里さん」
踵を返した六里に、わたしは声をかけた。不快そうな六里だった。
「なんだね?」
「探すのはムダだと思います」
「それは君には関係がない」
粗野な手下がいれば、わたしは殴られていただろう。あぁそんなことはしないな。金でカタをつけるタイプだ。
「だって彼女、もうなくなっています」
「何? 何故(なぜ)? いつ?」
「ですから時間はわかりません。まだ生きているのかも」
シュレーディンガーの猫か。
「どういうことだ?」
いつものように通じていない。どう説明したものか……。
「探しても結果には結びつかないということです。記事は関西支社です。東京から話すほうがベターかと」
それができれば苦労はしないと言いたげな六里に、わたしは言葉をつなげた。
「別の案件があるようです。それで止まります。〝やわらかく話せば〟通じます」
「理由は?」
「さぁ……なぜなんでしょうね? でも結果オーライでしょう?」
「正直、私は君の能力に疑問をいだいている」
「六里さん。お姉さんがいるんですね……」
わたしはとても哀しい声をしていた。
「……八犬穣訓さんとも関係があったのか……それで子供ができずに……。よく私情に流されずにお仕事ができますね?」
「君もそうだろう?」
六里が、わたしを見た。ソファーにいるのは、死体あるいはそれに近いものだったろう。
「お互い死人(しびと)だ」
「彼を大切に」
「おいしいお茶をありがとう」
六里が苦笑してわたしに言った。感謝など久しぶりに言うに違いない。
「おわったら飲みましょう」
わたしは、別れの言葉を言ったが、彼に届いたかどうかはわからなかった。どうでもいいことだった。
千客万来か……。
南々子が、帰ってきたらしい。あの足音はそうだ。
ドアを軽くノックして入ってくる。
「失礼しまーす。マイクいる?――って、どうしてまだいるのよ!!」
「仕事をしていた」
本当の話をしてもこの女は信じないだろう。小指を立ててお茶を飲む男性がすべてゲイ(同性愛者)だと思っていたらしいからな。
「救急車は?」
「別の娘(こ)を運んでいったよ」
「もう!」
軽く叩こうとする南々子が手を止めた。さすがに三回目は勘弁だぜ。わたしの顔が怯えていたんだろう。
「呼ぶ?」
「数えてくれ」
テーブルの上の封筒だった。
「どうしたの? これ」
「だから仕事をしたんだって、南々子」
疑い深い顔をする南々子だった。数えると領収書の金額と同一だった。
わたしは、金払いの良い人は好きだった。
「どんな仕事をしているのやら……」
ヒールを履き替えたらしい。賢い賢い。
「では行きませう行きませう」
「仕事は?」
「早退したのです。伯父さんが危篤なのです、はい」
「何人いるんだ?」
南々子のホンダS2000で、病院に向かった。
途中、銀行によった。キャッシュは現金で好きだが、持ち歩くには不便だ。カード一枚で入金した。とりあえずしばらくは食える。
茶泉記念病院は野戦病院と化していた。駐車場が付近もいっぱいだった。
「なになになんなのよぉー」
見て分からないものは聞いても分かりません。
さっきのヘリコプターがそうか。どこかで大きな災害があったのだろう。
「南々子、先に帰っていてくれ。この様子じゃ時間が経かる」
「他の病院に行きましょうよ」
どこの救急でもいっしょだろう。
「なにがいい?」
夕食のメニューだ。南々子の笑顔は心やすまる。
「ビーフストロガノフ」
長い時間、食べていない。
「また無体(むたい)な……。自信ないよぉ……」
南々子が鍵(キー)をポケットに入れてくれた。
「Good luck.」
なげく南々子を路上に残し、わたしは病院に入った。振り返らなかった。
携帯の電源を落とそうと確認したが、持っていなかった。PCケースにいれたままだ。ケースは車内。振り返るべきだったか……。どうせ病院では使えない。
悠京(ゆうけい)会茶泉(さいずみ)記念病院は、たしかに野戦病院だった。救急処置室は満員だった。応急処置をされていたわたしも、同一の被害者だと思われたのだろう、トリアージを確認される。
トリアージは、災害医療での識別票だ。票の色と数字で、治療の優先度が分類される。
【黒】Category 0 ―― Black Tag――死亡群――死亡あるいは救急の見込みがないもの。
【赤】Category I ―― Red Tag――最優先治療群――生命に関わる状態で、一刻も早い処置が必要。
【黄】Category II ―― Yellow Tag――待機的治療群――今すぐ生命に関わる状態ではないが、処置が必要。赤に変化する可能性があるものを含む。
【緑】Category III ―― Green Tag――保留群――歩けるが治療が必要。
わたしの症状は【緑】で「歩けるが治療が必要な状態」だった。
看護師長の新庄鼎が新しいトリアージに記入して、わたしの順番を何人か優先させた。レントゲン室に急ぐ。
忘れていた。ナレキだ。ラップを外すと、猛烈な匂いになっていた。かなりキツイ。アルコール消毒を受けた。
たぶんこれが日本での最初のナレキの利用だろう。すまないみんな。そんな顔をするな。わたしだって好きでやっていない。なりゆきだ。ほんとうだって。
予想はしていたが、レントゲンで確認すると、左前腕も折れていた。右よりも重症らしい。どうりで痛いはずだ。
ほんとうに「あーん」状態だな。手伝えないならもっと簡単なメニューにすればよかった。
顔見知りの灘(なだ)医師が、対応してくれる。
「長藻さんもですか? 現場は大変だったでしょう」
「もうお手上げです」
「いつもながら冴えない冗談ですね」
そう言わないでくれ。どこでなにがあったかは、あとで知ればいい。今はギプス優先だった。
「石田さんは?」
「現場ですよ。ヘリで。かわいそうに」
やはりそうか。あのヘリだ。数はあっている。
ベトナムの阮美麗(グェン・ミーレイ)看護師が薬剤を取りに走る。揺れる乳は緊張の場に似合う。
救急処置室で、別の巨乳の看護師にギプスをしてもらった。目のやり場に困るが、本人は一生懸命だった。汗がいい。わたしとしては、もう少し小さめが好みだった。
PCケースを置いてきて正解だった。ぜんぜん動けない。
災害扱いなので、請求はなかった。まぁあとでちゃんと払うが、今日はそれを言っても対応してくれないし、そんなことを今すべきではない。
わたしはギプスをしたまま、病院を出ようとした。
その時、それがいた。
金髪碧眼の美少年だった。服を着替えていたが、間違いない。あんな少年がそうそう二人もいるものか。
美少年を追うが、いない。
というか、患者たちも誰も美少年を見ていなかった。
白昼夢? とうとう頭にきたか。それはそれでいいが、自覚はしたくない。酒を飲みたい気分だったが、くっつかない。まずは治療優先だろう。
帰るか。
痛いので両手を上げたままのわたしは、往年のアニメファンなら喜ぶ格好だが、はたから見たらとてもマヌケだった。自覚している。言うな。
タクシーをおりる時も手間だった。サインがうまくできない。雪舟に学ぶんだった。
南々子のマンションの前で、わたしは考えた。S2000が止まっている。トイレどうするんだ……。できないことはないが、痛いぞ。考えるのは停止して、暗証番号を入力してオートロックを解除した。
南東の角部屋。ボスの趣味は悪いが、金払いは良いらしい。ほんとう金は血だ。生活に直結する。
車で渡された鍵(キー)を使って中に入った。玄関は淡い茶系をコーディネイトしていた。傘立てのシベリアン・ハスキーがこちらを向いていた。不気味の谷のオッドアイ。どうも犬は好きになれない。
調度品も茶系から暖色で統一していた。趣味は好い。
センスの良さは、照明にあらわれる。人間は光の動物だ。蛍光灯のチカチカした光では、人は落ち着かない。
香港の黄琳玲のデザインはその点で優秀だ。心を和(なご)ませる術(すべ)を知っている。そこには一つの形がある。
問題があるとすれば、南々子が全裸だったということだ。ままそれだけなら親しい二人だ。個人の室内で全裸は違法じゃないし、裸エプロンぐらいは知っている。
わたしは静かに溜息をついた。
南々子はリビングの床で眠っていた。
全裸で。
永遠に。
ソファーに沈むわたしは、溜息を深呼吸にかえた。かなしすぎて涙も出ない。
人は死ぬ。これが摂理だ。だが、まだ若い南々子が死ぬのは、どう考えても理不尽だし、第一もったいない。わたしは不謹慎にも、もう一度したかったと思っていた。
そして一番重要なことは、それをしたヤツがいるということだった。しかしこの匂い……。わたしは愕然とした。
自分の匂いだった。
自分の女を犯して殺した?
とするとあの精液(ザーメン)はあの少年が……。
なんのために?
わたしは、ふっと後ろを振り返った。
美しい女が立っていた。
白手袋をした淡い紫のスーツのプラチナブロンドの美女だった。眼鏡をかけたその女も右目がブラウン、左目がグリーンのオッドアイだった。
不気味だが人間だ。生きている。
顔の右半分に薔薇状の感電痕があった。たぶん全身がそうなのだろう。だから白手袋をしているのか?
「あんたがやったのか?」
わたしは震える声を押さえながら静かに聞いた。
「私はヘテロだ。ゲイじゃあない」
ヘテロは異性愛者、ゲイは同性愛者だ。いや聞きたいのはそうじゃない。
「美しい女だな。お前のものか?」
「そう――だった」
わたしは過去形で答えた。
女が歩きながら、わたしの携帯電話の伝言メモを再生した。
『病院に行くな』
マイクだった。
女は携帯を投げ、眼鏡を正した。
「私は、OTANのフランボワーズ・S・ブレル少佐だ」
OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)は、NATO(North Atlantic Treaty Organization ――北大西洋条約機構)のフランス語だ。
携帯を受け取ったわたしは、フランボワーズの顔をよく見た。とても美しかった。
「ベネルクスの?」
「私はベルギー陸上構成部隊に所属している」
旧ベルギー陸軍か……。
ベネルクス(Benelux)は、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの頭文字だ。オランダは、オランダ語で〈Nederland〉だ。
「そのOTANの将校(お偉いさん)が、どうしてこんな場所に?」
「これに見覚えが?」
フランボワーズがiPhoneの画像を見せた。
見る前から分かっていた。ヤツだ。
「なんて名前なんだ?」
「さぁ、それを私も知りたい。知っているのか?」
「昼前にブロウジョブされた」
フランボワーズがとびきりの笑顔をしてみせた。戦慄の女王……。
「そいつはいい。ではBJにしよう」
いま気づいたんだが、この女、流暢な日本語を喋っている。
「BJとOTANとの関係は?」
「知らなくていい。それにどうせお前に拒否権はない」
確かに。プレイの最中の事故だとしても、起訴は免れないだろう。
フランボワーズには容赦ない威圧感があった。構えてはいなかったが右手に銃を持っていた。ほんとうに恐いのは銃ではなく、その意志だ。
美しい銃だった。FNブローニング・ハイパワー。当り前といえば、当り前だ。ファブリックナショナル社はベルギーにある。
「銃を見せてくれないか?」
不意な申し出に女は、弾倉(マガジン)を抜き、わたしに渡した。
きれいな銃だった。日本刀を見るような妖艶な感覚がした。およそ人を殺(あや)める道具は歪んだ美しさがある。
加えて工房で、特注したらしい。丁寧で上品な仕上がりだった。
「ありがとう」
わたしは、銃をハンカチで拭いて返した。
フランボワーズが弾倉(マガジン)を入れ、初弾を装填した。
「なにをすれば良い?」
「まずは死んでもらおうか」
そうきたか。
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